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第80章「新しい日々⑥」

 既に日が沈み、昼には外から光を取り込んでいた体育館の天窓は真っ暗となっていた。

 それでも館内は電気が煌々と点っていた。

 練習は続き、練習場には部員たちの声や足音が響いていた。


「皆、今日はこれで終了」 


 練習の終わりを告げる部長の声に、熱のこもっていた館内はほっと緩んだ空気が広がる。


「あー終わったあ!」


「もう、限界~」


 最後にクールダウンを終えると、部員たちの安堵の声が漏れるた。

 ミスをした投げ技を繰り返し練習をしていた、美乃理も一息をついて、タオルを手に取り、汗を拭いた。


「御手洗先輩、お疲れさまでした」


 一年生たちも含めて表情は明るさに満ちていた。

 一日新体操部の厳しい練習をやり遂げたささやかな達成感だった。


 練習中はきつそうにしたり、音をあげそうになることもあったが、終わった時は笑顔を浮かべるのだった。


「うん、みんなもお疲れ様」


 美乃理も、この小さな幸福を感じている。学校の成績とは違う、他の女子部員と共に共有するささやかな達成感。 

 本来自分が望んでも手に入れられられないものであることに一層の喜びがあった。 

 踵に手をかけて、履いていたハーフシューズの紐を脱ぐ。朝の時よりもそれはすり切れていた。


「さあ、片づけましょう。みんな」


「はい!」


 一年生たちと共に、マットや手具などを倉庫にしまう。そして戸締まりを点検する。

 部長は参加した部員や今日の練習内容、課題などを部活動日誌のノートに手早く記録する。


「お疲れさまでした!」


 最後に簡単に部長から連絡事項を伝える。


「夏休み中の合宿について、家の都合が合わない人は早めに相談するように」





「さようなら、龍崎先輩!」


「さようなら、御手洗先輩!」


 更衣室で着替え、帰り支度を済ませた美乃理は、他の帰路につく生徒たちに手を振る。

 やや遠いところから来ている子たちはスクールバスの最終便に、次々に乗り込む。


「うん、また明日ね」


「明日も頑張りましょう」


「さあ、行きましょう」


 隣の龍崎宏美は美乃理に促す。一緒に帰ろうと誘われたのだ。

 いつもは、途中までまとわりついてくる後輩たちも気遣ってか、宏美と美乃理の二人だけとなった。

 電気が落とされ、暗くなった体育館を後にし、渡り廊下、下駄箱を経て校門を抜ける。


「大変ね、美乃理ちゃん。あんなに後輩たちに慕われちゃって……。疲れちゃうでしょ?」


「それは、宏美先輩も同じだったのではないですか?」


「わたしは、あなたほどじゃなかったわよ」


 美乃理は聞いたことがあった。宏美と同学年の女子部員によると、何故か宏美は高嶺の花ってことになっていて、後輩はおいそれと近づいてこないらしい。

 緊張してしまって足が震えてしまう子もいるぐらい――。

 龍崎宏美は女神様――。美乃理も頭の中にその言葉が浮かんだ。


「なんだか、変な感じがします。こんなわたしを、後輩の女子部員たちが、慕ってくれるのは嬉しいけど……」


 美乃理は、自分は本来稔という男子高校生だった。

 やっているのは新体操に打ち込むのみ、そう思っていた。


「わたしはそんな人間じゃないのに……」


「そうね、でも、それが――。三日月先生の思惑だったのかもしれないわね」


 今でもわからない。

 あの不思議な出来事をきっかけに確かに変わった。

 単に稔という人間を立ち直らせたいだめなら、いくらでも他の方法があるのに何故美乃理として新体操をやらせたのだろうか。

 でも……その答えを直接聞くことはできなかった。


「美乃理ちゃん、柏原コーチの言っていた課題、まだ覚えている?」


「はい、もちろん」


「でも、コーチの最後の課題、難しすぎます……」


 稔が小学一年生の美乃理となったあの時から、ほぼ6年。

 その間ずっと新体操を続けた花町クラブを美乃理は、正愛学院進学をきっかけに、後にする日が来た。

 その時、柏原コーチから最後の課題を与えられた。

 育成コースで厳しい練習にも耐え、大会でも龍崎宏美に負けない成績を残した。


「クラブで教えられることは全部教えた。あとは、それができれば美乃理ちゃんの新体操は完成するって」


 課題とは、美乃理の独自の世界を表現すること。新体操は技だけでなく、芸術性も問われる。何を表現するか、だ。

 その間発表会や大会で様々な演技をした。花になったり妖精になったりした。言われたとおりに、見事に演じた。かつて抱いていた女の子らしくすること可愛らしくすることへの戸惑いは消えた。


 しかし――。

 技も動きも抜群だったが、さらに高い世界へ行くことを要求したのだ。


「じっくり考えるといいわ」


 こと優しい宏美はこの点だけは突き放す。自分で考えなさい、と。


 いくつかの話題の後、宏美が自身の話にふれた。


「ええ、実家は何も言ってこないわ。元々、わたしはいずれ家を出ると思われてるから、放っておかれたたままよ。代わりに弟が大変なようだけど……」


 宏美自身は、おそらく美乃理以外には身の上のことは、しゃべっていないだろう。


「帝王教育は大変ね」


 龍崎グループのご令嬢、早く亡くなった母、そして義理の母と腹違いの弟との関係。複雑な家庭事情のことを周囲に口外することは一切なかった。

 だが、かつて荒れていた龍崎(ひろし)は宏美として新体操をする少女としての立場を得てから、別人のように、穏やかに遂げていた。

 宏美から時折聞かされた武勇伝は美乃理にとって度肝を抜かれることもあったが……。




「じゃあ、わたしはここで」


 数人の女子部員と一緒に立ち止まり、美乃理に手を振った。

 目の前には煉瓦作りの古風な二階建ての建物があった。

 頑丈な塀と鉄門の入り口には「菜の花寮」とかかれた立て札が立っている。

 菜の花寮は、正愛学院の女子用の寄宿舎だ。

 正愛学院高等部に併設されている大学のキャンパス内に設置されている寄宿舎だ。遠方から来ているような生徒や、親が海外出張したりなどの生徒が入るためのものであったが、事情を抱えた生徒が入ることもあった。

 周囲は塀で囲まれ監視カメラが外側を厳重に監視している。

 入り口には24時間いる守衛さんの詰め所もあった。

 龍崎宏美はこの女子の秘園に入寮している。進学と同時に龍崎は複雑な家庭を出て、ここで暮らすようになっていた。あっさりと認めてくれたと。

 そして宏美は、以前よりも明るくなったと思う。


「おかえり、宏美」


 電気のついた入り口からは、龍崎に手を振る入寮生らしき、ジャージ姿の女子がいた。


 手を振り返した。


「美乃理ちゃんも菜の花館においでよ」


「え? わ、わたしは家が近いから駄目ですよ」


「歓迎するわよ」

 存在すること自体は知っていたし、それなりに規則は厳しいので美乃理は考えたことは無かった。

 でも……新体操に集中することはできるかも……と思うことはあった。

 同じ立場である。

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