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3杯目 音で話す客と静寂のミルクティー

午後の澪音(みおね)は、いつもより静かだった。というより、静けさが音になりそうなくらい、空気が澄んでいるという方が適した表現かもしれない。

その()()()()()を感じたくて、普段流している蓄音機が奏でるレコードの音も今は止めている。


今時、なんで蓄音機?とよく言われる。それは結構単純な話で、デジタルでは味わえない独特のかすれた音に心を打たれたからだ。

針がレコード盤の溝をなぞることで生まれる振動が音楽を奏でる、というよくよく考えればとても高度な技術であると感じ、それが更に興味を引くことにもなった。


だが、今日はその『音』も止めている。都心にしては自然に囲まれているこの場所でも、普段はもう少しいろいろな『音』が響いている気がする。

それなのに、今は無音にも近い状態。それがなぜか無性に心地よく、窓から入る木漏れ日と相まって、お伽噺(とぎばなし)の中に入り込んだかのような錯覚さえ覚えるほどに。

それを味わいたくて、時々こうして無音の日を作っている。


そんなときだった。

扉が、()()()()開いた。


いつもであれば、扉に取り付けられている鈴がチリリンと音を鳴らすのに、それが今はなぜか沈黙していた。


「……いらっしゃいませ」


僕はカウンター越しに声をかけたが、相手の応答はなかった。

代わりに、そこに立っていた存在は、すぅっと漂うように無音のままカウンター席に腰を下ろした。


相手を見ると全身の輪郭が少し揺らいでいることに気が付いた。目を凝らせば確かに存在しているのに、うまく焦点が合わず、そこには何もないかのような錯覚にさえ陥る。

それはまるで朝霧のように形を保たず、けれど周りの景色と調和しているかのように。


「……何にいたしましょうか?」


静かに尋ねると、“その人”は、ほんのわずかに首を傾ける。

そして、不意にカウンターの木のテーブルを指先で軽く弾いた。


コツン。


その音は小さいのに、やけに鮮明に耳に響いてきた。今日の澪音(みおね)の静けさが、それをひときわ際立たせているのかもしれない。


「……注文、ですか?」

また、コツン。


「ミルクティー?」

また、コツン。


「ホットでいいですか?」

しばしの沈黙。やがて、コツン。


なぜだろう。この“コツン”という音から、感情が伝わってくるように感じ、なんとなく相手の言いたいことが分かる、そんな気がしている。

僕は、静かにうなずいてミルクティーを作り始める。

鍋に牛乳を注ぎ、紅茶の葉をゆっくり温めながら、”その人”をちらりと見る。

輪郭はやはり曖昧なまま。果たして性別もあるのかないのか。でも、不思議と不安は感じない。むしろ、その曖昧さにどこか懐かしさを感じる。昔、まだ言葉をうまく話せなかった小さき頃、誰かと心だけで繋がっていたような、そんな感覚に近い。


「……あの、あなたは地球のことを、どれくらいご存知なんでしょう?」


僕が思い切って尋ねると、“その人”はしばらく静かにしていたが、やがてカウンターを一度だけ、コツンと鳴らした。


「ちょっとだけ……ってことかな?」

またコツン。


「地球の言葉は、あまり得意じゃない?」

今度は、コツン、コツン。


なるほど、言っていることはわかる、と。


「このお店、澪音みおねって言うんです。簡単に言うと“流れる水の音”って意味です」


“その人”はテーブルに触れている指先を一瞬止め、そっとカウンターを撫でるように横に滑らせた。それはまるで、名を味わうような仕草に思えて、ちょっと嬉しくなった。


「名前…気に入っていただけましたかね?」

……コツン。


やがてミルクティーができあがり、湯気をゆらすカップを目の前に置く。“その人”はやはり音もなく、両手でそっとカップを包み込み口元に運んだ。その時立ち上った湯気が意思を持ったかのように揺れ動いたのが見て取れた。

音の振動は空気を揺らすと聞いたことがある。その揺らめきが良い味だと伝えてくれてている気がした。

いや、たぶん気のせいかもしれない。けれど僕のなかで何かがじんわりとほどけたのは確かだった。


「……あなたは、どこから来たんですか?」

“その人”は少し考えるように間を置き、カウンターを軽く二度、弾いた。

コツン、コツン。


「遠くから、ということですか?」

さらに、もう一度、コツン。

なるほど、かなり遠いみたいだ。


「名前……はありますか?」

しばらくの沈黙。そして、コツン。


「名乗らない、って意味ですか?」


そのときは反応がなかった。おそらく無いということなのだろう。僕は笑って首をすくめた。


「わかりました。じゃあ、僕が勝手に呼んでもいいですか?」

……コツン。


「“音のひと”……なんて、どうでしょう」


不思議なことに、そのときだけカウンターを三回、少し間隔を空けて叩いた。

コツン……コツン……コツン。

肯定とも否定とも取れない曖昧な反応だったが、どこか楽しそうにも感じられた。きっとそれでいいってことなんだと思う。

ミルクティーをもうひとくち飲んだ“音のひと”は、今度は指先でカウンターに円を描くように動かした。

円がひとつ、ふたつ、円の中に円を描くように重ねて言っている。


「それは……時間を意味してます?」


とくに動きは無く、無音。どうやら違ったようだ。


「では記憶?」

今度は、コツン。


今、この時の体験を記憶しようとしている、と言っているように思う。その動きは、レコードに音を記録する針の動きを彷彿とさせ、”音のひと”の中に刻んでいるということなのかもしれない。


「……この店、静かでしょう?」


問いかけると、“音のひと”はふたたびコツンと鳴らした。


「静かすぎるって言われることもあるんですけど、僕は好きなんですよ。音のない空間って、想像が膨らむというか。だからたまにこうして『音』を出さない日を作ってます。」

ふたたび、コツン。


「あなたにとっては、この静けさも会話の一部なんですか?」

ゆっくりと一打。


それは、やさしい肯定の『音』だった。


「言葉がなくても、伝わるものって、あるんですね」


僕がそう言うと、“音のひと”は、またコツンとやさしく答えた。

どこか、微笑ましいやりとりだなと思った。言葉は交わしていないのに、なぜか心がほぐれていくような不思議な感覚。


そういえば子どものころ、おじいちゃんがよく言っていたことを思い出した。

『沈黙の中にも音はある。聞こうとすれば、ちゃんと聴こえてくる』って。この“音のひと”には、その音が彩をもって聴こえているのかもしれない。


ミルクティーのカップが空になったころ、“音のひと”は静かに立ち上がった。別れの言葉も、振り返りもしない。

けれどカウンターに置かれた指先が最後に一度だけ、やさしく木を弾いた。


コツン。


それはまるで、「またいつか」とでも言っているような、そんな音だった。

僕はノートを開いて、今日の客を記す。


今日の客――“音のひと”。

出身:不可視領域サイル

注文:ミルクティー(ホット)

心が、ほんの少し響いていた。


そうメモを添えて、僕はカウンターに残る残響を引き上げた。

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