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別に恨んでないのですが、パーティーの方が勝手に自滅していきます

作者: 猫じゃらし
掲載日:2026/09/18

「お前はクビだ、ノア」


リオンの声が、拠点の石壁に反響してから消えた。夕方の訓練場には他に誰もいない。ガイが腕を組んで壁際に立ち、クレアは少し離れた場所で床の一点を見ていた。


ノアは荷物袋の紐を結ぶ手を止めなかった。


「わかりました」


「わかりましたって、お前……もっとこう、あるだろう」


「何がです?」


「衝撃を受けるとか、膝から崩れ落ちるとか」


「膝から崩れ落ちる理由がないので」


リオンはしばらく口を開けたまま、次の台詞を探していた。ガイが横で小さく噴き出し、慌てて咳払いに変えた。


「理由は、聞かなくていいのか?」


「聞いても変わりませんので。だいたい想像はつきます。回復役は目立たない。パーティーの見栄えが悪い。だいたいそんな話でしょう」


図星だったらしく、リオンが黙った。壁際でガイが「それ俺が三日前に言ったやつじゃ」と呟き、クレアに睨まれて口を閉じた。


「本当に、いいのか?」


「はい」


ノアは荷物袋を肩に掛けた。革の擦れる音がした。


「怒らないのか?」


「怒る理由が思いつきません」


「そこまで思いつかないことある?」


「今のところは」


クレアが顔を上げた。


「ノアさん」


「はい」


「本当に……」


言葉が続かなかった。ノアは彼女の様子を少し待ってから、口を開いた。


「お気になさらず。次の宿を探さないといけないので」


「そんな、事務的な」


「事務的なので」


ガイが「おい、それだけか」と割って入ろうとしたが、ノアは既に扉の方を向いていた。振り返らずに軽く頭を下げる。


「では、お世話になりました」


扉が閉まる音は、思ったより静かだった。


閉まった扉の向こうで、リオンが「今の、俺が悪者みたいじゃないか」とぼやく声が聞こえた気がした。確かめる義理もなかった。



拠点を出てすぐ、ノアはギルドの受付に寄った。窓口の職員が、慣れた手つきで書類を差し出す。


「パーティー脱退の手続きですね。理由の欄は、どうします?」


「特に、これといって」


「それだと空欄になっちゃうので、何か書いてください」


「では、円満退職ということで」


職員がペンを止めた。


「円満かどうかは、向こうに聞かないとわからないですよね」


「向こうも、勝手に円満だったと思ってくれるかもしれません」


「思わないと思いますよ、それは」


職員は結局「本人希望」と書き込み、力強く受理印を押した。判子の音が想像以上に大きく響いて、ノアは少しだけ肩を引いた。


「よくあるんですか、こういうの?」


「たまに。だいたい皆さん、辞める前にもう少し愚痴っていきますけど」


「特にないので」


「ないんですね、はい」


職員は書類を三回数え直してから、ようやく手を止めた。



王都の大通りは夕暮れの色に染まっていた。屋台の匂いと、馬車の車輪の音。ノアは荷物袋を背負い直しながら、宿の看板を探して歩いた。


追放されたことについて、道すがら考えてみた。


考えてみたが、特に何も浮かばなかった。


強いて言うなら、明日から誰かの装備の手入れをしなくていい。誰かの体調管理をしなくていい。誰かの機嫌を窺いながら薬草の配分を決めなくていい。それくらいだった。


宿の主人に聞いて回り、ようやく空いている部屋を見つけた。ベッドに荷物を置いて、窓の外を見る。


明日、辺境行きの馬車が出ると聞いていた。ルミエ村という、地図で見ても小さな点にしかならない場所だ。


特に理由があって選んだわけではない。ただ、静かそうだったからだ。


その夜、ノアは宿を出て、通り沿いの道具屋に寄った。荷物になる分の薬と包帯を、いくらか売っておくつもりだった。


店主は差し出された小瓶を光にかざし、しばらく黙っていた。


「これ、どこで仕入れた」


「自分で調合したので」


「自分で?」


「はい」


店主は瓶を鼻先まで近づけて、もう一度光にかざした。


