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  作者: 西中凛呉


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1/1

 女子高生が来て、またやばいのがいたと言う。


「いつも下を向いて、口をもごもごさせて何か言ってくる。

 聞こえないけど。

 それに握りこぶしの中の親指を出したり入れたりする。 

 口の上に紫色の線があって、顔色が悪くてマジ気持ち悪い。

 ムリ」


 交番のドアを開けっぱなしにして、外にいるのも口々に上目使いで見るだのふらふらしているだの言う。

 車の音に搔き消されて、半分は聞こえない。


 大体、この少女たちがなっていないのである。 

 毎日毎日交番の前で待ち合わせて、アーチ型の車止めに腰掛けてお菓子を食べたりジュースを飲んだりしてゴミを捨てる。

 出て行って注意すると

「お巡りさん、捨てといて」

と言ってゴミを渡す。

 取り巻きがどっと笑う。

 時には、わざと短いスカートの裾を引っ張ったりスパッツを引き下ろしたりして

「わあ、見たー、エッチー」

と言って、みんなでキャーッと笑う。

 パトロールに出る丸山に

「お疲れさん。

 はい、これあげる」

と言って、飲みかけのペットボトルを渡したこともある。

 このご時世なので腕も掴めず、声を荒げることもできない。

 相手のしたい放題で、丸山はいつもイライラする。

 今までの勤務の中で、一番やりがいのない情けない職場である。

 実家が山主だったから、子どもの頃から体を動かすのは苦にならない。

 だが、ああいう女子高生を相手にしていると警官になったのは失敗だったかなと思う。

 何があったって相談になんか乗ってやるものか、というのが私的な感情である。

 しかし、丸山はもうベテランなのでそんなものには動じない。

 誰がお前たちなんかに、とは絶対に言ってはいけない。

「気持ち悪いというだけで交番に引っ張っては来られないよ。

 気を付けて見ておくよ」

と言って、今日はそれだけで帰した。


 先月から同じことを何度も言って来ている。

 火曜日はパトロールで留守にしていると、カウンターの卓上メモに小学生が書いたような平仮名ばかりの書置きがあった。

 その後も進展はないが、確かに不審な人物である。


 ところがある日、例の女子高生達がバタバタと走り込んできて

「今あのやばいのが、ガード下の自転車をひっくり返して暴れている。

 すぐに行って」

という。

 丸山は交番を出て、五百メートルほど北のガード下の自転車置き場へ走った。

 大学二年の時には日本インカレ男子二百メートルの決勝に出場している。

 脚に自信はあったが、通行人に気を配らなければならない。

 橋脚の向こうの駐輪場に、大柄な男が見える。

 五十過ぎのがっしりした体格の男で、ドミノ倒しになった自転車を起こしている。

 上背があり肩の厚い武道家のような体格だが、なるほど顔色が悪くぼんやりしている。

 鼻の下に横一文字の紫色の傷がある。

 何の傷なのか分らない。

 しかし、どこかであった顔である。

「すみません」

 と言うと、男は土色の顔を上げた。

「そこの駅前交番の丸山ですが、パトロール中です。

 どうかされましたか」

 いつまでたっても返事がない。

 抑揚のない男の表情は不気味である。

 「不審者情報が寄せられているので、声をかけさせていただきました。

 皆さんに声をかけています」

と、言わずもがなのことを言ってしまう。

 男はくぐもった声で

「自転車が倒れたので直しています。」

と答えた。

 迷惑そうだが丁寧な言い方で、常人と変わった感じはない。

「そうですか、学生が悪戯をして倒したりすることがありますが」

と言って、丸山は自転車を起こすのを手伝った。

 会話の糸口を見つけるためである。


 今、男は自転車が「倒れた」と言った。

 「倒した」ではない。

 自動詞で会話を進める人には、被害者意識の強いタイプが多い。

 不幸な環境で育った人にある。

 一般には他責的思考をする依存的傾向の強い人が多いが、犯罪とは縁のなく自分が害のない人間であることを確信できる人生を歩いてきた真面目な人にもかなり見られる傾向である。

