第109章「美乃理のこれから」
帰る道すがら美乃理は思った。
(宏美さん、明るくなったな)
当然ながら、寄宿舎の生活は規則づくめで厳しい。
学園側としては、大事な子女を預かるわけで、間違いがあってはいけない。
親元を離れて自由な学園生活を送ることができると思ったなら、それは大間違いだ。
起床、食事、掃除、洗濯。そして門限。いちいち時間と細かい規則ずくめだ。
風呂だって自由ではない。
自分の部屋で、自由にテレビを見ることができてくつろげる自宅とは大違いだ。
だが、それでも龍崎宏美は選択した。
厳しい寮生活を選んだのだ。
ずっと宏美と接していたからわかるが、以前よりも遙かに伸び伸びしており、表情や性格も明るくなった向きさえある。
家を出たことが一つの転機になったのは確かだろう。
(わたしも……そうするべきなのかな)
自分の成長、新しいステップに踏み出すには、新しい環境に身を置くことも大切なのかもしれない。
自分に必要なのは新しいなにかなのかも。
家に帰っても、まだそれほど遅い時間ではなかった。
湯船に浸かりながら、天井を仰ぎ見て考えた。
新体操だけでなく、もっと自分がどうするか考えなさい――。
当然、それは女子としての美乃理がどうあるべきかということである。
稔から美乃理へと数奇な運命を辿った自分。
もちろん、それなりに女の子としてらしくする努力はしてきたし、悩みにも向き合った。
だが、たとえば恋愛――。
それともそういうものとは一線を画していくのか。
稔の頃からそういうものとは無縁だった。
だれかを本気で好きになったことはない。
「まだそこまで考えられないですよ……先輩」
新体操に専念してきた分、その部分はおざなりになっていた。
男の子を好きになる?
それとも女の子?
体も思考も、今の自分はもう女の子。
そう思ってはいても、揺れ続けている。
パシャっと水面を意味もなくたたいた。
「お姉ちゃん、入ってもいい?」
幼い子供の声
摺りガラスの向こうにぼんやりと小さな人影が揺れる。
テレビの夕方からのアニメ番組に見入っていたはずの美香が脱衣室にきたようだ。
最近は一人でも入れるようになったのだが――。
それでも一緒に入りたがる年頃なのだ。
「うん、いいよ、おいで」
「やったあ!」
服をパサパサと威勢よく脱ぎ捨てる様子が見える。
やがて浴室のドアをガチャッと開けて入ってきた裸の美香は満面の笑みを浮かべていた。
そういえばここしばらくは一緒に入ってないことを思い出す。
そのまま湯船に入ろうとする。
「ほら、体洗ってからにしなさい」
美乃理は、湯船からざぶんと音を立てて出た。
「お姉ちゃんが洗ってあげるから」
「はーい」
素直に椅子に座った美香にシャワーをかける。
ようやくシャンプーハット無しでもシャワーができるようになったばかり。
眉を寄せて我慢する。
「んん……」
「ほら、あと少し」
ついこの間まで赤ん坊だった気がするのに、いつの間にかこんなに大きくなったんだろう――。
湯船が窮屈だった。
腕、脇、胸、お腹。そしてデリケートな部分まで――。
丁寧に洗う。
「練習いっぱいしたよ! 今日もコーチに褒められちゃった」
成長の早さに驚かされる。
この前まで赤ん坊だったのに。
手と足。
頭も胸も。
着実に大きくなっていく。
抱っこもしたし、おむつかえを手伝ったこともあった。
大きくなった母のお腹の中から、美乃理はその躍動を感じたこともあった。
七年前のある日。
「女の子なの?」
「ええ、この間、検診でエコー検査したときに言われたの」
まだ名前もついていない姿もまだみえないのに確かに命が宿っている不思議を感じた。
「そっか……」
「まだ早いよ、お母さん」
「ほら、美乃理――いらっしゃい」
リビングのソファの上の母に手招きされて、抱き寄せらる。
「聞こえるでしょ?」
大きくなった母のお腹に耳をあてていた。
「聞こえる? お姉ちゃんだよ」
お腹の膨らみにささやいた。
「美乃理の声を聞くと、すごくお腹の中で動き回るのよ」
美乃理はその時確かに聞いた。
命の鼓動を――。
「すごいね、お母さん」
女性の体に備わる神秘に感動した。
「美乃理もいつかは――ね」
その時に、美乃理ははっとなった。
自分も母と同じであることに。
だが、この時の美乃理はまだ、そのことを受け止められるほど余裕も経験もなかった。
体を洗い終わって、湯船に二人で入ると窮屈であった。
美香を膝の上に乗っけて 後ろから抱き込む。
美香も上機嫌で、美乃理に寄りかかる。
そして、幼稚園で仲の良い男の子たちと遊んだことを話す。
美香は可愛いけれど、やんちゃなことでも有名だ。
「美香は、好きな子がもういるの?」
「え?」
首を傾げた。
美乃理は冗談で聞いただけだったのだが――。
「うん、いる」
驚く。もう好きな子がいるのか。
「武史君」
「あはは……」
美香は自分よりも先を行っている――。
苦笑いした。
「で、でも、お姉ちゃんが一番好き――」
美香も慌てた。
一体どこにそんなエネルギーがあるのか、と。
美香と一緒に浴室から出て、頭や、肩、背中、タオルで拭いてやった。
「あ、パパが帰ってきた!」
その途中も元気に動き回る。
「こら、ちゃんと体を拭きなさい!」
タオルを体に巻いて、美香の新しい下着をつかんでそのまま駆け出す。
「捕まえた」
小さな腕をつかんだ。
「きゃあ!」
おにごっこをしているかのように捕まった美香は歓声をあげる。
「美乃理……何の騒ぎだ?」
立っている場所は玄関先。そこにスーツ姿のお父さんが立っていた。帰ってきたばかりなのか、まだ右手に鞄を持っている。そして目を伏せながら――。
「あ……」
自分もかろうじて女の子が見られちゃいけない部分をタオルで隠していたが、それ以外はすっぽんぽんだった。
髪もよく拭いていないし、足や腕もすっかり晒してしまっていた。




