第147章「少女の館」
しばらくぶりに屋敷のお嬢様が部屋の外に出られた。
それだけで中で働いている者たちは、一様に大きな驚きをみせた。
次々に屋敷の者とすれ違う。
大きなものを運んでいるもの。
観葉植物の手入れをするもの。
宏美は一々立ち止まり挨拶してまわる。
そして窓の外を眺めた。
綺麗に手入れが施された広大な敷地が庭園のごとく広がっていた。
季節ごとの花が植えられていて、大きな池にはそれだけで一軒家が建つほどの鯉が放たれている。
それを世話をする専属の使用人すらいる。
この屋敷では料理人、庭師も。どれも一流の人間が取りそろえられる。
様々な人間が行き交う。
そして通り過ぎると、それらの者が手を止めて慌てて挨拶をする。
驚きの顔をしつつ。
「あ、これはお嬢様」
「お、お元気そうで何よりです」
思わぬお嬢様の登場。
そしてお互い顔を見合わせ、再び作業を始める。
中には初めて宏美の顔をみるまだ屋敷に仕えて日の浅いものもいて、挨拶が遅れて注意されている。
(変だ)
さらに、奇妙なことを感じた。
使用人は屋敷に何人もいる。
宏美の姿をみると何か恐ろしいもの、あるいは腫れ物にでも触れるかのような目を向けてくるのだ。
咎める者も注意するものもいない。
ただ怖れる目をしていた。
「ど、どうも、お元気そうでなによりで、宏美お嬢様」
次々に居住まいを改めて恐れるような態度でお辞儀をする。
不思議に思い原因は何かを考えながら観察していると、理由はほどなくしてわかった。
「このガラス……割れた形跡がある。一体どうしたの?」
屋敷に出入りしている修繕業者がいた。
階段の踊り場にある窓の割れたステンドグラスを修理していたので声をかけた。
綺麗な模様が描かれたステンドグラスは無惨にヒビや割れた跡が残っていた。
「へ、へえ……それはですね」
六十過ぎの作業着の男が困った顔をした。
「どうしたの? 理由を聞かせてちょうだい。誰がこんなことを……」
胸につかえるようにもごもごしていた。
「お嬢様、それは……」
千鶴子にそっと耳打ちされ、宏美は目を大きく見開いた。
そして瞳に驚きの色が現れる。
修繕の男が返答に困ったのは、それもそのはず。
壊した当人から理由を聞かれて戸惑っていたのだ。その豪華煌びやかなステンドグラスを割った犯人は龍崎宏美。
どうやら宏美という少女は、癇の強い子で、一端機嫌を損ねると、暴れ、物を壊し、周囲を悩ませる。さらに酷い時は、部屋に閉じこもって数日は出てこなくなる。
一ヶ月前に突然、飾られている花が気に入らない、髪飾りが気に入らない、つまらないことで機嫌を損ねて暴れて割ったという。
そういう少女であるらしかった。
いかにも、自分が女だったらこんなふうに周囲を傷つけていただろうという、人物像だった。
「オレは、女でも周囲を傷つけまくっていたんだな……」
自嘲気味に笑った。
小学生でこれなら、もし高校生になる年になっていたら、どんな少女になっていたか、おおよそ想像がついた。
「なるほど、そういうことだったのか」
ようやくずっと感じていた違和感の正体に気づいた。
そして自分の体にある傷の理由もわかった。これは自分自身でつけた傷だ。
自分は奇行癖、癇癪持ちのご令嬢。皆を傷つけ、自分も傷つける。
これほど周囲を不幸に落としていく存在すら悪な子はいないだろう。
だから、皆の反応はまたいつもの癇癪が始まった。屋敷の人間はそういう認識だった。
部屋に閉じこもって屋敷の人間にあたらないだけ、まだまし。
そのような認識だったのだ。
部屋に引きこもった二週間の途中で既に長くぼさぼさになっていた髪を自分の手で短く切ろうとした。男のような髪型にしてしまえと。だが上手く行かないのでやめたが。
それもまた髪の毛を切ったのも自傷行為の一種と思われた。
自室の窓ガラスやカーテンがやたらと新しかったのも、取り替えたばかりだったという。
引き裂いたり割ったりの繰り返し。部屋の壁や床にところどころ見えた小さな傷なども想像がついた。
物を投げ、ある物を壊して回ったのだろう。
「ここまでくると自分の酷さに笑えてくるな」
それらの自分の悪行の数々をみると、むしろ笑顔が出た。
やったのが自分というのなら、その責任を取らないといけない。
やがて階下のエントランスに出た。そこでは多くの使用人たちがいた。そして作業をしていた。
姿を見て慌てて整列する。やや恐れおののきつつこちらをじっと見つめる。
「ごきげんよう、みなさん」
落ち着いた穏やかな様子でにこやかに挨拶した宏美に明らかに驚いている。
「お勤め、お疲れさまです」
きちんと気配りをして、抑制したトーンで挨拶をする。
呆気にとられる使用人たちがかえっておかしかった。
自分はただ普通にしているだけなのに。
(面白い)
「千鶴子さん」
後ろにかしずいている婆やを振り返った。
「はい」
変わらぬ様子で後ろに立って宏美の指示を待っている。
「おやじ……いいえ。お父様の今日のお帰りは」
「おそらくお帰りになられるのは夜遅くかと」
変わらない。いつも家に不在、放り出している父。
「お継母さんは」
「息子様とお二人で夕食をお部屋で取られます」
これも変わらない。
想像してみた。まだ幼い少女が広い屋敷の広い食堂でポツンと一人で夕食を取っていた。
「ふふ……」
ただ、繊細な少女が、その心を壊れてしまうのも無理もない。
「はい、お嬢様?」
「婆や」
「はい」
一つ息をすった。
そして少し上を向いた。
「明日、学校に行こうと思います」
千鶴子は一度はっと目を開き、そして顔を引き締めて大きく礼をした。
「準備してくれますか」
「かしこまりました。早速ご用意いたします」
千鶴子は大きく礼をした。




