下
祭りの片付けが終わり、村が人工光に包まれる頃、俺はナギの家の前に立っていた。
村は再び静けさを取り戻している。海からの風が生ぬるく肌を撫で、潮の匂いが微かに鼻をかすめた。車のキーをポケットで弄びながら、玄関の前でしばらく立ち尽くす。
ここを出る前に、伝えるべきことがある。
ノックすると、少し間を置いて扉が開いた。ナギの母親が、少し驚いたような顔で俺を見た。
「……どうしたんだい?」
「ちょっと、話があって」
声を潜めるように言うと、家の奥から頬を腫らしたナギが現れた。寝起きの顔で、少し目をこすりながら俺を見上げる。昼寝でもしていたのだろう。
「シマ?」
「少しの間、村を離れることになった」
ナギの目が不安げに揺れた。
「……帰ってくる?」
「帰ってくるさ」
何の迷いもなく言葉が出た。驚くほど、すんなりと。
ナギの母親が少し険しい顔になり、低く、小さな声で尋ねた。
「何か、危ないことに巻き込まれたりは……」
「そんなことはないです。心配かけますが、俺はここに、この村に戻ってくるつもりです」
ナギの父親も奥から姿を現し、無言のまま俺を見つめた。
「ここではお世話になりました。……本当に、本当に感謝しています」
ナギが小さく頷く。その瞳にはまだ不安が宿っていたが、何も言わなかった。
俺は軽く頭を下げ、玄関を後にした。
村を出てしばらくの間、車内は静かだった。北陸道から関越道へ、夜明け前の道路を滑るように走りながら、居心地の悪さに不快感を覚える。馴染みのない車のシートは妙に硬く、指先のハンドルの感触すら他人のものだった。
当たり前か。俺のセダンは、今ごろ村の片隅でタイヤを潰されたまま転がっている。この車に乗っていると、嫌でも思考は昨日の出来事へと引き戻されていく。
村の離れでは、波の音だけが響いていた。
若者は目を覚ましても、抵抗しようとはしなかった。俺がサイレンサーを装着するのを、ただじっと見ていた。
「……お前、本当に俺を殺すのか?」
「お前がやろうとしたことを、俺がやるだけだ」
若者は乾いた笑いを漏らした。
「俺には、まだ帰る場所があったのにな」
「お前がこの結末を選んだんだ」
言葉を返しながら、俺の指は既に引き金にかかっていた。
微かな破裂音。砂利が小さく弾ける音。
若者の身体が力なく崩れ落ちた。
それを見下ろすと、相手は悪人のはずなのに、少しばかりの罪悪感が芽生えた。
アクセルを踏み込む。
経路案内標識に東京の字が見えてきた頃、ポケットからスマートフォンを取り出し、國見に電話をかけた。
コール音が二度、三度。
『……お久しぶりです、文人さん』
低く、静かな声。
「終わらせるぞ」
『ええ』
國見はいつもと変わらぬ調子で答える。
「じき東京に着く。お前は?」
『そろそろ潮時かと思いまして、俺も東京へ向かっているところです』
「そうか」
『準備はすでに整えてあります』
「頼もしい限りだ」
通話を切る。
すべてを終わらせたら、俺は村に帰る。
静かに、深く息を吐いた。
東京の街が目前に迫っていた。高速道路の照明がリズミカルに車内を照らし、俺はハンドルを握る手を少し緩めた。國見に電話をかける。今度はワンコールで、低い声が応じた。
『……着きましたか』
「ああ」
『どうしますか?』
國見の声には、迷いも戸惑いもなかった。俺が何を言うか、すでに分かっているような声音だった。
「いつもの会議室で決めよう」
『了解しました』
短い返事の後、通話が切れる。
フロントガラスの向こう、ビルの明かりがちらつく。俺はもう、ここで生きる人間じゃない。
とても都内ホテルの一室とは思えないほど広い会議室に、保守派幹部の面々が集まっていた。長机の上には灰皿と煙草、いくつも書類が雑然と置かれている。空気は張り詰め、誰も余計な言葉を発しない。
國見は机の端に立ち、沈着な表情で全員を見回していた。その視線には迷いがない。ここにいる誰よりも若いが、その立ち姿は貫禄さえ感じさせる。
俺は一番奥の席に腰を下ろし、ポケットから煙草を取り出す。火を点け、煙を深く吸い込んだ。
