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第56章「美乃理(みのり)と厳しく楽しいレッスン」⑧

 みのるが進学塾に入ったのは四年生の時だった。

 入ったのは一番授業の内容も難しく、難関校の受験を目指すクラスで通う日数も多く、入塾後は放課後に遊ぶ余裕がなくなった。

 ちょうどその頃サッカークラブに入った健一には残念がられた。

 ますます学校では孤独。

 ただ、一方で小テスト、模擬試験の成績が良いと、自分の成果が認められたようで嬉しくもあった。

 みのるは次第に試験の結果や点数にとらわれるようになった。


「あらみのる、今回は良くなかったのねえ」


 長かった受験対策のための塾通いの期間、何度も繰り返された模擬試験の結果をみのるは必ず母さんにみせた。

 良いときは喜んでくれるので、その時は素直に嬉しかった。期待に応えることで、喜んで貰えたことがみのるの励みになった。

 けれども結果が良くない時もあった。


「ごめんなさい」

「頑張りなさい、次はきっといい点取れると思うわ」


 受験期のみのるの塾での成績は時期による調子の善し悪しはあったが、そのことで母が激しく叱ったりすることは無かった。

 むしろ母は結果が悪い時には頭を撫でて、励ましてくれた。


「う、うん……」


 けれども母の喜ぶ姿を見られなかったこと――周囲の評価を得られなかったことによる焦りはつのった。

 どんなに頑張っても点数で良し悪しが、全て決まるように思えた。









 忍の家族に車で送ってもらった美乃理が自宅に着いてまもなく、母が帰ってきた。

 母は、病院での仕事が長引いて遅くなってしまったのを美乃理に詫びながら、携帯電話を取り出す。

 忍の母親に御礼の電話を入れ十分ぐらいしゃべった後、美乃理にあれこれ聞いてきた。


「楢崎さんのお母さんに聞いたわ。育成コースの練習みてきたんですって?」

「うん、凄かったよ……とても上手で綺麗で……全然違うんだ」


 瞼に焼きついた龍崎宏美の練習に打ち込む姿勢を思い浮かべた。


「でもきっと大変よねえ。練習も厳しいしでしょうに」


 育成コースの様子、練習の回数がどれくらいかとか、内容の厳しさなどを説明した。

 一通り聞き終わると、美乃理に母さんが語りかけた。


「でも美乃理のやる気次第ね。まだ先のことだけど」


 その言葉にはっと美乃理は顔を上げた。

 育成コースに行くとしたら、丁度進学塾との入校時期に重なる。

 両立は相当厳しいし母は必ず反対を言うと思っていた。

 しかし。

 受験一筋だと思っていた母さんの言葉ではないように思えた。



 夕食を済ませ、お風呂に入った後に美乃理は練習に取り掛かった。

 戸建ての家なので、隣近所に迷惑をかけることは無い。そして母も家の中で動き回ることを大目にみてくれた。

 一階のリビングで大きな音を出さない範囲で、レッスンで教えられた動作を一通り記憶をたどり、今日の練習の復習をする。

 回転、ジャンプ。リボンやボールを狭い部屋で振ったり投げたりはできないにしてもイメージをしながら、体を動かす。

 動かすだけでなく、自分の頭の中で音楽を思いだし、拍子を取る。

 徐々に複雑になってきた練習の内容を早く体に覚えさせるためだ。

 新体操のレッスンを数度経ただけだが、リズムに合わせて正確にかつ綺麗に体を動かす。ただそれだけのことがいかに難しいか美乃理は学んでいる。

 指先、腕、足、表情も――体の全てを表現しないといけない。

 まだ高度な技を繰り出す龍崎宏美のようにはできない。

 それどころか、実際現時点では朝比奈麻里の方が上手であることを美乃理は自覚していた。

 他の子との有利不利は無い。むしろ男子だったことは、美乃理は不利である。

 そのことを身をもって実感した。楽な道ではないが、練習を重ねるならば、できるようになるかもしれない。

 それには日々の積み重ねが必要だ。


(あそこまでできるのかな)


 美乃理の脳裏にまた龍崎さんの姿が浮かぶ。

 そして練習に没頭していると、不思議と新体操を練習することについて、最初のころにあった恥ずかしさや、戸惑いが薄れていっているのを美乃理は感じた。


 夜遅く、といってもまだまだ夜半まである時刻だったが、玄関先でドアがガチャリと開く音と一緒にごそごそと音が聞こえた。


「おかえり! お父さん!」


 玄関先で靴を脱ぎ、背広を脱ぐ父の姿があった。


「頑張ってるなあ、美乃理」

「えへへ」


 ピンクや赤の絵柄の入った上下のパジャマに着替えた美乃理が声をかけると微かに笑みが浮かぶのがわかった。


「美乃理、今日は育成コースを見学してきたんですって」

「育成コース?」


 母が父に説明を始める。

 ほう、そうなのかと父が美乃理に視線を向けた。その視線が恥ずかしくて、視線を横に逸らす。

 美乃理になってからというもの、よく父が自分のことを見つめているのを感じている。

 みのるの時には無かったことだった。

 いや、みのるの時には父の視線に気づいていなかっただけなのかもしれないと美乃理は、ふと思った。





 その深夜――

 そっと美乃理の部屋のドアが開けられ、廊下の光がそっと差し込む。暗い除夜灯のオレンジの薄暗い光だけ部屋に灯っているだけだけ。

 そして赤い革の光沢を持つランドセルが暗い部屋に浮かんでいた。


「美乃理、頑張ってみたいだな」

「新体操をやらせてみて良かったと思ったわ。これを見て、あなた……」


 美乃理の母は、携帯電話を取り出しそこに映し出された画像を見せた。

 それは携帯メールで撮影された写真メールの練習風景だった。忍の母親が出迎えに行ったとき、撮影したもので、そこには一生懸命練習するレオタード姿の少女たちの中に混じって練習に打ち込む美乃理の姿があった。


「そっか、美乃理は一生懸命やってるんだな」

「あなた……私、美乃理にはもう一人寂しい思いをさせないようにしなきゃいけないと思うの」

「そうだなあ……美乃理もいつも一人で寂しいだろうし、仕事を切り詰めないといかんな。たまには、相手してやらないとなあ……」

「ううん、違うの。そうではなくて……」

「?」

「あなたに相談があるの」

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