第39章「美乃理(みのり)と笑顔とハーフシューズ」
稔の長かった中学受験のための塾通いがひとまず終わったのは六年生の春だった。
正愛に進学することに決まった稔を両親は、入学を祝福してくれた。
「稔、おめでとう。成朗中学は駄目だったけど、正愛学院特進科も凄く実績のあるとこだから、心配はいらないわ」
第一志望だった成朗中学は不合格だった。
「あら、嬉しくないの? 稔」
「ううん、そんなことないよ、母さん」
第一志望に合格できなかったショックの気持ちも、この頃には多少は和らいでいた。心機一転、今度は六年後の大学受験のための勉強を始めようと稔は思っていた。
けれど……稔は感じていた。
何かがおかしい。胸に何も感じなかった。
少なくとも中学受験の時に父さんと母さんの期待に応えようと毎日夜遅くまで勉強していた時にはあったものが、今は無い。
受験が終えた今、ぽっかりと胸に穴があいたような気がした。
四月に入ってすぐに行われた正愛学院中学の入学式。
稔はまだ新調の匂いのする正愛の制服を着て、門の前に立っていた。
目の前には「正愛学院高等学校・中学校入学式」と書かれた看板が立てられている。
「桜が綺麗ねぇ、稔」
一緒に入学式にやってきた稔の母は、校門から校舎までの道にずらり植えられている桜が満開に咲かせている様子に感嘆を受けていた。
桜が吹雪のように舞っていて、新しく入学する生徒達を祝福しているようだった。
「そうだね……母さん」
稔は、その美しい花を見ても一言呟いただけだった。
「稔、また勉強を頑張りなさい」
「うん、母さん」
稔は頷いた。
「あら、新入生ね。今日はおめでとう。写真、取ってあげましょうか?」
通りがかった教師とおぼしき女性が、声をかけてきた。
「あら、お願いします。先生」
母さんはあらかじめ持ってきていたその教師に、デジカメを渡した。
「ほら君、もっと笑いなさい。せっかくの今日が台無しよ、ああ、ほら、もっともっと笑って」
やたらとその教師に促され稔は戸惑った。
「あら、先生は新体操部の顧問なんですの?」
「ええ、この学校、結構強いんですよ」
撮影後も母とこの女性教師は二人で立ち話を始めたが、稔はぼんやりと舞い散る桜の花びらを見つめるだけだった。
後で取ってもらったその写真に映っていたのは、驚くほど無表情な自分の表情だった。
再びレッスンの日を迎え、美乃理は緊張とは違う胸の震えを感じていた。
既に練習をするホール前の通路に集まっているレッスン生たちは、前回よりも気合が入っている様子が見て取れた。
レッスンが始まるまでのこの時間も体を曲げたり、足を動かしてみたり。
気付かないだろうが既に練習をしている。
そして練習をどれだけやっていたか自慢しあっていた。
既に仲良くなってきた者同士で、お互いの向上を確かめ合っている。
(やっぱり龍崎宏美さんから受けたあの刺激が今も続いている)
宏美がキッズコース生にみせた演技は、手の動き、表情。そして身体と一体化するように操作する手具ひとつひとつが魅入らせられる。
レッスン生たちは、その目論見通りやる気と情熱を目覚めさせられた。
美乃理にだけかからない魔法だった。
その龍崎宏美は、今日はまだ姿をみせていない
「ねえ、美乃理ちゃん」
「あ、亜美ちゃん」
「あたしも、頑張って練習したよ。美乃理ちゃんはどうだった?」
待っている通路でステップをしてみせた。
自分でワン、ツースリーとリズムを取りつつ教えてもらった踊りだ。
「も、もちろん、やったよ」
美乃理も立ったままで柔軟をしてみせた。
「そっか。楽しみだね」
(やってなかったら取り残されるところだった……)
美乃理にも忍とだけでなく新しいクラブ仲間ができてきた。
この前の練習で稔に話しかけてきたこの神田亜美がそうだった。
活発な様子はさやかと同じだった。
着替える時、亜美は靴と靴下を脱いだ後に、素足に何かを付けていた。
「ねえ、美乃理ちゃん。これ見てよ」
足下を指さした。
亜美の小さな足のつま先がベージュのもので覆われていた。
踵にゴム紐をまわして止め、つま先を包んでいる。
「あ、ハーフシューズだね。亜美ちゃん」