「──時間がねえ。やるなら早いほうがいい」
誰かが口を開く。年嵩の幹部だろう。
國見は静かに頷くと、紙の束を机の中央に滑らせた。
「ここにいる皆さんは、現状を理解されているはずです。革命派はすでに組の中枢を握り、我々を排除する算段を進めています。ですが、彼らが全ての幹部を掌握できたわけではない。我々にはまだ動ける駒があります」
國見は目を伏せ、それから俺のほうを見た。
「……文人さんはどうするつもりですか?」
その問いに、俺は煙を吐きながら静かに答えた。
「さぁな。最後の切り札ってとこか?」
会議室には、紙とペンを片手に各々が作戦を詰める音だけが響いていた。
「正面からぶつかるのは得策じゃねえ。革命派のほうが数は多い。奇襲をかけて一気に上を潰すのがベストだ」
「だが、向こうもそれを警戒してる。裏を取るにしても、確実なルートを確保しねえと」
「それなら、内部に残ってる味方を使うしかない。何人かはまだ革命派に染まりきっていないやつがいる」
机の上に広げられた資料には、革命派が拠点にしている本城組アジトの見取り図が載っていた。どこにどの勢力が配置されているか、どのタイミングで動くのが最も有利か、誰もが真剣な表情で案を出し合っていた。
國見は端で静かに聞いていたが、ふと顔を上げ、俺のほうを見た。
「文人さんはどう動きますか?」
「……俺は最後の切り札だ」
「いえ、そうじゃなくて……。文人さん”なら”どう動きますか?」
「俺なら……」
言いかけて、煙草に火をつけた瞬間だった。
──プルルルル
室内に響く電話の音。全員の動きが止まる。
俺のスマホじゃない。國見のでもない。
音の主は、テーブルの中央に置かれた共用のスマホだった。幹部のひとりが眉をひそめ、表示を見た瞬間、その表情が硬直する。
「……本城陽樹だ」
革命派のトップ。今や本城組の実権を握る男。
國見と俺が目を合わせる。誰もが固唾を呑む中、國見が静かに着信ボタンを押した。
「……國見だ」
『よう。お前が出るとはな』
スピーカー越しの声は、穏やかだった。だが、その余裕こそが本城陽樹という男の恐ろしさを物語っていた。
『話は単純だ。明日の夜、決着をつけよう』
國見は微動だにせず、淡々と応じる。
「……場所は?」
『俺たちの縄張りのど真ん中でどうだ?逃げも隠れもしねえ。全面戦争だ』
誰かが息を呑む音がする。
國見は無表情のまま、ゆっくりと視線を俺に向けた。俺は煙を吐き出し、ただ一言。
「──いいだろう」
それが、戦いの合図だった。
國見がテーブルに広げた地図の上で指を滑らせる。組の縄張りを区切る境界線。その向こうにいるのは革命派──かつては同じ盃を交わしたはずの連中だ。
「陽樹たちの戦力は?」
俺の問いに、國見は地図を睨みながら低く答える。
「……正確な数は不明ですが、最低でもこちらの倍以上」
「ふざけてんな」
苦笑するしかなかった。最初から分かっていたことだ。あいつらが圧倒的に優勢で、俺たちは追い詰められている側。俺が漁村に身を隠した間に、本城組は事実上、革命派の手に落ちた。戻ってきた俺たちは、最後の足掻きを試みる亡霊みたいなもんだ。
「勝ち筋はあるか?」
「……ないですね」
國見はそう言いながらも、どこか冷静だった。もともとこいつはこういう男だ。最悪の状況でも決して感情を乱さない。
「ないってのは、今のままじゃって意味だろ?」
「ええ。陽樹の狙いが単なる殲滅ではなく”決着”なら、チャンスはあります」
「つまり?」
「トップを落とせば、奴らは一気に崩れます」
國見の視線が俺を捉える。分かってる。陽樹を殺せば、革命派は瓦解する。だが、それはつまり、俺が再び”そういうこと”をしなきゃならないってことだ。
続ける。
「文人さん、明日の戦いの目的はひとつです。革命派を潰し、組を取り戻す。そして……あなたが、再びトップになる」
俺は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。
