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第45章「宏(ひろし)と宏美(ひろみ)と新体操」①

 正愛学院中等部及び高等部の校舎は大学を含めた広大なキャンパスの敷地の一角にあった。

 昼は学生の声でにぎわっていた校内も八時を過ぎすっかり静まりかえっている。

 真っ暗な校舎で唯一電気が煌々と光るのは職員室。

 一人の女性教師が書類が積まれた事務机で、仕事を黙々と片づけていた。

 ちょうど書類を机の引き出しにしまおうとしていた時だった。

 不意に職員室のドアがガラガラと開けられた。


「ああ、良かった。まだいた! 三日月先生!」


 入ってきた若い男の発した声は静かだった教室によく響いた。


「あら? どうしたんですか? 角田先生」


 入ってきたのは二年目の若い男性教師だった。


「遅くにすいません、三日月先生」


 さらに次々に入ってきたのは、同僚の男性教諭達だった。

 既に一旦帰宅したはずの彼らが再び戻ってきた理由を三日月に語り出した。


「今日仕事帰りに、島田先生や飯塚先生たちと一緒に飲みに行ったんですが、その帰りに……」


 若手の教諭同士で駅近くの居酒屋に飲み会行ったらしい。軽く飲んで解散しようとしたその時だった。


「路地裏で乱闘騒ぎを目撃したんです。暴走族風の男たちが、一人の学生を寄ってたかって殴る蹴るの暴行を加えているのを発見したんです」


 そういったところで、その脇に隠れるように一人の男子生徒がいることに気がついた。

 どのクラスの生徒だろうか、とその生徒を改めて見てみたが、よくよくみると、正愛学院の生徒ではないようだ。詰襟の学生服で、付けているボタンも違っていた。


「「こら! おまえ等何をやっている!」っと叫びながら助けに入ったんですよ。若者グループは、それを聞いて走り去っていきました。大事にならなくて幸いでしたが……」


 男性教諭たちの中には、体育担当の教諭や、柔道部の顧問を務める教諭たちもいた。その顔ぶれを見るに、素行の悪そうな男たちは腕力で自分たちに勝る相手から慌てて逃げたのだろう。


「警察を呼ぼうとしましたが呼ばないで欲しい、と懇願されまして……ただそれなら事情を聞かせて欲しいと」


 合点がいったように三日月は顔を上げて、角田の目をみた。


「そう。そういうことなの。この子の話を聞いてやって欲しい……ってことね、角田先生」

「はい、すいません」


 頭を下げた。他校の生徒の事情は、本来業務外だ。

 だが三日月知代は普通科クラスの学年主任、新体操部顧問、また生徒指導を兼ねていて、問題や悩みを抱えた生徒の相手をしており、また生徒の話を聞く真摯な姿勢は同僚の間でも評判だった。


