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第73章「発表会⑩」

「みて、あなた……美乃理のあの顔」

「ああ、本当に楽しそうだな」


 美乃理の父と母は、お互い顔を見合わせ頷きあった。


 徒手による演技が終わり、一旦舞台からフェードアウトする。脇に置いたリボンを手に取って再び舞台に戻る。

 再び観客席は静まりかえる。

 音楽が別の音楽に変わり、テンポの早いコミカルな色調の音楽に変わる。

 今度は体を動かすだけでなくリボンを振りながらだ。

 軽快に速いペースでステップを踏みながら舞台を駆け回る。

 今度は身体と音楽に加えてリボンの動きを調和させなければいけない。

 それも表情は笑顔は顔から消えることはなかった。


 腰に手をあてて、片方でぐるりと弧をえがかせたり、絡まないように8の字を描きつつ、素早くスティックを持ち変える。

 今度は、くるくると螺旋状にしたり、蛇のように蛇行させたり。

 大きく円を作る。

 技の度に拍手が起こった――。


 演技の中、美乃理は不思議な心地を覚えていた。

 これまでになく暖かい気持ちがわき起こってきた。

 緊張や、不安はまだある。けれども同じくらいにとても暖かい心地よいものが心と体を包み込んでゆく。

 なんだろう。

 嬉しい。

 父も母も皆が自分を見ていることが。

 こんなことは初めてだ。体の変化だけでなく心の変化が起きている。

 自分を可愛く、綺麗に表現する。

 そしてそれが周りの人に笑顔をもたらす。

 自分にも喜びがもたらされる。

 これだ。きっとこれを望んでいた。

 父が――

 母が――

 皆が自分を見ている。

 全ての中心にいる、この感覚。

 これは、きっと女の子の喜びなんだ――。

 今確かに感じている。

 突然、美乃理の脳裏にフラッシュバックしてきた。

 

 みのる。これまで過ごしてきた自分の時間と記憶だった。

 受験に精も根も使い果たした

 空っぽになった暗い心

 万引きをして道を誤った少年、

 新体操を見つめていた少年(みのる)

 ボクはみのるだ。

 そして今の自分みのりがいるんだ。

 今(みのる)と美乃理、自分が重なった。








 まだ興奮が冷めやらなかった。

 演技を終え、一旦退出した廊下では美乃理たち花町クラブの子たちは、手を取り合ったり、お互いを抱きしめた。


「やった、やったよ」

「やったね!」


「凄いテンションだったわ……何か見えない力が働いたかのように皆輝いて演技していたわ」


 柏原コーチも驚くテンションの高さだった。

 技が比類無き最高のものというわけではないが、レッスン生達の熱意が溢れ出ていた。

 口に出しては言わなかったが美乃理の存在のせいだと確信していた。

 新体操、女の子である自分という立場に、真摯な姿勢。練習熱心なだけでなく、自分の気持ちと向き合っている。

 だからこそ他の女の子もそれに刺激を受けているのだろう。

 柏原には、なぜ美乃理がそうしているのか理由はわからなかったが――。


「美乃理ちゃん、あなたは確かに力を秘めているわ。さすが、三日月先生が見込んだだけのことはあるわ。あなたなら先生の期待に応えられそうね……」


 傍らにいた龍崎宏美は一人呟いた。


「すごく良かったよ、美乃理ちゃん」


 次々に送られる賛辞。


「ありがとう、みんな」


 女の子たちが力を合わせてる素晴らしい場所、自分はその中にいる。

 喜びが胸を覆っていく。

 自分が今美乃理であることに感謝した。

 そして美乃理を覆っていた見えない殻がパリーンと音をたててと割れたような気がした。

 心が澄み渡っている。

 美乃理は、はっきりとこれまでとは違う心の変化を感じていた。

 迷いが晴れていく。


「み、美乃理ちゃん、な、涙」


 手を取り合っていた忍がふと美乃理の顔を指した。

 それは瞳から溢れでてくる熱いもの。興奮で紅潮した頬を伝ってゆく。

 悲しくて、辛くて泣いているのではない。

 かつてみのるが流した涙――受験に疲れ果て、そして暗い衝動に駆られて犯した過ちと悔恨。今美乃理の頬を流れるのは、歓喜の涙だった。

 あとからあとから涙があふれ出てくる。


「あ、ほんとうだ、あたし、泣いてる」


 涙を手で拭った。

 確かに涙だ。

 熱くなった胸から溢れてくるように次から次へと流れ出る。


「あたし、泣いてる――」


 一瞬、忍がポカン、となった。


「あ、美乃理ちゃん、今自分のことあたしって――」


 美乃理も言われてみて気が付いた。自然に口から出たからだ。

 だが、そのことを恥ずかしいという気持ちはなかった。


「あたし……女の子で良かったよ」


 以前忍がいっていた、女の子で良かったということ――。

 笑顔、胸の熱さ、充足感。そしてそれを知らせた新体操ができること――。


「あたしも、女の子で良かった。だって美乃理ちゃんとこうして新体操ができるんだもん」

「あたしもだよ。シノちゃん」


 もう一度忍は美乃理を抱きしめた。

(ありがとう、みのる

 全身を駆けめぐる昂揚とともに、美乃理はみのるに心の中で語りかける。

 本当は自分はみのるという男子だった。

 でも今自分は美乃理、その自分を受け入れてくれている。

 わたしは美乃理なんだ。

 あの暗く凍えきっていた心の日々にさよならを言う時が来た。

 みのるのあの辛い日々が無駄だったとは思えない。

 今自分は美乃理として、こんなにも幸せで心地よい時と場所を得ているのだから。

 女の子として――新体操クラブの一員として――。

 あたしは御手洗美乃理、花町小学校一年生の女子児童。

 そして新体操が大好きな七歳の女の子。

 もう自分はあの閉じこもり、疲れ、挫折に覆われていたみのるではない。

(でもありがとう。君がいなければ、あたしはここにいなかった)





 発表会の舞台では次のクラブの演技が始まっていた。午前の発表はまだあと数組が残っているのだ。

 娘が去った舞台を見つめながら夫婦がささやき合う。


「今夜、美乃理に伝えましょう」

「ああ……きっと驚くだろうな。美乃理が今度お姉ちゃんになるって聞いて――」


 続く演技を見ながら、夫婦はお互いにだけ聞こえる声でささやき合った。


「あの子に感謝しないと」


 母親は下腹部をさすった。


「美乃理がこうやって新体操をやってなかったらこの子は生まれてこなかったかもしれないんだから」

「まったく驚いたよ、もう一人子供が欲しいなんて急に言い出した時は。子供は一人でいいって結婚した時の約束を君から言い出すのだから」

「美乃理が一人で新体操をがんばってるのをみて、気が変わったのよ」


 母親は自分のお腹に語りかけた。


「きっと次の子も女の子よ。この子も新体操をやりたいって言うかしら」






「さあ、次のクラブの演技が始まるわ。みんな控え室にもどりましょう」


 興奮が落ち着くと柏原コーチは皆を他のクラブの邪魔にならないように誘導する。

 昂揚が収まっても美乃理の胸には温かい火が煌々と灯っていた。

 これから先、辛いことがあるかもしれない。

 龍崎さん、高梨先輩、清水さん、待っててください。きっと先輩たちのところへ行きますから。

 あの扉の向こうには何が待ってるの?

 今の美乃理には、女の子として新体操の道をゆく決心があった。

 ハーフシューズを穿いたままの小さな足を一歩前に出した。


 

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