第64章「発表会」
夢の中での少女との邂逅。
あれからもずっと繰り返していた。これからもずっとこの子と一緒。
会話をしている夢、遊んでいる夢、ただ一緒にいるだけの夢。
美乃理は目が覚めた。
どうやら早く目覚めてしまったようだ。
ベッドに寝ころんだまま目覚まし時計をみるとまだだいぶ早い。
美乃理は小さな欠伸ひとつしながら、ベッドから起きあがる。
ついでに目覚まし時計も、リセットする。
ここのところよく夢に出てくる少女がまた出てきた。だが今日はそれに構っていられなかった。
今日は日曜日、そして発表会だ。
窓の外は徐々に明るくなってきていて、ときおり鳥の声が聞こえる。
天気も良好のようだ。
学習机の上には、美乃理の赤いランドセルと一緒にスポーツバッグが置かれている。
昨日のうちに用意したもので、バッグにはレオタードやリボンなどが既に準備されている。
それらを見て心の中で美乃理は呟いた。
(高梨先輩。三日月先生。ボクはここまで来ました)
受験勉強に苦しみ、万引きという過ちを犯した稔に再度立ち直るよう力を尽くしてくれた二人。そして清水敦子を始め新体操部もメンバーたち。
彼女たちから稔は使命を与えられた。
もし稔が女子に生まれ変わったら正愛で新体操をやる。
その約束を守るためにここまできた。
この先、とても長い道のりなのではないかと思う。
少女の体に、小学校の友達作り、そしてキッズコースから始める新体操……。
だが美乃理は今最初の到達点に立とうとしている。
階段をおり居間に向かうと、リビングは既に電気が灯っていた。
「あら、もう起きたの? 美乃理」
母は既に起きていて既に着替え化粧をしながら美乃理を待っていた。
日曜日も出勤の準備することが多かった母もわざわざ今日確実な休みを取ってくれたのだ。
運動会や発表会にも来ることがなかった母だが、美乃理の懇願が効いた。
今朝食と出発の準備をしているのだ。
「おはよう、母さん」
母の様子を見た後、洗面台に向かって鏡に向かってお湯を使って髪をとかす。
肩から背中にかけて伸びている髪の毛に念入りにブラシを入れる。
寝癖が酷い体質ではないようだが、それでも朝はかなりボサボサ状態になる。
男の子の時に簡単にすませられたことを懐かしく思う。
と同時に今ではそれも朝の一仕事として、ある程度受け入れられるようになった。
いつものように苦労しつつポニーテールに纏めようとしていると、ふいに母に呼ばれた。
「美乃理、こっちに来なさい」
手招きしてテーブルの前の椅子に座るよう促される。
「なあに?」
美乃理が従って座ると、母は美乃理の長い髪を手に取ってちょっとの間、きちんととかしているかどうかチェックしているようだった。
やがて「よし」と一言言うと、ゆっくりとさらに髪を櫛でとかし纏め始めた。
「何してるの?」
「今日は柏原コーチから、長い髪の子はまとめてきてくださいって。髪の長い子は、このシュシュをつけるのよ。それからさらにシニヨンを作るの」
上手に纏めると、ピンクのわっかを取り出し髪を留める。
「ほら、新体操の選手って大抵丸いお団子のようにしてるでしょ」
ああ、そうかそういえば高梨先輩たち、大会では髪を纏めてたっけと美乃理は思い出す。
本当に新体操の選手になった気にさせられる。
「う!?」
「動いちゃだめよ」
そしてさらに母は手元にある化粧用品で美乃理の顔に施し始めた。
「お化粧は、濃すぎない程度にしてきてくださいって言われてるの」
美乃理の頬を粉でパタパタとさせ、そして口元にルージュを塗る。
「べ、別に大丈夫……」
「駄目よ。母さん、いつか美乃理にお化粧をするのが楽しみだったんだから」
目を閉じて眉を描かれる美乃理は母の気合の入れように圧倒された。
「さあ、簡単だけどできたわ」
数分後、ぐるりと一周しながら、美乃理の出来上がりをチェックした。
自分の分身を送り出すように――。
「み、見てもいい?」
母はその出来を誇るように頷いた。
