もっと下(國見篇)
潮の匂いが、窓の隙間から忍び込んでくる。
海沿いの国道を走るたび、少しずつ、景色が変わっていった。高層ビルの影は消え、見渡す限りの青と緑が、ゆるやかに心をほどいていく。
──文人さんの居場所。
聞いていた住所をナビに入れて、指示に従うようにハンドルを切る。舗装が甘く、少しガタつく道を進みながら、俺はふと、運転席の窓を開けた。真夏の風が頬を撫で、潮の湿り気とともに、かすかに魚の匂いが混ざる。
一年ぶりの再会だった。
本城組を継いでからの一年は、死ぬほど忙しかった。再編、清算、根回し、話し合い、そしていくつかの穏やかじゃない処理。組織を守るために、正しいことだけをしてきたわけじゃない。それでも、なるべくあの人の背中に恥じないように、ここまで来たつもりだった。
「……見えてきた」
小さな集落が、海辺に寄り添うように広がっていた。ゆるやかな坂を下っていくと、古びた看板の並ぶ商店通りと、静かに揺れる漁船の影が視界に入る。港町というより、まさに“漁村”と呼ぶのがしっくりくる場所だった。
車をゆっくり停め、エンジンを切る。ドアを開けると、蝉の声と波の音が重なって響いた。
「……ここが、あの人の……」
俺は小さく呟き、村に一歩、足を踏み入れた。
すると、
「──あれ、誰だ?」
「見ねぇ顔だな」
港の隅に腰かけていた漁師たちが、目を向けてきた。警戒というより、純粋な興味のようだった。こんな場所にスーツ姿で現れる人間なんて、珍しいのだろう。俺だって違和感を感じなかった訳じゃない。それでも、彼に私服で会うのは、かなり抵抗があった。
俺は軽く会釈を返して、港の方へと歩みを進めた。ちょうど、岸壁の向こうに、見覚えのある後ろ姿が見えた。静かに背を向け、網の手入れをしている──あの背中。1年前、抗争の只中で、自分の前に立ちふさがっていた時と、何ひとつ変わらない。
「……文人さん」
その声に、男は手を止めた。ゆっくりと振り返り、そして──笑った。
「……なんだ、國見じゃねえか。随分立派になったな」
時間が、ゆるやかに巻き戻っていくような気がした。
俺は、小さく笑い返す。
「ようやく、来れました」
次の瞬間、文人さんの隣にいた少年が、俺に気づいて小さく首を傾げた。
「……この人が國見さん?」
「そうだ。この前話した俺の後を継いだやつでな」
文人さんがそう言うと、少年が、國見の前に一歩出る。
「こんにちは。シマの友達?」
「友達っていうか……弟分、かな」
「ふーん」
少年の口元が、どこか照れくさそうに緩んだ。文人さんはふっと笑って、俺の肩を軽く叩く。
「まぁ、話すことは山ほどある。とりあえず座れ。お前、ここまで何時間かけた?」
「三時間半ってとこですかね」
「遠いとこ、よく来たな。──待ってたよ、國見」
港の風が、三人の間を吹き抜けた。遠くで波がはぜる音がして、夏の空が静かに青く、広がっていた。
「で、國見って名前なんだよね?」
少年が、じっと俺を見上げながら言った。港の潮風が、彼の髪をふわりと揺らしている。
「そうだけど」
「へぇ……なんか、カタいね」
「カタいって、名前だぞ?」
「うーん……じゃあ、クニくんでいいや」
「え?」
「決定。シマの次は、クニくん」
唐突なあだ名に思わず眉をひそめたが、とりあえずすぐに口元を緩めた。どこか妙に説得力のある声だった。まぁ文人さんのことを“シマ”と呼ぶくらいだ、この少年の中でのルールがあるのだろう。
「……えっと、名前は?」
「瀬呂凪生!ナギって呼んで!」
「よろしく、ナギ。ナギはここの人?」
「うん。ここの生まれ。シマとは、一年前に会ったんだ」
「じゃあ、もうそんなになるのか」
「クニくんは、シマの……なに?」
「さっきも言ったけど、弟分。俺が若かった頃、世話になった人」
ナギは「ふーん」と曖昧に頷きながら、それでも俺の目を真っ直ぐ見ていた。少年らしからぬ落ち着いた瞳。その奥には、彼なりに見極めようとする眼差しがあった。
「……クニくん、シマのこと、好きなんだね」
「……ま、あの人に惚れた男は多いよ」
冗談めかして返すと、ナギはくすっと笑った。
「じゃあ、仲間だね」
「仲間?」
「おれもシマのこと、大事に思ってるから」
ナギのその一言に、俺は少しだけ心を揺らされた。
この子は本当に、文人さんのそばで、ちゃんと生きてたんだな。と、そう思った。
「……そっか」
「うん。……あ、クニくん。明日は漁、行く?」
「いや、誘われてねぇけど」
「じゃあ誘っといてあげる。おれも行くからさ」
その時、文人さんが傍らから立ち上がって、肩を回しながら言った。
「──そろそろ、うち寄ってけ。話したいこともあるしな」
