中
目を覚ますと、部屋の中にはぼんやりとした朝の光が差し込んでいた。外の気配はいつもと違い、どこか落ち着かない。村全体がざわついているような、そんな空気を感じる。
寝返りを打ち、布団を深くかぶる。昨日の疲れがじんわりと体に残っていて、もう少しこのままでいたいと思ったが、その怠惰を遮るように襖の向こうからナギの声が響いた。
「シマ、今日はお祭りだよ」
祭り。その単語が耳に引っかかり、ぼんやりとした意識のまま目を開ける。この村に祭りがあるなんて聞いていなかった。昨日の夜もそんな話は出なかったはずだ。ならばこれは、よそ者の俺には関係のない、村の内側だけで執り行われるものなのかもしれない。
体を起こすと、襖の隙間からナギがひょこっと顔を覗かせた。
「準備あるから、早めに来てね」
言うだけ言うと、ナギは駆け足で去っていった。この村の祭りとは、一体どんなものなのか。寝起きの重い頭で考える。布団を押しのけると、外の空気が肌に触れ、ぴりっとした感覚が走った。開け放たれた窓から吹き込む風が冷たく、秋の深まりを改めて実感させる。
外ではいつもと違う喧騒が広がっていた。普段の漁とはまた異なる、ざわめきと人の動く気配。いつもより多くの足音が地面を踏みしめ、低く交わされる声が風に乗って流れてくる。まだ何も見ていないのに、空気の色が違って感じられた。
布団をたぐり寄せ、もう一度横になろうかと考えたが、胸の奥にひっかかるものがあり、それを振り払うように俺は布団を跳ね除けた。
顔を洗い、冷たい水で寝ぼけた頭を無理やり覚ます。手拭いで滴を拭いながら着替えを済ませ、家の引き戸を開けると、冷えた朝の空気が一気に流れ込んできた。
外に足を踏み出した瞬間、昨日までとはまるで違う空気に包まれる。港の朝とは別の、ざわめきに満ちた活気。いつもの漁の準備とも、普通の生活の延長線上とも違う、人々の動きの鋭さと、低く響く話し声。普段は静かな路地にまで人の姿があり、あちこちで何かを運び、組み立て、飾り付けている。家の前には見慣れない提灯がぶら下がり、縄で結ばれた白い紙垂が揺れていた。昨日までの村の姿からは想像できないほど、空気が張り詰めている。
これはただの「祭り」ではない。
見渡す限りの人の動きが、どこか整然としていて、規律の中で動いているように見えた。賑やかなのに、無秩序ではない。喧騒の中に、妙な統一感がある。ナギの言っていた「お祭り」が、いわゆる町の祭りとは違うものなのだと、俺はこのとき初めて察した。
祭り、なのか。
それとも、別の何か──。
少し離れたところで、ナギが誰かに声をかけられ、こくりと頷くのが見えた。俺の姿に気づくと、手を振りながら駆け寄ってくる。
「シマ、準備手伝って!」
昨日と変わらない無邪気な声に、俺はほんの少しだけ、緊張を解いた。
ナギに手を引かれるまま、祭りの準備が進む広場へと向かう。縄で仕切られた中央の空間では、男たちが何やら太い柱のようなものを立てている。近づくと、それが木彫りの像であることが分かった。高さは人の背丈ほど。風雨にさらされ、古びた木肌の表面は黒ずんでいるが、彫られた顔の表情はまだはっきりと残っていた。
──祀られている。
そう直感するのに、時間はかからなかった。その像を中心に、藁を敷き詰め、注連縄を張り巡らせていく男たち。彼らの表情は真剣で、時折誰かが短く指示を飛ばし、それに黙って従う。祭りの準備というより、何かの儀式を整えているような、厳かな雰囲気があった。
「シマ、こっち!」
ナギが俺を呼ぶ。促されるまま手伝うことになったのは、白い布を柱や屋根のある場所に括りつける作業だった。触れるとザラリとした質感で、厚手の布にはどこかで見たような、模様が描かれている。
「これ、何の模様?」
「……村の印みたいなもん」
ナギは答えながらも、どこか歯切れが悪かった。周囲を見渡せば、あちこちで白い布が風にはためいている。まるでこの空間を外と切り離すように、静かに境界を作っているようだった。
「この祭り、どういうことをするんだ?」
俺の問いに、ナギは一瞬だけ迷ったような顔をしたが、すぐに笑って言った。
「まぁ、見てれば分かるよ」
その笑顔の裏に何があるのか、俺にはまだ分からなかった。
いつの間にか、空は茜色から深い群青へと移り変わっていた。広場に灯された提灯の明かりが、ゆらゆらと不安定に揺蕩っている。潮風が吹き抜けるたびに、その光は儚く揺れ、まるで何かの影がさまよっているかのようだった。
人が集まり始める。
