第119章「光と影」
麻里は休憩の合間に練習場から離れ階段に腰を降ろした。
暗くなり始めた空を見上げる。
立ち並ぶビルの隙間から見える星はほんの僅かだ。
眺めているうちに想いが湧いてくる。
星空を見ているのだろうかと、ふと思った。
かつて一緒だった亜美からも美乃理からも連絡はあった。合宿に行っていると連絡があった。
頑張ってくださいとだけ簡単に返事を送った。
自分の選択は間違っていないはず。
あの日以来自分が進んだ道を信じている。
今も夢に見る。
初めて美乃理の後塵を拝した日のことを。
「番号11番萌木野クラブの近藤恵子さんの演技です」
場内にアナウンスが響くと観客スタンドの一角が応援で盛り上がる。
前の順番の子たちが続々と呼ばれていく間も脚を叩いたり立ち上がって屈伸させたりして気を紛らわす。
緊張しているのが自分でもわかる。
らしくない。
麻里が特に好んだトレードマークの赤いレオタードがこの日は影がさしていた。
煌びやかに光る装飾が施されているのに――。どことなく晴れやかさに欠ける。
競技会はいくつかあるが、今日のリトルクイーンカップは新体操をやっている少女にとって最大の大会。
もちろん麻里は全てをかけて挑んだ。
ここで勝てば揺るぎない自身に繋がる。だが、負ければその逆。
特に美乃理に脅かされている今は――。
麻里は誰よりもこの大会に賭けていた。
「続きまして、16番花町新体操クラブの御手洗美乃理さん」
アナウンスに館内が大きく蠢いた。
観客席も俄かに騒めき、一斉に視線が注がれる。
取材に来ているという腕章をつけた記者も大きなカメラを向ける。
1番の注目株の御手洗美乃理の演技が始まる。
麻里から見ても美乃理は著しく成長をしている。
弱点だったここ一番に緊張や戸惑いを見せる精神面。
特に晴れ舞台であればあるほど、ミスを誘発していた。綺麗にメイキングをしたり、レオタードを華やかにした時。可愛いらしさを表現する時。 そういう時に表情や微妙なタイミングのズレが誘発された。が、数々の経験をして次第に消えていった。
麻里は鼓舞する。美乃理の全力と勝負できる。
綺麗なY字バランスとジャンプ、華麗な手具の扱いに、一際大きな声援と、さらに館内から歓声が起きた。
拍手と同時に、どよめきが起きた。
美乃理の演技が高得点を叩き出した反応だった。
他のクラブチームのコーチが、やられた、という表情を浮かべている。
そして柏原コーチも満足そうに美乃理に拍手を送り、さらに親指を立てるジェスチャーを送った。
間違いなくトップに立つ。群を抜いていた。
再び落ち着きを取り戻す館内。
麻里はひたすら順番を待つ。
全国規模の大会で、各地から集まってきた選り抜きの少女たち。数十人に及ぶ。
この大会は、順番はランダムになっていて麻里の番はかなり後ろの方であった。
一方の美乃理。
演技を終えて既にジャージ姿に着替えて盛大な出迎えを受けた。二階の観客席に移った。
先に席に戻っていた亜美とハイタッチした。
「良かったよ! 完璧」
今日は応援だけの忍ももちろんいた。
抱きしめられた。
「ちょっと涙ぐんじゃった」
美乃理の演技での不安点だった哀愁を漂わせる曲からハイテンポな曲調にかわる際の切り替えが無難に終わった。
「あとは麻里ちゃんだね」
「うん。いっぱい練習してたから、上手くいくといいね」
無邪気にエールを送った美乃理だが、忍は感づいていたと思う。
少し複雑な表情をしていた。
「麻里ちゃん、ちょっと余裕がなさそうー」
忍は麻里の心の動きを誰よりも見ていた。
同じクラブチームながら勝負に挑む彼女の思いも。
美乃理に勝ちたい。その一心でいる。