「もっとあるなら、全部買うが」


「引っ越すので、これだけです」


「本当にないのか? 家探せば出てこないか?」


「探しても、これだけです」


店主は諦めきれない様子で値段を紙に書いて見せた。想定していたより一桁多い。渡された代金を数えるノアの後ろで、店主がまだ何か言いたそうにこちらを見ていた。



翌朝、乗合馬車の御者は暇そうにしていた。ノアが乗り込むと、御者は世間話のつもりらしく口を開いた。


「兄さん、王都から? 何の用でルミエまで?」


「ちょっと引っ越しです」


「へえ。そういえば知ってるか? 勇者パーティーの回復役が、急にいなくなったらしいってな」


「そうなんですか」


「まあ、王都はこの手の噂ばっかりだ。三日もすりゃ、また別の話に変わってるだろうよ」


御者は特に気にした様子もなく鞭を鳴らした。馬車が動き出す。


ノアは自分のことだとは、特に気づかなかった。


窓の外を、王都の城壁が遠ざかっていく。


まあ、そんなもんでしょう。


そう思いながら、ノアは目を閉じた。



馬車の窓から見える景色は、王都を出てからずっと同じ調子で流れていった。石畳が土の道に変わった。道の両側を囲んでいた家並みが途切れ、代わりに畑と雑木林が交互に現れるようになる。すれ違う荷馬車の数も、最初の一日で数えるほどになった。二日目を過ぎる頃には、それさえも見なくなった。


御者は暇を持て余したのか、鞭の柄で御者台を軽く叩きながら鼻歌を歌っていた。ノアはその歌を子守唄代わりに、何度かうたた寝をした。目を覚ますたびに、景色はまた少しだけ寂しくなっていた。


途中の宿場町で一泊を挟んだ。出発から四日目の夕方、ようやく遠くに小さな屋根の群れが見えた。それがルミエ村だと気づくのに、少し時間がかかったほどだった。家が十数軒、井戸がひとつ、あとは畑と森。御者は村の入り口でノアを降ろすと、そのまま次の町へ向けて馬を進めていった。


宿屋の看板は、色褪せた木の板に「やど」とだけ書かれていた。


戸を開けると、恰幅のいい女が奥から顔を出した。


「あら、お客さん? こんな時間に珍しい」


「部屋、空いていますか?」


「あら、ちょうど空いたところよ。今週、村に来たのあんたが二人目」


「もう一人は?」


「行商人。あんたの方が荷物少ないね」


バーバラと名乗ったその女将は、ノアを二階の部屋に案内しながら、値段と食事の時間を早口でひとしきり説明した。説明が終わると、今度はノアの荷物を見て言った。


「旅の人にしちゃ、荷物が薬草くさいね」


「回復術師をしていたので」


「へえ。じゃあこの村、当たりだったかもね」


「何がです?」


「薬師のばあさんが、去年死んじまってさ。以来、隣村まで薬買いに行く羽目でね」


バーバラはそう言うと、それ以上は特に気にした様子もなく階段を下りていった。



翌朝、ノアは村の畑を歩いていた。


隣の畑の老人が、しなびた葉を見て舌打ちしている。


「今年は駄目だな。この時期に、この色じゃ」


「触ってもいいですか?」


老人が怪訝な顔をしながらも頷いた。ノアは屈んで、根元にそっと手を添えた。


数秒。


葉の色が、根元から順に戻っていく。


老人は自分の畑を二度見た。それから三度目に確かめるように、しゃがんで葉を摘んだ。匂いを嗅ぎ、また植え直す。


「兄さん、何をした」


「軽い治癒魔法です。よくあるやつですよ」


「よくあるか、これが」


老人は近くの畝にいた別の農夫を呼びつけ、葉を見せて何やら興奮気味に説明を始めた。農夫が驚いた顔でこちらを振り返る前に、ノアは会釈だけして先へ歩いた。



畑の並びの端に、小さな家があった。軒先で、白髪の老人が木の枝を削っている。村の誰かに聞いた話では、昔は名の知れた冒険者だったらしい。


「精が出るな」


老人はそう言っただけで、手元の作業に戻った。


「そちらも」


「儂のはただの暇つぶしだ」


老人は削った枝の先を確かめて、目を細めた。ノアの荷物袋にちらりと視線をやり、それから今しがたの畑の方角にも目をやった。何か言いかけて、結局それは口の中に留めたまま、また枝を削り始めた。


