第6章「美乃理(みのり)ちゃんとシノちゃん」
花町小学校は、歴史はある小学校で稔がちょうど5年生の時に創立80年記念の行事があった。
一番昔の頃は木造の校舎だったそうだが、稔がいた頃は、鉄筋コンクリートの校舎だった。
その校舎も年季が入り、長年の風雨にさらされ日に焼けて、あせた肌色の壁をさらしていた。
卒業後には、取り壊されさらに新しい近代的な校舎に立て替えられたそうだが、稔がその新校舎に通ったことは無い。
今いる場所は、確かにその稔の記憶にある旧校舎の方だった。
つまり今は、確かに十年近く前なのだ。
そして、たった今確認した事実。今の美乃理は女の子、どうみても小学一年生。
それを確認した美乃理の右手に、その女の子であることの感触が残っていた。
「ふう……はあはあ……」
あがった息を整える。さっきの衝撃がまだ収まらない。
個室トイレの外で、しばらく放心していた。
「美乃理ちゃん、どうしちゃったの? 急に叫び声をあげるし……」
小学一年生の楢崎忍が、ランドセルを背負ったまま、そんな稔を覗きこんできた。
「なんだか、今日の美乃理ちゃん、変……」
「な、なんでも……ないよ、楢崎さん」
なんとか取り繕ったが美乃理の胸のドキドキや、頭の混乱は収まらない。
「ほら! それ!」
楢崎忍がまた急に叫ぶ。美乃理は、胸をドキッとさせられた。
「な、何?」
「あたしのこと……名前で呼ばない。忍のこと……」
あ、ああ、そうか、女の子は名字ではなく名前でよびあうもんなー
「そんなこと、ないよ、忍ちゃん……」
なんとか取り繕ったと思ったのに、さらに楢崎忍さんは困ったような表情を浮かべた。
が、それも一瞬だった。
すぐに楢崎忍は、チャームポイントだった、優しい笑顔を浮かべた。
そしてそっと近付いてきた。
「あ、あの……」
混乱し、どうしようもなくなっている美乃理に近づく。そして。
「!?」
楢崎忍は、美乃理を抱きしめた。
細い腕を回し、ボクの肩を抱くように……。
「ならさ……」
楢崎さん、と言おうとしたが、遮るように美乃理の耳元でささやいた。
「シノーしのちゃんって、わたしを呼んで、美乃理ちゃん」
「し、しの……ちゃん?」
「そう、いつも、わたしのことは、美乃理ちゃんは、シノちゃん、って呼んでたの」
「シノちゃん……」
「うふふ、ありがとう、美乃理ちゃんー」
そして、抱き合っていた状態から、少し体を話して、向き合った。
向き合う目と目、瞳と瞳、顔と顔。
「心配しないで、美乃理ちゃん、美乃理ちゃんがわからないこと、何でも答えて上げる。わたしが美乃理ちゃんを守ってあげる」
「ボクは、ボクは……みの……りなの?」
忍は、美乃理の肩を掴みながら、しっかりと頷いた。
「うん、あなたは、御手洗美乃理、花町小学校1年2組の女子」
女子、小学生、美乃理……シノちゃんの口からでた言葉が頭を駆けめぐる。
「美乃理ちゃんの住所は、花町市上明五丁目26番地にあるお家で、素敵な一軒家に住んでるの。でも、おじさんとおばさんは、仕事が忙しくて、わたしが遊びに行っても、あえないわ」
しのちゃん、忍が訥々としゃべるのは、美乃理に関することだった。
次から次へ、今美乃理がどういう子で、どうしているのか美乃理に語りかける。
それらは、美乃理が最も知りたいことだった。
忘れていたことが多かった。担任の名前が斉藤だってこと、クラスメイトには誰がいること。
聞いているうちに思い出してきた。
稔が一年生だったときの記憶が、より鮮明に戻ってくる。
「今日は20○○年9月25日……美乃理ちゃんは、日直でチューリップの世話をしていた、あたしが戻るのを教室で待っていたの。美乃理ちゃんも図書館で借りた本を返すからって、いったきり戻ってこなくて……そしたらここにいたの」
ようやく、語りが終わった時、美乃理の気持ちはやや落ち着いていた。
「シノちゃん……なんで……」
「うふふ……」
どうして彼女がこんなことをしたのかー美乃理が唖然としていると、悪戯っぽく笑った。
「うーん、あたしのおばあちゃん、かな? 急に自分のことを忘れちゃった女の子がいたら、今はいつで、ここがどこで、名前や家族、知っていることをみんな教えて上げなさいっていってたのよ」
おばあちゃんのことは、わからないけれど、とにかく忍のおかげで多少とも現状が理解できたのは確かだった。
「でも、一番、大事なこと、これから言うね」
改まって忍は美乃理をじっと見つめた。
「何?」
次の瞬間、さらに美乃理を抱き寄せる。
強く、強く抱きしめた。
「美乃理ちゃんは、わたしの大事な友達ってことよ」
髪の毛も触れあい、息と息が交わる。
そして、頬と頬が擦れ合った。
美乃理のほっぺた、シノちゃんのほっぺた。
とても柔らかかった。
夕方の放課後の教室での女の子との触れ合いは、美乃理の心も柔らかく包んだ。
そしてその耳には、静かなメロディが聞こえてきた。