「──悪いが、それはねぇな」
國見が目を細める。
「文人さん、あなたは本城組の”正統”ですよ」
「正統かどうかなんて関係ねぇ。俺はもう、この世界に未練はねぇよ」
「では、誰が組をまとめると?」
俺は目の前の男をじっと見つめる。
「お前だよ、國見」
沈黙。國見は目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
「俺はもう、組の人間じゃねえ」
室内の空気が一瞬揺れた。驚き、あるいは納得、誰もが様々な感情を押し殺して俺を見ている。
「この戦いが終わったら、俺は消える」
「……」
「だが、その前にやることはやる」
國見は目を細めたまま、わずかに息を吐いた。
会議室の中で、誰かが小さく息を呑む音がした。
「明日、陽樹を殺る。その後の本城組はお前に任せる」
「俺に納得しない幹部もいますよ」
「だったらそいつらも全部ぶっ潰せ。どうせ明日でケリをつけるんだ」
長い沈黙の後、國見が口を開いた。
「……承知しました。文人さんが推すなら、光栄ですね」
それが、俺なりの「信頼」の表現だった。
國見は静かに頷いた。その表情に迷いはない。
「じゃあ、決まりだな」
「……ま、いいんじゃねぇか」
幹部の一人が渋く笑った。
「國見、お前がトップなら、兄貴は安心して引けるってこった」
誰も異論は言わない。誰も否定しない。
國見がトップだと、全員が認めた瞬間だった。
「それもいいんだけどよ……陽樹のバックには外部の組織がついてるって話もある。本当に、勝てるのか?」
沈黙が落ちる。俺は椅子の背にもたれながら煙を吐き出した。
「勝つしかねぇだろ。國見をトップに据えるって決めたんだ。だったら、そいつが組を継げるようにするのが筋ってもんだろ」
俺がそう言うと、幹部たちは顔を見合わせ、やがて小さく笑った。
「……へへっ、まぁ、そういうことだな」
「やるしかねぇか」
「量より質だしな。兄貴と國見は百人力だ」
國見が改めて皆を見渡す。
「明日が決戦です。準備を怠らないように」
全員が頷く。その表情には、もはや迷いはない。國見は静かに続けた。
「……これはただの内部抗争ではありません。本城組を、いや、“俺たちの本城組”を取り戻す戦いです。陽樹たちが乗っ取ったのは、俺たちの居場所だ。だったら、俺たちが奪い返す」
その言葉に、誰も異論を挟まなかった。
俺は立ち上がる。
「全員、生き残れよ」
静かに拳を握り、國見が頷いた。
車のフロントガラス越しに、じりじりと照りつける日差し。俺たちの向かう先は、かつて本城組が武器の取引に使っていた倉庫街。陽樹が指定した場所だ。
「……陽樹はここを選んだか」
俺は助手席から外を眺め、低く呟いた。國見が運転席で無表情のまま言う。
「ここなら組の縄張りのど真ん中。それに、周りに一般人もいない。つまり、好きなだけ殺し合えるってことですね」
「フン……らしいな」
陽樹が求めるのは、どちらが強いかではなく、どちらが生き残るかだ。そういう勝負をするつもりでいる。
──革命派は、陽樹を除いて333人。
対する俺たちは、100にも満たない。
数では圧倒的に不利。だが、そんなことは最初から分かっている。
國見の運転する車が、廃墟と化した倉庫街に入る。広い空き地には、すでに革命派の連中が待ち構えていた。
國見が車を停める。後ろから、仲間たちの車も続々と到着する。
俺たちが車から降りると、奥の倉庫の影から、ゆっくりと歩いてくる男がいた。
本城陽樹。
陽樹はトレードマークとも言える、黒いロングコートを翻しながら、ニヤリと笑う。
「よう、待ってたぜ」
俺は一歩前に出る。
「……久しぶりだな、陽樹」
陽樹はゆっくりと肩をすくめた。
「久しぶり? お前、ずいぶんのんびりしてたじゃねぇか。逃げた後の気分はどうだった?」
「逃げたわけじゃねぇ。準備してただけだ」
陽樹はククッと喉を鳴らす。
「準備、ねぇ……? お前がどれだけ準備しようが俺の勝ちってのは変わらねぇよ、文人」
