第71章「発表会⑧」
美乃理になる直前のこと。
稔は正愛学院新体操部が挑んだ大会を直に観戦させてもらう機会に恵まれた。
「い、いいんですか?」
「もちろんよ。ちゃんと了解をもらってるわ」
顧問の三日月先生に引率され、ジャージ姿で会場に到着した先輩達にくっついて、稔も会場に入った。
会場となった県立の体育館では部外者の、特に男性の出入りのチェックが厳しかった。
だが顧問の三日月のはからいで、特別に稔は間近での観戦を許された。
会場の雰囲気がまるで違った。
沢山の観客のざわめき。もうけられた十三メートル四方の舞台に注がれる視線。
普段は部員の練習に励む声しか聞こえない学校体育館とは違っていた。
「なんて綺麗なんだろう」
着替え室に消えていった先輩たちが再び現れた時にはさらに驚かされた。
きらびやかなレオタードで、化粧もほどこされていた。
多くの視線を浴びながらも臆する様子もなく、皆笑顔だった。
向こうも稔の視線に気が付いたらしく、小さくこちらへ手を振った。
胸が熱くなった。
見かけだけの美しさではなく、本物を兼ね備えているようにも思えた。
それにあの笑顔の向こうにどれだけ厳しい練習をしたのか、今は稔も知っている。
何故か稔の目が熱くなった。
三日月先生がささやいた。
「向こうから見える光景はまったく違うのよ。稔君も立ってみるとわかるわよ」
「ははは……」
思い出そうとしたが、浮かんでくるのは運動会や合唱コンクールなどの学校行事の記憶。
そして一人ぽつんとしている、家族のこない学校行事であった。
あの舞台から観客席はどんな光景なのか。
「無理ですよ」
この時の稔は想像もできなかった。
実際に舞台に立つことになることも予想しなかった。
だが今美乃理は確かにそこに立とうとしていた。
もう出番はすぐ。
待機場所の廊下に集まった美乃理達は整列をしてひたすら呼ばれるのを待った。
「みんな、そろった? 誰かいなくなってないかしら」
柏原コーチが全員を数える。
「はい、大丈夫です」
周囲が小さく答える。
美乃理は、まだ緊張していた。
自分が失敗することで演技をぶちこわしにしてしまわないか。
自分のせいで一生懸命練習した皆の成果を台無しにしてしまわないか。
ドキドキする。
他の子たちの期待を美乃理は背負っている。
とてつもない重圧だった。
「皆で手を繋ぎなさい」
突然、柏原コーチの指示が飛ぶ。
忍と亜美は緊張で固くなっている美乃理の手を取った。
手を繋いた。
「目を閉じて、これまでの練習を思い出しなさい。大丈夫。一緒に練習をしてきた仲間同士力を合わせるのよ」
忍も美乃理の手を強く握った。
前の順番のクラブの発表が終わり、鳴り響く拍手が聞こえてきた。
ついに順番がやってきたのだ。
「さあ皆行ってらっしゃい、頑張ってね。笑顔を忘れないで――」
(来た)
周囲の子が一斉に足を揃えて歩き出した。
その動きに美乃理も足を合せる。
柏原コーチが送り出す度に、一人一人タッチをする。
もちろん美乃理にもタッチした。
一体感を持たせる演出であることはわかっていたが、それでも心が引き締まった。
笑顔、美乃理がなにより苦手なポイント。
新体操は、技の難しさだけでなく、表現力も問われる。笑顔はその基本。
三日月先生にも繰り返し言われた。
(漫画やテレビを見た時の笑いではないわ。笑顔よ。あなたのこれまでの人生で足りなかったこと、その意味を考え続けるのよ)
整列し足並みを揃えて舞台に進入する。
最初の隊形として指示されている縦五列横三列にそれぞれが並ぶ。
その一番前の左から二番目が美乃理の位置だった。
視線をもっとも受ける位置でもあった。
「次は、花町新体操クラブの生徒十五名による演技です。新体操を始めてまだ三ヶ月ですが、一生懸命練習をして今日を迎えました。綺麗なピンクと水色の花をイメージした、春らしい元気一杯な少女達の舞をお楽しみください」
紹介アナウンスが体育館に響いた。
(……ボクらは今花なんだ)
花を思い描いた。ふとあの夢を思い出した。
少女と邂逅する花の咲いた野原を。
観客席は少しざわついていたが、整列が終わると次第に小さくなり体育館ホールの中を静寂が包んだ。
(静かだ)
多くの人がいるのに、咳払いの音まで聞こえるぐらいに、静まりかえった。
足が微かに震えている。
(皆こっちみてる)
皆自分達を見ている。
沢山の人の視線を浴びている。
観客席から、多くのカメラがこちらに向けられている。
これから始まる少女たちの演技を待っている。
慣れない視線を浴びて胸が一層高鳴り始める。ドキドキ、緊張は最高潮に達しようとしている。
でも逃げ出すわけにいかない。
周りの子もこの緊張に耐えているんだ。
それに臆する素振りをみせることはできなかった。
緊張は感覚を研ぎ澄ませてゆく。ちょっとした観客の体のゆすりがみえ、ヒソヒソ声すら聞こえる。
(この中に母さんは、新体操をやっているボクを見に来ているのだろうか?)
だがいなかった。
何かあったのだろうか、なかなか見つからない。
急に用事が入ったのかもしれない。
忍の家族たちを見つけた。
忍の両親はカメラを持って忍にレンズを向けているようだ。
忍の父の肩を叩いて、忍だけでなく、美乃理もみつけて指さしている。
(あ、あれ美乃理ちゃんよ、ほら、忍とよく遊んでいる……)
そんな会話が思い浮かんだ。
見ている。忍の母親と目があった。少し笑った。
自分を見ている。かあっと熱くなった。
頭が真っ白になりそう……。
(落ち着け。落ち着け)
ほんの二、三十秒がいつまでも続くかのように長く感じた。
だが、静寂を破るように前奏がホールに響いた。
軽快な音楽が流れ始める。
最初は徒手の演技。
十秒ほどの前奏中はリズムに合わせて腰に手を当てて足踏みをする。
そしてメロディが流れ始めると、その場でステップを踏んだり、いくつかのポーズを取る。
片足をあげたり、手を広げる。そしてリズムに併せて腰に手をあてて、右足を前にそして次に左足を出す。
二、三度繰り返した後、軸足を使って一回転する。
ごく単純な動きだが、音楽に合わせ1つ1つの動作を仲間と同じタイミングでやることは決して簡単ではなかった。
また単純なところでミスをすると動揺して後の技や動きに尾を引いてしまう。
時として他の子にもミスを誘発させてしまう。
グループ演技の怖さを美乃理は何度もレッスンを受けている時に学んだ。
それに加えて一つ一つの演技の合間に手を振ったり腰を振ったり、足を大きく広げたりステップを踏んだりと、可愛らしさを演出した動きも織り込まれていた。
見ている人を楽しませなければいけない。
そして美乃理は練習時、ここで失敗をすることがしばしばあった。
恥ずかしさや戸惑いの気持ちが強くなる時にありえないミスをやらかしてしまう。
(落ち着け)
心の中で美乃理は何度も自分に言い聞かせる。
美乃理は緊張の糸の上を危なっかしく渡っていた。




