別に恨んでないのですが、パーティーの方が勝手に自滅していきます
「お前はクビだ、ノア」
リオンの声が、拠点の石壁に反響してから消えた。夕方の訓練場には他に誰もいない。ガイが腕を組んで壁際に立ち、クレアは少し離れた場所で床の一点を見ていた。
ノアは荷物袋の紐を結ぶ手を止めなかった。
「わかりました」
「わかりましたって、お前……もっとこう、あるだろう」
「何がです?」
「衝撃を受けるとか、膝から崩れ落ちるとか」
「膝から崩れ落ちる理由がないので」
リオンはしばらく口を開けたまま、次の台詞を探していた。ガイが横で小さく噴き出し、慌てて咳払いに変えた。
「理由は、聞かなくていいのか?」
「聞いても変わりませんので。だいたい想像はつきます。回復役は目立たない。パーティーの見栄えが悪い。だいたいそんな話でしょう」
図星だったらしく、リオンが黙った。壁際でガイが「それ俺が三日前に言ったやつじゃ」と呟き、クレアに睨まれて口を閉じた。
「本当に、いいのか?」
「はい」
ノアは荷物袋を肩に掛けた。革の擦れる音がした。
「怒らないのか?」
「怒る理由が思いつきません」
「そこまで思いつかないことある?」
「今のところは」
クレアが顔を上げた。
「ノアさん」
「はい」
「本当に……」
言葉が続かなかった。ノアは彼女の様子を少し待ってから、口を開いた。
「お気になさらず。次の宿を探さないといけないので」
「そんな、事務的な」
「事務的なので」
ガイが「おい、それだけか」と割って入ろうとしたが、ノアは既に扉の方を向いていた。振り返らずに軽く頭を下げる。
「では、お世話になりました」
扉が閉まる音は、思ったより静かだった。
閉まった扉の向こうで、リオンが「今の、俺が悪者みたいじゃないか」とぼやく声が聞こえた気がした。確かめる義理もなかった。
拠点を出てすぐ、ノアはギルドの受付に寄った。窓口の職員が、慣れた手つきで書類を差し出す。
「パーティー脱退の手続きですね。理由の欄は、どうします?」
「特に、これといって」
「それだと空欄になっちゃうので、何か書いてください」
「では、円満退職ということで」
職員がペンを止めた。
「円満かどうかは、向こうに聞かないとわからないですよね」
「向こうも、勝手に円満だったと思ってくれるかもしれません」
「思わないと思いますよ、それは」
職員は結局「本人希望」と書き込み、力強く受理印を押した。判子の音が想像以上に大きく響いて、ノアは少しだけ肩を引いた。
「よくあるんですか、こういうの?」
「たまに。だいたい皆さん、辞める前にもう少し愚痴っていきますけど」
「特にないので」
「ないんですね、はい」
職員は書類を三回数え直してから、ようやく手を止めた。
王都の大通りは夕暮れの色に染まっていた。屋台の匂いと、馬車の車輪の音。ノアは荷物袋を背負い直しながら、宿の看板を探して歩いた。
追放されたことについて、道すがら考えてみた。
考えてみたが、特に何も浮かばなかった。
強いて言うなら、明日から誰かの装備の手入れをしなくていい。誰かの体調管理をしなくていい。誰かの機嫌を窺いながら薬草の配分を決めなくていい。それくらいだった。
宿の主人に聞いて回り、ようやく空いている部屋を見つけた。ベッドに荷物を置いて、窓の外を見る。
明日、辺境行きの馬車が出ると聞いていた。ルミエ村という、地図で見ても小さな点にしかならない場所だ。
特に理由があって選んだわけではない。ただ、静かそうだったからだ。
その夜、ノアは宿を出て、通り沿いの道具屋に寄った。荷物になる分の薬と包帯を、いくらか売っておくつもりだった。
店主は差し出された小瓶を光にかざし、しばらく黙っていた。
「これ、どこで仕入れた」
「自分で調合したので」
「自分で?」
「はい」
店主は瓶を鼻先まで近づけて、もう一度光にかざした。
「もっとあるなら、全部買うが」
「引っ越すので、これだけです」
「本当にないのか? 家探せば出てこないか?」
「探しても、これだけです」
店主は諦めきれない様子で値段を紙に書いて見せた。想定していたより一桁多い。渡された代金を数えるノアの後ろで、店主がまだ何か言いたそうにこちらを見ていた。
翌朝、乗合馬車の御者は暇そうにしていた。ノアが乗り込むと、御者は世間話のつもりらしく口を開いた。