俺は無言で拳を握る。陽樹が片手を上げると、革命派の連中が一斉に各々の銃やナイフを構えた。陽の光が、鋭い刃物のように照り返す。
「……そろそろ始めようぜ。決着をつけよう、文人」
昼間の陽炎の中、決戦の火蓋が切られた。すぐさま陽樹が引き金を引いた。火薬の焼ける匂いとともに、保守派の男が倒れる。
「……クソが……!」
すぐ横で國見が蹴りを繰り出し、敵の顎を砕く鈍い音が響いた。周囲はすでに血の匂いと硝煙で満ちている。
「押し込め!!絶対にここで止まるな!!」
國見の怒声が飛ぶ。俺たち保守派の面々は、俺と國見を中心に、陽樹の部下どもを蹴散らしながら倉庫の奥へ進んでいった。
しかし──
「っ……! くそ、なんだこいつら……!」
今までのザコどもとは違う。ここにきて、陽樹の本当の手駒が姿を現した。昨日言っていた外部の組織というのは、こいつらなのかもしれない。
「國見、こいつら……さっきまでの連中とは格が違う。陽樹が近いぞ!」
「わかってます……!」
陽樹の最精鋭、か。俺たちは二人で背中を預け合いながら敵と向き合う。呼吸が合う。陽樹に近づくには、ここで奴らを突破しなければならない。
「文人さん」
國見が短く言った。
「ここからは、あなたが行ってください」
「……は?」
「こいつらは俺が抑えます」
國見の声は揺るがない。俺が戸惑う間もなく、國見は敵陣へと飛び込んだ。
「國見ッ──!!」
数人が同時に國見へ襲いかかる。だが、國見は迷いなく一人の腕を折り、もう一人の喉を潰し、鮮やかに敵を無力化していく。
「ぐっ……! クソが、化け物かよ……!」
「……行ってください、文人さん」
國見の背中が敵を引きつける。俺は迷わず、その隙に陽樹のもとへ駆け出した。
喧騒の果て、瓦礫と血に塗れた戦場の最奥に、二人だけが立つ。陽樹は得物の鉄扇を開き、ゆるりと仰ぎながら笑った。風を起こすほどの動きではない。ただの仕草だ。それが逆に異様な威圧感を生んでいた。そしてゆるりと、もうひとつの得物、ダガーナイフを構える。
「──なるほど。ここまで来るとはな」
俺は応えない。ただ拳を握り、わずかに足をずらす。一瞬にして、陽樹の姿が霞んだ。閃光のような踏み込み。鉄扇が翻り、俺の視界が揺れる。風圧に乗せたダガーナイフが弧を描き、喉元を裂かんと迫る。紙一重で逸らし、俺は拳を叩き込んだ。
衝撃。
陽樹の身体がしなる。だが、わずかに腰を引き、ダメージを避けている。
「相変わらず重いな、お前の拳は……」
陽樹は唇を舐め、後退する。俺は無言で構えを解かない。
「お前は親父に従うことしか知らなかった」
陽樹の声は柔らかかった。まるで幼馴染に語りかけるような、そんな声音だった。
「だから俺に負ける。違うか?」
「……くだらねえ」
足を踏み込んだ。その瞬間、陽樹の手が弾ける。鉄扇が狙い澄ましたかのように俺の拳を打ち、ダガーナイフが閃く。俺は僅かに体を逸らし、それを回避した。次の刹那、俺の膝が陽樹の腹に突き刺さる。鈍い音が響く。陽樹の足がふらついた。しかし、彼の笑みは消えない。
「親父は甘かった」
陽樹は吐き捨てるように言い、ナイフを握り直す。
「必要最低限の殺し? 馬鹿かよ。俺はそんなもんで終わるつもりはねえ」
「それでお前が手に入れたのは、ただの屍の山だ」
「それでいい」
陽樹の目が細められる。
「文人、お前と違って、俺は”後ろ”を見ねえんだよ」
「……お前はただ、“前しか見えない”だけだ」
拳を握る。陽樹の笑みが深まった。
「だったら証明してみろよ、“本城”の名が、お前にふさわしいってことを」
風景が歪んで見えたのは、炎と土煙のせいか、それとも心の奥にある何かが騒いでいるのか。俺の拳が空気を裂くたび、地面が震えた。陽樹は鉄扇でそれを受け、弾き、翻しながら間合いを取る。隙を見て繰り出されるダガーナイフの閃きは、まるで蛇の牙のように執拗で冷酷だった。
「──なんで、そこまでして壊すんだ。伝統を、秩序を。お前の親父、昇さんが築いたものを!」
怒鳴るように吐き出した声に、陽樹の瞳がわずかに揺れた。
「だからだよ」