「お邪魔していいんですか」
「なに言ってんだ。遠くから来たんだろ。うまい茶くらい、出させろ」
「じゃ、おれはここにいるね。二人で話したいことあるんでしょ?」
ナギが空気を読んだように笑い、港の方にひらりと駆けていく。振り返って手を振る姿を、俺はどこか微笑ましく見送った。
文人さんと並んで歩きながら、俺は小さく呟く。
「……いい子ですね」
「だろ? ちょっと変わってるけどな」
「文人さんのそばに、ああいう子がいてくれて、よかったです」
「……俺も、そう思うよ」
港を背に、二人はゆっくりと、文人さんの家へと向かって歩き出した。
文人さんの家は、港から少し離れた坂の上にあった。外壁は潮風に晒されて少し色褪せていたが、どこか温もりのある佇まいだった。俺は一歩ずつ階段を上がりながら、この土地で文人さんが暮らしてきた日々を想った。
「……立派な家ですね」
「そりゃ漁で働いてるからな。安月給だけど、静かに暮らすには十分だ。それに、組にいた頃の貯えもある」
ギシッと鳴る木の床を踏みながら、俺は奥の座敷へと案内される。窓からは穏やかな海が見え、潮の香りが部屋にまで届いていた。
「よくこんな場所、見つけましたね」
「ナギの親父さんが、もともと知ってた土地だったんだ。空いてる家を紹介してくれてな」
文人さんが湯を沸かしながら話す横顔に、かつての冷静さと違う、柔らかな余裕があった。
「この一年……ずいぶん変わったように見えます」
「そっちこそ。だいぶ顔つきが大人びたな、國見」
俺は湯呑を受け取り、湯気の立つ茶を口に含んだ。渋みと微かな甘みが、喉を通って腹に落ちていく。
「……実は、最近になってようやく、本城組を”組”として再始動させました」
「そうか。やっとか」
「ええ。最初は、どうしても怖がられましたよ。あの一件のあとですから。でも──」
俺はそこで一度、文人さんの顔を見た。
「文人さんのやり方と、昇さんの意志を思い出して。殺しは、本当に必要な時だけ。それを徹底してます。少しずつだけど、信頼も取り戻しつつある」
文人さんは黙って頷き、茶をすすった。
「……大したもんだな。俺なんか、一線を退いたっきり、漁ばっかだ。朝は早ぇし、腰は痛ぇし、船は揺れるし」
「でも、港で名前呼ばれてましたよ。“シマ、手伝え”とか、“シマ、来いよ”って。完全にこの村の一員じゃないですか」
「まぁ、そういうのも悪くない。昔みたいな張り詰めた生活よりは、ずっとな」
俺は湯呑を置き、目線を少しだけ伏せた。
「……正直、今日ここに来るの、怖かったです」
「なんでだよ」
「自分がどれだけ変われたか、ちゃんと見せられるのかって。不安だった。でも、文人さんがこうして……俺を変わらず迎えてくれて、ほっとしたというか……」
「バカ言え。俺がどんだけお前のこと、頼もしく思ってたか」
言いながら、文人さんは苦笑いを浮かべた。
「最初にお前拾った時から、妙に礼儀正しくて、妙に真っ直ぐで。……こいつなら、って思ったんだよ。今も、やっぱりそう思う」
その言葉に、俺は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。言葉にならない思いが喉まで込み上げてきたが、どうにかそれを飲み込んだ。
「……ありがとうございます」
「おう。明日は早いぞ?漁、行くんだろ?」
「ええ、行きます。明日は、文人さんと並んで、同じ船に乗ってみたいですから」
文人さんは茶を飲み干し、空になった湯呑を音もなく置いた。
「よし。なら今夜はゆっくり休めよ。明日は潮がいいらしい」
俺はその言葉に静かに頷いた。
──今、自分はちゃんと、この人の隣にいられる。それがただただ、嬉しかった。
陽が落ちると、空の色が茜から藍に変わって、海風がほんの少しひんやりしてきた。ナギの家に招かれ、俺は玄関の前で立ち尽くしていた。
「まぁまぁ、そんなとこで固まってないで。ほら、上がってって」
ナギがにかっと笑い、俺の手を引いた。玄関の扉が開くと、奥から現れたのは、ナギの両親——静かな目をした父と、柔らかな笑顔の母だった。
「こんばんは……國見といいます。文人さんに、今日はちょっと……その、ご挨拶に」
緊張を隠さずに頭を下げる俺に、ナギの両親はしばらく目を合わせた後、どこか納得したように頷いた。
「……シマが信頼する人なら、私たちにとっても信頼に値するよ」
母親が優しく言い、父親も小さく笑って言葉を紡いだ。
「気ぃ使わず、上がんなさい。うちの飯は、誰が食っても“うまい”って言ってくれるからな」
その言葉に、俺は思わず肩の力を抜いた。
「……ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく」