「今日、これ買ってもらったんだ。その方が足が綺麗に見えるし、つま先痛めないようにママがつけるのがいいって」
確かに周りにも、ハーフシューズを付けている子が何人かいた。
それを見て美乃理は思い出した。正愛学院の先輩達も穿いていたそれを。
新体操をやっている女子はだいたい足につける。
その方が足が綺麗に見える。
「どうなのかな?」
自分もつけるべきかどうか。
「きっと付けたほうがいいと思うよ」
やがて始まった練習は、前回からさらに活発になった。
これまでにやったようなバーに掴まって足をあげたり戻したり、また手拍子に合わせてステップを踏んだり、繰り返し足を軸にして回転をさせたり。
基本的な動作の繰り返しだった。
その度にコーチから注意が飛ぶ。
体が傾いたり、姿勢が歪んでしまったりしている子に指導がいく。
前回、身体能力を現在トップ評価の麻里と競ったが、今日はうってかわって美乃理は何度も注意を受けた。
「ほら、美乃理ちゃん、足をもっとまっすぐにあげなさい」
「首が垂れさがってきているわ。きちんと前を向きなさい」
昨日読んだ本に書いてあったことを美乃理は思い出す。
新体操は最初は基礎的な練習の繰り返しだ。
ひたすら柔軟性を鍛え、感覚を養うことが大切。
それが美しさに繋がる。
美しくなければ、どんな素晴らしい技も駄目。
美乃理にとってはもっとも難しい課題だった。
「膝が外に曲がって男の子みたいな姿勢になってるわ」
「は、はい……」
ちょっと力を抜くと厳しい注意がすぐに飛んでくる。
(難しい)
男の子の癖が知らず知らずに出ているようだ。
気合を入れ直す。
鏡に向かって、片足をあげ、そのままバランスをとりながらもう片方の足をあげる。
一番大きく上がったそこで止めてポーズをとった。
脚を180度近くまであげれるのは、美乃理、そして麻里だけだった。
(どうしてだろう……)
同じようにやっているのに、麻里の方が圧倒的に綺麗だ。
柏原コーチはわざわざ美乃理のところまでやってきて注意をする。
「ほら、脚をあげるだけではなくて、つま先をまっすぐ延ばすのよ。床に足裏を向けるかのように意識しなさい」
姿勢を直すために、美乃理の足や腰の軸や捻りを修正していく。
(く……きつい)
沢山の注意でようやく綺麗になったが、まだ何かが足りない。
麻里に及ばないものがあるのだ。
「美乃理ちゃん、笑顔よ。怖い顔をしちゃだめ」
「あ……」
美乃理は鏡を見て足りないそれに気が付いた。
鏡に映っている幼い少女は可愛いピンクのレオタードを着て、見事なY字のバランスをとっている。なのに怖いくらいのしかめっつらをしていた。
「美乃理ちゃん、まるで疲れきっている子や、悩んでいる子よ」
「女の子は笑顔が大事よ。女の子を美しくしてくれるの。笑顔は自分も他人も幸せにする魔法なのよ」
美乃理は思い出した。
正愛学院新体操部の先輩達の演技はとても眩しかった。
いつも眩しい笑顔を浮かべていた。
先輩たちもきっとそうだったんだ。
あんなにきつい練習をしていて辛いことが無いはずは無かった。
なのに演技をしている時も練習の時も笑顔だった――。
美乃理は横を見た。横には同じように水色のレオタードを着た少女がやはり美乃理と同じバランスを取っている。
ポーズは一緒だ。だが、よく見ると麻里は涼しそうに満面の笑みとはいわないまでも微笑をしている。
曇っている辛そうな美乃理と麻里では、きつくて疲れ果てている渡り鳥に、優雅に泳ぐ白鳥の違いがあった。
そうか……表情も演技の一つなんだ。
(笑おう、笑うんだ――)
美乃理はようやく、ぎこちないが、確かに笑みを浮かべた。
「美乃理ちゃん、いい顔になったわ」
美乃理は鏡に映った美乃理を見た。
さっきまでの悩ましい苦しさが潜み、今美乃理は優雅な白鳥になった。
笑顔の大切さに、気がついた。
笑顔は、女の子を美しく綺麗に見せる事なエッセンス。そのことを自覚させた美乃理に笑顔をようやく浮かべさせた。
「美乃理ちゃん、綺麗よ――」
まだまだ作り笑いだった。だが、美乃理は長いこと失っていた大事なものに気が付いた。