ノアも特に何も言わず、会釈だけしてその場を離れた。



その日の午後、村の子供が猫を抱えて泣きながら走ってきた。後ろ足が変な方向に曲がっている。


ノアは荷物袋を降ろす手も止めずに、猫を受け取った。


「怪我はいつからです?」


「さっき、木から落ちて」


「そうですか」


一撫で。


猫が体を伸ばして、何事もなかったように子供の腕の中で丸くなった。


子供が目を丸くした。


「治った?」


「治りました」


「すごい! すごい、すごい!」


子供は猫を抱えたまま村の広場の方へ全力で駆け出し、道行く大人を片っ端から捕まえては同じ話を繰り返し始めた。声がだんだん遠くなる。


「よかったですね」


ノアはまた荷物袋を担ぎ直し、宿への道を歩き出した。


途中の井戸端で、腰を押さえた老婦人が水桶を下ろせずにいた。


「大丈夫ですか」


「ああ、いつもの腰でね。もう歳だから」


「少し、触っても」


老婦人が頷くと、ノアは腰に軽く手を当てた。数秒して、老婦人が体を伸ばし、驚いたように背筋を反らした。そのまま桶を頭の上まで持ち上げて見せる。


「あら、まあ! これ、十年ぶりに軽いよ!」


「無理はなさらないでください」


「兄さん、只者じゃないね」


老婦人は水桶を抱えたまま、井戸端にいた別の女たちに向かって「見た? 今の見た?」と話しかけ始めた。ノアが宿への角を曲がる頃には、まだその声が背中から聞こえていた。



宿に着くと、バーバラが玄関先で腕を組んで待っていた。


「聞いたよ。畑と猫と、井戸端のばあさんまで。この村、噂の回るのが馬より速いんだから」


「たいしたことはしていません」


「たいしたことじゃないって顔で言うのがね、あんた」


ノアは特に返す言葉もなく、部屋の鍵を受け取った。


窓の外では、夕暮れの畑がゆっくりと影を伸ばしていた。



拠点では、リオンは革帯の留め具と睨み合っていた。


留め具は、ノアがいた頃は毎朝当たり前に締め直されていたものだ。今、リオンの手の中で、それはただの金具の塊になっていた。


「……どっちが上だ、これ」


「知らねえよ」


ガイが横から覗き込んで、余計にわからなくしただけだった。


「ノア、こんなの毎日やってたのか」


答える者はいない。壁際の作業台には、飲みかけの薬瓶がいくつも並んだままになっている。ラベルは剥がれかけていて、どれがどの効能かはもう誰にもわからない。回復薬と痺れ止めが、色だけでは見分けがつかなかった。


「クレア、お前は何かわかるのか」


「聖女の祈祷と、装備の手入れは別です」


クレアは短くそう言うと、机の上の書類を見ないまま眺めていた。書類には、来週の討伐依頼の予定がびっしり詰まっている。ノアがいた頃は、この予定に合わせて薬の配分と装備の点検が済んでいた。今はその欄が、まるごと空白のままだった。


リオンは結局、留め具を適当な向きで留めた。案の定、緩い。


「まあ、なんとかなるだろう」


その一言に、ガイが小さく頷いた。根拠のない頷き方だった。



その日の午後、依頼を受けた廃坑の掃討で、なんとかならないことが証明された。


緩んだ留め具のせいで、リオンの籠手が戦闘中に半分脱げた。ガイが「俺が前に出る」と怒鳴って穴の奥へ突っ込み、案の定、いつもより深い傷を負って戻ってきた。


「血が、止まらねえ」


「押さえてろ! 押さえてれば、そのうち」


「そのうちって、お前」


止血の薬を誰も適量で扱えなかった。多く使いすぎて別の薬が足りなくなり、結局、傷は普段より長く塞がらなかった。依頼自体は達成できたが、帰り道の馬車の中、三人とも一言も口をきかなかった。


