ふたつ目のお話「足を引く怪」
7月11日の夜半、K実からメッセージアプリ経由でビデオ通話があった。ちょうど食事をしようとした矢先だったので、あとにしてくれといったのだが、「食べながらでもいいから」と無茶なことを言い出す。一瞬、切ろうかと思ったが、K実だからいいかと思い直した。
K実としては、今日聞いてきた話を私に聞いてもらいたかったみたいで、興奮気味に以下の話をしはじめた。
☆☆☆
T県にあるI島には、「絶対に夜、海を見てはいけない日」がある。
こういった伝承自体は、さほど珍しいものではなく、日本全国に同じような話が伝わっている。その多くは、何らかの神事のためであるとか、夜に海に行って遭難することを戒めるためなどの理由で言い伝えられたものだ。
「海を見ると祟られる」などということで、海への畏怖を忘れないようにする役目もあるかもしれない。
僕自身、I島の伝承も、そんなよくある言い伝えのひとつだと思っていた。
今思えばやめておけばよかったのだが、この伝承に興味を持った僕は、I島出身の友人と一緒に『海を見てはいけない』と言われている、まさにその日に島を訪れた。
古くからその土地に住んでいる信心深い住民は、その日は朝から家の戸に目を土で塗り潰したザルを下げ、家に閉じこもっていた
「昔からこうだ。この日は店も開けないで家にいる。余程の用事がない限り、外出もしない」
と、友人は言った。
「安息日みたいなものなのかもしれないな。働きすぎないように、とか」
僕は考察めいたことを口にする。
昼間ならいいだろうということで、せっかく夏のいい季節に来たのもあり、僕らは海に入ることにした。
I島の海はとてもきれいで、岸近くにも関わらず大小の魚が泳ぐ姿を間近に見ることができた。
ライフジャケットを着て、シュノーケリングを楽しんでいた僕らは、海の美しさにすっかり魅了されていた。
そして、午後4時を過ぎた頃、そろそろ夕方に差し掛かり、さすがに上がらなければまずいだろうという話になった。
僕自身は全く祟りだのは信じていないが、島で育った友人は、やはり何か落ち着かないらしく、帰りたそうにしていた。
ところが、さあ、帰ろうということで岸辺を見ると、思いもかけず沖まで来てしまっていた事に気づいた。
引き潮というわけではないはずなのに・・・
僕は少し慌てて、友人を促し、岸に向かって泳ぎ始めた。
日が徐々に傾いてくる。
バタ足をしたり、手で掻いたりするが、一向に岸に近づかない。
変な潮の流れがあるのかもしれない。
もしかして・・・
「なあ、あの伝承は、もしかしたら、今日のこの日、島から離れる海流が強くなるから、海に出るな、とか言う意味じゃないよな?」
僕は友人に尋ねた。
もしそうだとしたら、僕らは本当に遭難するかもしれない。
「いや、そんなわけない。そんな特別な潮が一日だけあるなんて聞いたことない」
そりゃそうだ。
杞憂だったのか・・・
だが、岸は一向に近づいてこない。
夕日が沈みだした。
いつの間にか時計は5時を回っていた。
僕はますます焦ってきた。
「があ・・・!」
そのとき、友人が突然、声を上げた。
ライフジャケットを着ているはずなのに、溺れるように手が宙を掻いている。
「おい!」
僕は友人の手をつかみ、引き上げようとしたが、ものすごい力で引っぱられているようで、顔を引き上げることすらできなかった。
それどころか、自分まで引き込まれそうになり、ガボっと海に顔を突っ込んでしまった。
そして、潜った先に見たものは、一生忘れない。
友人の足に幾重にも絡みついた黒い手、崩れ落ちそうなほど腐った人の顔
何かが友人を悪意を持って引き込もうとしていた。
それを見た瞬間、恐怖のあまり、僕の意識が途絶えた。
目が覚めると、島の病院のベッドだった。
ライフジャケットのまま漂っているところを付近の漁師が助けてくれたようだった。
友人は行方不明だと言われた。
☆☆☆
もちろん、中居のAさんがこういう感じで語ったわけではなく、彼女が言ったのは、『I島に伝わる風習』『そこで禁止されている日に泳いだ学生がいた』『その内ひとりが行方不明、もうひとりは記憶が混乱していたらしい』ということだった。上記のごとく書き下したのはひとえにK実のジャーナリストとしてのサービス精神というか、もっと言えば虚構だ。
実際、『友人の足に幾重にも絡みついた黒い手、崩れ落ちそうなほど腐った人の顔。何かが友人を悪意を持って引き込もうとしていた』ってところは?と尋ねたところ、「その方が迫力があるでしょう?」と悪びれもなく言っていた。
「でもね、この『目を土で塗り潰したザル』ってのは意味深でさ、多分、『目を潰す』、見ていないですよ、私達は、ってことだと思うんだよね。要は、見ること自体を禁止している何らかの怪異があるってこと」
ちなみに、Aが言うには、その大学生は海を極端に恐れるようになった、という。
「明日は公民館と村役場、それから鈴本さんの家に行ってみるつもり」
その日のK実との通話はそこで切れた。