 そちらのタイプは被害者意識が強くても、良識があり復習しようなどとは考えない。

 サドルを絡め合った自転車は、一面に倒れていた。

 向こうでかがんでいた男が、ふと動かなくなった。

「どうかされましたか」

 丸山は前の自転車を跨いで、男に近付いた。

「ライトが割れています。」

 今度も男は「割った」ではなく「割れた」と言った。

「本当ですね。この自転車はあなたが倒されましたか。」

「はい、鞄が当たって赤い自転車が倒れて次々に倒れてしまいました。」

 今度は「倒れてしまいました」と言う。

 無意志動詞の「倒れる」と「しまった」の組み合わせに、自分は何と不幸な人間なのだろうという思いが滲み出ていた。

「被害弁償と言うほどの問題にはならないかもしれませんが、一応交番でお名前を聞かせてもらっていいですか」

「自転車を起こさなくてもいいんでしょうか」

 次は否定疑問形である。

「いいですよ」

 丸山は残りの自転車を一人さっさと起こした。

 男も黙って動いている。

 例の女子高生たちとは大違いだ。

 

 人ごみを警官について歩くのは人目が気になるだろうが、好奇の目の中を男は静かに付いてきた。 

 体は大きいが大人しい。

 責任逃れをしようなどとは夢にも思ってはいない。

 あの女子高生達とえらい違いだ、とまた丸山は思った。


 交番に戻って、男にカウンターの椅子を勧めた。

 何の気力もなさそうな大きな背中が丸い。

 やる気もないし反抗的な気持ちもない。

「ここに住所と氏名、電話番号、生年月日を書いてください。

 あと、非常の場合の連絡先、勤務先でも結構です」

と言いながら、巡回連絡カードを仕切りのプラバンの下から押し出す。

「はい」

と籠った声で答えて、男はすぐに書き始めた。

 アレルギー性鼻炎なのかしら、とふと思った。


 小さな几帳面な文字である。

 どこかの総務の仕事か設計などの専門職に見える。

 いずれにしてもまじめに働いて、専門の知識を身に着けた感じが振舞にも服装にも見て取れた。

 静かな佇まいからは文系の教養が感じられる。

 高校か大学の先生かもしれない。

 新しくはないが、スーツが様になっている。

 ずいぶんと紙に近付いて書いていた。

「目が悪いのですか。

 座っているのが辛そうですね。

 お酒を飲んでいますか」

 先の駐輪場での出来事は酔って自転車を出そうとして、ふらついたのかもしれないと思った。

 それでも自転車は押して歩かなければ、酒気帯び運転は「三年以下の懲役または五十万円以下の罰金」酒酔い運転なら「五年以下の懲役または百万円以下の罰金」である。

「酔って自転車に当たったのですか」

「いや」

 男は答えた。

 また間がある。

 ひどくうつむいた頭の天辺に清潔感がある。

 頭と腕の隙間から見える紙の連絡先の欄に、勤務先の会社の名前が見えた。

 日和川の手前にある、上場はしていないが大手の会社である。

 ボイラや食品機器の製造を行っている会社で、昔から海外輸出もしていた。

 会社の住所と電話番号もすらすらと書く。

 総合職だろう、勤務先の番地や電話番号は直ぐに書けない人の方が多い。

 自宅の番号は携帯だった。

 家族の欄は空白である。

 独り者だ。

 女子高生に気持ち悪いと言われる内気な感じはそこから来ているのかもしれない。

「書き洩らしたところはないでしょうか」

 男は紙を仕切りの下からこちらへ入れた。

 また否定疑問形である。

 警察官を信頼しているのか、プライドの高いところがあっていちいち確認せずにはいられないのか、低姿勢な疑問形の会話は丸山より年上で教養もありそうな男には不自然である。


