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都落ち  作者: ぽにょ
3/6

祭りの片付けが終わり、村が人工光に包まれる頃、俺はナギの家の前に立っていた。

村は再び静けさを取り戻している。海からの風が生ぬるく肌を撫で、潮の匂いが微かに鼻をかすめた。車のキーをポケットで弄びながら、玄関の前でしばらく立ち尽くす。

ここを出る前に、伝えるべきことがある。

ノックすると、少し間を置いて扉が開いた。ナギの母親が、少し驚いたような顔で俺を見た。

「……どうしたんだい?」

「ちょっと、話があって」

声を潜めるように言うと、家の奥から頬を腫らしたナギが現れた。寝起きの顔で、少し目をこすりながら俺を見上げる。昼寝でもしていたのだろう。

「シマ?」

「少しの間、村を離れることになった」

ナギの目が不安げに揺れた。

「……帰ってくる?」

「帰ってくるさ」

何の迷いもなく言葉が出た。驚くほど、すんなりと。

ナギの母親が少し険しい顔になり、低く、小さな声で尋ねた。

「何か、危ないことに巻き込まれたりは……」

「そんなことはないです。心配かけますが、俺はここに、この村に戻ってくるつもりです」

ナギの父親も奥から姿を現し、無言のまま俺を見つめた。

「ここではお世話になりました。……本当に、本当に感謝しています」

ナギが小さく頷く。その瞳にはまだ不安が宿っていたが、何も言わなかった。

俺は軽く頭を下げ、玄関を後にした。


 

村を出てしばらくの間、車内は静かだった。北陸道から関越道へ、夜明け前の道路を滑るように走りながら、居心地の悪さに不快感を覚える。馴染みのない車のシートは妙に硬く、指先のハンドルの感触すら他人のものだった。

当たり前か。俺のセダンは、今ごろ村の片隅でタイヤを潰されたまま転がっている。この車に乗っていると、嫌でも思考は昨日の出来事へと引き戻されていく。


村の離れでは、波の音だけが響いていた。

若者は目を覚ましても、抵抗しようとはしなかった。俺がサイレンサーを装着するのを、ただじっと見ていた。

「……お前、本当に俺を殺すのか?」

「お前がやろうとしたことを、俺がやるだけだ」

若者は乾いた笑いを漏らした。

「俺には、まだ帰る場所があったのにな」

「お前がこの結末を選んだんだ」

言葉を返しながら、俺の指は既に引き金にかかっていた。

微かな破裂音。砂利が小さく弾ける音。

若者の身体が力なく崩れ落ちた。

それを見下ろすと、相手は悪人のはずなのに、少しばかりの罪悪感が芽生えた。



アクセルを踏み込む。

経路案内標識に東京の字が見えてきた頃、ポケットからスマートフォンを取り出し、國見に電話をかけた。

コール音が二度、三度。

『……お久しぶりです、文人さん』

低く、静かな声。

「終わらせるぞ」

『ええ』

國見はいつもと変わらぬ調子で答える。

「じき東京に着く。お前は?」

『そろそろ潮時かと思いまして、俺も東京へ向かっているところです』

「そうか」

『準備はすでに整えてあります』

「頼もしい限りだ」

通話を切る。

すべてを終わらせたら、俺は村に帰る。

静かに、深く息を吐いた。



東京の街が目前に迫っていた。高速道路の照明がリズミカルに車内を照らし、俺はハンドルを握る手を少し緩めた。國見に電話をかける。今度はワンコールで、低い声が応じた。

『……着きましたか』

「ああ」

『どうしますか?』

國見の声には、迷いも戸惑いもなかった。俺が何を言うか、すでに分かっているような声音だった。

「いつもの会議室で決めよう」

『了解しました』

短い返事の後、通話が切れる。

フロントガラスの向こう、ビルの明かりがちらつく。俺はもう、ここで生きる人間じゃない。



とても都内ホテルの一室とは思えないほど広い会議室に、保守派幹部の面々が集まっていた。長机の上には灰皿と煙草、いくつも書類が雑然と置かれている。空気は張り詰め、誰も余計な言葉を発しない。