「兄さん、王都から? 何の用でルミエまで?」
「ちょっと引っ越しです」
「へえ。そういえば知ってるか? 勇者パーティーの回復役が、急にいなくなったらしいってな」
「そうなんですか」
「まあ、王都はこの手の噂ばっかりだ。三日もすりゃ、また別の話に変わってるだろうよ」
御者は特に気にした様子もなく鞭を鳴らした。馬車が動き出す。
ノアは自分のことだとは、特に気づかなかった。
窓の外を、王都の城壁が遠ざかっていく。
まあ、そんなもんでしょう。
そう思いながら、ノアは目を閉じた。
馬車の窓から見える景色は、王都を出てからずっと同じ調子で流れていった。石畳が土の道に変わった。道の両側を囲んでいた家並みが途切れ、代わりに畑と雑木林が交互に現れるようになる。すれ違う荷馬車の数も、最初の一日で数えるほどになった。二日目を過ぎる頃には、それさえも見なくなった。
御者は暇を持て余したのか、鞭の柄で御者台を軽く叩きながら鼻歌を歌っていた。ノアはその歌を子守唄代わりに、何度かうたた寝をした。目を覚ますたびに、景色はまた少しだけ寂しくなっていた。
途中の宿場町で一泊を挟んだ。出発から四日目の夕方、ようやく遠くに小さな屋根の群れが見えた。それがルミエ村だと気づくのに、少し時間がかかったほどだった。家が十数軒、井戸がひとつ、あとは畑と森。御者は村の入り口でノアを降ろすと、そのまま次の町へ向けて馬を進めていった。
宿屋の看板は、色褪せた木の板に「やど」とだけ書かれていた。
戸を開けると、恰幅のいい女が奥から顔を出した。
「あら、お客さん? こんな時間に珍しい」
「部屋、空いていますか?」
「あら、ちょうど空いたところよ。今週、村に来たのあんたが二人目」
「もう一人は?」
「行商人。あんたの方が荷物少ないね」
バーバラと名乗ったその女将は、ノアを二階の部屋に案内しながら、値段と食事の時間を早口でひとしきり説明した。説明が終わると、今度はノアの荷物を見て言った。
「旅の人にしちゃ、荷物が薬草くさいね」
「回復術師をしていたので」
「へえ。じゃあこの村、当たりだったかもね」
「何がです?」
「薬師のばあさんが、去年死んじまってさ。以来、隣村まで薬買いに行く羽目でね」
バーバラはそう言うと、それ以上は特に気にした様子もなく階段を下りていった。
翌朝、ノアは村の畑を歩いていた。
隣の畑の老人が、しなびた葉を見て舌打ちしている。
「今年は駄目だな。この時期に、この色じゃ」
「触ってもいいですか?」
老人が怪訝な顔をしながらも頷いた。ノアは屈んで、根元にそっと手を添えた。
数秒。
葉の色が、根元から順に戻っていく。
老人は自分の畑を二度見た。それから三度目に確かめるように、しゃがんで葉を摘んだ。匂いを嗅ぎ、また植え直す。
「兄さん、何をした」
「軽い治癒魔法です。よくあるやつですよ」
「よくあるか、これが」
老人は近くの畝にいた別の農夫を呼びつけ、葉を見せて何やら興奮気味に説明を始めた。農夫が驚いた顔でこちらを振り返る前に、ノアは会釈だけして先へ歩いた。
畑の並びの端に、小さな家があった。軒先で、白髪の老人が木の枝を削っている。村の誰かに聞いた話では、昔は名の知れた冒険者だったらしい。
「精が出るな」
老人はそう言っただけで、手元の作業に戻った。
「そちらも」
「儂のはただの暇つぶしだ」
老人は削った枝の先を確かめて、目を細めた。ノアの荷物袋にちらりと視線をやり、それから今しがたの畑の方角にも目をやった。何か言いかけて、結局それは口の中に留めたまま、また枝を削り始めた。
ノアも特に何も言わず、会釈だけしてその場を離れた。
その日の午後、村の子供が猫を抱えて泣きながら走ってきた。後ろ足が変な方向に曲がっている。
ノアは荷物袋を降ろす手も止めずに、猫を受け取った。
「怪我はいつからです?」
「さっき、木から落ちて」
「そうですか」
一撫で。
猫が体を伸ばして、何事もなかったように子供の腕の中で丸くなった。
子供が目を丸くした。
「治った?」
「治りました」
「すごい! すごい、すごい!」
子供は猫を抱えたまま村の広場の方へ全力で駆け出し、道行く大人を片っ端から捕まえては同じ話を繰り返し始めた。声がだんだん遠くなる。
「よかったですね」
ノアはまた荷物袋を担ぎ直し、宿への道を歩き出した。
途中の井戸端で、腰を押さえた老婦人が水桶を下ろせずにいた。