 氏名の欄にはバランス良く「大山拓也」と書いてある。

 書類に目を通しながら

「一人暮らしですか」

 と訊くと

「はい、一人です。

 親の家の近所に引っ越しをしてアイリッシュセッターを飼えなくなった人がいて十七年一緒に暮らしたんですがこの間亡くなりまして」

 と、突然語り出した。

 唐突な上に主語がなく、話がどう繋がるのかよくわからない。 

 誰かが亡くなったのだけはわかるので

「亡くなったのですか」

と、できるだけ残念そうに言った。

 「はい」

 大山さんはしんみりと頷いた。

「それで飲んでいらしたのですか」

「いえ、ふらふらするのです。

 眠れなくて。

 健康診断の時に抗うつ剤を貰おうとしたのですが、抗うつ剤は減らし方が難しいそうで。

 心療内科へ行くよう言われました。

 時間がないんですよね。

 大きな病院は待ち時間が長いんで」

 体調が悪いのなら、すぐに治療をしないでそんなことを言っている場合ではないだろうと思ったが、職務ではないので

「それはたいへんですね」

 と軽く流した。

 大山さんはすっかり気を許しているように話し続けた。

 丸山と反対の方に少し体を斜めにして座っている。

 「栞は避妊手術をしたことがありましてね。

 病院で一泊して次の日迎えに行ったら、目の周りの毛がすっかり剥げてましてね。

 体に金髪がもつれてくっついていました。 

 ああ、こんなに大変なことをさせたんだなと思いましてね。

 私は栞の子どもができる体を愛したのかもしれません」

 何の話やらわからない。

 金髪の女性と結婚していたのだなと思った。。

「雌はやっぱり優しいですね。

 包容力がありますね。

 哺乳類同士ですから、やっぱり何かあるんですかね」

 会話に「やっぱり」が多い。

 犬の名前が栞だと理解するのに時間がかかった。

 途端に馬鹿馬鹿しくなった。

 おっさん、何をか言わんやである。

 そんなことだから、女子高生に馬鹿にされるのである。

 カウンターの電話の横の卓上メモに

「ヘンタイのことでそおだんにきました。

 なぎちゃん」

と書いてあった馬鹿にである。


 円山は世間話のように、しかし強い調子で言った。

「しっかり休んだ方がいいですよ。

 私もこういう仕事ですから、鬱病になって休職している人をたくさん知っていますが、慢性化しないように休養を最優先に、薬物療法と精神療法を組み合わせた治療をするのが大事らしいですよ。

 結局困ったことになるのは自分なんですから、自分で大事にしないと誰も甘やかしてくれませんからね」

 この年上の落ち着いた男に、言い聞かせているのが妙な気持ちである。

 就職した時には社会から孤立している老人とか女子高生を助けるのが警察官の仕事だと思った。

 だが、彼らは強かで現実的である。

 祖父や父の時代とは違う。

 自分が力にならなければならないのが、こんなおっさんであることに現代社会がよく現れていると思う。

 後悔や反省は善良な人間にしかない。

「ええ。

 何か申し訳なくてしようがないんですよね。

 十七年、私を待ってくれたんです。

 一度も機嫌悪くしたことはないんですよね。

 この間、僕のワンダフル•ライフを見てましたらね、赤毛のゴールデンレトリバーの雄が雌のジャーマンシェパードに生まれ変わるんですよ。

 栞が生まれ変わって来たってもう何なんだって感じですよね。

 クローンにしたって外見が同じでも魂が全く違うわけですから、もう栞っていう体と魂の組み合わせはないんですね。

 なんなんでしょうね」

と言って、突然ケラケラケラッと笑う。

「まっ、私が先に行っても栞は私を恨んで悩んだでしょうけどね。

 私だってこの体を栞が勝手に始末したら怒りますけどね」

 常人には理解のできない考察である。

「そんなことは考えなくてもよい、どうせあり得ないんだから」

と思うが、我慢して繰り言を聞いている。

「寂しいですよね」

としみじみと言ってみる。

 この繊細な人の心には、物心のつく前から意識するとしないとに関わらず刻まれた複雑に入り組んだ海岸線のようなたくさんの傷があるのだろう。

 スライムのように姿を変えながら、その傷の隅々まで温かに満たしていた栞さんの存在。

 それが流れ出してしまった後の傷口の痛みはどれほどなのか、丸山にも少しわかるような気がした。

 この人は、自分では磊落に振舞っているつもりだろうが、時々素っ頓狂に明るい。

 この年になるまで見たことのなかった自分の傷を、この人は今見ている。

 「嫌なことがあってね」と話しかけたら、栞さんは首を傾けて長い金髪を揺らして優しく微笑んだのだろう。

「退職したら栞を連れて、南から北へ桜を追いかけようと思ってましてね。

 キャンピングカーを探していたんです。

 近頃は、歩くのも少し辛そうでしたし」

 しんみり言うと、静かになった。


「こちら、生年月日が抜けてますんでお願いします」

と言って、紙を返すと

「あ、すみません」

と素直に謝って、紙に目を落とす。

 そんなだから女子高生に馬鹿にされるのである。

 馬鹿でも悪でも何でもいいから、もっと強気でなくてはならない。

 唇を内側に巻き込んでやけに強く歯茎で嚙み締めて、右手の軽く握った拳から親指の付け根を出したり入れたりしながら、紙を見ている。

 橋本渚が気持ちが悪いといったあの仕草である。

 丸山はその仕草に見覚えがあった。

 

