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メンズエステ嬢

作者: さば缶

 昔、私は普通のオフィスで働いていた。

朝から晩までパソコンに向かい、人間関係や社内評価に気を揉みながら、いつかは自分でも満足できる成果を出したいと願っていた。

だけど、その「いつか」はやってこなかった。

むしろ、男たちからの視線や下世話な噂は増えるばかりで、気づいたらやたらと体に触れられたり、飲み会では「彼氏いないの?」と下品な話題を繰り返し振られたりしていた。

相手に不快感を伝えても「愛想が悪い」「そんなに怒るほどのことか」と逆に責められ、私の中で消化しきれない感情が積み重なっていった。


 上司に相談しても曖昧に誤魔化されるばかりで、結局は私が大げさだと扱われる。

次第に会社に行くのが恐ろしくなって、朝の電車の中で吐き気に襲われることすらあった。

それでも生活のために働かなければならない自分に苛立ち、社会人としての自分と女性としての自分の境目がわからなくなった。

「どうして私ばかりがこんな思いをしているのだろう」

そんな疑問ばかりが頭の中でぐるぐると回り、会社をやめる直前の頃は自分に価値があるのかどうかすら見失いつつあった。


 いつも通りのセクハラを受けていたある日、ふと呆れてしまったのだ。

「どうせ触られるなら、いっそこれを仕事にしたらどうなんだろう」

そんな自嘲混じりの考えが浮かび、そこから先は転がるようにメンズエステの求人を調べていた。

当時は自暴自棄になっていたから、何か新しいことを始めて強引にでも気持ちを切り替えたかったのだと思う。

私は上司に退職を申し出て、決して良くはない空気のまま会社を去った。

周りからは何かと陰口を叩かれたけれど、気にしていては自分の居場所なんてどこにもなくなると感じていた。


 メンズエステの世界は思っていた以上にシビアだった。

お客さんの多くは男性で、しかも過激な衣装やサービスを求めてやってくる。

私はそれまで、露出の多い服を着るのも躊躇するタイプだった。

ところが、ここでは当たり前のようにマイクロビキニに着替え、薄暗い個室で男の肌に直接触れてマッサージをする。

初めは自分にそんなことができるのか半信半疑だった。

しかし、思ったよりも客の反応はあからさまで、「若い子がこんな露出してくれるなんて最高だね」と喜ばれるたびに、私はどこか現実を忘れるような気持ちになった。


 もっとも、それだけでは済まない客もいた。

本来はメンズエステという建前上、過激な行為は禁止されている。

けれど、それでも裏オプションを要求してくる人は後を絶たない。

最初は断ることに躊躇もあったし、怖さもあった。

でも、あるとき上司や先輩にあたる女性たちから「裏オプションは稼ぎの大半を占めるのよ」と耳打ちされた。

まるで、セクハラの行き着く先としての「金銭的な対価」を提示されたようで、私は変な笑いが込み上げてきた。

「どうせ触られるなら、金になったほうがマシ」

そう言い聞かせて、私はさらに一線を超えたサービスにも手を染め始めた。


 その頃、私はある男性と深く愛し合っていた。

彼はとてもまっすぐな人で、私のどんなところも否定せず、「君は君のままでいい」と言ってくれる人だった。

社会人としてのプレッシャーで頭がいっぱいだった私にとって、彼との時間は唯一の安らぎだった。

彼と一緒にいると、自分の存在をまるごと受け入れてもらえている気がして、涙が出るほど安心できた。

こんなにも完璧な男がこの世に存在するなんて、と疑うほどに彼は優しかった。


 しかし、都合が重なり、私たちは離れ離れになることを余儀なくされた。

詳しい事情はあまり話せないけれど、家庭の事情や仕事の都合がいっぺんに絡み合い、どうすることもできなくなったのだ。

私は彼を追いかける勇気を持てず、彼もまた私を連れて行く覚悟がなかったのかもしれない。

それからしばらくして連絡は途絶え、私は一人きりで暮らしていくことになった。


 その後、あの優しさを超える男性には出会えず、私の心にはいつまでも大きな穴が空いたままだった。

メンズエステでいくら客に求められても、ほとんど恋愛感情なんて湧いてこない。

金が絡む場所でのやりとりは疑心暗鬼を生み、自分と相手の本心がわからなくなる。

本能的に、「誰かを本気で愛するなら、やっぱりこんな場所じゃない」と心が叫んでいるのだと思う。

けれど、現実問題として、私は彼の代わりを探しているわけではない。

ただ、一度味わった完璧とも思える愛情の記憶から逃れられずに苦しんでいるだけなのだ。


 一人で抱え込み切れない感情を、私は占い師に打ち明けるようになった。

最初は軽い気持ちだった。

「誰かに話を聞いてほしい」

そう思ってネットで調べた占いサイトに電話をかけたり、町の路地裏にある占いの店に飛び込んだりした。

すると、意外にも占い師は親身になって耳を傾けてくれた。

「あなたの運命の相手は決して一人ではないはずですよ」

「まずはご自分をもっと大切にしてあげてください」

そんな言葉をかけてもらうだけで、私は一時的に胸のつかえが取れるような気がした。


