第145章「傷跡」
宏美はまだ幼いその体をベッドに横たえたまま天井をぼんやりみつめていた。
時折寝返りをうっては何も変わらない部屋を眺める。
引きこもっている間、特に何かをしていたわけではない。
ただ思考は巡らせていた。
自分はいったい誰なんだ。自分が男子だった世界。女子である世界。自分が自分でない。
自分もこの世界もなんて不安定なのだろう。
いくら考えても答えはでない。ただぼんやりと雲がかかったような時間がずっと過ぎていった。
やがて少しずつ別のことが気になってきた。
宏の時と同じく今の宏美も明晰な頭は回転しつづけていた。
やはり何か変だ。
「これはどういうことなのだろう……」
ベッドに寝ころびながら小さく呟いた。
違和感がどんどん胸から浮かんできて大きくなってゆく。
まだ突然に少女の体に変わってしまった衝撃から立ち直ったわけではないが、どうしても頭から離れなくなったのだ。
気になるとどうにも知りたくなってしまう。明らかにおかしい。
淡々と過ぎていくこの時間と空間。
何故誰もこんな状態の自分を気にも留めないのか。
何もせずに放っている。
部屋に閉じこもりきりの少女を何故当たり前のように受け入れているのか。
ごく一般家庭の子ならば学校へ行き、勉強をして親しい子と遊んだりする。
ずる休みなどしようものなら、きつくしかられる。
―変だと思った。一体わたしはこの屋敷の中で何者なのだろう、と―
さらには気になることがあった。
自分の体の至る所に傷がある。
腕に、腹部に、脚に、まるで引き裂いたような赤い痕があった。
(なんなんだこれ……)
乱暴された感じではない。
引きこもってから二週間後にようやく部屋から出たくなった。
夢ならさめろと思ったが、いつまで経っても元の男子だった自分に戻ることはなかった。
しばらくはこの姿のままのようだから、悩んでもどうしようもない。
冷静になってきた思考が働き始める。
まずは今の状況を確かめてみたい。
―わたしはようやく部屋から外へ出たの。とりあえず、自分が宏美という少女になっているこの世界はどうなってるんだろうって―
ついにベッドから起きあがった。
ゆっくりと窓に歩き寄った。
背は少し小さくなっているが、不自由を感じるほどに小さいわけではない。
そしてどうやら、この少女の自分は成長が早い子のようだ。
そしてそっと外からの光を遮断していたカーテンを開いた。
窓の外の景色を見るためだ。
途端に外から明るい光がキラキラと射し込んできた。
「う……」
思わず目を一度閉じて小さく呟いた。
二週間ぶりの眩しい光に思わず体を強ばらせた。少し頭がくらりときた。
変わらない屋敷の外の景色。
彼方に見える山も、住宅やビルも龍崎家のもの。
違うのは青空と太陽ぐらいのものだ。
そしてポツンと立つ洋風の大きな建物に広大な庭。
(世界は何も変わってない……オレを残しては……)
興味がわずかにわいてきた。それとともに、外にでる決心が付いた。
体は長く閉じこもった生活ですっかりしなびていた。
(まずはシャワーを浴びて……着替えて部屋をでてみよう)
部屋には備え付けのシャワールームもある。
まるで今の閉じこもる自分のために作られたかのように不自然さがあった。
ともかくまずは身支度をした。
少女といえど、汗もかく。生理現象もある。この数日の心身の澱を流そう。
脱衣室で静かに服を脱いだ。
シャワーの蛇口を捻り、ゆっくりと温かいお湯を体に滑らせた。
シャワー室に湯気が立ち上った。
そして二十分後。
シャワーを浴び終えた宏美は 体を拭きつつ自分の一糸纏わぬ姿も初めてじっくりとみた。
少女になっている自分を改めて確かめた。
顔も胸もお腹も脚もーー 改めてその柔らかさに驚いた。
そして男と女と違う部分も。
そしてその綺麗な体に浮かぶ赤い痕はより一層目をひいた。
腕にも胸から腹部にも。
「一体何なんだこれ……」
傷はもう、治りつつあり消えてゆくが、体以上にこの少女は何かが傷ついているように感じた。
「お嬢様、お着替えのご用意はよろしいでしょうか」
せわしなくバスタオルで自分自身を触いていたその手を止めた。外からの穏やかな声はかえって心が落ち着いた。
一人ではない。
部屋の物音を聞いて、自分が動き出したことを千鶴子が悟ったのだ。
気を回してくれたのだ。
「ありがとう、婆や。着替えを手伝ってくれますか?」
答えつつそのままの姿でドアを開けた。
使用人の衣装を着た初老の女性が着替えをもって立っている。
「おはようございます」
「おはよう」
タオルだけ体に巻いただけの裸の宏美に、眉一つ動かさない。
引きこもっていたことも何も問わない。
「さあ、入って」
部屋に招き入れた。一礼をして入室する。
「お嬢様、ただいまご用意いたします」