ギルドの受付では、疲れた顔の職員が淡々と依頼完了の判を押した。


「戦力低下、要確認、と報告書に書いておきますね」


「要確認って」


「以前と比べて、明らかに回復が遅いので」


職員はそれだけ言うと、次の来客の対応に移った。リオンはしばらくその後ろ姿を見ていた。


夕暮れの大通りを、三人は無言で歩いた。すれ違った露店の主人が、いつもより長くこちらを見ていた気がした。気のせいかもしれない。誰も口には出さなかった。



拠点に戻ってから、クレアはしばらく黙って窓の外を見ていた。


「ねえ、リオン」


「なんだ」


「最近、変なことばかり起きると思わない?」


「怪我のことか」


「怪我も、留め具も、薬の在庫も」


クレアは自分の指先を見つめた。


「まさか、ノアさんの……」


「ノアの、なんだよ」


「わからない。でも、あの人がいなくなってから、何もかもうまくいかない」


ガイが包帯を巻き直しながら、うんざりした声を出した。


「呪いとか言うなよ、また」


「言ってません」


「言いかけてただろ、今」


クレアは何も言い返さなかった。ただ、窓の外を見る目が、さっきより少しだけ真剣だった。


リオンは黙って留め具をいじり続けていた。うまく直せる気配はなかった。





「聖人様が来たって話、聞いたか」


食堂の隅で、行商人がそう言うのが聞こえた。ノアは反対側の席で、黙々とスープを飲んでいた。


「聖人?」


「猫の後ろ足を、触っただけで治したらしいぞ。この村の話だ」


「大げさだな、それ」


「俺も又聞きだ。でも、井戸端のばあさんの腰も治したらしい」


「聖人が、腰まで診るのか」


「聖人ってのは、だいたい何でも診るもんだろう」


そのやり取りに、近くの席の村人が横から口を挟んだ。


「うちの畑の葉も治してもらったよ。あれは聖人だ、間違いない」


「言い出したの誰だ、聖人って」


「知らん。誰かが最初に言ったんだろう」


ノアはスープを飲む手を、少しだけ止めた。それだけだった。またすぐにスープに戻った。


行商人は笑いながら、明日には隣の宿場町に向かうと話していた。この話も、きっと持っていくのだろう。誰も、話の主が三席隣にいることには気づいていない。



翌朝、畑の並びの端で、隠居の老人がまた枝を削っていた。


「精が出るな」


「そちらも、噂は届いていますか」


老人の手が、一瞬だけ止まった。


「聞こえてくるだけならな」


老人はそれ以上、何も言わなかった。ただ、削った枝の先を確かめる仕草が、いつもより少しだけ長かった。


ノアも特に言葉を継がず、会釈だけしてその場を離れた。老人はしばらく、ノアの後ろ姿を見送っていた。



その日の夕食、バーバラが妙に楽しそうに給仕をしていた。


「聞いたよ、行商人の話。聖人様だってね」


「聞こえていたんですか」


「この宿、壁が薄いんだよ」


バーバラは皿を並べながら、独り言のように続けた。


「そのうち、隣村からも人が来るんじゃないかね」


「まさか」


「まさか、って顔もしてないけどね」


「していますよ、普通に」


「してないよ、それは」


ノアはスープを一口飲んで、それ以上は何も言わなかった。


窓の外、宿場町へ向かう街道の先で、行商人の乗った荷馬車がゆっくりと闇に紛れていくところだった。






「Bランクへの降格を、正式に通知します」


ギルド長の言葉に、リオンは何も言い返せなかった。机の上に置かれた書類には、直近の依頼失敗率と、負傷者数の記録が並んでいる。数字は正直だった。


「先月までAランクだったんですが」


「先月までは、な」


ギルド長はそれだけ言って、書類を閉じた。


拠点への帰り道、ガイがずっと黙っていた。珍しいことだった。拠点に着いた途端、その沈黙が噴き出した。


「俺が悪い」


「お前だけのせいじゃない」


「いや、俺だ。籠手の件も、廃坑の件も、全部俺が突っ込みすぎた」


「ガイ」


「次の依頼、俺一人で受ける。それで取り返す」


止める間もなく、ガイは翌朝、単独で山岳の討伐依頼を受けてしまった。



依頼は、二日後に「未達成」として戻ってきた。


ガイ自身は無事だったが、依頼主から正式な苦情が届いていた。単独行動による現地判断の誤りで、討伐対象を取り逃がした上、周辺の畑を一部踏み荒らしたという内容だった。


「取り返すつもりが」


「逆に増えたな、失点」


リオンの声には、もう怒る気力もなかった。


ギルドの掲示板には、二人の名前が入った依頼の評価欄が貼り出されていた。星の数は、以前より確実に減っている。



その夜、クレアは自分の部屋で、古い書物を何冊も机に広げていた。呪術関連の蔵書だった。


「何してるんだ」


リオンが扉から覗き込むと、クレアは慌てて本を閉じた。


「別に、何も」


「呪いの本、読んでるのか」


「調べているだけです。可能性の話として」


「可能性って」


「私たちに、何か原因があるはずなんです。こんなに、立て続けに」


リオンは何か言おうとして、結局、口を閉じた。


否定する材料が、手元になかった。


クレアは机の本を、また一冊開いた。ろうそくの灯りが、ページの上でゆっくり揺れていた。