「大丈夫ですか」
「ああ、いつもの腰でね。もう歳だから」
「少し、触っても」
老婦人が頷くと、ノアは腰に軽く手を当てた。数秒して、老婦人が体を伸ばし、驚いたように背筋を反らした。そのまま桶を頭の上まで持ち上げて見せる。
「あら、まあ! これ、十年ぶりに軽いよ!」
「無理はなさらないでください」
「兄さん、只者じゃないね」
老婦人は水桶を抱えたまま、井戸端にいた別の女たちに向かって「見た? 今の見た?」と話しかけ始めた。ノアが宿への角を曲がる頃には、まだその声が背中から聞こえていた。
宿に着くと、バーバラが玄関先で腕を組んで待っていた。
「聞いたよ。畑と猫と、井戸端のばあさんまで。この村、噂の回るのが馬より速いんだから」
「たいしたことはしていません」
「たいしたことじゃないって顔で言うのがね、あんた」
ノアは特に返す言葉もなく、部屋の鍵を受け取った。
窓の外では、夕暮れの畑がゆっくりと影を伸ばしていた。
拠点では、リオンは革帯の留め具と睨み合っていた。
留め具は、ノアがいた頃は毎朝当たり前に締め直されていたものだ。今、リオンの手の中で、それはただの金具の塊になっていた。
「……どっちが上だ、これ」
「知らねえよ」
ガイが横から覗き込んで、余計にわからなくしただけだった。
「ノア、こんなの毎日やってたのか」
答える者はいない。壁際の作業台には、飲みかけの薬瓶がいくつも並んだままになっている。ラベルは剥がれかけていて、どれがどの効能かはもう誰にもわからない。回復薬と痺れ止めが、色だけでは見分けがつかなかった。
「クレア、お前は何かわかるのか」
「聖女の祈祷と、装備の手入れは別です」
クレアは短くそう言うと、机の上の書類を見ないまま眺めていた。書類には、来週の討伐依頼の予定がびっしり詰まっている。ノアがいた頃は、この予定に合わせて薬の配分と装備の点検が済んでいた。今はその欄が、まるごと空白のままだった。
リオンは結局、留め具を適当な向きで留めた。案の定、緩い。
「まあ、なんとかなるだろう」
その一言に、ガイが小さく頷いた。根拠のない頷き方だった。
その日の午後、依頼を受けた廃坑の掃討で、なんとかならないことが証明された。
緩んだ留め具のせいで、リオンの籠手が戦闘中に半分脱げた。ガイが「俺が前に出る」と怒鳴って穴の奥へ突っ込み、案の定、いつもより深い傷を負って戻ってきた。
「血が、止まらねえ」
「押さえてろ! 押さえてれば、そのうち」
「そのうちって、お前」
止血の薬を誰も適量で扱えなかった。多く使いすぎて別の薬が足りなくなり、結局、傷は普段より長く塞がらなかった。依頼自体は達成できたが、帰り道の馬車の中、三人とも一言も口をきかなかった。
ギルドの受付では、疲れた顔の職員が淡々と依頼完了の判を押した。
「戦力低下、要確認、と報告書に書いておきますね」
「要確認って」
「以前と比べて、明らかに回復が遅いので」
職員はそれだけ言うと、次の来客の対応に移った。リオンはしばらくその後ろ姿を見ていた。
夕暮れの大通りを、三人は無言で歩いた。すれ違った露店の主人が、いつもより長くこちらを見ていた気がした。気のせいかもしれない。誰も口には出さなかった。
拠点に戻ってから、クレアはしばらく黙って窓の外を見ていた。
「ねえ、リオン」
「なんだ」
「最近、変なことばかり起きると思わない?」
「怪我のことか」
「怪我も、留め具も、薬の在庫も」
クレアは自分の指先を見つめた。
「まさか、ノアさんの……」
「ノアの、なんだよ」
「わからない。でも、あの人がいなくなってから、何もかもうまくいかない」
ガイが包帯を巻き直しながら、うんざりした声を出した。
「呪いとか言うなよ、また」
「言ってません」
「言いかけてただろ、今」
クレアは何も言い返さなかった。ただ、窓の外を見る目が、さっきより少しだけ真剣だった。
リオンは黙って留め具をいじり続けていた。うまく直せる気配はなかった。
「聖人様が来たって話、聞いたか」
食堂の隅で、行商人がそう言うのが聞こえた。ノアは反対側の席で、黙々とスープを飲んでいた。
「聖人?」
「猫の後ろ足を、触っただけで治したらしいぞ。この村の話だ」
「大げさだな、それ」
「俺も又聞きだ。でも、井戸端のばあさんの腰も治したらしい」
「聖人が、腰まで診るのか」
