第36章「美乃理(みのり)と雨の教室」③
※この小説は男性から女性への性転換を題材にしています。それらの表現、描写がありますので、ご注意ください。
正愛学院の昼休みは1時間と長かった。
外に食べに行く生徒もいた。
「あら、稔君も来ていたの?」
新体操部練習場の脇に佇んでいた稔は、横にいつの間にか立っていた顧問の三日月に驚いた。
男子立ち入り禁止の場所に、唯一稔は入れる。
「い、いいえ。先生、それより……」
「ああ、いつも大会前はこうなのよ」
練習場の中央に陣取っている女子の集団に視線を送った。
五日後に大会を控え正愛学院新体操部の部員は昼休みも集まって練習をしていた。
急いで着替えたジャージ姿で、技やリズムに合わせた動きを繰り返し、少しでも感覚を研ぎ澄ませていた。
かけ声が響き、クラブやリボンがせわしなく行き交う。
体力だけでなく集中力も必要な新体操は、少しでも気持ちが乱れるとミスにつながるから、時間を惜しんで練習をする。
今日の授業が終わった後も、もちろん遅くなるまで練習だ。
まさに授業、食事、寝ること以外全てを新体操に捧げている状態だった。
だが見ていて爽やかさがある。みんな楽しそうで曇りが無い。
稔は首を捻った。
受験勉強に全てを注いで道を誤った稔と何が違うのだろう。
稔は疑問に感じていた。あそこに至るにはどんな境地なのだろうか。
「ねえ、稔君」
「は、はい!」
「あなたが女子部員だとして、もしあそこにいたら、一緒に頑張れるかしら?」
唐突な質問に稔は即答できなかった。
ありえない前提だから想像もできなかった
厳しさで辞めてしまう部員も多いと聞いていた。
僕が女子だったとして、あれに耐えられるのだろうか。
美乃理の脳裏にその正愛学院の記憶が急によみがえった。
ついこの間の出来事だが、遥か彼方のようにも思える日々の記憶だ。
強制ではなかったけれど、おおむねの部員の子が来ていたっけ。
給食を食べ終わり始めたころには、おしゃべりが始まった。
「でね、ママのシャンプーこっそり使ったらバレちゃって、凄く怒られたんだ。高いのよって」
「あーそうそう、ママのお化粧こっそり使うとすぐにバレちゃうんだ。ずるいよね、自分だけ……子供にはまだ早いって」
「へえ――」
自然、会話は女子とも多くなった。
おしゃべりにまだ慣れていない美乃理は聞き手に回ることの方が多かったがそれで十分だった。
共通の話題があると班の男子との会話もあった。
「この間の仮面戦隊、凄い面白かったなあ」
「そうそう、「第32話 謎の青戦士登場!!」わくわくしながら見てたよ。」
日曜にやっている戦隊物の番組で盛り上がり始めた時、会話に美乃理も加わった。
「あ、知ってる。これまで四人だったけど、メンバーが一人増えたんだよね、島崎君」
「え、御手洗、お前も見てるの? あれ、面白いだろ?」
見た、といっても稔だった昔に見たことを覚えているだけだ。昨日美乃理が見たわけではない。
その頃は熱心に見ていた時期だったので内容を詳しく覚えていたのだ。
「へえ、美乃理ちゃん、仮面戦隊みてるんだあ」
思いもかけず忍も会話に加わってきた。
「あたしも弟と一緒に見ているよ? この間ヒーローショーも見に行ったんだよ」
そういえば忍のところには弟がいたんだっけ。兄弟姉妹がいると、別に男子女子に捉われず色んなものに接することができるんだ。
さりげなく会話に加わってきた忍を見つめた。
給食の時間は終わりを告げたが、朝から降っていた雨は昼になっても止まなかった。
それどころかざあざあと音を立てて激しく地面を叩き付けている。
廊下で鬼ごっこをして怒られるのは、雨の日の定番。
多分男子は今日も走り回っているところを見つかって先生たちに叱られる。
稔も何度か怒られたことがあった。
だが、さすがに今美乃理は男子に加わって部屋の中で走り回る気にはならなかった。
