第108章「ぼやき」
「うふふふふ」
龍崎宏美の美しい笑い声がロビーに響いた。
手を当てて口元を隠すその笑いかたも何か気品を感じさせる。
誰もこの人の正体を疑わないだろう、と目の前に座る美乃理は思う。
「もう、笑い事じゃないですよ」
美乃理はむくれつつボヤいた。
帰りがけに、女子生徒のための寄宿舎、「菜の花寮」に寄った。
そこの寮生でもある龍崎宏美に「いらっしゃい」と声をかけられたからだ。
理由はもちろん中等部の部員の騒ぎが宏美の耳にも到達したからだ。
一階のロビーに備え付けられているソファに二人で並んで座った。
煉瓦造りで歴史が感じられるが、数年前に耐震工事や内装の工事などが行われて、内部は近代的なものに作り替えられていた。
「今日は大変だったんですから」
幸い、ロビーには誰もいない。どこかで聞き耳をたてているかもしれないが。
壁には田舎の港町を描写したと思われる、ヨットや漁船が描かれた風景画も飾られている。
ここは正真正銘、誰もいない女子だけの空間だ。
許可のない男子生徒が入った場合、問答無用で非常に重い処分が下る。
女子も寄宿舎に入っていいのはロビーまで。特段の用事がない場合は部屋まで行かないように注意されている。(ただし、規則ではない)
朝6時に起床、清掃を行い、朝食。
親元を離れている分、規則正しい生活を送る。
宏美は進学以降は、家を出てここで暮らしているのだ。
その宏美に、今日あった出来事を洗いざらい話した。
そして、女の子ってなんでこうなのかとも付け加えた。
「ごめんなさい、それは大変だったでしょう」
これから入浴待ちの宏美は紺色に白く正愛学院と刺繍されたジャージ姿だ。
普段の素の姿そのもの。それでも彼女からは優雅な雰囲気が漂うのが不思議だった。
「でも、美乃理ちゃん――あなたも、もうだいぶ時間が経っているでしょう? 新体操にだけ専念してれば周りは許してくれる年ではなくなってるのよ」
美乃理は、出された麦茶に口を付ける。
宏美は美乃理に問いかけつつ腕を組んだ。
「私も知らなければきっと、特別に親密な関係にある男子ができたと思うわよ」
「宏美さんまで……」
先輩の呼称を使わず、以前の呼び方が出てしまった。
もちろん宏美はそのことを咎めない。
そんな気配りが必要な関係ではないからだ。
「宏美さんだって、私のことは知ってるのに」
思ったより手厳しい反応に美乃理は困った。
「あら、だからこそよ。もうあれからどれくらいかしら?」
あれから――。龍崎宏美と御手洗美乃理だけの隠語である。
美乃理が美乃理になった日。
そして、この世界に来た日のことである。
「7年……です」
「あなたもそういうことへの対処や気配りは流石にあってもいいんじゃない?」
「でも、それ以外のことなんて……」
高等部では、学園に降臨した女神とまで称えられている。
おそらく宏美も、そういった異性にまつわる噂があったはずだが、淡々と流している。
宏美に何かあったらまず最初に打ち明けるのは美乃理だろうが今日までそういう話は何もない。
凄い人だ……と思う。
頭では理解している。
女子になったからには男子から好意を持たれることがある。異性として――。
それをどう受け止めるべきか、美乃理は考えてこなかった。
龍崎宏美、この人はどうだろうか。
同じ過去、記憶を経てきたはずだが――。
稔には性への欲求、興味はあった。
だが、人を好きになることを体験することはなかった。
では、美乃理は――。
今までは自分は、普通の女の子ではないから。そう言い続けて、考えることを避けてきた。
それまでは新体操に専念しているから、と自分にも周囲にも言い聞かせ納得させた。
だが美乃理もわかっている。
自身の体は、性に関する心身の成長がもう始まっているのだ。
少女として――。
龍崎宏美の指摘は大抵、正しい。
考えなければいけないのだろう。
宏美がいなかったら。
忍とはまた違う、そして同じ時を遡った者である宏美の導きと助言がなければ、今の自分はない。
そのことをよく知っていた。
美乃理は、宏美の後を追ってきた。
「深く考える必要はないけど……」
宏美は腕を組んだまま、目を閉じた。
「そもそも……わたしだってまだ未知の部分だからね」
「宏美! そろそろ順番が来るよー」
寮生とおぼしきジャージ姿の女子から入浴時間を告げられた。
「もっと話したかったけど、またね」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあね、美乃理ちゃん」
ソファから立ち上がった時、体を少し止めて、再び美乃理に視線を戻る。
「そうそう……今度の合宿、同じ宿泊所に亜美ちゃんのところの学校も来るみたいよ」