「聖人ってのは、だいたい何でも診るもんだろう」
そのやり取りに、近くの席の村人が横から口を挟んだ。
「うちの畑の葉も治してもらったよ。あれは聖人だ、間違いない」
「言い出したの誰だ、聖人って」
「知らん。誰かが最初に言ったんだろう」
ノアはスープを飲む手を、少しだけ止めた。それだけだった。またすぐにスープに戻った。
行商人は笑いながら、明日には隣の宿場町に向かうと話していた。この話も、きっと持っていくのだろう。誰も、話の主が三席隣にいることには気づいていない。
翌朝、畑の並びの端で、隠居の老人がまた枝を削っていた。
「精が出るな」
「そちらも、噂は届いていますか」
老人の手が、一瞬だけ止まった。
「聞こえてくるだけならな」
老人はそれ以上、何も言わなかった。ただ、削った枝の先を確かめる仕草が、いつもより少しだけ長かった。
ノアも特に言葉を継がず、会釈だけしてその場を離れた。老人はしばらく、ノアの後ろ姿を見送っていた。
その日の夕食、バーバラが妙に楽しそうに給仕をしていた。
「聞いたよ、行商人の話。聖人様だってね」
「聞こえていたんですか」
「この宿、壁が薄いんだよ」
バーバラは皿を並べながら、独り言のように続けた。
「そのうち、隣村からも人が来るんじゃないかね」
「まさか」
「まさか、って顔もしてないけどね」
「していますよ、普通に」
「してないよ、それは」
ノアはスープを一口飲んで、それ以上は何も言わなかった。
窓の外、宿場町へ向かう街道の先で、行商人の乗った荷馬車がゆっくりと闇に紛れていくところだった。
「Bランクへの降格を、正式に通知します」
ギルド長の言葉に、リオンは何も言い返せなかった。机の上に置かれた書類には、直近の依頼失敗率と、負傷者数の記録が並んでいる。数字は正直だった。
「先月までAランクだったんですが」
「先月までは、な」
ギルド長はそれだけ言って、書類を閉じた。
拠点への帰り道、ガイがずっと黙っていた。珍しいことだった。拠点に着いた途端、その沈黙が噴き出した。
「俺が悪い」
「お前だけのせいじゃない」
「いや、俺だ。籠手の件も、廃坑の件も、全部俺が突っ込みすぎた」
「ガイ」
「次の依頼、俺一人で受ける。それで取り返す」
止める間もなく、ガイは翌朝、単独で山岳の討伐依頼を受けてしまった。
依頼は、二日後に「未達成」として戻ってきた。
ガイ自身は無事だったが、依頼主から正式な苦情が届いていた。単独行動による現地判断の誤りで、討伐対象を取り逃がした上、周辺の畑を一部踏み荒らしたという内容だった。
「取り返すつもりが」
「逆に増えたな、失点」
リオンの声には、もう怒る気力もなかった。
ギルドの掲示板には、二人の名前が入った依頼の評価欄が貼り出されていた。星の数は、以前より確実に減っている。
その夜、クレアは自分の部屋で、古い書物を何冊も机に広げていた。呪術関連の蔵書だった。
「何してるんだ」
リオンが扉から覗き込むと、クレアは慌てて本を閉じた。
「別に、何も」
「呪いの本、読んでるのか」
「調べているだけです。可能性の話として」
「可能性って」
「私たちに、何か原因があるはずなんです。こんなに、立て続けに」
リオンは何か言おうとして、結局、口を閉じた。
否定する材料が、手元になかった。
クレアは机の本を、また一冊開いた。ろうそくの灯りが、ページの上でゆっくり揺れていた。
石造りの町並みは、ルミエ村よりずっと賑やかだった。露店が並び、荷馬車の往来も多い。ノアは薬草の仕入れのため、村から二日かけてこの宿場町まで来ていた。
大通りの真ん中で、人だかりができていた。
「伝説の治癒師様が、この町に立ち寄るらしいぞ」
「本当か?」
「宿場の主人が言ってた。噂の出所は辺境の村らしい」
ノアは人だかりの端を通り抜けながら、特に気にせず歩いていた。
薬草屋の店先で品定めをしていると、店主がふと顔を上げた。
「あんた、もしかして」
「何です?」
「いや、なんでもない。最近、変な噂ばっかりでね」
「変な噂ですか」
「治癒師様が、村ひとつ丸ごと救ったとか、そういう話だよ。話半分に聞いてるけどね」
「話半分でも、多いですね」
「三日前は治癒師、今日はもう伝説の治癒師様だ。そのうち神様になるんじゃないか」
店主は笑いながら、薬草を紙に包んでいった。ノアは代金を払い、店を出ようとしたところで呼び止められた。