石造りの町並みは、ルミエ村よりずっと賑やかだった。露店が並び、荷馬車の往来も多い。ノアは薬草の仕入れのため、村から二日かけてこの宿場町まで来ていた。


大通りの真ん中で、人だかりができていた。


「伝説の治癒師様が、この町に立ち寄るらしいぞ」


「本当か?」


「宿場の主人が言ってた。噂の出所は辺境の村らしい」


ノアは人だかりの端を通り抜けながら、特に気にせず歩いていた。


薬草屋の店先で品定めをしていると、店主がふと顔を上げた。


「あんた、もしかして」


「何です?」


「いや、なんでもない。最近、変な噂ばっかりでね」


「変な噂ですか」


「治癒師様が、村ひとつ丸ごと救ったとか、そういう話だよ。話半分に聞いてるけどね」


「話半分でも、多いですね」


「三日前は治癒師、今日はもう伝説の治癒師様だ。そのうち神様になるんじゃないか」


店主は笑いながら、薬草を紙に包んでいった。ノアは代金を払い、店を出ようとしたところで呼び止められた。


「あんた、その荷物」


「はい」


「薬草の匂いがするね。あんたも治療師か何かか」


「そんなようなものです」


「へえ。もしかして、あんたが噂の」


「さあ、どうでしょう」


ノアはそれだけ言うと、軽く会釈をして店を後にした。店主はしばらく首をかしげていたが、次の客が来ると、その疑問はすぐに紛れて消えた。


町を出る頃には、日が傾き始めていた。ノアは特に何も気にせず、村への帰り道を歩き始めた。



同じ頃、王都のギルド前で、クレアは旅装の行商人から話を聞いていた。


「辺境の村に、伝説の治癒師様がいるって噂、聞いたことあります?」


「伝説の……」


「猫の怪我から、老人の腰まで治すって話でさ。俺も宿場町で聞いた又聞きだけど」


クレアの手から、持っていた荷物がわずかに滑った。


「その村の名前は」


「さあ。辺境としか」


行商人が立ち去った後も、クレアはしばらくその場から動かなかった。


「どこ行くんだよ、急に」


拠点に戻ってきたリオンが、思いつめた顔のクレアを見て声をかけた。


「確かめたいことがあるんです」


「確かめるって、何を」


クレアは答えなかった。ただ、荷物の中に、あの呪術関連の書物を一冊だけ入れた。






荷物をまとめるクレアの手は、いつもより乱暴だった。着替えを詰め込みすぎて、鞄の口が閉まらない。


「聖女様が、こんな辺境まで一人で行くなんて」


宿の主人にそう言われても、クレアは曖昧に笑って誤魔化した。事情を説明する気力はなかった。


乗合馬車の乗り場で、クレアは御者に告げた。


「ルミエ村行きの馬車は」


「ああ、それなら向こうの三番だよ」


言われた通り三番の馬車に乗り込み、二時間ほど揺られたところで、隣の乗客に聞いて気づいた。


「あの、これは……」


「これは北の鉱山行きだね」


「ルミエ村は?」


「反対方向だよ」


クレアは次の停留所で降ろしてもらい、来た道を戻る羽目になった。半日、無駄にした。



宿場町に着いたのは、予定より一日遅れてだった。


宿を探して歩いていると、道行く人の噂話が耳に入った。


「伝説の治癒師様、この間この町にいたらしいぞ」


クレアは足を止めた。


「この間って、いつのことですか」


「さあ、昨日か一昨日か。もう発ったって話だよ」


一日、差があった。それだけの差で、すれ違ってしまったらしい。


クレアはその夜、宿の粗末なベッドの上で、荷物の中の書物を開いた。呪術の本だ。何度も読んだページを、また同じように読んだ。答えは、前と同じように書かれていなかった。



翌朝、財布を落としかけて、宿の主人に呼び止められた。


「聖女様、これ、落としましたよ」


「あ……ありがとうございます」


「随分、急いでらっしゃるんですね」


「はい。少し」


主人は特に深くは聞かず、朝食のパンを余分に包んでくれた。


「道中、気をつけて」


クレアは礼を言って、宿場町を出た。ルミエ村までは、あと二日の道のりだった。


道の途中、何度も同じ石畳の模様を見た気がした。急いでいるはずなのに、景色の流れる速さは、いつもと変わらなかった。





「ノアさん」


声をかけられて振り返ると、畑の畦道に、旅装のクレアが立っていた。土埃で裾が汚れている。長旅の跡が、いつもの聖女の装束には不釣り合いだった。


「お久しぶりです」


「お元気そうで何よりです」


ノアは鍬を杖代わりに、軽く頭を下げた。クレアの顔が、少しだけ強張った。


「あの、話したいことが」


「そちらの荷物、随分重そうですね。お持ちしましょうか」


「そういうことじゃなくて」


クレアは荷物を抱え直し、一度深く息を吸った。畑仕事をしていた近くの農夫が、聞くともなしにこちらを見ている。


「ノアさん……本当に、ずっと後悔していました。あの時、ちゃんと」


「お元気そうで何よりです」


「さっきも言いました、それ」


「そうでしたか」


ノアは畑の隅に置いていた籠を持ち上げ、収穫した野菜を詰め始めた。クレアはその横で、続きの言葉を探していた。農夫が別の農夫を肘でつつき、二人でひそひそと何か話し始めるのが視界の端に映った。



