1杯目 月裏の詩人と深煎りブラックコーヒー
2025.7.16改稿
澪音とは、「水の流れのように、そっと寄り添い、記憶と記憶をつなぐ場所」を意味しています。
異星人が流れ着く、静かでやさしい喫茶店澪音で、あなたも一杯いかがですか?
朝の光が葉を透かし、風が軒先の風鈴をふわりと鳴らす穏やかな日和。いつものように豆を挽きドリップポットを傾けると、立ちのぼる深みのある香りが店内を静かに満たしていく。
そのおかげで、店内はいつもゆったりと落ち着いた雰囲気があり、僕はそれが好きでこの喫茶店を営んでいる。
けれど、ここには一つだけ他とは違う変わった特色がある。
それは、『この星の者ではない人』がときどきやってくるということだ。
異星人――なんて言うと少し重い気がするけど、まあ、そんな感じ。
だから今日も僕は胸を躍らせてしまう。
さて、今日はどんなお客さんが来るだろう?
その男がドアを開けたのは、午前10時丁度。開店してすぐのことだ。ドアに掛けられたベルがチリンと鳴り、やわらかな足音が店内に入ってくる。黒のロングコートを羽織り、深くかぶった帽子のせいで顔の半分が影に沈んでいる。
一見すると怪しい人物、そこに更に拍車をかけているのは、一歩ごとにまるで重力を確かめるかのように、慎重に床を踏んで歩いている様だった。
だからと言って、警察に電話するなんてことはしない。
なぜなら彼が、『この星の者ではない人』というのが雰囲気で分かるからだ。
「いらっしゃいませ」
僕が声をかけると、彼はわずかに顔を上げ、目だけで微笑んだように見えた。カウンター席に腰を下ろすと、彼はメニューを開かずにこちらに目を合わせながら言った。
「ブラックを、ホットでお願いします」
低くどこか湿った音色の声を思わせたが、とても優しい印象を覚える響きでもあった。
「承知いたしました。では、今から豆を挽きますので少々お待ちください」
そう言って僕は新たに豆を挽き直す。ホットコーヒーならさっき淹れたばかりなので直ぐに出せるのだけれど、なぜか分からないがこの人には新しい豆を使いたくなったのだ。
当人は待つことは特に気にしない様子で、むしろ興味津々に僕の手元をじっとみていた。
「お待たせしました、ブラックコーヒーです。お熱いのでお気をつけて」
湯気の立ちのぼるコーヒーカップを彼の前に置くと、彼は静かに一礼した。ソーサーと共にカップを持ち上げ鼻先に持っていくと、香りを楽しんでいるのか、しばしそのままの姿勢でいた。
やがて、ひとしきり満足した様子でそのまま口に運ぶと、その瞬間肩からすっと力が抜けたように見え、深い吐息を吐いた。
「……重力が違うと、味も変わるんですね。苦みの中にも甘みががあってとてもおいしいです。」
「ありがとうございます!深煎りといって通常の焙煎よりゆっくりと時間をかけて焙煎した豆を使用しております。地球にいらっしゃるのは初めてですか?」
「そうなんです。私は月で長く暮らしていましたが……こちらは随分、にぎやかですね」
そう言った彼は、カップを見つめながら続けた。
「僕は、月の裏側の集落で詩を書いていました。言葉の重さが、そちらより少し軽いのですが、それでも詩というのはとてもいいものです」
「詩ですか、すごいですね!詩って言葉にちゃんと向き合ってる人でないと書けないものだと思うので憧れます。僕はそういうのが苦手なもので…」
「ありがとうございます。アナタは詩に理解がある方のようですね。それを分かっているひとって意外といないんですよ。ただ、私が書いているのは誰にも届かない詩です。声に出すと、すぐに月の風に吹き飛ばされてしまうので。……でも、たまにそれが、いいんです」
「誰にも届かない?書いたものを見せるのではなくて?」
「えぇ、月の者たちは文字を読むということはしないのです。もっと言うと文字という概念がないんです。我々は基本テレパシーで意思疎通を図ることができます。もちろん、今こうしているように声を発して会話をするということも可能です。ですが、わざわざ文字に起こすなんて奇特な人はいません。ですから私は自ら文字を生み出して詩を書くことにしました。」
「なぜわざわざ新しく文字を作ってまで詩を書こうと思ったんですか?」
「私は昔から地球の文化に憧れを持っていました。私の叔父にあたる人が昔、地球の書物だと言って見せてくれたことがありました。叔父は様々な文化を知るのが好きな変わり者で、色んな星に赴いては、そこの文化にかかわる何かを持って帰ってきていました。その中で私が特に興味を持ったのが詩でした。
当然読むことができないので叔父に読み聞かせてもらったのですが、なんとも掲揚し難い甘美な心持ちにさせてくれました。それ以来、私もこうしたものが書けるようになりたいと思い、地球の言葉を学ぼうとしたのですが、何分この星は様々な言語が存在するので習得が難しく、会話をするだけなら可能になりましたが、文字を学ぶことは諦めました。
それでも、詩を書いてみたいという思いは日に日に強くなっていき、だったら自分で文字を作ろうということに思い至ったわけです。」
「そうだったんですね。ということはお客様が生み出したその文字が月で初めての文字、ということになりそうですね!」
「・・なるほど。言われてみれば確かにその通りですね。それを今後使用する人が出てくるかはわかりませんが・・そうですか、私が・・」
当人は、ただ詩が書きたい一心で気づいていなかったみたいだが、文字のない世界で文字を生み出すというのは、それは地球で言えば飛躍的に文明を発展させ、そして最初に後世に語り継ぐことになったとされるシュメール人のように月の文明を大きく発展させるということになるかもしれない。
僕は黙って、彼の前に置かれているカップに視線を移した。
ブラックコーヒーの液面が、店内の淡い照明をゆるやかに映していて、それがなんとも幻想的な世界を想わせる。
彼は徐に一冊の小さなノートを鞄から取り出した。
使い込まれ古びえて見えるけど、深みを感じさせる革表紙。
中身は僕には読めないけれど、これが彼の生み出した文字なのだろう。
そしてかなり買い込んでいるようで、どのページにも繊細な筆致の文字がびっしりと綴られていた。
「この店の雰囲気なら、あるいは一篇くらい……届くかもしれないですね」
そう言って彼はひとつ、短い詩を声にした。
意味はわからなかった。けれどその響きは優しく、どこか懐かしさを感じさせた。
独特な柔らかな声と、窓の外の葉が揺れ店内に小さな木漏れ日の粒が踊っているような様がそう思わせたのかもしれない。
詠い終えた彼はコーヒーを飲み干し、静かに立ち上がった。
「とても、重みのある深い味でした。おかげで、良い詩が書けそうです」
彼がそう言ってドアを開けたとき、不意に僕は聞いた。
「次は、いつごろお越しに?」
振り返った彼は、少しだけ首を傾げて言った。
「詩がまた迷子になったら、そのときに」
ドアが閉まると、鈴が一度だけ、小さく鳴った。
あとには、ほんのりと冷えたカップと、静けさだけが残っていた。
僕はカウンターに戻り、いつものノートを一枚めくる。
今日のお客様――“詩人”。
出身:月の裏側。
好み:深煎りのブラックコーヒー。
そう記してから、僕は次の豆を手に取った。
午後にもまた、どこか遠くの星から、誰かがふらりと訪れるかもしれない。
ここは、そんな喫茶店なのだ。
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