「あんた、その荷物」
「はい」
「薬草の匂いがするね。あんたも治療師か何かか」
「そんなようなものです」
「へえ。もしかして、あんたが噂の」
「さあ、どうでしょう」
ノアはそれだけ言うと、軽く会釈をして店を後にした。店主はしばらく首をかしげていたが、次の客が来ると、その疑問はすぐに紛れて消えた。
町を出る頃には、日が傾き始めていた。ノアは特に何も気にせず、村への帰り道を歩き始めた。
同じ頃、王都のギルド前で、クレアは旅装の行商人から話を聞いていた。
「辺境の村に、伝説の治癒師様がいるって噂、聞いたことあります?」
「伝説の……」
「猫の怪我から、老人の腰まで治すって話でさ。俺も宿場町で聞いた又聞きだけど」
クレアの手から、持っていた荷物がわずかに滑った。
「その村の名前は」
「さあ。辺境としか」
行商人が立ち去った後も、クレアはしばらくその場から動かなかった。
「どこ行くんだよ、急に」
拠点に戻ってきたリオンが、思いつめた顔のクレアを見て声をかけた。
「確かめたいことがあるんです」
「確かめるって、何を」
クレアは答えなかった。ただ、荷物の中に、あの呪術関連の書物を一冊だけ入れた。
荷物をまとめるクレアの手は、いつもより乱暴だった。着替えを詰め込みすぎて、鞄の口が閉まらない。
「聖女様が、こんな辺境まで一人で行くなんて」
宿の主人にそう言われても、クレアは曖昧に笑って誤魔化した。事情を説明する気力はなかった。
乗合馬車の乗り場で、クレアは御者に告げた。
「ルミエ村行きの馬車は」
「ああ、それなら向こうの三番だよ」
言われた通り三番の馬車に乗り込み、二時間ほど揺られたところで、隣の乗客に聞いて気づいた。
「あの、これは……」
「これは北の鉱山行きだね」
「ルミエ村は?」
「反対方向だよ」
クレアは次の停留所で降ろしてもらい、来た道を戻る羽目になった。半日、無駄にした。
宿場町に着いたのは、予定より一日遅れてだった。
宿を探して歩いていると、道行く人の噂話が耳に入った。
「伝説の治癒師様、この間この町にいたらしいぞ」
クレアは足を止めた。
「この間って、いつのことですか」
「さあ、昨日か一昨日か。もう発ったって話だよ」
一日、差があった。それだけの差で、すれ違ってしまったらしい。
クレアはその夜、宿の粗末なベッドの上で、荷物の中の書物を開いた。呪術の本だ。何度も読んだページを、また同じように読んだ。答えは、前と同じように書かれていなかった。
翌朝、財布を落としかけて、宿の主人に呼び止められた。
「聖女様、これ、落としましたよ」
「あ……ありがとうございます」
「随分、急いでらっしゃるんですね」
「はい。少し」
主人は特に深くは聞かず、朝食のパンを余分に包んでくれた。
「道中、気をつけて」
クレアは礼を言って、宿場町を出た。ルミエ村までは、あと二日の道のりだった。
道の途中、何度も同じ石畳の模様を見た気がした。急いでいるはずなのに、景色の流れる速さは、いつもと変わらなかった。
「ノアさん」
声をかけられて振り返ると、畑の畦道に、旅装のクレアが立っていた。土埃で裾が汚れている。長旅の跡が、いつもの聖女の装束には不釣り合いだった。
「お久しぶりです」
「お元気そうで何よりです」
ノアは鍬を杖代わりに、軽く頭を下げた。クレアの顔が、少しだけ強張った。
「あの、話したいことが」
「そちらの荷物、随分重そうですね。お持ちしましょうか」
「そういうことじゃなくて」
クレアは荷物を抱え直し、一度深く息を吸った。畑仕事をしていた近くの農夫が、聞くともなしにこちらを見ている。
「ノアさん……本当に、ずっと後悔していました。あの時、ちゃんと」
「お元気そうで何よりです」
「さっきも言いました、それ」
「そうでしたか」
ノアは畑の隅に置いていた籠を持ち上げ、収穫した野菜を詰め始めた。クレアはその横で、続きの言葉を探していた。農夫が別の農夫を肘でつつき、二人でひそひそと何か話し始めるのが視界の端に映った。
宿への道すがら、バーバラが井戸端で洗濯物を干していた。
「あら、お客さん?」
「バーバラさん、こちら」
「聖女様だろ、噂は届いてるよ。噂が届くのが早い村でね、ここ」
クレアは会釈しながら、また口を開きかけた。
「あの、本当に、あの時は」
