第38章「美乃理(みのり)と雨の教室」⑤
花町小学校図書室のすぐ向かいにはトイレがあった。
そのトイレは一番学校の奥まったところにある場所なので、図書室を利用する児童しか使わず、普段は薄暗くひっそりとしていた。
稔が通っていた頃、その図書室前の女子トイレにはお化けがでる、とか少女の幽霊がでるとか噂があって特に女子は使いたがっていなかった。
実際男子だった稔は、あまり図書室を利用することはほとんどなく、したがって件の図書室トイレを使うことも無かったので気にしたこともなかった。
同級生の飯山達が、肝試しで放課後の暗くなってきた時に女子トイレに入って、見回りの先生に見つかって怒られた、という事件が起こったことはかろうじて覚えていた。
「発表会に……父さんも母さんも、健一も……」
健一が去ってしまった後も美乃理はしばらくその場に佇んだ。
ようやく立ち上がって新体操の本を本棚にしまった。
自分が今女の子になったこと、新体操を始めたことで、思わぬことが次々と起こる。
それらが一々衝撃だった。
「先輩、三日月先生……ボクは……」
つぶやきながら図書室を出て廊下にでると、ぐいと腕を引っ張られた。
クラスの山村という女子だった。
「美乃理ちゃん!」
「うわっや、山村さん!?」
引っ張り込まれたそこは、図書室前の女子トイレだった。
多分北向きで窓も小さいこともあるだろう、薄暗い、そのじめっとした感触があった。
正直 美乃理もあまりいい気持ちのする場所とは感じなかった。
何か出そうな雰囲気が確かにあった。
「ねえねえ、ケン君と二人で何しゃべってたの?」
ケン君とは健一のことだ。
健一と二人っきりで、長々と話していたのをどうやら陰で様子を伺っていたようだ。
興味しんしん。
目が爛々と輝いていた。真剣な眼差しであることがわかった。
これは……下手に取り繕わない方がいい。正直に話した方が良いような気がした。
(そうか、二人きりで話すためにここに引っ張り込んだのかあ)
「仮面戦士のこと……」
「あ、昼休みに話してたやつだっけ……」
あまりピンとこないようだった。男子の必須科目であるが、山村さんの家族は、お姉さんはいるが残念ながら女家族だった。
「健一君がお話ししてくれたんだ。すっごく好きみたいだから持ってるカード他にも見せてくれるっていってたんだ」
美乃理ちゃんだけ、ずるい。あたしも混ぜてくれれば良かったのにといいたげにしていた。
「でも男の子みたいだって言われちゃったよ」
「え? そんなこと言ったの?」
「でも謝ったから、気にしてないよ」
「へえ……あたしも見てみようかなあ。でもお姉ちゃんが見せてくれないんだよねえ」
仮面戦士の裏番組でやっているタレントの朝番組を思い出した。
そっちは女の子用のアニメをやっている。
「ありがとう、美乃理ちゃん」
話が終わると、さっさと用を済ませるわけでもなく出て行ってしまった。
どうやらこのためだけにこの図書館脇のトイレにいたようだ。
美乃理は女子トイレに残される。遠くから昼休みで遊ぶ児童の声がするが、ここだけは静かすぎるほど静かだった。
お化けよりも、ここに潜んでいた山村さんと、引っ張り込んだ気迫にむしろ驚いた。
(お化けよりも迫力あったかも、ね、はは……)
だが真剣な素振りだったのは確かだ。
ふと美乃理は思った。
(ひょっとして好きなのかな?)