なら自分たちの応援はかえって逆効果なのかもしれない。
続く麻里の演技を同じクラブチームだから知っていた。
麻里は今回難しい演技に挑む。
無理のない範囲で、演技を構成した美乃理とは対照に、一流選手でも難しいとされる項目を盛り込んでいた。
コーチに無理をお願いした。
ついに順番が来た。アナウンスが告げられる。
「リラックスだよ!」
「麻里ちゃん! 力を抜いて!」
美乃理と亜美が声援を送ったが忍はただ静かに見守っていた。
硬くなればなるほど、上手く行かなくなる。
一度歯車が狂うと一気に崩れてしまう危険もあった。
あらかじめ決められた要素を組み込まないといけない。
跳躍、回転、バランス、手具を介した技――。
「麻里ちゃん、緊張しているよ」
忍が呟く。
「そうだね……」
一瞬の手の震えを見逃さなかった。亜美も美乃理も気づいた。
連続技を多く取り入れ、複雑に組み合わせるなど、技術を要する構成を選んだため失敗するリスクも多い。
難易度の高い技に挑めば良いというわけではなく完成度が求められる――。
音楽との調和、体の動きのなめらかさ。つま先まできれいに足が伸びているか、回転の軸はきれいか。そして表情。
すべてが調和した芸術になっていなければ、いけない。
どこか一つ突出していても全体のバランスが取れていなければ点数は伸びない。まして大きなミスをしてしまうと――。
「ねえ、麻里ちゃんは知ってる? 風のこと――」
亜美も、美乃理も演技中に感じていた。
館内に微妙な空気の流れがあることに――。
大きな会場に空調。気圧の違い。いつものレッスンの部屋はもちろん、市民体育館とも違う。
「うん、戻ってきたときに伝えたんだけど」
麻里はやや上の空だった。
会場の熱気と、あがってきた気温によって空調が入っている。
「最初は堅さを感じたけど、これはわからないわ――」
柏原がそう漏らすほど、麻里の演技は素晴らしかった。
最後までやりきれば美乃理の点を上回るかも――。
次の瞬間。
麻里のリボンが僅かになびいた。
6メートルもの長さのリボンを絶えず動かし続ける。
たとえ屋内であってもわずかな空気の流れで思わぬアクシデントが起こる。
「あっ!」
先端に結び目ができてしまった。
さらにそのせいで綺麗な形が描けなくなってしまい、形が崩れる。
動揺は終わらずその後に大きく投げて受け取る技で、落とした。
絡まったリボンをたぐりよせて、急いでほどいて演技に戻る。
声援が止まった。
「ああっ」
小さな悲鳴が漏れた。
痛恨のミスにも関わらず、一瞬驚いた顔をしただけで、すぐに表情を戻し、笑顔を浮かべる。
ミスはあったが、その後の素晴らしい演技で相殺されたようにも思えた。
だが、美乃理にも亜美にもはっきりとわかった。
トップに立つには難しい減点になった。
降りた後も笑顔で礼をする。
舞台を降りるまでは、耐えた。
だが、戻ってきた時にようやく目から溢れるものを拭った。
美乃理に抜かれたことをはっきりと認識した。
同じクラブで同じ指導を受けている以上、相手の手の内が見える。
苦しんだ。美乃理が目覚ましい成長を遂げて行く度に――。
伸び悩む自分が、見えてしまう。
麻里にとっては、より一層辛かったのは表彰式だった。
一位が美乃理で亜美が二位で自分は三位。
負けたはずなのに同じクラブ仲間であるので一緒に祝福される。
美乃理に嫉妬したわけではない。
三人はそれぞれ頑張った。美乃理も自分も。
まとめられてしまうことがもどかしくなった。
勝負を挑んで負けたことをもっと見てほしい。
自分の進む道が見えた気がした。
久しぶりの二週連続。