「ノアさん、この人が来る前に、今晩の分の薬草届けるんじゃなかったっけ」
「そうでした。ちょっと失礼します」
「え、あ、ノアさん――」
ノアは籠を抱えたまま、宿の方へ歩いていってしまった。クレアはしばらく立ち尽くした後、バーバラに向き直った。
「あの、ノアさんは、私のことを」
「別に何とも思ってないんじゃないかね、あの人」
「そんな、身も蓋もない」
「本当のことだからね」
バーバラはそう言うと、洗濯物を叩いて皺を伸ばした。
「あんた、ここまで何日かけて来たんだい」
「五日、です」
「五日かけて、拍子抜けしに来たようなもんだ」
「そこまでは言ってません」
「顔がもう言ってるよ」
クレアは反論できず、宿の看板を見上げた。色褪せた木の板に「やど」とだけ書かれている。長い旅の終わりにしては、あまりに素っ気ない眺めだった。
その夜、宿の食堂で、クレアはようやく落ち着いてノアと向き合えた。他の客はおらず、ランプの灯りが二人分の食器を照らしている。
「これ、渡したくて」
差し出されたのは、丁寧に包まれた小箱だった。以前、遠征先でノアが欲しがっていた薬研だった。
「わざわざ、ありがとうございます」
「使ってくれると、嬉しいです。あの、それで――」
「ちょうど、古いのが欠けていたので助かります」
「そうじゃなくて、私が言いたいのは」
「これで薬草の粉末も細かくできます」
クレアは箱を見つめたまま、しばらく黙っていた。スープの湯気だけが、二人の間でゆっくり立ち上っていた。
「……あの時、他に言い方があったはずなんです。あんな、追い出すみたいな」
「気にしていません」
「気にしてほしい時も、あるんです」
「そうなんですか」
「そうなんです」
クレアはスプーンを置いた。ノアはその様子を見て、少し考えるように黙った。長い沈黙ではなかったが、いつもより一拍だけ長かった。
「……美味しいですね、このスープ」
「話、逸れてます」
「逸れてはいません。おかわり、聞いてみましょうか」
クレアは箱を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……もう、いいです」
「何がです?」
「何でもありません」
クレアはそう言うと、スープに視線を落とした。バーバラが横を通りかかり、小さく肩をすくめた。
「言ったろう」
「言いましたね、確かに」
クレアは深いため息をついた。ノアはその隣で、もらった薬研をさっそく箱から出して眺めていた。刃の合わせ目を指でなぞり、小さく頷いている。それだけで、少し機嫌がよさそうに見えた。クレアはその横顔を、しばらく黙って見ていた。
翌朝、クレアは村を発った。
見送りに出たバーバラに、クレアはぽつりとこぼした。
「拍子抜け、しました」
「そういう人だからね」
「恨まれてるより、辛いかもしれません」
「それは、あんたが勝手に思ってるだけだと思うけどね」
クレアは曖昧に笑って、馬車に乗り込んだ。
畑の方で、ノアが鍬を振るう音が、遠くからかすかに聞こえていた。振り返らないまま、馬車は村を出た。
村を出てしばらく、クレアは荷物の中の小さな包みに気づいた。宿を出る間際、バーバラが「これ、道中で食べな」と持たせてくれたものだった。開けると、村で採れた干し果物が入っていた。
クレアは少しだけ、窓の外を見る目を緩めた。
「……甘いんですね」
御者には聞こえない声で、そうつぶやいた。
馬車は、宿場町へ向けてゆっくりと進んでいった。
王都の東門近く、いつもなら畑の緑が広がっているはずの土地に、灰色の靄がかかっていた。朝露のようにも見えたが、触れた作物は次々と萎れていった。
始まりは、数日前にガイが受けた「古い遺跡の調査」依頼だった。単独での信用回復を焦っていたガイは、立ち入り制限の札を無視して奥まで踏み込み、封じられていた石碑にひびを入れて帰ってきた。本人はその時、何も気づいていなかった。
「まさか、あれが原因なのか」
「わからん。でも、時期は合ってる」
リオンとガイが顔を見合わせている間にも、靄はじわじわと広がっていた。
ギルドの緊急会議室は、いつになく人で埋まっていた。
「瘴気の発生源は特定できたのか」
「遺跡の石碑と思われます。ただ、浄化には広域の対応力が必要で」
「うちの聖女は」
「祈祷は瘴気の抑制までしかできません。浄化までは届きません」