(まだ小学生だから早すぎるよね)
とは思ったが……。
稔は、小学生の頃、異性のことなど意識をしなかった。
高学年の頃には、やたらとエッチなものに興味を示すのも男子にはいた。
稔も、まったくそういうのが無かったというのは嘘になるが。
まさか――。
昼休み終了の予鈴が鳴ったので美乃理は急いでトイレを出て教室へと戻った。
「起立! 礼!」
日直のかけ声とともに、さようならの声が教室に響いた。
一斉に赤と黒を背負った児童が廊下へ雪崩をうつ。
外を見ると朝からの雨は小降りになっていたが、まだ、ポツリ、ポツリと続いていた。
美乃理も忍もレインコートを着る準備をする。
挨拶が終わるとさっさと男子たちは、出て行ってしまった。その中にサッカーボールを抱えた健一もいる。その背中を美乃理は眺めた。
今日は新体操クラブの練習の無い日だったので急いで帰らなくても良かった。
美乃理も忍もゆっくり帰る支度を勧めた。
「もう靴下もずっと濡れたまんまだよぉ、帰ったら取り替えないといけないねえ」
忍のぼやきに、美乃理もうなずいた。
長靴や合羽を着ていても少し水がしみてくるせいで、一日中じめじめした嫌な感触だった。
「ほら、美乃理ちゃん」
そっと美乃理の後ろに回って両肩に手を置いた。
「髪……」
忍が朝、ポニーテールに纏めて縛った美乃理の髪の形が乱れていたことに気がついたのだ。
「あっ」
美乃理も感じてはいた。髪がいつもと違う。湿気のせいだろうか、今日は髪がサラサラしない。長い髪にしているとこんなに天気で違うものなんだろうか。
「あ、ありがとう……」
「私もわかるよ、雨の日って髪が広がって上手く纏まらないんだよね」
慌てて髪を纏めているところに手をやった。確かに朝の時より結びが綻んでいる気がした。
「あたしがやってあげるよ、髪の毛長いと、結構大変だからね」
「うん……」
やりかたをようやく覚えたとはいえ、綺麗に纏めるには慣れておらず時間がかかるのだ。
「シノちゃんのようにした方がいいかなあ」
別に女の子だから髪は長くなければいけない、というものでもないと思う。
忍自身もおかっぱ頭だ。
面倒だからいっそ、と思ったからだったが思いの外反対される。
「え? 美乃理ちゃん、今の方が可愛いよ。絶対」
「そ、そうかなあ」
手慣れた手つきで、結んでくれた。
「はい、できたよ」
美乃理が直接やるより上手いかもしれない。少し触ってみてもポニーテールの結び目がしっかりとできていた。
「ありがとう、シノちゃん」
今度こそ帰ろうとした美乃理だったが、また忍が新たな話を始めた。
「美乃理ちゃん、図書室で建一君としゃべってたってね」
「え!」
図書館での出来事が忍の口から出たことに驚いた。いつの間に忍の耳に入ったんだろうか。
「そうだけど……どうしてわかったの?」
「うーん、あたしも村田さんから聞いただけだから……」
村田さんもどこから聞いたんだろう。少なくともあの場所にはいなかったと思うけど……。
「美佐ちゃんと村田さんは仲がいいからね」
「あ、そうか」
そこから広まったのであればおかしくは無い。
多分 美乃理と健一のことをしゃべったのだろう、と思った。
それにしても女子の情報伝達の速さには驚かされる。
どこで誰が何をしたのか、すぐに広まるようだ。気をつけないと。
正直に何をしゃべったのか、忍に全部話した。
新体操のことを調べるために図書館にいたことと、途中で建一がやってきたこととか、隠さずに伝えた。
「へえ、新体操の本があるんだ、あたしも今度行ってみようかなあ」
「ねえ、シノちゃん……こっちから聞いて良い?」
「なあに?」
「吉村さんって……健一君のこと好きなの?」
恐る恐る聞いてみた。
「うん、好きみたいだよ」
多分わからないだろうが駄目元で、と思った美乃理だったが、忍からあっさりと答えが返ってきた。
「え、そうなの?」
「これ、絶対内緒だよ。あたしもそう思って聞いてみたことがあるから」
「健一君は足早いし、サッカーも上手だしね」
単純明快な理由だった。
「健一君、いいっていう子他にもいるんだよ」
「そうなんだね……」
ひょっとして、健一はモテてていたのだろうか。
小学校の頃の稔には気づきもしなかったことだった。




