第28章「美乃理(みのり)とクラブの練習」②
※この小説は男性から女性への性転換を題材にしています。それらの表現、描写がありますので、ご注意ください。
正愛学院の特進科の授業は進度も早く内容も高度だった。
ついていけない生徒は置いてけぼり。
「ふわああ……」
ある日、数学の授業中に大きく欠伸をしてしまい、慌てて辺りを見回した。
明日はテストで緊張感もあった。その最中の間の抜けた声に、周囲からは笑い声も起こった。
「またたぜ……御手洗のやつ」
「集中力かけてんな」
黒板に数式を書いている教師は気づかない。
慌てて、教科書に目を戻した。
そしてもう一度出そうになった欠伸を必死にかみ殺した。
大きな欠伸は今回だけではなかった。
ずっとそうだった。受験勉強を始めた小学校高学年から、中学、高校の今にに至るまで。
毎日、夜遅くまでの塾通い。常に寝不足だった。
さらに土日も、塾通い、模擬試験。絶え間なく続く勉強することもあった。
日中は眠気に覆われ、なんとなく気が晴れない。陰鬱とした気持ちに覆われる。
休み時間、居眠りすることもしばしばあった。
気持ちのよい眠りからはずっと遠ざかっていた。
「稔、体を動かした方がいいぜ」
よく稔のとなりに座っていた男子に言われていた。
あれは、誰だっけ……。
レッスンで身体を動かす美乃理の脳裏にふとあの時のことが蘇った。
あの時と比べて今はなんて気持ちいいんだろう。
体を動かすそれだけで、心地よい快感だった。
恥ずかしい気持ちも薄まってきた。
周りの皆が真剣に練習をしているのだ。それが美乃理にも良い影響を与える。
「はい、いったん止めて」
女の子たちの前で指示を出すコーチが手をパンパン叩くと同時に声を響かせる。
それまでやっていたステップの練習を止めた。
「次の練習に映ります」
ただ体を言われたとおりに動かすだけでは、なかった。
小さな子たちが飽きないように遊びも取り入れた工夫をしていた。
「さあ、皆近くの子と組んでペアを作って」
ペアという言葉がわからない子もいた。
二人組を作るとにわかにざわざわした。
忍と組もうと思ったけれど近くにいる子が、美乃理の手をさっと握った。
「ねえ、御手洗さん、一緒にやろう――」
「え?あ、うん」
驚いてその子の顔を見た。
「あたし、神田亜美、よろしくね。花町南小からきてるの」
神田亜美ちゃん。その名前をすぐに頭に刻む。
美乃理の隣の小学校だ。麻里とも違うところから来ている子だ。
少し短めの髪の毛を後ろで縛っていて、美乃理のポニーテールと少し位置が違うだけ。
レオタードは美乃理と同じピンクだが、白い斜めのラインが走っている。
この子と美乃理は組むことになった。
そして、ちょっとしたゲームをやったり競争をした。
「さあ、今組んだ相手は、あなたのパートナーです」
始まったのは二人で手を繋いでの前転をして競走。練習場を何度も往復した。
亜美は機敏な子で、身体能力も美乃理に負けていなかった。
「頑張れ、美乃理ちゃんたち!」
忍の声援を受けながら、美乃理と亜美は二人で協力して息の合った動きができた。
前転が終わったら片足でぴょんぴょん跳びながら戻ってくる。
「一位は朝比奈さんの組」
コーチが一位の組をたたえた。
手を挙げて麻里が喜んだ。
「やったわ!」
麻里の組に負けたが、美乃理たちは、二人は二位につけた。
次はコーチに指示された動きをしつつ、ボールをキャッチしあう練習をする。
他者との協力性を高める練習であった。
そこでも美乃理と亜美はぴっちり息の合う動きができた。
見事に亜美の投げたボールを一度回転した後にキャッチ。
麻里は上手くいかないようだった。
「もっとタイミングよく渡してよ」
相手の子にくってかかった。
「こちらは美乃理ちゃん、亜美ちゃんペアの勝ちね」
クラブ生たちの拍手を受ける。
「やったね、美乃理ちゃんが」
「ううん」
亜美が喜びの笑顔で美乃理の両手を握った。
そして麻里は美乃理に一歩譲ってしまった不満げな顔を隠していなかった。
忍もその様子を見て、意味深な微笑みをしていた。
「美乃理ちゃん、流石だね」
麻里と美乃理の初めての対決と後までずっと言われつづけた。
それが終わると壁際のバーに並ぶように指示される。
片手で掴みながら、先生の指示された体の動きを繰り返す。
何度も何度も足を前へ後ろへ。手拍子とかけ声。
そして足を限界まで上げる。
どの子も一生懸命だ。
「あ、あたし、駄目……」
「うーん、もうできない……」
足が十分、あがらない子もいる。
美乃理は他の子より高く脚をあげることができるが、まだまだ足の伸ばし方や姿勢の取り方がおぼつかない。
「美乃理ちゃん、バランスがとれてないわ」
「は、はい」
鏡に映った姿をみると姿勢の悪さは歴然だった。
鏡に映った美乃理はレオタードのスカートから伸びた脚が、高く上げられている。
けれども、なんともバランスが悪い。
よろよろふらふら。
それはそれで子供らしい愛らしさがあったが、優雅さとは違っていた。
「力の入れ方がよくないの」
(このこと……かな?)
コーチに指示されそれを修正する。
(こ、こうかな)
よくない部分を少しずつ、直す。
自然、つまさき、指先、間接まで力が入る。
もっと足を高くしようとしたらよろめいてしまった。
もう一度鏡の自分の姿を見て思った。
小さな女の子が必死になっている。
レオタードに包まれたその女の子は戸惑いや恥じらいが顔から消え、真剣な表情そのものだった。
「だいぶ良くなったわ、美乃理ちゃん」
気がつくと先生も、美乃理を見ていた。
「この前よりも体の軸がぶれないで、しっかりしているわ。その感覚を覚えていくといいわ」
まだまだふらつきそうになる。もっともっと練習をしないと綺麗な動きにならない。
だが柏原コーチの前よりも確かに成長したという一言は美乃理の励みになった。
体のバランス感覚を磨くことが大事だ。
「わあ、やっぱり麻里ちゃん、凄い」
バーに悪戦苦闘するレッスン生たちが皆歓声をあげた。
麻里が綺麗に足を上げていた。
比べ物にならない。
美乃理よりも姿勢も動きも洗練されている。文字通りつま先から頭のてっぺんまで揺るがない。
見事なバランス感覚だった。
「流石、バレエをやっていただけのことはあるわね。みんな、麻里ちゃんのをよくみなさい」
コーチも麻里の実力を認めた。
「凄いね、麻里ちゃんは」
美乃理にも麻里の綺麗でしなやかな動きがより美しさや可愛さをより高めているように感じた。
麻里の方が一枚上手。それはどうやら確かなことだった。
ゲームにちょっと勝った程度ではまったく比較にならない差がある。
「……」
美乃理の胸に、微かに熱い物が灯った。
まだまだ頑張らなければいけない。
目標や競争相手がいるというのを実感した。
今は美乃理は負けている。