宿への道すがら、バーバラが井戸端で洗濯物を干していた。


「あら、お客さん?」


「バーバラさん、こちら」


「聖女様だろ、噂は届いてるよ。噂が届くのが早い村でね、ここ」


クレアは会釈しながら、また口を開きかけた。


「あの、本当に、あの時は」


「ノアさん、この人が来る前に、今晩の分の薬草届けるんじゃなかったっけ」


「そうでした。ちょっと失礼します」


「え、あ、ノアさん――」


ノアは籠を抱えたまま、宿の方へ歩いていってしまった。クレアはしばらく立ち尽くした後、バーバラに向き直った。


「あの、ノアさんは、私のことを」


「別に何とも思ってないんじゃないかね、あの人」


「そんな、身も蓋もない」


「本当のことだからね」


バーバラはそう言うと、洗濯物を叩いて皺を伸ばした。


「あんた、ここまで何日かけて来たんだい」


「五日、です」


「五日かけて、拍子抜けしに来たようなもんだ」


「そこまでは言ってません」


「顔がもう言ってるよ」


クレアは反論できず、宿の看板を見上げた。色褪せた木の板に「やど」とだけ書かれている。長い旅の終わりにしては、あまりに素っ気ない眺めだった。



その夜、宿の食堂で、クレアはようやく落ち着いてノアと向き合えた。他の客はおらず、ランプの灯りが二人分の食器を照らしている。


「これ、渡したくて」


差し出されたのは、丁寧に包まれた小箱だった。以前、遠征先でノアが欲しがっていた薬研だった。


「わざわざ、ありがとうございます」


「使ってくれると、嬉しいです。あの、それで――」


「ちょうど、古いのが欠けていたので助かります」


「そうじゃなくて、私が言いたいのは」


「これで薬草の粉末も細かくできます」


クレアは箱を見つめたまま、しばらく黙っていた。スープの湯気だけが、二人の間でゆっくり立ち上っていた。


「……あの時、他に言い方があったはずなんです。あんな、追い出すみたいな」


「気にしていません」


「気にしてほしい時も、あるんです」


「そうなんですか」


「そうなんです」


クレアはスプーンを置いた。ノアはその様子を見て、少し考えるように黙った。長い沈黙ではなかったが、いつもより一拍だけ長かった。


「……美味しいですね、このスープ」


「話、逸れてます」


「逸れてはいません。おかわり、聞いてみましょうか」


クレアは箱を見つめたまま、しばらく黙っていた。


「……もう、いいです」


「何がです?」


「何でもありません」


クレアはそう言うと、スープに視線を落とした。バーバラが横を通りかかり、小さく肩をすくめた。


「言ったろう」


「言いましたね、確かに」


クレアは深いため息をついた。ノアはその隣で、もらった薬研をさっそく箱から出して眺めていた。刃の合わせ目を指でなぞり、小さく頷いている。それだけで、少し機嫌がよさそうに見えた。クレアはその横顔を、しばらく黙って見ていた。



翌朝、クレアは村を発った。


見送りに出たバーバラに、クレアはぽつりとこぼした。


「拍子抜け、しました」


「そういう人だからね」


「恨まれてるより、辛いかもしれません」


「それは、あんたが勝手に思ってるだけだと思うけどね」


クレアは曖昧に笑って、馬車に乗り込んだ。


畑の方で、ノアが鍬を振るう音が、遠くからかすかに聞こえていた。振り返らないまま、馬車は村を出た。


村を出てしばらく、クレアは荷物の中の小さな包みに気づいた。宿を出る間際、バーバラが「これ、道中で食べな」と持たせてくれたものだった。開けると、村で採れた干し果物が入っていた。


クレアは少しだけ、窓の外を見る目を緩めた。


「……甘いんですね」


御者には聞こえない声で、そうつぶやいた。


馬車は、宿場町へ向けてゆっくりと進んでいった。





王都の東門近く、いつもなら畑の緑が広がっているはずの土地に、灰色の靄がかかっていた。朝露のようにも見えたが、触れた作物は次々と萎れていった。


始まりは、数日前にガイが受けた「古い遺跡の調査」依頼だった。単独での信用回復を焦っていたガイは、立ち入り制限の札を無視して奥まで踏み込み、封じられていた石碑にひびを入れて帰ってきた。本人はその時、何も気づいていなかった。