陽樹の声は低く、鋭かった。
「親父は“築いた”んじゃない。逃げたんだ。時代から、現実から、自分の限界から」
ナイフが風を裂き、俺の肩を掠める。赤が滲む。俺は無言で殴り返す。その拳が陽樹の頬を叩き、血が飛び散った。しかし、二人とも止まらない。
──そして、不意に、過去が脳裏に蘇る。
まだ組事務所の畳の間で、血の臭いも知らなかった少年二人が並んで座っていた。
陽樹はよく笑った。
俺は無口だった。
それでもふたりは、師として彼らを育てた本城昇の背中を、ただ無心に追いかけていた。
「お前らの性格は全くの別物だ。でも、心の芯は似てる。だから切磋琢磨しろ。競い合え。だが、どんなときでも──殺しは最終手段にしろ」
それが、俺たちの原点だった。
「本気で……あの人を憎んでんのか」
戦いの合間、俺は陽樹に問いかけた。陽樹は返さない。答えの代わりに、ダガーナイフが唸りを上げて振るわれた。躱す。距離が一気に縮まる。
「お前は……あの人に、昇さんに愛されてた。組を継ぐのも、お前のはずだった。それを、お前自身が捨てたんだろ」
「黙れ……!」
陽樹の顔から笑みが消える。
「お前には分からねえよ。あの人の“本当の顔”を見てない奴にはな……!」
「見てたさ。最期まで、あの人が何を守ろうとしてたか、何に怯えていたか。……俺は全部、見てた。背中で教わった。俺の師は、必要最低限の殺ししか望まなかった。それが“本城組”だ」
沈黙が一瞬、二人の間を裂いた。
次の瞬間。
拳と刃が、真正面から激突した。鉄扇が砕け、陽樹のダガーナイフが宙に舞う。俺の拳が陽樹の胸元に沈み込み、吹き飛ばされた陽樹が背後の瓦礫へと叩きつけられる。土煙の中で、陽樹が咳き込む。血の味を吐きながら、彼はふらつく足取りで立ち上がった。
「……だったら、俺が……新しい“本城”を作るだけだ」
「その意地、叩き潰してやる」
俺の眼は揺るがない。陽樹の両手は空っぽだった。だが、戦意はまだ燃えている。
拳が空を裂く音が、もはや風のように響いていた。蹴りが交錯し、血と汗が飛び、呼吸が詰まるほどの間合いで二人は殴り合う。俺の拳が陽樹の顎をかすめ、陽樹の膝が俺の脇腹に叩き込まれる。もはや技術ではない。精密さも、駆け引きも、とっくに削り落とされた。
残っているのは、拳と拳。意思と意思。
ただ、それだけだった。
──ふいに、胸の奥を何かが撫でた。
「いいか、文人。まずは左を出す。陽樹の奴は一拍おいて返してくるから、その隙を──」
それは、かつての記憶だった。十代半ば、組事務所の奥にあった小さな道場で、昇さんが組んだ二人だけのスパーリング。汗だくで、拳にマメを作りながらも、笑い合った夏の日。陽樹のパンチが頬を打つ。俺はよろけながら、それでも歯を食いしばって立ち直った。
「お前、もっと体の軸を落とせって言ったろ。昇さんに──」
「うるせぇ」陽樹が吠える。
「お前に言われたくねぇ……!」
──殴って、殴られて。どちらかが倒れなければ終わらない。ただの殴り合い。いや、違う。これは、“祈り”だった。どちらかが、背負ったものを守るために。どちらかが、“過去”と決別するために。
俺の拳が振り抜かれる直前、陽樹の目が一瞬だけ細められた。それは──少年の頃から何ひとつ褪せない、何ひとつ変わらない表情だった。
「……やっぱ、お前は変わらねえな、陽樹」
右拳が、陽樹の顬を正確に撃ち抜いた。
──ドン。
肉の弾けるような鈍い音と同時に、陽樹の身体が落ち葉のように、ゆっくりと落ちた。何も言わず、ただ、音もなく。その一瞬だけ、時が止まったようだった。
土煙の中で、俺は膝をついた。
陽樹は倒れたまま動かない。その目は閉じられ、唇はわずかに開いている。まだ息はある。だが、意識はもう遠く。
風が吹いた。戦いが終わったことを、誰よりも早く自然が告げた。
──静寂。
俺は、呼吸を整えながら目を閉じた。拳が痛む。脇腹が焼けるように熱い。だが、それ以上に──胸の奥に、何かが流れ落ちていく感覚があった。
「……俺たちは、昇さんの呪いと戦ってたのかもしれねぇな」
