第29章「美乃理(みのり)とクラブの練習」③
※この小説は男性から女性への性転換を題材にしています。それらの表現、描写がありますので、ご注意ください。
邸宅の前に黒塗りの高級車が停車した。
うやうやしく運転手が車のドアを開く。
よく磨かれ黒光りのするローファーで車外に降り立ったのは、一人の女子小学生だった。
私立小学校の制服に身を包んでおり、ブラウスの胸元に水色のリボンがあしらわれ、紺のスカートがふわっと揺れる。
ランドセルも赤ではなく茶色の革でできた、学校指定の特注品。
背後で運転手の男が、バタンとドアを閉めた。
少女は急ぎ足で、しかし悠然と綺麗な姿勢で歩き邸宅へと入っていった。
龍崎宏美は、この家の住人であり、社長の御令嬢。
「おかえりなさいませ、宏美お嬢様」
出迎えたのは、家政婦姿の落ち着いた初老女性一人だった。
「婆や、今日は校内保健委員会で遅くなったわ。練習の準備をお願い」
「はい、宏美お嬢様。準備はもうできております」
長い廊下を婆やと呼ばれた家政婦を連れて歩く。
「学級委員なんてやるものではないですね。でも、これも……私に与えられた試練ですから」
自嘲気味に笑った。
「自分も他人も女性も――多くの人を傷つけた私が今は模範生徒なんて皮肉ね……」
ひっそりとした邸宅に鳴き声が響いていた。
廊下の奥の方からだった。
宏美は、誰の姿も見えない奥の空間を見つめた。
「また、義雄様の泣き声が……」
「弟は……そう、また学校でいじめられて帰ってきたのね。男の子は大変ね」
宏美は自嘲気味に呟いた。
「お嬢様……慰めに行かれますか? 義雄様も喜ぶと思いますが」
首を振った。
「……お継母様がつきっきりでいらっしゃるのでしょう? 行かない方がいいわ」
「そうですか。わかりました」
あの継母が上手に男の子の苦難と悩みに対処できるとは思わないが、さりとて自分が余計な手出しをしない方がいい。
宏美はその幼い容姿に相応しくない大人びた判断をした。
自室に一端入ると、すぐに私服へと着替える。
脱いだ制服をたたみ、靴下も履き替える。
クローゼットには、たくさんの洋服が収納されていた。
そこから、迷うことなくこれから向かう場所に必要な衣服を取り出す。
部屋に備え付けられている鏡に向き合い、手慣れた手つきで手速く髪を整える。
ふと、宏美はその手を止めた。
「あと二年。母さん、オレ……もうすぐ母さんと同じ正愛学院に行くよ」
その顔はわずかに少女よりも少年らしさがあった。
宏美は、髪を溶かしながら机の上に立てかけてある写真を見つめた。
写真には微笑む若い女性が写っていた。
婆やと呼ばれた女性は、宏美に指示されて用意したスポーツバッグを持ち、部屋の外で畏まっていた。
「どうぞ、これを」
「今日は、絶対に休めないわ。どんなことがあっても」
美乃理は気が付いた。
レッスンはそのほとんどが、基礎的なものだった。
ごく簡単で、ほぼ全員ができるような動き。
ただ時折、難しいものもやらせようとする。
(ひょっとして、レッスン生の選抜をしているのだろうか……)
もちろん、できなかったからといって責められたりとかはしない。
頑張れば褒めてくれる。
「わあ、凄い」
美乃理の周りにいる女の子たちが、息を呑んだ。
新しい動作のお手本を柏原コーチが見せてくれた。
立ったまま、そのまま背から後ろに倒れてエビぞりの状態のブリッジをつくる。
さらにそこから回転して、起きあがる。
ほぼ一回転に近い技だった。
「すごいっ」
クラブの女の子たちは高度な技の動きに皆目を奪われ歓声をあげた。
美乃理は思った。
(これ、先輩がよくやっていた本格的な新体操の技の1つだ)
これはすぐには美乃理もできないと思った。
指示されたのは、まずは床に寝てブリッジを作り、そこから起きあがる練習だった。
いくつもの動きが重なって完成する技らしい。
この一番最初の技もできない子がほとんどだった。
「うーん……だめ、できないよう……」
その子のレオタードのスカートの裾がめくれる。
お臍を突き出すようなおかしなポーズだ。
一生懸命、顔を真っ赤にし、中にはしかめっつらになってまで一生懸命になっても難しい。
可愛いレオタードが台無し。
「ううっ」
忍もうめき声を漏らしながら、必死にやろうとしているが、体がそこから動かない。
「ほら、忍ちゃん頑張りなさい」
先生が手をかす。忍の背中を支え、起きあがる補助をする。
忍の体は、支えられてなんとか起きあがった。
「わあ、できた……」
補助付だったのでちょっと複雑そうな顔をした。
(やってみよう)
美乃理も一端床に仰向けになって、ブリッジを作る。
ちょうどエビ反りになったところでポニーテールが逆さまに頭からぶら下がる。
「く……」
思った以上に力がいる。恥ずかしいと感じる余裕すらない。
「美乃理ちゃん、頑張って」
小さく忍の声がした。
亜美の声もしたような気がした。
他の子たちも美乃理に頑張れ、頑張れと声をかける。
小さな体は非力で、しかも、ここからどうやれば立てるのかわからない。
(やってみたい……やってみせたい……)
その直後、美乃理は不思議な感覚に覆われた。
誰かに見られている。
(この視線の正体はなんだろう?)
ブリッジをやりながら思う。
忍でもない亜由美でも柏原コーチでもない。麻里かと思ったが、それとも違う。
麻里は麻里で、同じようにブリッジを造っている。相変わらず姿勢は綺麗だがやはり難しいようで、一生懸命だった。
(誰が……ボクをみてるんだ?)
美乃理は逆さまになった世界を通して見える光景から、その正体を探した。
そして体育ホールの隅っこ。
その視線の正体を見つけた。
「!?」
急に美乃理は、バランスを崩した。
必死に維持してきた状態が崩れ、床に寝ころんだ状態になってしまう。
ツカツカと、その子が寄ってきた。
レオタード姿のその少女は、確かにクラブの子だった。
でも美乃理や忍よりも、一回り体も大きく、やや膨らんだ胸や括れた腰をしている。足にはハーフシューズを穿いている。その容姿から思春期を迎えてる小学高学年の子に見えた。
とても綺麗だ。
美乃理よりもずっと長くサラサラの黒髪を綺麗に後頭部で纏めている。後でそれがシニヨンという言葉を知った。
美乃理は、その子に見覚えがあった。
「ふふ、頑張ってるわね、御手洗美乃理さん」
「え? 龍崎、さん……!?」
起き上がってもう一度その人をよく見上げた。
間違いなく龍崎宏美だった。花町新体操クラブ選手育成コースの龍崎宏美。
「わあ……龍崎さん」
他の子も一斉に騒ぎはじめた。
彼女がこのクラブの期待の星だということは、キッズコースのメンバー間でも既に広く知られるようになっていた。
その龍崎宏美が、なんでここに。
(しかもなんでボクに話しかけてきたのだろう?)