洗面所に行ってみて、鏡で自分を見てみた。
(うわ……)
今まで肩や背中に延びていた髪が綺麗に頭の上で纏められお団子になっている。それが さっぱりとさせるだけでなく、上品な雰囲気を醸し出している。ショートカットともまた違う。
女の子は髪型でも印象がだいぶ変わる――。
さらに薄っすら施された化粧が、気品を漂わせるお嬢さんといった感じになっていた。
不思議だな……女の子って。
稔と美乃理、男と女が違うだけなのに。
自分が女の子になってもどうせ同じと思うこともあった。
けれども、自分も周りの女の子と同じように、確かにその性質が備わっているようだった。
「さあ、そろそろ時間ね。出発しましょう」
母は時計をちらりと見て、出発を促した。
美乃理も既にジャージに着替えて、準備を終えスポーツバッグを抱えている。
母より先に玄関で靴を履いて外へ出る。
そしてすぐ後に母が出てきて玄関扉を閉め、鍵をかけた。
「美乃理も車に乗って」
母が、先に車に乗り込んだ。
(二人での出発……)
美乃理は心で呟いた。
今日母が来てくれることは喜びだった。けれども父は……不在だった。
三日前。
「ただいま」
「あら、お帰りなさい、今日も遅かったのね」
「ああ……」
その日いつもより遅く帰ってきた父はやや疲れたような顔をしていた。
「お帰り、父さん」
もう寝る支度を済ませていた美乃理も挨拶した。
「ただいま、美乃理」
ここ最近の美乃理の姿を見て、顔を綻ばせることが多かったがその時はいつになくよそよそしかった。
美乃理はすぐに察した。
始まった両親の会話――。
「今度の週末なんだが……急に出張になった」
背広の上着を脱ぎながら、父はやや言い出しにくそうに切り出した。
「え、今週の週末!? ほんとうなの?」
「ああ、北海道の支社に行くことになってしまったんだ」
「なんとかならないの? あなた。日曜日は美乃理の発表会があるのよ」
「言ったんだが、他に適任がいないから頼むと部長から直々の命令さ。終わり次第すぐに帰らせてもらうことにしたが」
「でも終わらなければ、帰れないんでしょ?」
父の出張には、いつも「そう、わかったわ」とだけ答える母なのに、今日初めて父に食い下がった。
「あなたがきてくれるって張り切ってたのに、ねえ? 美乃理」
不満とほんの少しの怒りが含まれていた。
「……」
一瞬美乃理は黙った後首を振った。
「いいよ、父さん――これなかったら別に」
ものわかりの良い返事に母は帰って不安に思った。
「いいの? 美乃理。パパに見てもらいたかんでしょう?」
「うん、でもお仕事ならしょうがないよ。気にしないよ」
次の言葉を予測した。
稔の時に何度も繰り返された。行けない代わりに、何かご馳走しよう、別のどこかに行こう。行きたいところはあるか? 食べたいものは?
そしてそれもまた中止になってしまう。
「すまん、美乃理。急いで終わらせてそっちへ行くからな」
その日の父の返事はいつもと違っていた。
バッグをトランクに入れた後、車の助手席に乗り込みシートベルトを締める。
運転席に座る母が、その直後にエンジンをかけ車がゆっくりと発進する。
会場の市民体育館に向けて走り出した。
やや黒い想念が起こる。
父は後から来るといってたけれど、時間はいつになるかわからない。
「ねえ、美乃理、お父さんは直接来てくれるっていってたから」
「う、うん、大丈夫だよ」
急遽遠くへ出張することになったが、終わったらすぐに飛行機で駆けつけることになっている。
しかしさっき美乃理がテレビの天気予報をみた時、出発地は今日雨だという予報だった。
もし天気が悪くて、飛行機が遅れたら……いや、そもそも飛ばないことも……。
来ると言いながら、結局見られなかったサッカーの試合や運動会の記憶が思い浮かんだ。
今回もそうなるかもしれない。
いやそんなことを考えるのはやめよう。
今日は新体操の発表会。
三日月先生と約束したことを果たす日だ。




