第1章「稔(みのる)と始まり」
この小説はTS、TSFと呼ばれるジャンルを扱っていますので、苦手な方はご注意ください。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
すすり泣き混じりの少年の声が正愛学院高校の職員室に響いた。
既に日が傾きかけ、校舎内は生徒もまばら。
時折、吹奏楽部の音楽のメロディが遠くに響く。
一方、学院の広大なグラウンドでは、陸上部、野球部など部活に励む生徒の声が響いている。
ごく日常的な正愛学院の放課後だった。
そんな中、職員室では事務机に座る白衣の女性教師の前にうなだれる少年がいた。
ズボンにもネクタイにも、そしてブレザーにも正愛学院の校章が刺繍されている。
この学校の制服を着る男子生徒はがっくりと肩を落としたまま、椅子に座って女性教師に向き合っていた。
「ううっ」
涙を拭う生徒を女性教諭は励ます。
「ほら、泣いちゃだめよ。大事なのはこれからどうするかなのよ、稔君」
慰める教師の声は優しく、だが凛とした声だった。
稔と呼ばれた、その生徒はなおも嗚咽を漏らした。
「うう、ぐすっで、でも、僕は……」
「犯した過ちは、消すことはできないけれど、幸い今回だけは、お店の人も大目に見てくれるって言ってくれたのよ」
万引き。
今からほんの一、二時間前のことだった。学院の近くの商店街にあるスーパーからの通報だった。
正愛学院の生徒が店の商品を会計しないままで、持ちだそうとした。
店の外に出ようとしたところを、店員に取り押さえられた。
そして放課後の職員室にその電話が鳴り響いた。
他の教師は出払っていたため、生徒指導担当教諭の三日月知代が店に駆けつけ、その生徒を引き取ったのだった。
そして今、職員室で犯した過ちの理由を問いただしているのだ。
「でも条件に『今回は許す代わりに、きちんと学校が生徒への指導を徹底してほしい』って。このことがわかる?」
「は、はい」
「あなたをきちんと立ち直させるのが、私たち教師の仕事だし、あなたのお店の人への償いでもあるのよ。だから……」
優しく、だが強い意志を含んだ口調で三日月は生徒に語りかけた。
「どうしてこんなことをしたのか教えてくれる?」
最初は、いいにくそうにしていたが、ゆっくりと口を開いた。
「そ、その……」
御手洗稔がその危険な愉悦を覚えてしまったのは、一年前。
正愛学院でも特に成績優秀とされる特進コースに所属し、有名大学を目指して昼は学校、夜は予備校、土日も模擬試験。
日夜、勉強に励んでいる優等生であった。非行歴も無し。
稔は世間からすれば、非の打ち所のない良い少年であった。
だが、それは外面的な評価に過ぎなかった。
実はここしばらくというもの、成績に伸び悩み思うように勉強がはかどらなくなった。
イライラ、満たされない欲求。
成績は右肩下がり。
その日も、稔は散々な模擬試験の結果にむしゃくしゃしていた。
ふと立ち寄ったコンビニで思わず100円の歯ブラシを、そのまま盗ってしまった。
見つからないかたまらなくドキドキした。
だが何事もなく店の外に出たとき、不思議な心地よさを覚えた。
満たされない心の飢えが妙に満たされていく。
そのスリリングな胸の高鳴りにいつしか快感を抱くようになってしまった。
それ以来、その感覚が忘れられず、万引きを繰り返すようになった。
「悪いことだと思ってたんです、でも……」
「いつしか、やめられなくなっちゃったってことね」
「は、はい」
小さく頷く。そして心の淀んでいたものを吐き出して疲れたように肩を落とした。
「ありがとう、正直に告白してくれて」
快感は一時的なもので、その後ずっと罪悪感に捕らわれていただろう。
稔の不健康な、落ちくぼんだ表情がそれを物語っている。
根の悪い子ではないと思われるだけに事態は深刻であるとも三日月は思った。
反省の度合いから見ても、恐らく二度とやる可能性はない。
だが、今万引きを止めたとしても、この少年にとっては何の解決にもならない。
このまま元の生活に戻しても別の不健全な愉悦に満たされない欲求を向けることもあり得る。
これはもっと根の深い問題がある。
紙に打ち出した御手洗稔のデータを再度みた。
まずは家庭事情。
稔の家は両親共働き。
父は有名企業勤務。母も医療関係に勤めている。
家庭環境には一見なんの問題もない。
だが、経歴をみてあることに気がついた。
部活動、校内、校外も含めて学外活動の経験は無し。
目立った交友関係。友人。無し。
静かに目を閉じた。
真っ白。いや灰色。この生徒の経歴は灰色だ。
三日月は心で呟いた。
「だいたいわかったわ。じゃあ、次はこれから、あなたがやるべきことだけど……」
「どうすれば、いいんでしょうか? 」
迷える子羊のように、不安そうな顔を向けた。
「稔君、誤った道を歩んだあなたにはきちんと正しい道に戻ってもらわないといけないけど、そうね、あなたが、どこで道を誤ったのか。それを探らないといけないわ」
情熱の失われたこの少年の瞳に、火を灯す。
そのための根本的な原因に遡る。
大海のなかでさまよう小舟に希望への航路を示す星を。
三日月は、事務机の上にある電話の受話器を取った。
「ええ。今すぐそっちに行くわ。準備してちょうだい」
手短に用件だけ伝えて受話器を置く。
「さあ、行くわよ、御手洗君」
三日月は椅子から立ち上がると、少年にも同じように促した。
「あ、あの、どこへ?」
「あなたが新しいあなたに生まれ変わる場所よ」
不安そうに立ち上がる稔に、笑みを向けた。