2杯目 氷の星の女と「時」が溶けたアイスコーヒー
梅雨が明けたばかりの午後、夏の日差しが神々しく街全体を照らしている。外にいると汗が止まらず、気をつけないと熱中症になってしまいそうになる暑さだ。
そんな中「澪音」の店内は、外の熱気をほんの少しだけ忘れさせてくれる。効かせすぎない冷房の風は静かで、挽きたてのコーヒーの香りがゆるやかに漂っていた。
こういう空間が好きで喫茶店を始めたんだっけなと、少し感傷に浸っていると彼女は店に訪れた。
白銀の髪に透き通るような肌。
深い青を宿した瞳は、まるで氷の結晶を閉じ込めたようだった。
「いらっしゃいませ」
そう声をかけると彼女は無言のまま軽い会釈をし、静かにカウンター席へと腰を下ろす。その動作があまりに自然で、まるで何年もこの店に通っている常連のようにすら感じられた。
「暑いですね」と僕が言っても、彼女は首をかすかに傾けただけ。
僕の目の前にあるメニューには一切目を通さず、まっすぐカウンターの奥に置かれたグラスに視線を向けている。
「何か冷たいものでも?」
少し迷って、彼女は声を発した。
「……氷の、ある飲みものを」
それだけをゆっくりと口にした。彼女の言葉は静かで、どこか探るようだった。どこで覚えたのか、方言とも少し違う片言の発音に少しだけ異質な抑揚が混じっていたけれど、それでも十分に伝わった。
どうするかと悩んだ僕は、深煎りの豆でアイスコーヒーを淹れることに。最初はアイスティーにしようかと思ったが、なんとなく今の彼女にはそれが必要な気がしたのだ。
豆を挽きながら、僕はちらりと彼女の横顔を見た。美しい、と言えば簡単だけれど、それでは言葉が足りない。麗しいとか、優美とか、そうした美しさを表す言葉のすべてが当てはまるかのような容姿をしている。それでいて、この星のどこを歩いても見かけたことのない冷気を帯びた雰囲気。
その冷ややかさにドキッとしたが、それは不安や異性に対するものというより単純に興味をそそるものだ。
ドリップしたコーヒーを氷の入ったグラスに注ぐと、カラカランと音を立てながら薄く湯気が立つ。
直ぐに消えるそれは、目に見えなくとも香りとして辺りに広がっていき、鼻腔を擽る。
再び氷の音がカランと響き、コーヒーがすっかりと冷えると、グラスの中に静かな世界が広がる。
「お待たせしました、アイスコーヒーです」
はじめて目にするのか、不思議そうな表情をしてまじまじと見ていたが、ゆっくりとグラスを手に持ち、ストローの先っぽをくわえ一口、ゆっくりと飲んだ。
「……苦いですね。けれど、嫌いじゃない。それに、なんとなく、優しさのようなことを、感じる」
「深煎りのコーヒーは、そういうところがあります。時間をかけて馴染んでいく味、とでもいいましょうか。もし苦手でしたらガムシロップ・・甘い蜜のようなものを足すこともできますが・・」
「いえ、このままで・・時間、ですか・・地球では、それが流れているんでしたね」
「え? もちろんですけど……」
僕は思わず苦笑ってしまった。美しさの象徴ともいえる彼女が発する言葉としては、あまりにも突拍子もないことのように思えたから。
「あなたの星には、時間がないんですか?」
彼女は視線を落としたまま、氷の溶けかけたグラスを見つめていた。
「正確には、“感じる必要がない”と言ったほうが、近いかもしれません。私の星では、すべてが凍ったまま、保たれている。だから何かが変化する、ということがない。変化のない世界には、時間も存在しない」
「それは……ちょっと寂しい気もします」
「そうですか? 私は逆に、時間に縛られていることの方が、心がざわつきます。たとえばこのグラスの氷も、こうして徐々に、溶けてしまうんですよね」
「ええ、時間と温度には勝てませんから」
「でも、溶けていくことが美しいと感じる人間もいるのでしょう?」
その問いかけに、僕はしばらく考えてから答えた。
「たしかに……たとえば、誰かと一緒に飲んでいて、氷が少しずつ小さくなるのを見ると、『ああ、今この瞬間が確かに流れてる』って思えたりするかもしれませんね」
ちょっと詩人っぽいことを言ってしまったかなと思うと、妙な気恥ずかしさが襲ってきた。もしかしたら顔が少し赤みがかっているかもしれない。
だが、彼女はそんなことは意に介さず(興味もないのかもしれない)またひと口飲んだ。
グラスの外側に広がるいくつもの小さな水滴が、彼女の指に触れた部分から静かに滑り落ちていくのを見て、これもまた時が流れているということかな、などと考えてしまう。
「……私は、時間に溶けていくのが、ちょっと怖い」
「けれど、あなたはこの店に来た。そして、今お飲みになっているアイスコーヒーの中の氷が徐々に解けていくことに思いを馳せている。つまり、今ここにいる「時」を、ちゃんと感じてるってことですよね」
彼女は少し黙っていた。けれど、やがてぽつりと言った。
「たぶん、そうなのかもしれない。私の星では、色々なものが、“凍っている”。感情も、言葉も、記憶も――何もかも。そうやって「時」は止まっている。でも、こうしてコーヒーの苦味を感じたり、店主の声を聴いたりしてると、わずかだけど……自分の輪郭があるような気がします」
その言葉を聞いて、僕はふと自分の手を見てふと思った。この手が、誰かの境界線をほんの少し温められているなら――この店も少しは意味を持っているんだろうなと。
「よかったら、また来てください。ここでは、コーヒーも会話も、ゆっくり溶けていきますから」
彼女は小さく頷いた。
そしてグラスの中の氷を見つめながら、かすかに微笑む――ここまでほとんど表情が変わらず、どこか悲しげな表情を思わせていた――その表情にまたドキッとした。
今度のは確実にその美しさに当てられて。
やがて彼女は立ち上がり、短く「ありがとう」とだけ言って、店を出ていく。呆然と眺めながら見送るとドアが閉まる直前、わずかに冷たい風がカウンター内まで届いてきた。
その冷気ではっと我に返えり、中身がすっかり空っぽになったグラスとおしぼり、その横に置かれた代金を眺めながら、僕はいつものようにノートを開いて今日の客を記す。
今日の客ーー”美しき氷の女王”
出身:氷結星スラグナ
注文:アイスコーヒー(深煎り)
心が、ほんの少し溶けた日。
そうメモを添えて、僕はカウンターを綺麗にして時を戻した。