國見は机の端に立ち、沈着な表情で全員を見回していた。その視線には迷いがない。ここにいる誰よりも若いが、その立ち姿は貫禄さえ感じさせる。

俺は一番奥の席に腰を下ろし、ポケットから煙草を取り出す。火を点け、煙を深く吸い込んだ。

「──時間がねえ。やるなら早いほうがいい」

誰かが口を開く。年嵩の幹部だろう。

國見は静かに頷くと、紙の束を机の中央に滑らせた。

「ここにいる皆さんは、現状を理解されているはずです。革命派はすでに組の中枢を握り、我々を排除する算段を進めています。ですが、彼らが全ての幹部を掌握できたわけではない。我々にはまだ動ける駒があります」

國見は目を伏せ、それから俺のほうを見た。

「……文人さんはどうするつもりですか?」

その問いに、俺は煙を吐きながら静かに答えた。

「さぁな。最後の切り札ってとこか?」


会議室には、紙とペンを片手に各々が作戦を詰める音だけが響いていた。

「正面からぶつかるのは得策じゃねえ。革命派のほうが数は多い。奇襲をかけて一気に上を潰すのがベストだ」

「だが、向こうもそれを警戒してる。裏を取るにしても、確実なルートを確保しねえと」

「それなら、内部に残ってる味方を使うしかない。何人かはまだ革命派に染まりきっていないやつがいる」

机の上に広げられた資料には、革命派が拠点にしている本城組アジトの見取り図が載っていた。どこにどの勢力が配置されているか、どのタイミングで動くのが最も有利か、誰もが真剣な表情で案を出し合っていた。

國見は端で静かに聞いていたが、ふと顔を上げ、俺のほうを見た。

「文人さんはどう動きますか?」

「……俺は最後の切り札だ」

「いえ、そうじゃなくて……。文人さん”なら”どう動きますか?」

「俺なら……」

言いかけて、煙草に火をつけた瞬間だった。

──プルルルル

室内に響く電話の音。全員の動きが止まる。

俺のスマホじゃない。國見のでもない。

音の主は、テーブルの中央に置かれた共用のスマホだった。幹部のひとりが眉をひそめ、表示を見た瞬間、その表情が硬直する。

「……本城陽樹(ほんじょうはるき)だ」

革命派のトップ。今や本城組の実権を握る男。

國見と俺が目を合わせる。誰もが固唾を呑む中、國見が静かに着信ボタンを押した。

「……國見だ」

『よう。お前が出るとはな』

スピーカー越しの声は、穏やかだった。だが、その余裕こそが本城陽樹という男の恐ろしさを物語っていた。

『話は単純だ。明日の夜、決着をつけよう』

國見は微動だにせず、淡々と応じる。

「……場所は?」

『俺たちの縄張りのど真ん中でどうだ?逃げも隠れもしねえ。全面戦争だ』

誰かが息を呑む音がする。

國見は無表情のまま、ゆっくりと視線を俺に向けた。俺は煙を吐き出し、ただ一言。

「──いいだろう」

それが、戦いの合図だった。



國見がテーブルに広げた地図の上で指を滑らせる。組の縄張りを区切る境界線。その向こうにいるのは革命派──かつては同じ盃を交わしたはずの連中だ。

「陽樹たちの戦力は?」

俺の問いに、國見は地図を睨みながら低く答える。

「……正確な数は不明ですが、最低でもこちらの倍以上」

「ふざけてんな」

苦笑するしかなかった。最初から分かっていたことだ。あいつらが圧倒的に優勢で、俺たちは追い詰められている側。俺が漁村に身を隠した間に、本城組は事実上、革命派の手に落ちた。戻ってきた俺たちは、最後の足掻きを試みる亡霊みたいなもんだ。