 丸山の家は祖父の代から警察官である。 

 祖父の名前は清と言った。

 清は妻の信子が、その年癌の死亡率で一番高かった胃がんで亡くなった年の秋、隣町の知り合いから雑種には珍しい真っ白のきれいな雌犬をもらってきた。

 清がどこへ行くにも連れ歩いて可愛がるものだから、近所の人が「お信さんの生まれ変わりだ」と言って面白がった。

 マルも本当に若い妻のようにつつましやかに、いつも少し後ろに座って清を見上げいた。  

 マルは死ぬ半年ほど前に椎間板ヘルニアで自分で立ちあがれなくなった。

 すると、清はマルに自分で作った補助ベルト付けて歩行訓練をさせてやった。

 朝晩一日二回、マルの肉球に踏ん張りやすい様にワセリンを塗ってやる。 

 木の根のような手で、白い毛に埋もれたマルの桃色の肉球を柔らかく握り、親指でマッサージをする。

 それが、大山さんの親指を動かす動作であることに気づいたのである。


 清は食事の時に、マルを起こしてうつ伏せに寝かせてやる。

 マルは健康な犬がするように首を立てて前足を揃えて伸ばす。

 白い毛が艶やかで美しい。

 その前足の付け根のマルの口のすぐ前に清はいつも温めた餌を置いてやる。

 その頃から清は自炊をするようになって、よく味噌を解く前の出汁を冷ましたものをマルの椀に分けてやった。

 「お信さん」は鷹揚に、そして幸せそうに清を見上げながら舐める。

 清は何気なく、しかし誠実にマルの面倒をみた。 

 そのうちにマルは、納屋の筵の上に敷いてもらった布団の上で甲高い獣じみた声をあげて鳴くようになった。

 その度に清は納屋へ入ってマルの腹や顔を撫でた。

 マルの体はいつもきれいに吹き清められて、生成り色になっていた肉球の周りの毛が純白の艶のある白毛にもどった。

 痩せて白い狼のように、気品のある姿になっていった。

 寝てばかりいた最期の頃、清はよくマルの鼻に手を当てて息を確かめていた。

 もう肉球のマッサージはしなかった。

 食べなくなってからは、枕元に置いたガーゼに水を含ませて口を湿らせてやった。

 そしてある午後、眠るように死んでいった。

 耳の重みで引っ張られて開いているマルの眼を、畑から帰ってすぐに納屋を覗いた清が土のついた手で撫でて閉じてやった。

 犬は屋敷に埋めてはいけないというが、夏の間中シロップにして飲んでいる庭の梅の木の元に、清はマルを埋めた。

 それから西の庭の百日紅の下に割れた石臼を埋めて植えてあった春蘭を、小さな土饅頭の上に植えてやった。

 土が合うのか数年経つと良く増えて、ちょっとした花壇のようになった。

 また「信子草」といって、近所の人が笑った。


 それから清はマルが使っていた鉢にマジックで「マル」と書いて、亡くなる八十歳の春まで農機具を入れた納屋の棚に置いてあった。

 清が亡くなってから、その荒い明るい茶色の素焼きの器は丸山が家に持って帰った。

 部屋の本棚に置いてある。

 「お信さん」と呼んでみんなが笑った犬のものである。

 消えかかっているのか初めからマジックがよく書けなかったのかわからない薄いマジックで「マル」と書いてある。

  丸山は時々「マル」と言う文字を正面に向き直すことがある。


 大学に入ってアパート暮らしを始めるまで、丸山は毎晩清と布団を並べて寝た。

 その時に清から聞いた話は、いつの間にか自分自信の記憶のようになっている。

 三世代の家であれば子どもは祖父母がそのまた祖父母から聞いた話を聞き、それを実体験として感じて育つ。

 百年を超える時間が、記憶の中に受け継がれることになる。

 それは情を通して聞くが故になされうる同一化である。

 清は頑なで偏屈な人間だった。

 小さな町を転々として、警部補で退職した。

 実に節倹を尊ぶ質で、現金を使うのを見たことがない。

 飲み物は絶対に買わないので、丸山が畑へ付いて行った時にも手に山水を溜めて飲ませてくれた。

 三叉路にぽつんと立った自動販売機のジュースが欲しくて「やーい、けちんぼ爺」と囃したことがある。

 しかし、清が丸山を叱ったことは一度もなかった。

 退職後は民生委員を引き受けたので、丸山が付いていくこともあった。

 訪れた家でコップに注いだジュースを出してくれても、それに手を付けてはいけない。

 清が亡くなったとき、三十一で亡くなった祖母が嫁に持ってきた開くと「ファーッ」とオルガンの音が鳴る桐のタンスには、活動費としてもらった金が封筒に入ったまま残っていた。