 それからというもの、私は時間があると占い師のもとを訪れるようになった。

未来に対する不安や、彼のことばかりを思い出してしまう苦しさを吐き出すと、占い師はうなずきながら励ましてくれる。

「人は人を愛する力を与えられているものですよ」

「その愛をかつて注いだ相手が完璧だったとしても、それがすべてではありません」

頭ではわかっているのだ。

人は恋をしては別れて、また新しく恋をするものだと。

でも、あの男性の存在が私の中であまりに大きすぎて、そこから先に進む勇気がどうしても出てこない。


 メンズエステで働いていると、たまに真剣に言い寄ってくる客もいる。

「こんなに綺麗なら普通に付き合いたいよ」

「いくら払えば君を買えるの?」

冗談半分なものから、真剣そのものの眼差しを向けられることもある。

もちろん私は仕事として笑顔をつくり、それなりに応対する。

しかし、内心では何も響いてこない。

私はただ、モヤモヤとした重いものを抱えながら、サービスをこなし続けるだけだ。


 そんな毎日を送っていると、時々自分が何のために生きているのかもわからなくなる。

仮面の笑顔とマイクロビキニ、そして裏オプションでの距離感。

客は客でしかなく、彼らがいなくなれば私はすぐにでも仕事を失う。

だけど、もっと違うやり方があるのかもしれないと考えても、その一歩が踏み出せない。

結局、今の生活がある程度の収入を保証していて、占い師への相談料金だってそこから捻出できている。

だから私は、心が擦り切れそうになりながらも、結局ここにしがみついてしまう。


 あの人のように心を満たしてくれる誰かを、一生見つけられないかもしれない。

それでも、私はあの人の完璧さにすがりつき、彼以外の男性をまともに見ることができない。

占い師にそのことを話すと、「自分の目をもっと開いてみましょう」と優しく諭される。

そんなことはわかっている。

わかっているけれど、その開いた目にいったい何が映るのか、自分でも想像できないのだ。

私は「完璧」を基準にしてしまっているから、多少の欠点を見つけるとすぐに気持ちが冷めてしまう。

そして同時に、かつての完璧だったはずの彼も、どこかで私の心を置き去りにしたのだという事実を、受け止められずにいる。


 夜の店じまいが近づくと、私は鏡の前で自分の顔を見つめ、ため息をつく。

マイクロビキニを着たままでは落ち着かないので、なるべく早く普通の服に着替えたい。

ほんの少し前まで、こんな仕事をしている自分なんて想像できなかったのに、今や私は誰かの視線や言葉に応じて肌をさらし、その代わりに金を受け取る日々を当たり前のように生きている。

社会のどこにも属せなかった私がたどり着いた先がここなのだと思うと、どうしようもない虚しさを感じる。

しかし、それでも私は明日のために店を出た後、コンビニで弁当を買い、部屋の電気を点けて、占いサイトを開き、誰かに悩みを聞いてほしいと願ってしまう。


 あの人を忘れられない自分を、いつまで引きずるのかはわからない。

あるとき急にふっと消えてしまうかもしれないし、一生引きずり続けるのかもしれない。

ただ、私にはそれをどうこうする方法が今は見つからない。

そして、それはこれから先も変わらないような気がして仕方がない。


 深夜の帰り道、ビルの窓に自分の姿が映る。

メイクの濃さが気になって、思わず目をそらす。

ふと、あの人が私に言ってくれた言葉が耳の奥で蘇った。

「君は君のままでいいよ」

それは優しくも残酷な言葉だと、今になってようやく思う。

「君のままでいた先は、結局こんな場所なんだよ」

自虐的にそうつぶやくと、虚空に言葉が消えていった。


 心の底から安心できる場所は、もうどこにもないのかもしれない。

一度でも完璧に近い愛を知ってしまうと、それ以降の関係はすべて不十分に感じられるのだろうか。

もし私がこのまま、メンズエステで愛の代わりに金を受け取り続けるのだとしたら、未来はどんな形になってしまうのだろう。

考えるだけで、どうしようもない息苦しさが胸を塞ぐ。


 けれど、今の私には自分を奮い立たせて新しい道を見つけるだけの力がない。

その力を与えてくれたのは、あの優しかった人だったのだと痛感する。

だから私は、この空っぽで切ない気持ちを抱えたまま、明日もまたマイクロビキニを身につけるのだろう。

占い師はきっと、「あなたの未来はあなた自身が作るのですよ」と言うに違いない。

だが、その未来がどんなものであれ、私はまだあの人を超える愛に出会えていない。

それだけが、どうしようもなく悲しいと同時に、どこか諦めのような安心を与えている。


 私は店のドアを開け、まだ暗い夜道に一歩足を踏み出す。

いつか、自分の心を満たしてくれる人が現れるのか。

それとも、この痛みを抱えたまま、私は歳を重ねていくのか。

答えの見えないまま、都会の喧騒は冷たく遠ざかり、占い師の言葉だけが頭の片隅に浮かぶ。

けれど、結局のところ、私は何も変わらないまま次の夜を迎える準備をするのだろう。

そして、その次の夜も、同じように。

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