「勝ち筋はあるか?」

「……ないですね」

國見はそう言いながらも、どこか冷静だった。もともとこいつはこういう男だ。最悪の状況でも決して感情を乱さない。

「ないってのは、今のままじゃって意味だろ?」

「ええ。陽樹の狙いが単なる殲滅ではなく”決着”なら、チャンスはあります」

「つまり?」

「トップを落とせば、奴らは一気に崩れます」

國見の視線が俺を捉える。分かってる。陽樹を殺せば、革命派は瓦解する。だが、それはつまり、俺が再び”そういうこと”をしなきゃならないってことだ。

続ける。

「文人さん、明日の戦いの目的はひとつです。革命派を潰し、組を取り戻す。そして……あなたが、再びトップになる」

俺は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。

「──悪いが、それはねぇな」

國見が目を細める。

「文人さん、あなたは本城組の”正統”ですよ」

「正統かどうかなんて関係ねぇ。俺はもう、この世界に未練はねぇよ」

「では、誰が組をまとめると?」

俺は目の前の男をじっと見つめる。

「お前だよ、國見」

沈黙。國見は目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。

「俺はもう、組の人間じゃねえ」

室内の空気が一瞬揺れた。驚き、あるいは納得、誰もが様々な感情を押し殺して俺を見ている。

「この戦いが終わったら、俺は消える」

「……」

「だが、その前にやることはやる」

國見は目を細めたまま、わずかに息を吐いた。

会議室の中で、誰かが小さく息を呑む音がした。

「明日、陽樹を殺る。その後の本城組はお前に任せる」

「俺に納得しない幹部もいますよ」

「だったらそいつらも全部ぶっ潰せ。どうせ明日でケリをつけるんだ」

長い沈黙の後、國見が口を開いた。

「……承知しました。文人さんが推すなら、光栄ですね」

それが、俺なりの「信頼」の表現だった。

國見は静かに頷いた。その表情に迷いはない。

「じゃあ、決まりだな」

「……ま、いいんじゃねぇか」

幹部の一人が渋く笑った。

「國見、お前がトップなら、兄貴は安心して引けるってこった」

誰も異論は言わない。誰も否定しない。

國見がトップだと、全員が認めた瞬間だった。


「それもいいんだけどよ……陽樹のバックには外部の組織がついてるって話もある。本当に、勝てるのか?」

沈黙が落ちる。俺は椅子の背にもたれながら煙を吐き出した。

「勝つしかねぇだろ。國見をトップに据えるって決めたんだ。だったら、そいつが組を継げるようにするのが筋ってもんだろ」

俺がそう言うと、幹部たちは顔を見合わせ、やがて小さく笑った。

「……へへっ、まぁ、そういうことだな」

「やるしかねぇか」

「量より質だしな。兄貴と國見は百人力だ」

國見が改めて皆を見渡す。

「明日が決戦です。準備を怠らないように」

全員が頷く。その表情には、もはや迷いはない。國見は静かに続けた。

「……これはただの内部抗争ではありません。本城組を、いや、“俺たちの本城組”を取り戻す戦いです。陽樹たちが乗っ取ったのは、俺たちの居場所だ。だったら、俺たちが奪い返す」

