Case 01「〇殺」第一節「神頼み」
さて、ここに箱がある。
中には猫がいて、外からは中がどうなっているか全くわからない。
その猫が生きているか、死んでいるか。
君にはわかるかな。
……シュレディンガーの猫を想像しているのかな。
残念ながら、少し違う。
あれは思考実験である以前に、皮肉でもある。少なくとも、ここで私が聞きたいのは量子力学の話ではない。
これは推理クイズではない。
君という人間を知るための、心理テストのようなものだ。
ある人は、箱を猫ごと潰せば死んでいる状態にできると言った。
ある人は、中を確認することを禁じられていないのだから、開ければいいと言った。
またある人は、死の定義そのものを疑い始めた。
それはさておき、改めて君の答えを聞こう。
君はどうする。
どうやって、この謎を解く。
……なるほど。
君らしい。
いや、探偵らしいというべきかな。
でも君は、それを怠った。
だから君は――。
箱を、潰してしまったんだ。
Case 01「〇殺」
第一節「神頼み」
午前六時、アラームが鳴り響く。
重い瞼を持ち上げようとするが、力が入らない。
仕方なく、手の感覚だけを頼りに目覚ましのスイッチを探す。
探して、探して、何度もベッド脇の固い棚を叩く。
ようやくその輪郭を掴めたと思った途端、それは私の手から引き抜かれた。
「起きてください。もうすぐ始業時間ですよ」
助手の呆れ果てた声が、頭上で響く。
「あと……あと五分」
中学生のような物言いで布団にうずくまり、朝日と目覚まし時計からなんとか目と耳を守ろうとする。
しかし、当然それは叶わない。
ついには助手に布団から引っ張り出された。
ぼやける頭のまま、助手に言われるがまま朝の支度をさせられ、気づけばデスクに座っていた。
このような体たらくは昔から変わらない。
だから自由業を選んだというのに、親が助手に取って代わっただけで、結局は何も変わっていない。
当初は助手に対して、恥ずかしいだの申し訳ないだの思うところもあった。
だが、ことここに至っては、もはや日課である。
しかしだ。
ここで私のだらしない性格だけのせいにされるのも困る。
主要因がそれであることは認める。
認めるが、助手の人柄と能力の問題についても言及すべきだろう。
寡黙ながらも面倒見がよく、大抵のことをそつなくこなす助手は、言ってしまえば働きアリだ。
働きアリがすべてやってしまうから、私は怠けざるを得ない。
つまり、これは環境問題でもある。
そこで私は、この問題を解決すべく、素晴らしい提案を持ちかけることにした。
「やっぱり、始業時間を十時からにしないか……?」
「馬鹿なことを言っていないで、仕事をしてください」
助手はそう言って、私の素晴らしい提案を一蹴した。
この探偵事務所の始業時間は七時半。
通学や通勤の前に寄ってもらえるように、この時間にしたのだ。
しかし、今のところ、この時間帯の依頼は減少傾向にある。
せいぜい稀に、金銭的に余裕のある女学生が、彼氏やら、思い人やら、ひどいものだと追いかけているアイドルの調査を依頼してくる程度だ。
もちろん、大した収益にはならない。
この調子が続けば、自ずと始業時間は遅くなるだろう。
助手だって、朝から好き好んで働きたいとは思わない。
……思わないよな?
