第163章「合宿を終えて」
蝉の声が響いていた。
合宿は終わったが、夏休みはまだまだ続いていた。
「おはようございます! 御手洗先輩! もう外やばいくらい暑いですよ~」
「本当、まいっちゃいます」
一年生たちの元気な声が練習場に響く。
ここのところ新体操部の最初の挨拶は暑さに関することから始まる。
外からやってくるときは、どの顔も湯だったような赤い顔と汗。
夏は真っ盛り。
外の気温が朝から三十度を越えているとテレビのニュース番組でもやっていた。最高気温も三十五度に迫りそう。熱中症に注意。水分はこまめに。
そんな中でも、正愛学院の体育棟の一角、新体操部の練習場に部員が次々に現れる。
夏休み明けに控えている各種の大会、発表会に向けて練習は続いていた。
「ああ……涼しい生き返るわあ……」
流石に屋内は冷房は稼働している。
正愛学院は設備が月見坂学園のように最新に整えているとまではいかないが、それでも冷暖房は完備している。
「お、おはようございます! 先輩!」
その後すぐに好子も、やってきた。練習前からタオルで汗を拭っていた。元々汗かきの体質ではあったという。
「気をつけてね。きついと思ったら、ゆっくり休んでいいから」
「あ、ありがとうございます、御手洗先輩」
早くやってきた後輩部員たちはそれぞれ準備に勤しんでいる。
適度に保たれているとはいえ、熱気がどこからかともなく入ってくるのか、半袖、スパッツの涼しく動きやすい姿でも時折汗を拭う。
マットを用意し、手具など諸々の道具を倉庫から出す。
先輩たちの指示を待たずとも、体を動かすようになった。
「おはようございまーすっ」
夏休みの暑苦しく緩んだ空気を切り裂くように元気な声が練習場に響いた。
少し遅れてジャージ姿でやってきた和穂の頭には、寝癖がまだばっちり残っていた。一生懸命直した形跡は認められる。
元気な挨拶な分、そのアンバランスさに、くすくす笑いが起きた。
「和穂、ほら」
「え? ああ、なおしたのに」
慌てて頭の髪を一生懸命押さえる。
だが、バラバラだった一年生たちの気は一つにまとまりつつあった。
和穂はそれに一役かっている。飾り気がなく、練習に熱心で、少しずつ着実に力をつけている彼女は一年生の象徴であった。
合宿を終えて数日が経過した。練習はもちろん途切れず続いていた。
お盆休みで帰省している部員も多く、練習に参加している部員は普段の半分に満たない。
「今日はこれだけね。まあこの時期だからしょうがないか」
「はい」
部長の高梨が部員を見渡した。
流石にそこまで引き留めて練習に来いとは、練習に厳しい正愛学院新体操部でもいっていない。休みは適宜取って良い。
ただし、来ない部員たちには時間をみつけての練習課題を与えていた。
部屋でもできる柔軟や、歩いているときにちょっと体を動かしたり姿勢を意識するコツを教えておいた。
少しでも体に覚えさせ感覚を鈍らせないためだ。
「みんな、そろそろ始めるよ」
高梨部長が、姿を見せている部員に声をかける。
少ない人数のため練習場はいつもよりもゆったり見えた。
むしろその方が落ち着いてできる。
「楽しかったね」
「うん、疲れたけど……また行きたいね」
まだ合宿の余韻が残っていて、そこかしこで合宿の思い出に浸る会話が交わされていた。
王鈴の生徒とやりとりが続けている子も多かった。
一人一人は目に見える上達はなかったとしても、皆で一つのことに打ち込んだ。そしてやりとげたことで士気は高まっていた。
準備していた部員たちはささやきあいながら、ばらばら部長の前へ集合する。
「さあ、いくよっ」
美乃理も声をかける。部長ではないが、既に後輩を導く立場であることは自覚している。
整列した後、いつもの柔軟が始まる。
「はい、よろしくお願いします」
上級生たちからのかけ声に一年生たちから、元気の良い返事があった。
一番大きな声は、好子だった。
以前はか細い、自信のない声だったが、今は声もしっかり大きくでていた。
合宿が終わっても怠けず、夏休みの練習も欠かさず参加している。
大きな大会にエントリーできるほどの実力まではないが、夏休み明けに行われる学園祭での発表に取り組んでいる。
遅くとも一歩一歩進んでいる。
悩んでいた体型も、毎日見ている者は気づけないが、久しぶりに会った人からは、見違えるようにスリムになった、また元気で明るくなったと言われたという。
そのことがより本人のやる気を引き立たせている。
美乃理はそんな好子の姿を見て、安心した。
一年生が入部して以来様々なことがあった新体操部も以前とは部内の雰囲気は見違えるほど変わっていて、やる気に満ちていた。当然くだらないいざこざなどは無い。
肝心の実力もつけつつあった。
わかりやすいところでいえば、姿勢、手や足の動きが目に見えて向上している。
細かいところまで意識するようになり、動きや技に緩急がついて、新体操らしくなった。
辛口の清水敦子が、最初はお遊戯会のダンスと揶揄していたが、それを脱しつつあった。
鉄は熱いうちにうて。
打ち込む声やざわめきが体育館に響く。
「みんなこの調子が続けばいいんだけど」
美乃理も一年生たちから刺激を受けていた。
自分も頑張らないと。
美乃理たち上級生の頑張りを見て下級生が頑張り、それをみてさらに美乃理たちも気合いが入る。
部に良い循環が働いている。これこそが合宿の真の成果かと思えた。
合宿が終わっても合宿は続く。
「王鈴とか他校の厳しさをみたから、これはまずいと思ったのかね。ダンスだったからね」
敦子は一年生の指導をしつつ笑っていた。
そして、ペアやグループを作らせて、目標や課題を的確に指示する。
競わせて、お互いを伸ばしていく。
「ほら、和穂。お相手の気がついたところを言ってあげて」
お互いの気づかない部分を補わせる。
「なんでもいいよ。笑顔がよかったとか、こういう癖があるとか」
言われた和穂は真剣に考え込む。
「え……っと、藍子ちゃん、踊っているときの笑顔はいいんだけど、何か技を繰りだそうとするときに一瞬躊躇しそうになってます」
「え? 本当? そういうふうに見えている?」
「うん、目が不安そうになるから、もっと思い切ってやった方がいいよ。そこだけ動きが鈍るから」
指摘された当人、大久保藍子はそうだったのかと頷く。
「そうそう、その調子」
美乃理も敦子の指導の上手さに感服した。自分にはできない技だった。
自然後輩たちも指導を仰ぐ時には敦子を頼る。
「上手だね、あっちゃんは。後輩の扱いの上手さは、どこかで学んだの?」
一人で隅々まで常時観察することはできない。その上自分の練習もしなくてはいけない。
敦子は上手に動かす方法を心得ている。その要領の良さはただものじゃない。
「うん? なんのこと?」
「グループにわけて目標を作らせて、お互いの課題を指摘しあうって、野球部がやってるやり方と同じって聞いたことあるけど。うちのクラスの男子に聞いたんだ」
「へえ、そうかねえ。みのりんも物知りだね」
「またはぐらかそうとする……」
敦子は、あははっと誤魔化すように笑った。
「あーあ、ちょっと風にでも当たってこようかな。後はちょっと任せるよお」
そして、白々しくその場を去っていく。