第23章「美乃理(みのり)と初めてのレッスン」④
レッスンから帰った美乃理の家は、まだ明かりが灯っていなかった。
恐らく誰もいないのだろう。
玄関先に立った美乃理は、誰もいない家の扉を開ける前に後ろを振り返った。
「送ってくれて、ありがとうございます」
門扉の前に立っている。忍ちゃんのお母さんに頭を下げた。
初めての新体操教室からの帰り。
既に暗くなっていたため、忍の両親が送ってくれたのだ。
「いいえ、女の子一人で返す方がむしろ心配よ。遠慮なく言ってちょうだい」
忍の母は優しく手を振ってくれた。
「じゃあね、美乃理ちゃん。これからも忍と仲良くしてやってね」
その横で忍の父親も同じく手を軽く振っていた。
「はい」
美乃理も笑顔で返した。
忍の親のイメージに合致する大らかそうな父親だった。
「じゃあね、美乃理ちゃん」
そして、その横で、忍も美乃理に手を振っていた。
「また、明日ね、シノちゃん」
美乃理も大きく手を振って返した。
忍たちが見えなくなるまで見送った後に、美乃理はようやく家の鍵を開けた。
しんと静まり返っていた。
やはり中には誰もおらず真っ暗だ。
電気を点ける。
「ふう……」
本当は着替えたり片づけをするべきなのだろうが……。
そのままリビングのソファに、練習で疲れた体を投げ出し横たえた。
美乃理は、今日のことを思った。
ただ一言、楽しかった。
初めての新体操。
稔の時にはただ見ていただけだったもの。
実際にやってみると違っていた。
新しい世界があった。
こんなにも、熱くなれるなんて。
新体操は予想以上だった。
目を閉じてもう一度レッスンを思い起こした。
レオタードに体を包まれて、可愛らしい格好で、めいいっぱい体を動かす。
一緒に動く周囲の子たち、そして見学する大人たちに見られる。
ドキドキした。
これまでに感じたことがなかった。
稔の人生では決して感じることのなかった体験だった。
女の子だけが感じられる、あの感覚の余韻が体から消えない。
あの心地よい快感が体に刻み込まれている。
なんて凄いものなんだろう。
女の子。新体操……。
新しい世界に美乃理は、確かに足を踏み入れた。
(でも、この後、ボクはどうすればいいのだろう)
そのうちに男子の稔に戻って、また進学を目指して受験勉強の日々になるのだろうか。
女の子として生きていくのだろうか?
もし、このまま女の子のままだとしたら、小学校、そして、中学校へ進学して高校生になって……ずっとその先は。
まったく想像もつかない。想像もできない世界だ。
一体これから先ボクはどうなるのだろう。
考え込む美乃理の脳裏に、ふと一人の少女の姿が思い描かれた。
一心に新体操を舞う少女。
たった一人、多くの人が見守る中、まるで意に介さないようにボールとともに演技をする。
龍崎宏美。
とても綺麗な人だった。
まだ小学生だけれど、見事に成長した体。
美乃理も見とれてしまった。
自分は、このまま過ごしたらあんな風になれるのだろうか。
これからどうなるのかわからないが、美乃理は思った。
女の子としているのなら、ああいうふうになりたい、と。
そして、そのためには育成コースに選ばれることが必要なのだ。
(ボクは……)
やがて、玄関先でゴソゴソ気配がした。
「あら、美乃理、もう帰っていたのね」
早く仕事を切り上げた母さんが帰ってきたのだ。
一日仕事で大変だったのか、やや疲れた顔だった。
「どうだった? 美乃理」
早速レッスンの様子を聞いてきた。
「うん、凄く、楽しかったよ」
「そう、よかったわね。後で話を聞かせて頂戴。今、夕食の仕度をするから、待っててね」
「手伝うよ、母さん」
「ありがとう。でも美乃理、今日練習に使った服、きちんと洗っておくのよ」
洗面所の方から、母さんの声が聞こえてきた。
「あ、ごめんなさい、母さん」
洗い方、どうやるんだっけ。
ジャージ、それにレオタード。洗っておかないと、次の時に大変なことになりそうだった。
汗が染みたままだったから。
ちゃんと洗い方を調べておかないと。
美乃理は脱ぎ捨てて畳んであったレオタードを、スポーツバッグから取り出した。
今日一日着込んだレオタードは、ピカピカだった昨日に比べて、少し色はあせている。
だが、確かにこれを自分が身に纏って使った証だ。
美乃理は、再び手にした時に思った。
これを着た時の不思議な感覚に包まれるような、あの感覚をもう一度味わってみたい。
美乃理は、また次の練習が待ち遠しくなっていた。
美乃理が住んでいる住宅街からやや離れた街はずれに一際広い敷地と大きな洋風の建物が立っていた。
周囲は高い塀で囲まれ、その中に広大な庭と、古い洋風のレンガ造りの館が建っていた。
広大な敷地内にはよく手入れされた木々や鯉が放たれた池まである。
その大きな建物の長い廊下を、少女はいそいそと歩く。
「お帰りなさいませ、宏美お嬢様」
初老の家政婦のいでたちをした女性が、少女を出迎える。
頭を下げてすれ違いざまに、声をかけた。
「お疲れさま、婆や」
少女は、簡単に挨拶を返す。
龍崎宏美。この屋敷の主、そして、次期龍崎グループ会長に決まっている御曹司の娘だった。そして、老女は、幼い頃から宏美の身辺を世話する婆やだった。
「食堂に夕食の用意ができております」
「ありがとう――お継母様は?」
「今日は義雄さまをお連れして外へゆかれました。帰るまでは、もうしばらくかかるでしょう」
「そう、外食ばかりね。あの人はいいけれど、義雄は……」
宏美は、まだ幼い腹違いの弟を慮ばかった。
継母の孝子は、溺愛する実子の義雄を連れていく。
龍崎家の後継となる資格のある男子たる義雄を。
(あの子に押し付けてしまった。でもわたしにはやるべきことがあるから……)
心で宏美は呟いた。
「お父様は?」
「また今日もお仕事で遅くなるとのことです」
宏美にとってはいつものことだった。
「そう……」
顔色一つ変えず、一言だけ発しただけで、再び歩き出した。
父はほとんど家にはいない。
財閥を束ねる立場である父が多忙なのは、知っている。
だが、仕事以外に帰ってこない理由があることも知っている。
父が女性関係にだらしがないことも知っている。
(これも、前の時と同じ……)
宏美は全て知っていた。
けれど……。
「まあいいわ」
今の自分にとってはどうでも良いこと。
宏美は、その足を食堂へと向ける。
広い食堂と大きなテーブルの上には、一人分の食器と皿が用意されているだろう。
だがそんなことよりも、宏美の頭には、今日の新体操教室で見た一人の少女のことが思い起こされた。
初めてクラブに参加した幼い少女たちに混じって確かにいた。見逃さなかった。
小さな体を、ピンクのレオタードに包まれて、不安そうで、ぎこちない表情を浮かべながらも、新たな世界へ踏み出そうとしている、少女の眼差し。
その少女だけ、他の子と違うものを持っていることにすぐに気がついた。
あの子の名前……次回のレッスンで、会ったときに確かめておかないと。
「次に会うのが楽しみね」
宏美に初めて微かな笑みが浮かんだ。