畳敷きの居間には、すでに夕食の準備が整っていた。炊きたての白米が湯気を立て、焼き魚からは香ばしい匂いが立ちのぼる。季節の煮物、漬物、そして透明度の高い刺身の盛り合わせ——海と山に囲まれたこの村ならではの、贅沢で素朴な料理が並ぶ。
「さあ國見、冷めちまう前に食おうぜ」
文人さんの声に促されて、俺は箸をとった。
「……いただきます」
最初に口にしたのは、白米だった。噛んだ瞬間、米の甘みが口いっぱいに広がった。つややかで、もっちりとしていて、それでいてべたつかず、喉を通るたびに胸の奥が温かくなっていく。
「うわ……これ……すごっ……」
思わず声が漏れた。
「うちの米は新潟産の中でも特別なんだよ。おじいさんの代から、田んぼを守ってきたから」
ナギの母がにこにこと誇らしげに語る。俺は頷きながら、次々と箸を進めていった。脂の乗った焼き魚、程よい塩気の漬物、ほろりと崩れる煮物——どれもこれも、派手ではないが、心に染みる味だった。
「なんだよ國見、感動しすぎて言葉出てねぇじゃねぇか」
文人さんが笑う。俺はその言葉に乗っかるように、にやりと口元を緩めた。
「いや、文人さん。こんな飯、俺、生まれて初めて食いました」
「……だろ?」
文人さんは湯呑を手に取りながら、遠くを見るような目をした。
「俺も、初めてここの飯を食ったとき、目ぇ覚めるくらい驚いたんだ。ここで生きてみてもいいかもって……そう思えたのは、たぶんこの味のせいだ」
その言葉に、ナギの母はふっと目を細め、父は頷いた。
「変わらない味を、変わらずに守るのが、この村のやり方だからね」
「……素敵ですね」
俺はしみじみと呟いた。文人さんはそんな俺の横顔を見て、どこか満足げに笑った。
「ほら、食え。今日はまだまだ出てくるぞ。夏は魚もうまいし、野菜もいい」
「……嬉しいです」
俺は再び茶碗を手に取り、炊きたての白米をゆっくりと口に運んだ。
——この一杯に、文人さんの“今”が詰まってる。
そう思いながら、俺は静かに箸を進め続けた。
國見はその空気を静かに受け止めながら、またひと口、米をかきこんだ。
——この場所で、文人さんが見つけた“生き方”。
その味は、たしかに、心に残るものだった。
「ほんとに、ごちそうさまでした」
食後の団欒もひと段落し、俺は深々と頭を下げた。ナギの母親はそんな俺を見て、柔らかく笑った。
「うちはいつでも歓迎だよ。シマの信頼する人なんだから」
「ほんと、うまかったです。……いつか、また食べさせてください」
「もちろん」
父親も満足そうに頷き、ナギはにかっと笑って手を振った。
「じゃあね、クニくん!明日の漁、楽しみにしといてね!」
「……おう。よろしくな、ナギ」
文人さんと並んで、俺は玄関を出る。潮の匂いを含んだ夜風が鼻を擽った。遠くで波の音が聞こえていた。
「……文人さん。あの家族、あんたにすごく感謝してるみたいだった」
「別に何かしたってわけじゃねぇよ。ただ、ここで真面目に生きてるってだけさ」
ふたり並んで、ゆっくりと砂利道を歩く。頭上には夏の星空が広がっていた。
「……國見。明日は、漁に出るって言ったな」
「ええ。文人さんの“今”を、この目で見ておきたくて」
「だったら覚悟しとけ。朝は、思ってる以上に早ぇぞ」
「……承知しました。早起きには慣れてるつもりですけどね」
文人さんの家に着くと、靴を脱いで上がる。内装は簡素で、けれど整理が行き届いていて、どこか“文人さんらしさ”を感じさせた。
「客間ってほどじゃねぇけど、ここ使ってくれ」
文人さんが案内してくれたのは畳の部屋。布団がすでに敷かれており、窓の外には波のきらめきが見えていた。
「ありがたいです」
「風、強くなってきたら窓閉めろよ。……それと、起きるのは四時半だ」
「四時半……? いや、もうそれ夜中じゃないすか……」
「漁師にとっちゃ、夜中が朝なんだよ。……ほんじゃ、おやすみ、國見」
「……おやすみなさい、文人さん」
文人さんが部屋を出ると、俺はそっと布団に身を沈めた。かすかに香る潮と木の匂い、風に混じる波音。街では絶対に味わえない静けさが、体に染み込んでくる。
あんなふうに笑ってる文人さん、初めて見たかもしれない。目を閉じながら、俺はぼんやりと今日の出来事を思い返す。
文人さんの家族のような存在と囲んだ夕食。あのあたたかい味。ナギの屈託のない笑顔。そして、文人さんがこの村で得た“静かな時間”。
「……明日、ちゃんと起きないとな」
呟いて、俺は静かに瞼を閉じた。
やっぱり、あの人に、ついてきてよかった。
波の音が、夢と現の境をなぞるように、優しく響いていた。