第122章「敦子」
今、夜空の下で二人だけで美乃理と敦子は向きあっている。
「なんの……こと?」
「隠しても駄目だよ、童貞君」
はっきりと記憶が呼び起こされた。
清水敦子がつけて、よく呼んだ渾名だ。
よくこの渾名で校舎内で稔を大声で呼んで慌てさせた。
「『敦子さん』……まさか」
美乃理は何年ぶりにその呼び方をした。
やっぱりかという思いとありえないという思いがせめぎあう。
「敦子さんは、わたしたちと同じなの?」
再び、今の美乃理の口調に戻る。
不敵な笑みが答えだ。
「そうとも言えるし、違うともいえるかなあ」
思い出した。ああ、この得意に満ちた顔も――。あの時と同じだ。
「わからないよ……」
正直な答えが返ってこないのも変わらない。
「美乃理も宏美んもあたしのことは察してただろう?」
頷く。薄々は思っていた。清水敦子はこちら側の存在ではないか。
だが、自分と龍崎宏美と違うことが決定的にあった。
清水敦子は今のこの世界に転生する前も少女だった。
だから――。
自分たちともまた違う。
美乃理も、宏美も感じてはいた。
けれどもそのことを質すことに躊躇していた。
「宏美さんからは、忠告を受けてたよ。敦子さん、あなたになるべく深入りしないようにって」
宏美は敦子を警戒していた。
「ははは、流石女神の宏美様だね。あたしは、あの天才少女には及ばないし、美乃理にも及ばないけど。でも……その代わりにあたしが、一番真実に近い場所にいる」
風がさわさわと吹いた。木々が揺れる。
森を抜けてきた風は夏なのに冷たく染みた。
「いい感じだったのになあ。昔のあたしは、後輩のよきお姉さまで、充実した学校ライフを送ってたんだから」
腕を組んでふむふむと頷きながら、目を閉じる。
「でもまあ、あの時のわたしのポジションを先輩とみのりんがやってくれてるから、こっちは楽なもんだよ」
「どういたしまして」
「はは、それでわたしは自由に動けるし感謝してるよ」
少し会話が途切れた。虫の声が二人の間を通り抜ける。
しばしの沈黙は、また話題が深くなる合図だ。
美乃理も少し姿勢を改める。
後ろのテラス手すりに手を置いた。そして夜空を眺めた。
敦子が再び口を開いた。
「……気付いているでしょう、この世界に三日月の奴がいないってこと」
「うん。一番知りたいと思ってる」
もっとも鍵を握っているはずの存在がない。
美乃理になって、いつか会えると思って待ち焦がれた相手が。
小学生、そして正愛学院に再び入学して、新体操部に入ったのに――。
聞きたいことは沢山あった。何故自分が、何故女子になって――一体何が目的で……。
けれども会うことは叶わなかった。存在そのものがどこにも無かった。
「ずっとあるいはほかの学校に、ほかのクラブチームのコーチに……ひょっとしたらいるかもしれないと思って探した。だけど本当に、この世界には三日月先生は存在していない」
「そうだね、確かにそのとおり」
「じゃあ、何故……」
「その先は焦らずにじっくり――」
唇に指を添えた。
首を傾げた。
「ここから先は美乃理んがじっくり考えなきゃいけないことだよ。あたしについてくことがいいことだとは限らないからね」
「敦子さんが意地悪なのは、昔どおりだね」
不満げに唇を曲げてじと目をした。
「大事なことだからね。美乃理んが私の真実に至る道を選ぶか、それとも宏美のように舞台に立つことを選ぶか」
真実。
美乃理にはその言葉に、時折胸に様々な想いがよみがえる。
新体操の演技をしているとき、ふと男子の稔が見える――。
過去の記憶が蘇る。
あるいは夢で。
どんなに今はもう自分は女の子の美乃理なんだといいきかせても、見える。
過去をさかのぼり、そして幻のように消えていった稔という少年とその記憶が――。
なかったことにされている。
そのことが胸に重くのしかかる時があった。
真実へたどり着いたとき、その呪縛から解き放たれるのかもしれない。美乃理にはそんな思いもあった。
「龍崎宏美の後についていったら、それはそれで良いけど、知りたいあの人は、もう真実を追い求めていない、いや、あの人の真実は別にあるっていったらいいかな」
「選ばないと、いけないの?」
「いずれはね。ま、すぐに結論を出す必要は無いさ。決まったらあたしのところにおいでよ。あたしは美乃理には優しいから」
また何かからかおうとしている。美乃理は読めた。先手を打った。
「あっちゃん、いや敦子さん――」
一つ息を吸って吐き出した後、改めて視線をしっかり敦子に向けて口を開く。
再び口調も昔に戻す。
「あなたが、本気なら」
ふいに、真剣な顔になる。
あの時の清水敦子と今の清水敦子は同一ではない単なる悪ふざけのはず。
「また……あの時のやり直しをしてもいいよ」
「何を……言ってるのかな?」
今度は敦子が初めて驚いた顔をした。
「ずっと思ってたけど、多分あの時の私も、貴女を好きだったと思う」
今だけ稔に戻る。
何年ぶりかで封印していた少年を――。
体も、あるいは心ももう変わっているかもしれない。
「あの時の稔と今の美乃理――ずいぶん変わったもんだね」
「言ったからには実行してもらいます」
美乃理は今度は逃げない。
「いいのかい?」
視線を逸らさずに頷く。
お互いに両手を差しだしてお互いの頬に撫でるように添えた。
少し緊張している。
震える月夜の下で。
ゆっくりと近づいてくる。
お互いの息が感じられる。肌の温もりも――。
だが――。
いつまでたってもこない。
「あははは、あたしの負けだよ」
敦子は笑いだした。
「もう、なんで敦子さんは捻くれてるの」
「どうせやるなら、楽しみは後にとっておきたいからね」
「あの時はあんなにあっさりやったのに」
「稔からも美乃理からも本気の奴が欲しいのさ」
身を翻して欠伸をして部屋に戻っていった。
美乃理も星空を一度見上げて、冷えてきた体を抱きしめて、テラスを去った。
やっとこおまたせしました。