その言葉に、誰も異論を挟まなかった。

俺は立ち上がる。

「全員、生き残れよ」

静かに拳を握り、國見が頷いた。




車のフロントガラス越しに、じりじりと照りつける日差し。俺たちの向かう先は、かつて本城組が武器の取引に使っていた倉庫街。陽樹が指定した場所だ。

「……陽樹はここを選んだか」

俺は助手席から外を眺め、低く呟いた。國見が運転席で無表情のまま言う。

「ここなら組の縄張りのど真ん中。それに、周りに一般人もいない。つまり、好きなだけ殺し合えるってことですね」

「フン……らしいな」

陽樹が求めるのは、どちらが強いかではなく、どちらが生き残るかだ。そういう勝負をするつもりでいる。

──革命派は、陽樹を除いて333人。

対する俺たちは、100にも満たない。

数では圧倒的に不利。だが、そんなことは最初から分かっている。

國見の運転する車が、廃墟と化した倉庫街に入る。広い空き地には、すでに革命派の連中が待ち構えていた。

國見が車を停める。後ろから、仲間たちの車も続々と到着する。

俺たちが車から降りると、奥の倉庫の影から、ゆっくりと歩いてくる男がいた。

本城陽樹。

陽樹はトレードマークとも言える、黒いロングコートを翻しながら、ニヤリと笑う。

「よう、待ってたぜ」

俺は一歩前に出る。

「……久しぶりだな、陽樹」

陽樹はゆっくりと肩をすくめた。

「久しぶり? お前、ずいぶんのんびりしてたじゃねぇか。逃げた後の気分はどうだった?」

「逃げたわけじゃねぇ。準備してただけだ」

陽樹はククッと喉を鳴らす。

「準備、ねぇ……? お前がどれだけ準備しようが俺の勝ちってのは変わらねぇよ、文人」

俺は無言で拳を握る。陽樹が片手を上げると、革命派の連中が一斉に各々の銃やナイフを構えた。陽の光が、鋭い刃物のように照り返す。

「……そろそろ始めようぜ。決着をつけよう、文人」

昼間の陽炎の中、決戦の火蓋が切られた。すぐさま陽樹が引き金を引いた。火薬の焼ける匂いとともに、保守派の男が倒れる。

「……クソが……!」

すぐ横で國見が蹴りを繰り出し、敵の顎を砕く鈍い音が響いた。周囲はすでに血の匂いと硝煙で満ちている。

「押し込め!!絶対にここで止まるな!!」

國見の怒声が飛ぶ。俺たち保守派の面々は、俺と國見を中心に、陽樹の部下どもを蹴散らしながら倉庫の奥へ進んでいった。


しかし──

「っ……! くそ、なんだこいつら……!」

今までのザコどもとは違う。ここにきて、陽樹の本当の手駒が姿を現した。昨日言っていた外部の組織というのは、こいつらなのかもしれない。

「國見、こいつら……さっきまでの連中とは格が違う。陽樹が近いぞ!」

「わかってます……!」

陽樹の最精鋭、か。俺たちは二人で背中を預け合いながら敵と向き合う。呼吸が合う。陽樹に近づくには、ここで奴らを突破しなければならない。

「文人さん」

國見が短く言った。

「ここからは、あなたが行ってください」

「……は?」

「こいつらは俺が抑えます」

國見の声は揺るがない。俺が戸惑う間もなく、國見は敵陣へと飛び込んだ。

「國見ッ──!!」

数人が同時に國見へ襲いかかる。だが、國見は迷いなく一人の腕を折り、もう一人の喉を潰し、鮮やかに敵を無力化していく。

「ぐっ……! クソが、化け物かよ……!」

「……行ってください、文人さん」

國見の背中が敵を引きつける。俺は迷わず、その隙に陽樹のもとへ駆け出した。



喧騒の果て、瓦礫と血に塗れた戦場の最奥に、二人だけが立つ。陽樹は得物(えもの)の鉄扇を開き、ゆるりと仰ぎながら笑った。風を起こすほどの動きではない。ただの仕草だ。それが逆に異様な威圧感を生んでいた。そしてゆるりと、もうひとつの得物、ダガーナイフを構える。

「──なるほど。ここまで来るとはな」

俺は応えない。ただ拳を握り、わずかに足をずらす。一瞬にして、陽樹の姿が霞んだ。閃光のような踏み込み。鉄扇が翻り、俺の視界が揺れる。風圧に乗せたダガーナイフが弧を描き、喉元を裂かんと迫る。紙一重で逸らし、俺は拳を叩き込んだ。