 一度、担当の家に丸山と同じ年頃の少年がいて、家からずっと付いてきて道端の石を蹴って寄越したことがある。

 丸山が振り向いて少年の方へ行こうとすると、清が丸山の背中を押して家の方向へ促した。

 

 ある夏の夜、蚊帳をつって開け放した座敷で丸山が清と並んで寝ていた時、それは随分幼い日のように思うのだがいつかは記憶にない。

 とにかく終戦記念日であった。

 昼にNHKの正午の黙禱の合図に合わせて、清と一緒に丸山も手を合わせてじっとしていた。

 長い静かな昼であった。

 母が素麺をこしらえていて、缶詰の蜜柑を入れてくれるというので待ち遠しくて仕方がなかったのを覚えている。

 その夜、清から戦争の話を聞いたのである。


 清が五歳の時、父親は妻と清を残して戦争に行っていた。

 池の杼を抜いてあるので田んぼに水を入れていた清の祖父が、七時過ぎに家に戻った。  

 夏なのでまだ明るい。

 祖父が清に

「婆ちゃんはまだ戻らんのか」

と聞くので

「うん、まだ戻らん」

と答えたまま、縁側で足をぶらぶらさせていた。

 今日は蚊が少なくて嬉しかった。

 祖父はそのまま門を出て行った。 

 それから内山の叔父と叔母が来て、祖母が大八車に乗せられて帰ってきて、近所の人がみんな集まって、お通夜をした。

 やがて終戦になり清の父が戻ってきた。

 それからの祖父は平穏に生きているように見えた。

 その祖父が、山で農薬を飲んで死んだのは清が就職して十年余り経った頃である。

 その知らせを受けた時

「しまった、心は再生しないことを忘れていた」

と思ったと言う。

 二年前には清の祖母の弔い上げの三十三回忌を済ませていた。

 二人の子の父親になっていた清は、法事の後で祖父の肩を叩いて言った。

 「まあ、嫁さんの三十三回忌をできる言うのは長生きをした証拠やな。

 幸せなことや」 

 祖父は

「いいや、幸せなことやない。

 嫁さんに先に死なれて生きるのや」

と言った。

 ハッとするものがあったと言う。

「分からなかったんだなあ。つらかったのだと思うよ。

 息子は戦争にとられて、嫁さんは死んで。

 ずーっとつらかったんだなあ。

 気が付かなかったなあ。

 年を取ってから女性的な感じになって、髪も肌も色素が薄くなって痩せてね。

 早く死にたい、早く死にたいとよく言っていたなあって皆に言っても、皆知らないんだ。

 お爺ちゃんだけなんだよ、それを繰り返し言うのを聞いたのは。

 戦争と言うのはむごいもんだよ」

 いつか丸山は眠りに落ちたが、その話の哀れさは丸山の中に実体験として残った。


 大山さんは黙って座っている。

 まだ話があるのかもしれないと思いながら、丸山は出来るだけ自然に振る舞ってそこらで仕事をしていた。

 彼の口元の紫色の線に思い当たることがある。

 マルが死んでから、清は唇を中に入れて歯茎をぐっとかみ合わせることがあった。

 丸山は、子どものような顔をしているなと思っていた。

 この人の上あごに赤紫の大きな痣のようなものがあるのは、ほとんど自傷行為のような強い力で歯茎で上あごを噛んでいるのだ。

 強いストレスを受けて自分の生を否定した時、苦しみに耐えているつもりが自分を攻撃しているのだ。


 大山さんが顔をあげた。

 丸山は、今気がついたように

「いいですか、終わりましたか」

と声をかけた。

「はい、これでいいでしょうか」

とまた彼は言った。

「はい。

 いいですよ。

 自転車の前照灯のことで、届け出があった時には連絡させていただきます」

と丸山は答えた。

「はい、よろしくお願いします。

 すみませんでした」

とお辞儀をして、大山さんは出て行った。


 後ろ姿を見送りながら丸山は思った。

「三年半か、長いな」

 大山さんが退職するまでに、まだ三年半ある。

 あの人は退職するまでに、栞さんが亡くなった時に見失ってしまった幸福な老後をもう一度見つけることができるだろうか。

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