「天知さん。来客ですよ」
「くそっ」
ああ、かわいそうな私。
しかし、忌まわしいデスクワークから解放されたことを喜ぶとしよう。
今度は一体どんな子が来たのか。
そう思っていたが、そこに立っていたのは、これまでの依頼者とは明らかに違っていた。
出迎えると、中年の女性が少しうつむき気味に立っていた。
背丈は私と同じか、少し高いくらいだろうか。
いかにもな中流階級のご婦人で、ひどくやつれている。
この手のご婦人からは、よく浮気調査の依頼が来る。
だが、今回はどうにもそうではないらしい。
指輪がない。
それをはめていた跡すらない。
もちろん、そのレベルで夫婦仲が冷え切っている可能性もある。
だが、それならこのやつれ方にはならない。
少なくとも、浮気相手からいくら慰謝料が取れるかを皮算用しに来た人間の顔ではなかった。
つまり、いつものつまらない浮気調査ではない。
久々に、少しは考える余地がありそうだった。
そう思ったのを察したのか、助手はひとこと、
「お茶とコーヒー、どちらになさいますか?」
と伺って、奥へ消えていった。
「さあ、どうぞおかけください」
私は彼女をソファーへ案内し、できるだけ自然な笑みを浮かべた。
明らかな異常を前にして、好奇心が動いている。
それは認めよう。
だが、依頼者の前でそれをそのまま顔に出すほど、私は未熟ではない。
無表情は冷たい。
かといって、満面の笑みは残酷だ。
必要なのは、その中間。
相手が安心し、自分が退屈していないことも悟られない、ちょうどよい顔。
つらいのは、本心がどちらであってもこの顔をしなければならないこと。
楽なのは、一度覚えてしまえば、それなりに自然に作れることだ。
彼女がソファーへ腰を下ろして、幾秒もしないうちに紅茶が出された。
定型の営業文句を口にしようとした私より先に、彼女は語り出した。
「実は少し前、息子が死にました。警察は息子の死を自殺ということで処理したのですが、どうにも不可解なのです」
「不可解……とおっしゃいますと?」
「はい。動機が全くわからないのです。息子は家庭では明るく、学校でも順風満帆に過ごしていると聞いていました。何か思い詰めているようには見えませんでしたし……」
「……なるほど。ということは、遺書等も見つかっていないわけですか?」
「ええ。そうなんです。自殺なら、遺書の一つくらい残しますよね? もしかすると息子は、誰かに殺されてしまったのではないかと……。もちろん、何か原因があったのかもしれません。学校で、実はいじめられていたとか。そういうことも含めて、調査をお願いしたいのです」
彼女は少し興奮気味に語り、途中でそれに気づいたように、徐々に声の調子を落としていった。
理解者を見つけた子供が、その理解者に失望されないよう、慌てて平静を取り繕う。
どこか、そんな印象を受けた。
「わかりました。ご依頼内容は、息子さんの死の真相。そういうことですね?」
彼女は頷き、厚みのある封筒を差し出してきた。
見たところ、二百万はあるだろう。
「夫は、先月、息子の後を追って自殺しました。その時の遺産ではありますが、夫も真相を知るためとあれば、きっと承諾してくれると思います。何卒……何卒、よろしくお願いいたします」
彼女は、うっすら涙を浮かべて懇願した。
祈るような声だった。
神にでもすがるような、危うい声だった。
「……わかりました。しかと承りました」
私は、彼女の感傷的な世界を壊さない程度に、声を落としてそう答えた。
「では、知る限りのことを詳しくお伺いいたします。まずは、息子さんの交友関係から……」
そうして、情報収集と諸々の手続きが終わった。
彼女の背中を見送りながら、助手が私に語りかけてくる。
「実際、他殺の可能性はどうなんです?」
「正直なところ、調べてみないと何もわからないかな。彼女は家庭には問題がないと言っていた。なら、まず調べるべきは学校だね」
そう言いながら、私は彼女から聞き取った情報を殴り書きしたメモを、助手の胸に押し当てる。
うん。
すごく嫌そうな顔をしている。
だが、私だって書類仕事は嫌なのだ。
ここは「助手」である彼の出番だろう。
ため息をつきながらメモを受け取った助手は、一瞬、眉をひそめた。
「……これだけですか?」
それに対して満面の笑みを返してやると、助手は心底呆れた顔をした。
「では、可能な限り情報をまとめて、お昼に話し合いましょう」
そう言って、助手はパソコンの前へと消えていった。
名前と年齢しか記述のないメモを手に。
主人公の名前は天知凪ちゃん