衝撃。

陽樹の身体がしなる。だが、わずかに腰を引き、ダメージを避けている。

「相変わらず重いな、お前の拳は……」

陽樹は唇を舐め、後退する。俺は無言で構えを解かない。

「お前は親父に従うことしか知らなかった」

陽樹の声は柔らかかった。まるで幼馴染に語りかけるような、そんな声音だった。

「だから俺に負ける。違うか?」

「……くだらねえ」

足を踏み込んだ。その瞬間、陽樹の手が弾ける。鉄扇が狙い澄ましたかのように俺の拳を打ち、ダガーナイフが閃く。俺は僅かに体を逸らし、それを回避した。次の刹那、俺の膝が陽樹の腹に突き刺さる。鈍い音が響く。陽樹の足がふらついた。しかし、彼の笑みは消えない。

「親父は甘かった」

陽樹は吐き捨てるように言い、ナイフを握り直す。

「必要最低限の殺し? 馬鹿かよ。俺はそんなもんで終わるつもりはねえ」

「それでお前が手に入れたのは、ただの屍の山だ」

「それでいい」

陽樹の目が細められる。

「文人、お前と違って、俺は”後ろ”を見ねえんだよ」

「……お前はただ、“前しか見えない”だけだ」

拳を握る。陽樹の笑みが深まった。

「だったら証明してみろよ、“本城”の名が、お前にふさわしいってことを」


風景が歪んで見えたのは、炎と土煙のせいか、それとも心の奥にある何かが騒いでいるのか。俺の拳が空気を裂くたび、地面が震えた。陽樹は鉄扇でそれを受け、弾き、翻しながら間合いを取る。隙を見て繰り出されるダガーナイフの閃きは、まるで蛇の牙のように執拗で冷酷だった。

「──なんで、そこまでして壊すんだ。伝統を、秩序を。お前の親父、昇さんが築いたものを!」

怒鳴るように吐き出した声に、陽樹の瞳がわずかに揺れた。

「だからだよ」

陽樹の声は低く、鋭かった。

「親父は“築いた”んじゃない。逃げたんだ。時代から、現実から、自分の限界から」

ナイフが風を裂き、俺の肩を掠める。赤が滲む。俺は無言で殴り返す。その拳が陽樹の頬を叩き、血が飛び散った。しかし、二人とも止まらない。

──そして、不意に、過去が脳裏に蘇る。

まだ組事務所の畳の間で、血の臭いも知らなかった少年二人が並んで座っていた。

陽樹はよく笑った。

俺は無口だった。

それでもふたりは、師として彼らを育てた本城昇(ほんじょうのぼる)の背中を、ただ無心に追いかけていた。

「お前らの性格は全くの別物だ。でも、心の芯は似てる。だから切磋琢磨しろ。競い合え。だが、どんなときでも──殺しは最終手段にしろ」

それが、俺たちの原点だった。

「本気で……あの人を憎んでんのか」

戦いの合間、俺は陽樹に問いかけた。陽樹は返さない。答えの代わりに、ダガーナイフが唸りを上げて振るわれた。躱す。距離が一気に縮まる。

「お前は……あの人に、昇さんに愛されてた。組を継ぐのも、お前のはずだった。それを、お前自身が捨てたんだろ」

「黙れ……!」

陽樹の顔から笑みが消える。

「お前には分からねえよ。あの人の“本当の顔”を見てない奴にはな……!」

「見てたさ。最期まで、あの人が何を守ろうとしてたか、何に怯えていたか。……俺は全部、見てた。背中で教わった。俺の師は、必要最低限の殺ししか望まなかった。それが“本城組”だ」

