第40章「美乃理(みのり)と笑顔とハーフシューズ」②
「いいか! 受験は他者との戦争だ! 他の受験生を追い落としてでも絶対に合格を勝ち取れ!」
中学受験の直前、進学塾の教室で団結式というものに稔は参加した。
塾の生徒達は、頭に「絶対合格」のはちまきをつけて、塾の先生の檄を聞いていた。
最後はその髭の濃い四十才近い塾講師の「絶対合格するぞ!」のかけ声と共に「オーッ」と一斉に周りの生徒達が拳をあげた。
稔もそれにつられて声をあげた。
「団結して乗り越えよう!」
さらに塾講師はテンションをあげて叫んだ。
だが塾講師の言葉とは裏腹に稔は寂しさを感じていた。こんなに周囲に一緒に勉強してきた塾仲間が沢山いるのに、とても孤独だった。
この孤独感は何だろう。
成績に一喜一憂し毎月行われる学力テスト。
周りには塾で知り合った仲間が何人かいたはずだが中学受験が終わった後に連絡を取り合うこともなく会うこともなく、その後彼らがどうなったかは稔も知らない。
何度も何度もステップや振り付け、バランス、ポーズを繰り返した。
ふと笑顔を忘れそうになるたびに美乃理は口元に笑みを作る。
笑顔、女の子は笑顔が大事。
美乃理は言い聞かせる。
「さっきより綺麗になったわ。その調子、美乃理ちゃん」
その努力を見逃さずコーチが美乃理を褒めた。
「あ、ありがとうございます」
コーチは美乃理だけでなく他の子も丁寧に面倒をみる。
キッズコースのクラスには運動が苦手な子も少なくなかった。
元々は運動が苦手である忍は体の固さに苦しんだ。
片足をあげてバランスを取る時、麻里や美乃理と違って高くあがらない。
だがそんな忍にも柏原コーチはよく観察して指導する。
無理な姿勢を取らせることはしなかったが、ただバランスを崩しそうになると、手を貸してその姿勢を正した。
「よく頑張ったわ、忍ちゃん」
「はい」
忍の顔は明るさを失っていなかったが息切れをしている。
(運動が苦手なシノちゃんが、あんなに一生懸命やっている――)
美乃理と違って綺麗に足を上げることができ、注目を浴びるわけではない。
周囲の目を気にするどころかレッスンについて行くので一生懸命で時折手拍子にあわせて動くときも忍は遅れそうになる。
でもめげないで何度も忍は挑戦する。
ただ新体操を綺麗に舞いたい一心だ。
「すごいよ、シノちゃん……」
「うん、だってあたし、龍崎さんのように綺麗になりたいもん」
よろめきながらも、ぎこちなくても小さな体をめいいっぱい動かしていた。
女の子の意地、執念に美乃理は圧倒された。
身体能力について他の子と比べて恵まれている美乃理は、ショックだった。
(これも、龍崎宏美さんがしかけた魔法なのかな)
他の子もやはり忍と同じように練習に取り組んでいる。
自分は力を出し切っているだろうか? 他の子はあんなに頑張っているのに……。
自分はその龍崎宏美の恩恵を受けていない。
なら自分で頑張らないと。
美乃理の体に力が再びこもる。
再び足をあげてポーズを取る。
恥ずかしさとためらいが少し和らいだ。
女の子であることもレオタード姿であることにも――今は置いておこう。自分が置いて行かれないように。
ただひたすら練習に励む。
小さな体に汗が滲んでくるのも構わなかった。
(あ……そうだ、これだ)
美乃理は心で呟いた。
正愛学院新体操部部長の高梨礼華先輩の言葉。
「新体操は機械的に演技をすればいいというものではないの。表情、表現――。それは女の子にはとても大切な、ものばかり」
「ただ体を動かすだけじゃないの。やってるうちに、いろんなことに気づかされるのよ。自分は今いい顔をしているか、美しさを伝えられているか、他の人に喜んでもらえているか」
「それに一つ一つ気づく度に多くのことを学ぶの」
何度も言葉を繰り返した。
女の子になっても良いことばかりではなかった。
髪が長いせいで洗うのに手間がかかったり、セットに時間がかかる。
服にもきをつけないといけないし、スカートはスースーする上に動きづらい。
食べ方も注意されるし行儀もよくしないといけない。
でも新たな成長と感激はそれを補って余りある。
今、美乃理が新体操に真摯に取り組むことは、これから健やかな成長をしていくために必要だったことかもしれない。
そのことに美乃理はささやかながら、初めて成長したことを感じた。
自分がまた一段心身共に健やかな少女となる階段を他の女の子たち上っていくのだ。
「今から二人組を作りなさい――」
コーチの指示で、また神田亜美と組みを作った。
昨日と同じく二人で手をつないだまま前転をして練習場の端から端へ、早さを競い合うゲームだった。
「えへ、また一緒に頑張ろうね」
亜由美の方から美乃理の手を取った。
4組が一列に並ぶ。美乃理達は一番端の壁際。
全部の組みが手をつないで膝を曲げ腰を下ろして前屈の姿勢を取る。
「よーい、どん!」
並んだ子たちが一斉に床を蹴って前転を始める。美乃理も床を裸足の小さな足で蹴った。
ポニーテールの髪が暴れて揺れる。スカートが何度もふわっと開いては戻る。
亜由美と手を離さないように――
今日の美乃理と亜美の二人は特に息がぴったり合っていた。順調に手をつないだまま進んで行く。
「ほら、置いていったらだめよ」
息が合わず手を離してしまい、片方の子を置いていってしまう子もいたのでコーチが注意した。
そのペアは慌てて戻っていく。
「頑張れ、美乃理ちゃん」
忍の声援以外にも自分を応援する声が聞こえた。
「美乃理ちゃん! あと一息!」
「美乃理ちゃん、亜美ちゃんガンバ!」
転がりながら、声をあげて応援してくれている子がいることに気付いた。
クラブの女の子たちが自分を応援している。
(ボクを? こんなボクを……)
信じられない想いだった。
稔には誰もいなかった。塾ではだれもいなかったのに。
今は、同じ女の子の仲間なんだ。新体操の仲間たち。
「やったあ!」
端の壁に一番でタッチした亜美が飛び上がった。同じピンクのレオタードのスカートがめくれあがるぐらい飛び跳ねた。
「凄いね、美乃理ちゃん、亜美ちゃん」
忍が祝福してくれる。
「おめでとう美乃理ちゃん」
周りの子も一番の美乃理と亜美を祝福してくれた。
笑顔の渦だった。
美乃理は心で呟く。
(そうか……これが仲間なんだ。ボクは一人で新体操をやってるんじゃないんだ)
稔が過ごした日々で大きく空いていた心の穴に熱いものが注ぎ込まれていく。
塾の時に稔が感じていた孤独さも空虚さは、今はもう無かった。
初めて美乃理は、女の子であることを――この女の子たちと同じ仲間であることを実感した。
「ありがとう! みんな!」
当初の作り笑いの強ばっている頬が緩んでいた。
より自然な笑顔を浮かべた。
「わあ、美乃理ちゃん。笑った顔がとても可愛いね――」
横にいた亜美が気付いてべた褒めしてくれた。
そして周囲も美乃理ちゃん、可愛い、笑顔がいいね、と口々に誉めそやす。
美乃理は少女への階段をまた一段上った。