「いいですわ。話を聞くわ」

「よろしくお願いします」

「さあ、こっちへいらっしゃい」


 恐る恐る職員室のより中へと入ってきる、一人の少年だった。

 その男子生徒は、顔に、擦り傷があった。で血が滲んでいた。


「まあ、ひどい。保健室から薬を持ってきていただけますか?」


 横で見守っていた角田に取りにいかせた。


 やがて消毒液とガーゼとピンセットが届くと、三日月は少年の額の傷口にそれを塗る。悲鳴をあげた。


「イテテ!」

「ほら、動いちゃだめよ。嫌ならもうあんな喧嘩はしないことね」

「あっちが絡んできたんだよ」


 手当てを受けながら、少年はぽつり、と呟いた。

 学院の最寄り駅の近くにある繁華街は、居酒屋や飲食店が多く仕事帰りのサラリーマンやOLをよくみかける一方、非行少年達がたむろし、風紀が悪いことでも知られている。

 グループ同士の暴力沙汰も珍しいことではなかった。

 この少年も一見するとその類のようにも見られたが――。

 だが妙なものを感じた。意外な毛並みの良さがどことなく感じられる。


「その制服、あなた麗光の生徒さん?」


 その男子高校生は、ふん、と顔を背ける。

 図星だったようだ。


「麗光大学付属……? あのいいとこの子女が通うという?」

「麗光大学付属、超名門の学校じゃないですか!?」


 周囲の先生達も驚いた。

 大学付属も高校も全国トップと言われる学校の1つ。正愛学園を凌ぐ名門だ。

 また資産家の息子や令嬢がいくことでも知られている。

 企業のトップも多くは移出していて人脈は抜群……まさに御曹司が行く名門学校だ。


「なんでそんないいとこ出の子息が夜の盛り場をうろついて……」


 だが男子生徒は裕福、名門などといわれると、露骨に嫌そうな顔をする。それを察してそれ以上家庭のことについて話をさせるのを三日月は制止した。


「若い10代、道に迷う生徒というのは、どこの学校にも、いるものよ――」


 あちらの学校に連絡入れるべきか、というささやき声を小耳にはさむと流石に気になるように生徒は目を泳がせる。


「それににしても……」

「どうかしたんですか? 三日月先生」

「この子、ちょっと気になるんだけど」


 三日月が気になっていたのはそんなことではないようだ。顔を、嘗め回すように覗き込んだ。


「な、なんだよ――俺の顔が変かよ」

「あなた、春美さんの子?」


 少年は驚いたような顔をした。


「なんで……その名前を」

「あ、やっぱり! あなたのお母さん、春美さんだったのね」


 少年の顔をまじまじと眺めて三日月は嘆息するように息をふう、と漏らした。


「一条春美……さん、ああ結婚して姓が変わったのね」

「何であなたが、俺の母さんの……旧姓を知っているんですか!?」

「だって、あなた春美さんにそっくりだもの。男の子だけど、面影が……」


 さらに三日月に見つめられ、やや恥ずかしそうに男子生徒は目を逸らす。


「春美さんは……お母さんは、元気にしてる?」




「そう、あなたを生んでしばらくして……」


 三日月に対してある程度信頼が芽生えたのか、少年がポツリ、ポツリと身の上を話し始める。既に母はこの世の人ではなくなっていた。

 少年についても詳細がわかった。この男子生徒の名前は、龍崎宏りゅうざきひろし。麗光大学付属に通う男子生徒だ。


「龍崎って、あの龍崎グループの!?」


 またまた驚きが走った。誰でも知っているグループ会社だった。

 そして三日月も自分の知る宏の母のことを語った。

 自らの実家、一条家から嫁に出される格好で別の家に嫁いだとの噂を風の頼りに聞いていた。しばらくは三日月とも多少は連絡を取り合っていたがその後消息は途絶えていた。


「でもなんであなたが母のことを……」

「あなたのお母さん、私と同級生だったから、お母さんはよく知ってるわ」

「同級生って……」

「そう、うちの同期卒業生よ、一緒に学園祭や修学旅行にも参加したし……何より」


 ふと思い出が舞い降りてきたかのように、彼方を見つめるような視線をした。


「同じ新体操部の部員だったのよ」

「し……んたいそう?」

「そうよ。あ、麗光には新体操部は無かったわね。新体操は知ってる?」

「話には聞いたことがあるけど、詳しくは……」


 ぽん、と手を叩いた。そして


「そうだ、いいものがあるわ」


 机からふいに三日月が立ち上がる。

 三日月は一旦職員室を出てすぐ隣の資料室へ消える。しばらくしてから書類を抱えて戻ってきた。

 机にドサっと置かれたのは学校で保存されている卒業文集や記念写真、そして新聞記事の切り抜きだった。


「これを見なさい」


 その中からいくつかの写真や資料を抜き出す。


「こ、これは……」


 差し出された写真や記事に龍崎宏は目を大きく見開いた。


「母さん……」


 映っているのは確かに母の写真だった。

 しかし、そこに映っているのは、ずっと若く華やいだ少女の姿の母だった。

 美しいだけでなく花びらのように可憐――

 思わず資料に見入った。

 そして目が止まったのは一枚の写真。


「あ……ま……さか……」

「そう、新体操部員の時のあなたのお母さんの写真。あなた、お母さんの若い頃にそっくりでしょ?」


 中学生か、高校生?母と思われる少女がレオタードを着ている。

 綺麗とか美しいだけじゃなかった。

 体は思春期の少女らしい柔らかみを帯びていて、胸もお尻も大きい。だが、一方体は細く引き締まっていて、腰も細く括れている。

 アスリートらしい体だった。

 その小さな可憐な少女が、脚を広げて大きくジャンプし、リボンをたなびかせている。

 圧倒的な躍動感がたった一枚の動かない写真から伝わってくる。

 めいいっぱいの女性の美を表現している。

 自信に満ちたさっそうとした顔。どこまでも透き通るような曇りの無い黒い瞳。

 天真爛漫、無邪気。今まさに蕾から花開いた少女の最も輝いた瞬間。

 宏の知っている数少ない写真に映った母の姿は、赤ん坊の自分を抱いて優しげに微笑む母の写真だが、それとは、また違う。


「新体操部でも1、2を争う力を持っていたの」


 新体操と共にその青春を燃焼させた。


「そうね、春美さんの演技、凄かったのよ。誰よりも情熱的で、誰よりも繊細で天才といって過言ではなかった」

「他にもあるんですか?」

「もちろんよ」


 もちろん新体操だけじゃなくて、学校生活、学園祭、合唱際、修学旅行に夏休み……。

 それらの写真に一々宏は食い入るように見入った。

 たまらなく見てみたかった。母がこの学校で一体何を見て何を感じてどんな思いでいたのか。

 特に新体操は、母の短かった命を確かに輝かせた光に思えた。


「そうだ、宏君、明日うちの部活の練習、見に来てみる? 練習やってるから」


 様子をみて三日月は宏に問いかけた。


「そういえば、新体操部は来週大会が控えてるんでしたねえ」

「さすがうちの部活動でも最も活発で実績がある部……」


 角田たち男性教諭たちも皆口々に誉め称えた。


「あなたのお母さんも昔所属していた部なんだから」


 そう言われて宏は俄に興味が沸いてきた。

 この正愛学院で母がどのように若い青春時代を過ごし、燃やした光の軌跡を見てみたかったのだ。

今回は過去話オンリーです。

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