沈黙が一瞬、二人の間を裂いた。

次の瞬間。

拳と刃が、真正面から激突した。鉄扇が砕け、陽樹のダガーナイフが宙に舞う。俺の拳が陽樹の胸元に沈み込み、吹き飛ばされた陽樹が背後の瓦礫へと叩きつけられる。土煙の中で、陽樹が咳き込む。血の味を吐きながら、彼はふらつく足取りで立ち上がった。

「……だったら、俺が……新しい“本城”を作るだけだ」

「その意地、叩き潰してやる」

俺の眼は揺るがない。陽樹の両手は空っぽだった。だが、戦意はまだ燃えている。

拳が空を裂く音が、もはや風のように響いていた。蹴りが交錯し、血と汗が飛び、呼吸が詰まるほどの間合いで二人は殴り合う。俺の拳が陽樹の顎をかすめ、陽樹の膝が俺の脇腹に叩き込まれる。もはや技術ではない。精密さも、駆け引きも、とっくに削り落とされた。

残っているのは、拳と拳。意思と意思。

ただ、それだけだった。

──ふいに、胸の奥を何かが撫でた。

「いいか、文人。まずは左を出す。陽樹の奴は一拍おいて返してくるから、その隙を──」

それは、かつての記憶だった。十代半ば、組事務所の奥にあった小さな道場で、昇さんが組んだ二人だけのスパーリング。汗だくで、拳にマメを作りながらも、笑い合った夏の日。陽樹のパンチが頬を打つ。俺はよろけながら、それでも歯を食いしばって立ち直った。

「お前、もっと体の軸を落とせって言ったろ。昇さんに──」

「うるせぇ」陽樹が吠える。

「お前に言われたくねぇ……!」

──殴って、殴られて。どちらかが倒れなければ終わらない。ただの殴り合い。いや、違う。これは、“祈り”だった。どちらかが、背負ったものを守るために。どちらかが、“過去”と決別するために。

俺の拳が振り抜かれる直前、陽樹の目が一瞬だけ細められた。それは──少年の頃から何ひとつ褪せない、何ひとつ変わらない表情だった。

「……やっぱ、お前は変わらねえな、陽樹」

右拳が、陽樹の(こめかみ)を正確に撃ち抜いた。

──ドン。

肉の弾けるような鈍い音と同時に、陽樹の身体が落ち葉のように、ゆっくりと落ちた。何も言わず、ただ、音もなく。その一瞬だけ、時が止まったようだった。

土煙の中で、俺は膝をついた。

陽樹は倒れたまま動かない。その目は閉じられ、唇はわずかに開いている。まだ息はある。だが、意識はもう遠く。

風が吹いた。戦いが終わったことを、誰よりも早く自然が告げた。

──静寂。

俺は、呼吸を整えながら目を閉じた。拳が痛む。脇腹が焼けるように熱い。だが、それ以上に──胸の奥に、何かが流れ落ちていく感覚があった。

「……俺たちは、昇さんの呪いと戦ってたのかもしれねぇな」

答えは返ってこない。けれど、陽樹の口元が、わずかに緩んだように見えた。

そして俺は、ゆっくりと立ち上がる。

終わりが、始まる。新たな本城組の、その夜明けのために。


陽樹は、血に濡れたまま、仰向けに倒れていた。その顔に、痛みよりも、どこか穏やかな色が浮かんでいるのが、逆に文人の胸を締めつけた。

俺は、しゃがみ込み、ゆっくりと陽樹の横に腰を落とした。目の前の親友が、もうすぐこの世から消える。それがどんなに理不尽な相手だったとしても、思い出は、それだけでは割り切れない。

「……まだ、生きてんのか?」

陽樹は目を閉じたまま、ふっと笑った。

「……そう簡単には死なねえよ。しぶとさは、親父譲りだからな」

その言葉に、喉が詰まった。

親父──本城昇。

俺たちの師匠にして、本城組を作り上げた男。彼は殺しを嫌い、俺たちにもそうなるよう(しつ)けた。俺はそれに従い、陽樹はそれに逆らった。だが、根底にはいつだって、同じ場所を見ていたという実感があった。