答えは返ってこない。けれど、陽樹の口元が、わずかに緩んだように見えた。
そして俺は、ゆっくりと立ち上がる。
終わりが、始まる。新たな本城組の、その夜明けのために。
陽樹は、血に濡れたまま、仰向けに倒れていた。その顔に、痛みよりも、どこか穏やかな色が浮かんでいるのが、逆に文人の胸を締めつけた。
俺は、しゃがみ込み、ゆっくりと陽樹の横に腰を落とした。目の前の親友が、もうすぐこの世から消える。それがどんなに理不尽な相手だったとしても、思い出は、それだけでは割り切れない。
「……まだ、生きてんのか?」
陽樹は目を閉じたまま、ふっと笑った。
「……そう簡単には死なねえよ。しぶとさは、親父譲りだからな」
その言葉に、喉が詰まった。
親父──本城昇。
俺たちの師匠にして、本城組を作り上げた男。彼は殺しを嫌い、俺たちにもそうなるよう躾けた。俺はそれに従い、陽樹はそれに逆らった。だが、根底にはいつだって、同じ場所を見ていたという実感があった。
「……親父さ」
陽樹がぽつりと呟くように言った。
「親父が死ぬ前の夜、文人と國見の話ばっかりしてたんだよ。まるで、おれがいなかったみたいにさ」
「……」
「悔しかったんだよ。なんでだよ、って思った。誰よりも近くにいたのは俺だろ?血も繋がってる。あの人のやってきたこと、隣でずっと見てきたのに、何も、渡してもらえなかった」
俺は拳を握りしめた。血の匂い。焦げた空気。まだ戦いの名残が、耳の奥でざわめいている。
「でも……わかってたんだ」
陽樹の声が、少しだけ弱くなった。
「お前も國見も、あいつの“想い”を一番ちゃんと背負ってた。組を変えようとか、守ろうとか──やり方は違ったけどさ。俺はただ、あの人の背中を越えたかっただけだ。……見返したかっただけだ」
「陽樹……」
「でもな、今日やっとわかったよ。お前と殴り合って、こんなにボロボロになって、……やっとわかった」
「俺がやってたのは、組を動かすことでも、未来を作ることでもなかった。ただ、親父に認められたくて、……ずっと、もがいてただけだったんだな」
俺は言葉が出せなかった。胸の奥がひりつくように痛んで、息すら苦しい。
「なぁ……文人」
「……ああ」
「お前、もうやめるんだろ?」
「知ってるのか?」
「分かるさ。親友だからな。國見は、いいトップになるよ。……俺より、ずっといい。お前もさ……ちゃんと、最後まで親父の弟子だったな。……ずるいよ、ほんと」
俺は、拳を膝の上でぎゅっと握った。涙が出そうだった。でも、出さなかった。まだ、陽樹が生きているうちは、泣いちゃいけないと思った。それが礼儀だと思った。
「……ありがとな」
陽樹が、微かに笑った。その目は、もう焦点を結ばずに空を見つめていた。
「最後の相手が、お前で良かったよ……マジで……」
そのまま、陽樹の呼吸は、静かに、止まった。
俺は顔を伏せた。嗚咽が喉の奥でせき止められ、肩が微かに震えた。
「……俺だってさ」
「最後の相手が、お前で良かったって、そう思ってるよ」
足音がした。いつの間にか全てを片付けた國見が、歩み寄ってきた。陽樹の亡骸を見つめ、そしてそっと目を閉じたあと、俺の隣で立ち止まる。
「……終わりましたね」
その声は静かだった。まるで、鐘の音のように、胸に深く響いた。
俺は立ち上がり、國見の隣に立った。空を仰ぎ、そして、ぽつりと呟いた。
「……ああ、終わったな」
それは、確かに戦いの終わりだった。けれど、あまりにも静かで、あまりにも寂しい「勝利」だった。
漁村へと続く国道を、國見に託された黒のセダンが走る。窓を開けると、潮の匂いがかすかに混じる風が頬を撫でた。國見から車のキーを受け取ったのは、決戦の翌朝だった。あいつは相変わらず感情を顔に出さないまま、「……あなたに似合う気がしたので」とだけ言ってキーを差し出した。
俺はそれを無言で受け取った。ありがとうも、またなも言わなかった。けど、國見のあの目の奥には、確かに何かがあった。感謝か、敬意か、憧憬か、あるいは別の何かか。俺には分からなかったが、國見も國見で、この戦いを経て成長していた。
