第16章「美乃理の告白 その②」
※この小説は男性から女性への性転換を題材にしています。それらの表現、描写がありますので、ご注意ください。
「稔君、新体操は運命の神様が与えてくれた贈り物なのよ」
高梨先輩が、新体操部の仮部員として入ってからしばらくして、一度ボクに語ったことがあった。
活動を終えて後片付けを手伝っている時。
「贈り物?」
「そう、きっかけとタイミングがなければ、知ることも始めることもなかった」
「どういうことですか?」
「私は、たまたまテレビで、新体操の演技を見て、近くたまたま新体操の教室があって、始めた。私が やりたいっていったら父と母の二人とも快く認めてくれたの。あれがなかったら、」
あの時テレビの中継を見なかったら――
やりたいと思っても教室がなかったら――
頼んでパパとママが認めてくれなかったら――
「ただ、他の子と同じように普通に小学生時代を過ごして、中学生になって……そうね、わたしの父も母もあなたと同じように教育熱心だったから、特進科に行っていたかもね」
新体操が、無かったら自分は、どうなっていただろう。
こうしてレオタードを身につけることはなかった。厳しい練習に打ち込む今の自分はなかった、と呟いた。
「それから向いていない子もいるの。あるいは家庭の事情で続けられなかったり、タイミングが悪かったり……新体操って、綺麗で可愛く見えるから花形みたいに思うけど練習は厳しいし、辞めちゃう子も多いのよ」
言われてみれば、大会にでるほどの活発な部だが、部員は、思ったよりも少ない。
各学年に三、四人。
入る頃はもっと部員がいたとも、先輩は言った。
「私よりもずっと上手で、才能があった子もいたけど……辞めちゃった。クラブに通う余裕が家に無いからって……」
ふと気がつくと、高梨先輩は、遠い目をしていた。過ぎ去った過去を思い出すように……。
「それを考えると私も、あの子達も幸せよ。こうやって新体操に巡り会って、今もこうしてやってるんだもの」
ボクは、その時の言葉が耳から離れなかった。
新体操――運命……。
ボクがもし女の子でそのチャンスが与えられたらどうするべきか。
そう、今ボクは女の子なんだ――。
小学生の女の子。
「新体操?」
しばらくの沈黙の後、口を開いたのは母さんだった。
意表を突かれたのか、続く言葉が無かった。
「あ、うん。駅前のビルのスポーツ施設で、今度新体操教室ができるんだって」
流石に唐突すぎたと思い経緯を説明した。
「ああ、これか――」
新聞を読んでいた父さんが、一枚のチラシを出してきた。
新聞に入っていたものらしい。それは忍が持っていたのと同じチラシだった。
「そう、これ! シノちゃんがね、これを持ってて、その、一緒に行こうって……」
「シノ……? ああ、忍ちゃんね。忍ちゃんに誘われたのね?」
忍と親しいことを、この母は知っているようだ。
「う、うん」
父さんが一読した後、母さんが、それを受け取る。
「まあ、あそこに新体操クラブねえ」
美乃理の意思はとりあえず、伝わったようだった。
しばし眺め、チラシに見入っていた。
しばしの沈黙が続く。
次の一言を待った。次の一言で全てが決まる。
緊張で胸が張り裂けそう。胸が熱くドキドキする。
こんなに緊張するのは、子供の体だからだろうか。
ふと気がつくと、美乃理は、三つ編みに手をやっていた。
落ち着かない。落ち着かない気持ちを紛らわすために、髪の毛をいじってしまう。
自分の頭から延びる、束ねられた黒髪を――
女の子らしい仕草になっていた。
そして母さんは声を発した。
「美乃理――」
母がチラシから視線を外し、美乃理と目を合わせる。
「美乃理、レッスンは大変よ? 週に三回、1時間半はやるのよ?」
「う、うん、わかってる。ちゃんとレッスンに通うから」
「授業が終わった後、遊ぶのもできないのよ?」
「我慢するよ」
「勉強がおろそかになってしまうわ」
「勉強もする」
「昔、母さんが学生だった頃、バレエをやってた子たちがいたけど皆練習、大変そうだったわ。大半は辞めていってたし……。きちんと勉強と両立させるのは大変よ」
次々に母さんの口からでる言葉は、否定的な言葉ばかり。
「でも……」
「それより、今はしっかり毎日の勉強を頑張ることね」
あの時と同じだ。
やっぱり駄目なのか――。
小さな体が震え始める。
このままでは、また押し切られる。
「か、母さん! ……このままなんて嫌だ。また同じことの繰り返し……毎日毎日……こんなのなんて」
言っている意味が自分でもわからなかった。
どうやって母さんに伝えればいいのか……
稔は、男子だったボクは高校へ進学しても、期待に応えられず、過ちを犯したこと。
何のために学校へ通うのか、やっと答えを見いだした時には、既に手遅れだったこと。
だが、それらを伝えるには美乃理には、想いがあり過ぎた。
上手く伝えられない。
最後は、涙声になりかかった。
「美乃理!」
母さんが怒気を含んで口調を強めた。
駄々をこねているように映ったようだった。
我慢しなさい。そんなふうにしかりそうだった。
その時だった。
「こんなに行きたいっていってるのだから、行かせてやってもいいんじゃないか?」
パサっと新聞を、畳んで横に置く。
「父さん……」
父が初めて口を開いた。
「初めてじゃないか、美乃理が、自分からこんなにやりたいことを言うなんてな」
ボクの方を見つめている。
「あなた、この間話しあったでしょ? 美乃理は私立中学にいかせるって。そのための準備をもうはじめないと」
「だが、受験勉強ばかりでは、美乃理の心も疲弊してしまうだろう。それに、美乃理は女の子だからな、こういうのをやってみたくなる年頃なんだろう」
「!?」
父さんが美乃理の頭を撫でた。
大きな手だった。今までは無機質に見えていたそれが、今は頼もしく見えた。
「父さん……ありがとう」
珍しい。母さんに反論するなんて。
美乃理の知っている父さんは、いつも黙って新聞を読んでいて、母さんのいうことに頷くだけだった。
なのに、今は……。
そして、美乃理をじっと見つめた。今までに見たことのない真剣な眼差しだった。
「ちゃんと練習するか?」
「うん」
「勉強もきちんとやるか?」
「うん」
「母さんを心配させないか?」
「うん!」
「美乃理も大きくなったな、きちんと自分の気持ちを言えるようになった……」
一度父さんは大きく頷く。そして、視線を外し、母さんの方を向いた。
「ほら、美乃理はこういってるぞ」
母さんは一瞬、不満げな顔をしたが父さんの眼差しに押され、ため息をついた。
「あなたがそういうなら……しょうがないわね」
その一言を耳にして、美乃理の胸に喜びの灯がついた。
胸が震えた。
勇気を出したために、父さんが思いに答えてくれた。
初めてだ。
勉強以外のことでボクに何かをやらせてくれるなんて……。
美乃理は以前にもこれと同じことがあったことを思い出した。
建一に誘われサッカークラブに入ろうとしたときのこと。
反対されて断られた。
あの時、稔にももう少しの勇気があれば、こうなっていただろうか……。
だが、今となってはもうわからない。
「頑張りなさい。美乃理」
とにかく今、美乃理は、忍に誘われた新体操クラブに通うことになった。
「うん」
もう一度大きく父に、そして母にも返事をした。
ふと気がつくと美乃理の目に涙が浮かんでいた。