「……親父さ」

陽樹がぽつりと呟くように言った。

「親父が死ぬ前の夜、文人と國見の話ばっかりしてたんだよ。まるで、おれがいなかったみたいにさ」

「……」

「悔しかったんだよ。なんでだよ、って思った。誰よりも近くにいたのは俺だろ?血も繋がってる。あの人のやってきたこと、隣でずっと見てきたのに、何も、渡してもらえなかった」

俺は拳を握りしめた。血の匂い。焦げた空気。まだ戦いの名残が、耳の奥でざわめいている。

「でも……わかってたんだ」

陽樹の声が、少しだけ弱くなった。

「お前も國見も、あいつの“想い”を一番ちゃんと背負ってた。組を変えようとか、守ろうとか──やり方は違ったけどさ。俺はただ、あの人の背中を越えたかっただけだ。……見返したかっただけだ」

「陽樹……」

「でもな、今日やっとわかったよ。お前と殴り合って、こんなにボロボロになって、……やっとわかった」

「俺がやってたのは、組を動かすことでも、未来を作ることでもなかった。ただ、親父に認められたくて、……ずっと、もがいてただけだったんだな」

俺は言葉が出せなかった。胸の奥がひりつくように痛んで、息すら苦しい。

「なぁ……文人」

「……ああ」

「お前、もうやめるんだろ?」

「知ってるのか?」

「分かるさ。親友だからな。國見は、いいトップになるよ。……俺より、ずっといい。お前もさ……ちゃんと、最後まで親父の弟子だったな。……ずるいよ、ほんと」

俺は、拳を膝の上でぎゅっと握った。涙が出そうだった。でも、出さなかった。まだ、陽樹が生きているうちは、泣いちゃいけないと思った。それが礼儀だと思った。

「……ありがとな」

陽樹が、微かに笑った。その目は、もう焦点を結ばずに空を見つめていた。

「最後の相手が、お前で良かったよ……マジで……」

そのまま、陽樹の呼吸は、静かに、止まった。

俺は顔を伏せた。嗚咽が喉の奥でせき止められ、肩が微かに震えた。

「……俺だってさ」

「最後の相手が、お前で良かったって、そう思ってるよ」

足音がした。いつの間にか全てを片付けた國見が、歩み寄ってきた。陽樹の亡骸を見つめ、そしてそっと目を閉じたあと、俺の隣で立ち止まる。

「……終わりましたね」

その声は静かだった。まるで、鐘の音のように、胸に深く響いた。

俺は立ち上がり、國見の隣に立った。空を仰ぎ、そして、ぽつりと呟いた。

「……ああ、終わったな」

それは、確かに戦いの終わりだった。けれど、あまりにも静かで、あまりにも寂しい「勝利」だった。






漁村へと続く国道を、國見に託された黒のセダンが走る。窓を開けると、潮の匂いがかすかに混じる風が頬を撫でた。國見から車のキーを受け取ったのは、決戦の翌朝だった。あいつは相変わらず感情を顔に出さないまま、「……あなたに似合う気がしたので」とだけ言ってキーを差し出した。

俺はそれを無言で受け取った。ありがとうも、またなも言わなかった。けど、國見のあの目の奥には、確かに何かがあった。感謝か、敬意か、憧憬か、あるいは別の何かか。俺には分からなかったが、國見も國見で、この戦いを経て成長していた。