多分服のせいもあるだろう。今日穿いているスカートは狭い空間で動き回るのに適していない。
それに美乃理はやりたいことが別にあった。
給食を終えた美乃理は、小学校の図書館にいた。
三階立て校舎の三階、一番奥の突き当たりにある大きな部屋だ。
ドアを開けて部屋に入ると本を読みにきたり借りに来ている児童が他にも結構いた。
「あ、あった……」
図書室では絵本、児童書、歴史マンガが人気で蔵書もほとんどそれらが大半だ。ちょっとした小説も結構ある。
でも専門書・解説書は本当に少ない。
その小さな一角、やっぱりサッカーや野球、バレーボールなんかの本が多い。でも一冊だけ、新体操の本が奇跡のようにあった。
タイトルは「新体操の基礎トレーニング」。ごく初歩的な内容のようだったからちょうど良かった。
美乃理はその本を棚から取り出すと、椅子に腰掛けてページを開いた。
まずは基礎的な事柄に目を通した。
競技としての新体操のルール。
マットは十三メートル四方。その中で演技を行う。
手具は、リボン、フープ、ロープ、オール、クラブなど。
一分半の時間でリズムに合わせて舞う。音楽は激しいものではなく優雅なものを。
その中でいくつかやらなければいけない技を加えながら自分の演技を見せる。
単なるテクニックの他にも優雅さ、柔軟性なども見られる芸術性も採点される。
リボンは床に着けてはいけない。
ボールはつかんではいけない。
などなど……。
美乃理がこれまで知っていたこともあったが、
サッカー野球と違ってはっきりとした勝ち負けがあるわけじゃない。
学校の試験で良い点数を取ればよいというわけではない。
いかに審判に印象を与えるかも重要。美を競うスポーツである。
これが女の子の……新体操なんだ。
もっともっと勉強しないと。身につけないと。
「へえ、御手洗も図書館に来るんだ」
本を読み入っていた美乃理に聞き覚えのある声がした。
「よう、美乃理」
「健一!?」
美乃理の腰掛けている椅子の横に座ったのは健一だった。思いがけず健一とまた遭遇する。
おそらく雨で運動場で遊べないので、来ているのだろう。手には借りた児童書があった。健一が図書室に出入りしているイメージがなかったので意外に思った。
何で声をかけたのだろう、と思っていたら健一は急に辺りを伺う。
「ほら、せっかく会ったから見せてやると」
こっそりポケットから取り出したのは、一枚のプラスチックのカードだった。仮面戦隊のカードだ。
しかも主人公の戦士レッドとヒロインの二人が映っている……。
通常は一人しか映っていないカードに二人。
いわゆるスーパーレアカードという奴だ。
「わあ、凄い。レッドと二人が一緒だ」
いかにこのカードが凄いか説明無しに理解した美乃理に、健一は嬉しそうに笑った。
見せた甲斐があった、とさらに会話が弾む。
「これ、いつものスーパーじゃなくて従兄弟のとこにいった時に入った店で手に入れたんだ」
「へえ……貰ったんじゃないんだぁ。初めて見るよこれ」
手に入れた時、店で大声で騒いでしまったという。
「お前も仮面戦隊、見てるってきいたからさ」
「う、うん……」
本当はちょっと違う。今は見ていない。
「さっきの会話……健一も聞いてたんだ」
「ああ、仮面戦隊好きなら絶対見せてやりたかったんだよ」
「ありがとう、健一、こんな大事なもの見せてくれて」
「ああ、また見たくなったらみせてやるよ。他にもいろいろあるからさ、なんなら家にきたら全部見せてやるよ?」
「へえ、見たいなあ」
「でもさ、意外だな。うちの母ちゃんも興味なさそうだし、従兄弟のとこの姉ちゃんもつまらないって言うんだぜ。女って嫌いなのかと思ってたよ。でも御手洗は違うしなあ。言葉遣いも男っぽいところもあるし……」
「そ、そんなこと無いよ」
「御手洗って、本当は中身男なんだろ?」
「……!!」
何気ない会話から飛び出した健一の意外な言葉に美乃理の体が固まった。