「まさか、あれが原因なのか」


「わからん。でも、時期は合ってる」


リオンとガイが顔を見合わせている間にも、靄はじわじわと広がっていた。



ギルドの緊急会議室は、いつになく人で埋まっていた。


「瘴気の発生源は特定できたのか」


「遺跡の石碑と思われます。ただ、浄化には広域の対応力が必要で」


「うちの聖女は」


「祈祷は瘴気の抑制までしかできません。浄化までは届きません」


職員の一人が、書類をめくりながら呟いた。


「……そういえば、この手の瘴気の対処法について、やけに詳しい報告書を書いていた人がいましたね。実際に使う機会はなかったはずですが」


「誰の話だ」


「事務仕事のついでに書いていたような、ただの控えです。たしか、少し前まで、こちらのパーティーにいた回復術師でしたが」


「ノアか」


リオンがその名を口にした。


「今は退団しているようですが」


「連絡先は」


「わかりません。退団の届けには、行き先の記載がなくて」


「探せ。今すぐ」


ギルド長の声に、周囲が一斉に動き出した。


靄は、その間にも少しずつ、街の方へ近づいていた。



拠点に戻ったリオンは、地図を広げて頭を抱えていた。


「辺境って言っても、範囲が広すぎる」


「ルミエ村です」


クレアがそう言うと、リオンとガイが同時に振り返った。


「知ってるのか」


「少し前まで、そこにいました」


「行ってきたのか、お前」


クレアは地図の隅、小さな点でしか描かれていない村を指さした。何も答えなかったが、それが答えだった。


「ここです。ルミエ村」





「王都の方で、大変なことになってるらしい」


宿の戸口で、早馬に乗ってきた男がそう言っているのが聞こえた。ノアは食堂の隅で、遅い昼食を取っていたところだった。


バーバラが応対に出て、しばらく話し込んでいた。戻ってくると、妙にあっさりした顔で言った。


「あんた宛だって、これ」


差し出されたのは、ギルドの印が押された封書だった。ノアはスープを一口飲んでから、封を切った。


中身に目を通す。瘴気の発生。浄化が追いつかない。心当たりのある者は至急、王都へ。


「なんて書いてあった?」


「王都が、ちょっと困ってるみたいです」


「ちょっと?」


ノアは手紙をもう一度読み返した。


「まあまあ、困ってるみたいです」


バーバラは腰に手を当てて、ノアの顔を覗き込んだ。


「行くのかい」


「ついでなので」


「ついでって、あんた、何のついでだよ」


「薬草も、そろそろ切らしていたので」


その言い方に、バーバラは小さく噴き出した。


「よく言うよ」



部屋に戻り、荷物をまとめながら、ノアは手紙をもう一度開いた。


瘴気の広がり方を示す簡単な図が添えられている。線の伸び方を見て、ノアの手が、一瞬だけ止まった。


これは、聖印を使う必要がありそうだ。


そこまで考えて、ノアは荷造りの手を再び動かし始めた。表情は、さっきまでと変わらなかった。


薬草の束、包帯、それから聖印の道具一式。荷物袋に詰め込んでいく手つきは、いつも通り丁寧だった。



出立の朝、村の入り口までバーバラが見送りに来た。


「すぐ戻るのかい」


「たぶん」


「たぶんって」


「向こうの都合次第なので」


バーバラは腕を組んで、ノアの荷物をじろじろと眺めた。


「随分、荷物少ないね。王都まで行くのに」


「必要な分だけなので」


「あんたがそう言うと、逆に心配になるんだよ」


ノアは特に答えず、荷物袋を担ぎ直した。


「では、行ってきます」


「気をつけてね」


「はい」


村を出る街道の先、朝靄がまだ薄く残っていた。ノアはその中を、いつもと同じ歩調で歩いていった。





王都の門をくぐると、街はいつもと違う匂いがした。焦げたような、それでいて湿った匂い。門番はノアの顔を見て、一瞬だけ怪訝な顔をした。それから手元の紙と見比べて、慌てて敬礼した。


「回復術師のノア様、ですね」


「様はいらないです」


「東門の詰所まで、ご案内します」


詰所に向かう道すがら、住民たちがちらちらとこちらを見ていた。誰かが何かを囁き、それがまた別の誰かに伝わっていく。ノアは特に気にせず、荷物を担ぎ直しながら歩いた。



詰所には、リオンとガイ、それにギルド長が険しい顔で立っていた。クレアの姿もある。


「ノア……本当に、来てくれたのか」


「呼ばれたので」


「呼ばれたのでって、お前」


ガイが何か言おうとしたが、ギルド長がそれを遮った。


「説明はいいですか。すぐにでも」


「はい、大丈夫です」


東門の外、瘴気は畑ひとつ分ほどの範囲に広がっていた。畑の隅、これまで誰も気に留めていなかった土手の下に、崩れかけた石造りの入り口が口を開けている。ガイが踏み込んだという遺跡は、そこだった。入り口の手前には、へし折れたままの立ち入り制限の札が転がっている。近づいた兵士が咳き込み、後方に下げられていた。