職員の一人が、書類をめくりながら呟いた。
「……そういえば、この手の瘴気の対処法について、やけに詳しい報告書を書いていた人がいましたね。実際に使う機会はなかったはずですが」
「誰の話だ」
「事務仕事のついでに書いていたような、ただの控えです。たしか、少し前まで、こちらのパーティーにいた回復術師でしたが」
「ノアか」
リオンがその名を口にした。
「今は退団しているようですが」
「連絡先は」
「わかりません。退団の届けには、行き先の記載がなくて」
「探せ。今すぐ」
ギルド長の声に、周囲が一斉に動き出した。
靄は、その間にも少しずつ、街の方へ近づいていた。
拠点に戻ったリオンは、地図を広げて頭を抱えていた。
「辺境って言っても、範囲が広すぎる」
「ルミエ村です」
クレアがそう言うと、リオンとガイが同時に振り返った。
「知ってるのか」
「少し前まで、そこにいました」
「行ってきたのか、お前」
クレアは地図の隅、小さな点でしか描かれていない村を指さした。何も答えなかったが、それが答えだった。
「ここです。ルミエ村」
「王都の方で、大変なことになってるらしい」
宿の戸口で、早馬に乗ってきた男がそう言っているのが聞こえた。ノアは食堂の隅で、遅い昼食を取っていたところだった。
バーバラが応対に出て、しばらく話し込んでいた。戻ってくると、妙にあっさりした顔で言った。
「あんた宛だって、これ」
差し出されたのは、ギルドの印が押された封書だった。ノアはスープを一口飲んでから、封を切った。
中身に目を通す。瘴気の発生。浄化が追いつかない。心当たりのある者は至急、王都へ。
「なんて書いてあった?」
「王都が、ちょっと困ってるみたいです」
「ちょっと?」
ノアは手紙をもう一度読み返した。
「まあまあ、困ってるみたいです」
バーバラは腰に手を当てて、ノアの顔を覗き込んだ。
「行くのかい」
「ついでなので」
「ついでって、あんた、何のついでだよ」
「薬草も、そろそろ切らしていたので」
その言い方に、バーバラは小さく噴き出した。
「よく言うよ」
部屋に戻り、荷物をまとめながら、ノアは手紙をもう一度開いた。
瘴気の広がり方を示す簡単な図が添えられている。線の伸び方を見て、ノアの手が、一瞬だけ止まった。
これは、聖印を使う必要がありそうだ。
そこまで考えて、ノアは荷造りの手を再び動かし始めた。表情は、さっきまでと変わらなかった。
薬草の束、包帯、それから聖印の道具一式。荷物袋に詰め込んでいく手つきは、いつも通り丁寧だった。
出立の朝、村の入り口までバーバラが見送りに来た。
「すぐ戻るのかい」
「たぶん」
「たぶんって」
「向こうの都合次第なので」
バーバラは腕を組んで、ノアの荷物をじろじろと眺めた。
「随分、荷物少ないね。王都まで行くのに」
「必要な分だけなので」
「あんたがそう言うと、逆に心配になるんだよ」
ノアは特に答えず、荷物袋を担ぎ直した。
「では、行ってきます」
「気をつけてね」
「はい」
村を出る街道の先、朝靄がまだ薄く残っていた。ノアはその中を、いつもと同じ歩調で歩いていった。
王都の門をくぐると、街はいつもと違う匂いがした。焦げたような、それでいて湿った匂い。門番はノアの顔を見て、一瞬だけ怪訝な顔をした。それから手元の紙と見比べて、慌てて敬礼した。
「回復術師のノア様、ですね」
「様はいらないです」
「東門の詰所まで、ご案内します」
詰所に向かう道すがら、住民たちがちらちらとこちらを見ていた。誰かが何かを囁き、それがまた別の誰かに伝わっていく。ノアは特に気にせず、荷物を担ぎ直しながら歩いた。
詰所には、リオンとガイ、それにギルド長が険しい顔で立っていた。クレアの姿もある。
「ノア……本当に、来てくれたのか」
「呼ばれたので」
「呼ばれたのでって、お前」
ガイが何か言おうとしたが、ギルド長がそれを遮った。
「説明はいいですか。すぐにでも」
「はい、大丈夫です」
東門の外、瘴気は畑ひとつ分ほどの範囲に広がっていた。畑の隅、これまで誰も気に留めていなかった土手の下に、崩れかけた石造りの入り口が口を開けている。ガイが踏み込んだという遺跡は、そこだった。入り口の手前には、へし折れたままの立ち入り制限の札が転がっている。近づいた兵士が咳き込み、後方に下げられていた。
「石碑は、この奥です」