ハンドルを切り、坂道を下る。あの漁村が、もうすぐそこにある。小さな港と、潮の香りと、ナギの声。それだけで、この車は帰るべき場所を知っているように思えた。
車をゆっくり停め、エンジンを切る。静寂が降りた車内に、遠くからカモメの鳴き声が滲んだ。ドアを開けた瞬間、潮の匂いと乾いた海風が一気に頬を撫でた。
俺は片足を地につけ、ひと呼吸おいてから外に出た。
見上げると、空は高かった。どこまでも抜けていて、まるであの戦いを越えてここに辿り着いたことを、空そのものが証明してくれているようだった。
一歩、また一歩と、アスファルトから砂利へ、砂利から湿った土へと足音が変わっていく。懐かしい足裏の感触だった。漁村の空気は変わっていない。潮と魚と、どこか焦げた網の香り。耳を澄ませば、笑い声や船のエンジン音。そのどれもが、心の奥をじんわりと温めていく。
港へと向かう坂道を下りきると、目の前に広がるのはあの日と同じ光景だった。網を干す老漁師、荷を下ろす若者たち、干物を運ぶ母親たち。けれどそのひとつひとつが、どこか眩しく見える。
──ふいに誰かが、俺に気づいた。
「あれ……シマじゃねえか?」
声が漏れた途端、まるで静電気が走ったように場がざわつき始めた。
「ほんとだ……!」
「戻ってきたのか……?」
「シマが……帰ってきたぞ!」
最初は数人だった声が、港じゅうを駆け巡る。干していた網が手から滑り落ち、作業の手が止まる。子どもが親の手を引きながら駆けていく。誰もが目を見開き、信じられないような顔で俺を見つめていた。
それでも俺は、歩みを止めなかった。あくまで静かに、淡々と、ただまっすぐに、ナギのもとへ帰るために。
港の最奥、まるで俺と陽樹が戦った場所のようなところに、彼はいた。ひたむきに両親と作業をする姿は、俺の胸を打った。
俺は立ち止まる。
口が、自然に開いた。
「──ただいま」
それは、誰に向けたものだったのか、自分でもわからなかった。けれど、その声を聞いた瞬間、ナギの肩がびくりと揺れた。
「……シマ?」
その名前を呼ぶ声が、震えていた。ナギがゆっくりと立ち上がる。足取りがぎこちない。でも、目だけはまっすぐに俺を見ていた。瞳の奥で、いくつもの感情がせめぎ合っていた。驚き、戸惑い、安堵、そして……込み上げる涙。
「……帰って、きたんだね」
そこから先の言葉は、ナギの中で音にならなかった。
ただ、泣いていた。堪えようとしたのだろう。きっと何度も深く息を吸って、唇を噛んで、堪えようとしたのだ。陽樹の前の俺のように。
けれど──ダメだった。
「……うっ……うわああああああ……!」
泣き声は、風よりも波よりも、力強く響いた。あの日、静かに見送ったあの港で。あの時、声にできなかった涙を、今すべて吐き出すかのように。
俺は何も言わなかった。ただ、歩み寄って、ナギを抱きしめた。泣いている背中を、そっと撫でた。
「もう……大丈夫だ」
そう言った時、後ろからふたつの影が近づいてきた。ナギの父親がいた。いつも寡黙で、鋭い眼光で俺を試していた男。その頬が、ほんの少しだけ、濡れていた。
「……よく、生きて戻ったな」
それだけを絞り出すように言ったあと、ふいに目をそらした。顔を見られたくなかったのだろう。でも、その震える肩が、すべてを語っていた。
ナギの母も、目元を袖で隠しながら、笑った。
「無茶するんじゃないよ……あんたって人は……」
その声は、母親そのものだった。家族を迎える、無条件の優しさだった。
三人が並んだ。
言葉は少なかった。
でも、心の距離は何よりも近かった。
──港の人々が見守る中で、俺は、ようやくこの場所に戻ってきた。
ナギが言った。
「……おかえりなさい」
それは、誰よりも待っていた者の言葉だった。
そして、それがこの物語の、確かな終着点だった。
すべてを終えて、俺が帰ってきたのは、血と義理の世界じゃなくて、一杯の味噌汁と、あの子の声が待っている場所だった。