「石碑は、この奥です」


案内の兵士がそう言って、入り口の先を指した。靄は、その入り口を境に一段と濃くなっている。


「これまでに、聖女の祈祷で抑制は続けていますが」


「抑制止まり、ですよね」


「はい。浄化までは、どうしても」


ノアは荷物袋を地面に置いた。中から、聖印の道具を取り出す。


一拍。


表情が、いつもよりわずかに静かになった。


それだけだった。



靄の中へ、ノアは歩いていった。誰も止めなかった。止められる空気ではなかった。


崩れた入り口をくぐると、石段が地下へ続いていた。靄はここが発生源らしく、段を下りるごとに濃くなっていく。突き当たりの小部屋に、ひびの入った石碑が沈むように立っていた。


石碑の前に立ち、両手をかざす。


光の粒子も、聖なる詠唱も、なかった。ただ、石碑のひびに沿って、靄が端から順に薄くなっていった。


一分もかからなかった。


小部屋に立ち込めていた靄は、すべて晴れていた。石碑のひびからは、もう何の気配も感じられない。


石段を上り、入り口をくぐった。畑の緑が、萎れていた場所から少しずつ戻っているのが見えた。


周囲が、静まり返った。


兵士の一人が、口を開けたまま何も言えずにいた。ギルド長が、手に持っていた書類を落としたことにさえ気づいていなかった。


「終わりました」


ノアはそう言って、聖印の道具を布にくるみ直した。



「い、今の、一体……」


「軽い浄化です」


「軽いって、これ、国が動くレベルの」


「そうですか」


リオンが何か言おうとして、結局何も言えずにいた。ガイは腰を抜かしたまま地面に座り込んでいる。クレアだけが、少し離れた場所で、何かを堪えるように口元を押さえていた。


ギルド長が、震える声で切り出した。


「勲章の手続きを、今すぐにでも」


「必要ありません」


「いや、しかし」


「薬草を仕入れないといけないので、村に戻ります」


「薬草、ですか」


「そうです」


ギルド職員の一人が、横から口を挟んだ。


「あの、伝説の治癒師様だと聞いていたので。もっとこう、光ったり歌ったり」


「歌いません」


「ですよね」


職員はそれだけ言うと、諦めたように肩を落とした。


ノアは荷物袋を担ぎ直した。


「では、失礼します」


誰も、その背中を呼び止められなかった。




王都を発つ朝、ギルド長がもう一度、勲章の話を持ち出した。


「せめて、名誉だけでも」


「特に、興味はありません」


「やっぱり、断られますか」


「薬草が待っているので」


ギルド長はそれ以上食い下がらず、深々と頭を下げた。周りの職員たちも、それに続いた。ノアは軽く会釈だけを返し、門へ向かった。


詰所の前で、リオンとガイが所在なげに立っていた。


「戻るのか」


「戻ります」


「また、パーティーに戻る気は」


「特にはないです」


「だよな」


リオンはそう言って、小さく笑った。以前のような空元気ではなく、少しだけ乾いた笑い方だった。


「俺たち、装備の手入れの仕方、一から覚え直すことにした」


「いいと思います」


「お前がいたから、気づかなかったんだよな。当たり前のことが、当たり前じゃないって」


ノアは特に答えず、荷物袋を担ぎ直した。


クレアは少し離れた場所で、こちらを見ていた。何か言いたそうにしていたが、結局、小さく手を振っただけだった。ノアも軽く手を上げて、それに応えた。



ルミエ村までの道は、行きと同じだけの日数がかかった。景色は、行きに見たものと変わらなかった。


村の入り口が見えたとき、畑仕事をしていた老人が、真っ先に気づいて手を上げた。


「おお、帰ったか」


「ただいま帰りました」


「王都の方、大丈夫だったのか」


「なんとかなりました」


老人はそれだけ聞くと、また畑仕事に戻っていった。深く聞かれることはなかった。



宿に着くと、バーバラが玄関先で腕を組んで待っていた。


「お帰り」


「ただいま帰りました」


「王都で大立ち回りしたんだって?」


「聞いていたんですか」


「この村、噂の回るのが馬より速いんだよ」


ノアは荷物を下ろし、二階の部屋に向かおうとした。その背中に、バーバラが声をかけた。


「そういえば」


「はい」


「また変な噂が立ってるわよ。隣村の方で」


「まさか」


「まさか、って顔もしてないけどね」


ノアは荷物袋を肩に掛け直した。


窓の外では、畑がいつも通りの緑を広げていた。


「まあ、そんなもんでしょう」


そう言って、ノアは階段を上っていった。

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