ハンドルを切り、坂道を下る。あの漁村が、もうすぐそこにある。小さな港と、潮の香りと、ナギの声。それだけで、この車は帰るべき場所を知っているように思えた。

車をゆっくり停め、エンジンを切る。静寂が降りた車内に、遠くからカモメの鳴き声が滲んだ。ドアを開けた瞬間、潮の匂いと乾いた海風が一気に頬を撫でた。

俺は片足を地につけ、ひと呼吸おいてから外に出た。

見上げると、空は高かった。どこまでも抜けていて、まるであの戦いを越えてここに辿り着いたことを、空そのものが証明してくれているようだった。

一歩、また一歩と、アスファルトから砂利へ、砂利から湿った土へと足音が変わっていく。懐かしい足裏の感触だった。漁村の空気は変わっていない。潮と魚と、どこか焦げた網の香り。耳を澄ませば、笑い声や船のエンジン音。そのどれもが、心の奥をじんわりと温めていく。

港へと向かう坂道を下りきると、目の前に広がるのはあの日と同じ光景だった。網を干す老漁師、荷を下ろす若者たち、干物を運ぶ母親たち。けれどそのひとつひとつが、どこか眩しく見える。

──ふいに誰かが、俺に気づいた。

「あれ……シマじゃねえか?」

声が漏れた途端、まるで静電気が走ったように場がざわつき始めた。

「ほんとだ……!」

「戻ってきたのか……?」

「シマが……帰ってきたぞ!」

最初は数人だった声が、港じゅうを駆け巡る。干していた網が手から滑り落ち、作業の手が止まる。子どもが親の手を引きながら駆けていく。誰もが目を見開き、信じられないような顔で俺を見つめていた。

それでも俺は、歩みを止めなかった。あくまで静かに、淡々と、ただまっすぐに、ナギのもとへ帰るために。

港の最奥、まるで俺と陽樹が戦った場所のようなところに、彼はいた。ひたむきに両親と作業をする姿は、俺の胸を打った。

俺は立ち止まる。

口が、自然に開いた。

「──ただいま」

それは、誰に向けたものだったのか、自分でもわからなかった。けれど、その声を聞いた瞬間、ナギの肩がびくりと揺れた。

「……シマ?」

その名前を呼ぶ声が、震えていた。ナギがゆっくりと立ち上がる。足取りがぎこちない。でも、目だけはまっすぐに俺を見ていた。瞳の奥で、いくつもの感情がせめぎ合っていた。驚き、戸惑い、安堵、そして……込み上げる涙。

「……帰って、きたんだね」

そこから先の言葉は、ナギの中で音にならなかった。

ただ、泣いていた。堪えようとしたのだろう。きっと何度も深く息を吸って、唇を噛んで、堪えようとしたのだ。陽樹の前の俺のように。

けれど──ダメだった。

「……うっ……うわああああああ……!」

泣き声は、風よりも波よりも、力強く響いた。あの日、静かに見送ったあの港で。あの時、声にできなかった涙を、今すべて吐き出すかのように。

俺は何も言わなかった。ただ、歩み寄って、ナギを抱きしめた。泣いている背中を、そっと撫でた。

「もう……大丈夫だ」

そう言った時、後ろからふたつの影が近づいてきた。ナギの父親がいた。いつも寡黙で、鋭い眼光で俺を試していた男。その頬が、ほんの少しだけ、濡れていた。

「……よく、生きて戻ったな」

それだけを絞り出すように言ったあと、ふいに目をそらした。顔を見られたくなかったのだろう。でも、その震える肩が、すべてを語っていた。

ナギの母も、目元を袖で隠しながら、笑った。

「無茶するんじゃないよ……あんたって人は……」

その声は、母親そのものだった。家族を迎える、無条件の優しさだった。

三人が並んだ。

言葉は少なかった。

でも、心の距離は何よりも近かった。

──港の人々が見守る中で、俺は、ようやくこの場所に戻ってきた。

ナギが言った。

「……おかえりなさい」

それは、誰よりも待っていた者の言葉だった。

そして、それがこの物語の、確かな終着点だった。

すべてを終えて、俺が帰ってきたのは、血と義理の世界じゃなくて、一杯の味噌汁と、あの子の声が待っている場所だった。

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