案内の兵士がそう言って、入り口の先を指した。靄は、その入り口を境に一段と濃くなっている。
「これまでに、聖女の祈祷で抑制は続けていますが」
「抑制止まり、ですよね」
「はい。浄化までは、どうしても」
ノアは荷物袋を地面に置いた。中から、聖印の道具を取り出す。
一拍。
表情が、いつもよりわずかに静かになった。
それだけだった。
靄の中へ、ノアは歩いていった。誰も止めなかった。止められる空気ではなかった。
崩れた入り口をくぐると、石段が地下へ続いていた。靄はここが発生源らしく、段を下りるごとに濃くなっていく。突き当たりの小部屋に、ひびの入った石碑が沈むように立っていた。
石碑の前に立ち、両手をかざす。
光の粒子も、聖なる詠唱も、なかった。ただ、石碑のひびに沿って、靄が端から順に薄くなっていった。
一分もかからなかった。
小部屋に立ち込めていた靄は、すべて晴れていた。石碑のひびからは、もう何の気配も感じられない。
石段を上り、入り口をくぐった。畑の緑が、萎れていた場所から少しずつ戻っているのが見えた。
周囲が、静まり返った。
兵士の一人が、口を開けたまま何も言えずにいた。ギルド長が、手に持っていた書類を落としたことにさえ気づいていなかった。
「終わりました」
ノアはそう言って、聖印の道具を布にくるみ直した。
「い、今の、一体……」
「軽い浄化です」
「軽いって、これ、国が動くレベルの」
「そうですか」
リオンが何か言おうとして、結局何も言えずにいた。ガイは腰を抜かしたまま地面に座り込んでいる。クレアだけが、少し離れた場所で、何かを堪えるように口元を押さえていた。
ギルド長が、震える声で切り出した。
「勲章の手続きを、今すぐにでも」
「必要ありません」
「いや、しかし」
「薬草を仕入れないといけないので、村に戻ります」
「薬草、ですか」
「そうです」
ギルド職員の一人が、横から口を挟んだ。
「あの、伝説の治癒師様だと聞いていたので。もっとこう、光ったり歌ったり」
「歌いません」
「ですよね」
職員はそれだけ言うと、諦めたように肩を落とした。
ノアは荷物袋を担ぎ直した。
「では、失礼します」
誰も、その背中を呼び止められなかった。
王都を発つ朝、ギルド長がもう一度、勲章の話を持ち出した。
「せめて、名誉だけでも」
「特に、興味はありません」
「やっぱり、断られますか」
「薬草が待っているので」
ギルド長はそれ以上食い下がらず、深々と頭を下げた。周りの職員たちも、それに続いた。ノアは軽く会釈だけを返し、門へ向かった。
詰所の前で、リオンとガイが所在なげに立っていた。
「戻るのか」
「戻ります」
「また、パーティーに戻る気は」
「特にはないです」
「だよな」
リオンはそう言って、小さく笑った。以前のような空元気ではなく、少しだけ乾いた笑い方だった。
「俺たち、装備の手入れの仕方、一から覚え直すことにした」
「いいと思います」
「お前がいたから、気づかなかったんだよな。当たり前のことが、当たり前じゃないって」
ノアは特に答えず、荷物袋を担ぎ直した。
クレアは少し離れた場所で、こちらを見ていた。何か言いたそうにしていたが、結局、小さく手を振っただけだった。ノアも軽く手を上げて、それに応えた。
ルミエ村までの道は、行きと同じだけの日数がかかった。景色は、行きに見たものと変わらなかった。
村の入り口が見えたとき、畑仕事をしていた老人が、真っ先に気づいて手を上げた。
「おお、帰ったか」
「ただいま帰りました」
「王都の方、大丈夫だったのか」
「なんとかなりました」
老人はそれだけ聞くと、また畑仕事に戻っていった。深く聞かれることはなかった。
宿に着くと、バーバラが玄関先で腕を組んで待っていた。
「お帰り」
「ただいま帰りました」
「王都で大立ち回りしたんだって?」
「聞いていたんですか」
「この村、噂の回るのが馬より速いんだよ」
ノアは荷物を下ろし、二階の部屋に向かおうとした。その背中に、バーバラが声をかけた。
「そういえば」
「はい」
「また変な噂が立ってるわよ。隣村の方で」
「まさか」
「まさか、って顔もしてないけどね」
ノアは荷物袋を肩に掛け直した。
窓の外では、畑がいつも通りの緑を広げていた。
「まあ、そんなもんでしょう」
そう言って、ノアは階段を上っていった。