男たちは静かに並び、女たちは子どもを連れてその後ろに続く。祭りの賑わいとは違う、静かな緊張感があった。誰も無駄に言葉を発しない。ただ、何かを待っている。
「シマ」
ナギの父親が、重い声で俺を呼んだ。
──いや、“俺”じゃない。“シマ”を呼んだのだ。
初めて漁をした日のことを思い出す。あのときも、名前ではなく「シマ」と言われた。でも今は違う。漁をして、田んぼを手伝い、飯を食い、眠り、また朝を迎えて──その繰り返しの中で、いつの間にか”俺”は“シマ”になった。
それが、少しだけ嬉しかった。
「今日ばかりは、静かに見ててくれ」
それだけ言って、ナギの父親は視線を広場の中央へ戻した。木彫りの像の周りに、次々と人が集まる。その顔には、悲しみとも敬意ともつかない、複雑な感情が浮かんでいた。
──これは、ただの祭りじゃない。
俺の中で、得体の知れない何かが、じわじわと形を成していく。ナギの母親が、手を合わせて目を閉じた。その仕草に倣うように、周りの村人たちも一斉に手を合わせる。
祈りだった。
誰かのための。
「三年前も、こんな風に、みんな集まったんだ」
ふと、隣にいたナギがぽつりと呟いた。
鼓動が強くなる。
広場の中央にある木彫りの像は、三年前からの風雨に晒されて黒ずみ、表情はすっかり曖昧になっていた。そこに彫られた顔を、俺は見たことがある気がした。
ナギの父親が、静かに言った。
「村の決まりでな。海で死んだ者も、そうじゃねぇ者も、村で死んだ者はこうして弔うんだ。」
祀られているのは、三年前に死んだ村の人間。
こうして弔うのは、ただの決まりごと。
それ以上の意味はない。ただ、そういう風にしてきたから、これからもそうする。それだけのこと。なのに、俺は像から目を逸らせなかった。
三年前。
少し前から、自分の血の気が引くのを感じていた。
“シマ”がここに来たのは、ほんの数日前だ。だが、“俺”だった頃の自分がこの村に足を踏み入れたのは、三年前。そして三年前のちょうど今日、俺はあの男を手にかけた。
あの男は組の金を持ち逃げし、仲間を売った。だから、殺した。それだけのことだった。
……はずだった。
だが、こうして”弔われる側”として祭りに組み込まれているのを目の当たりにすると、罪悪感のようなものが込み上げてきた。“俺”として生きていた頃、殺した相手のその後なんて気にしたこともなかった。殺せと言われたから殺し、証拠を処理し、それで終わりだった。
けれど、シマとしてこの村で生きている”今”、この光景をただの風景として見過ごせない自分がいる。像の前で手を合わせるナギの母親。静かに頭を垂れる漁師たち。
俺は、いったい何のつもりで、ここに立ってる?
漁師でもなく、村の人間でもなく、それでも”シマ”としてこの場にいる俺は、一体、何者なんだ?
その問いの答えは、誰も教えてはくれない。
風が吹く。波の音が、静けさの中で遠く響く。漁師たちが手を合わせる中、ひとりだけ取り残されたような感覚のまま、俺は動けずにいた。
祭りの喧騒が嘘のように静まった朝、村全体が片付けに動き出していた。昨日までの熱気は消え、普段の漁村の空気に戻りつつある。
昨日はろくに寝れてない俺も、ナギと一緒に壊れた提灯や竹の枠を片付ける。ナギの父親は他の漁師たちと共に、祭りで使った漁具を整理していた。
そんな中、ふと違和感を覚えた。
見慣れない若者がひとり、片付けの作業に混じっている。年の頃は二十代半ば。酷く汚れた作業着を着ているが、生地のハリが妙に新品めいて見えた。
村の人間なら、こんな時にどこで何をすべきか大体分かっているはずなのに、そいつの動きはどこかぎこちない。大きな木箱を運ぼうとして、一度持ち上げかけた後、ちらりと周りを見回し、他の男たちの動きを真似するように運び出した。
「シマ、こっち手伝って」
ナギに声をかけられ、視線をそらした。竹の枠をまとめる作業に戻ろうとしたが、どうにも気になってもう一度そいつの方を見た。
ちょうど向こうも、俺を見ていた。
一瞬、目が合う。
だが、若者の反応がほんのわずかに遅れた。まるで、不意を突かれたかのように。その若者は目を逸らし、何事もなかったかのように作業に戻る。
「……」
俺は胸の奥に、小さな棘が刺さったような違和感を覚えながらも、何も言わずに作業を続けた。
片付けを続けながらも、あの若者の姿が頭から離れなかった。
何かがおかしい。
村の男たちに交じって働く様子は、一見自然だった。だが、動きがわずかに不自然で、目が合ったときの微妙な間が、妙に引っかかる。違和感が膨れ上がり、俺はナギにトイレに行くと嘘をつき、作業を抜け出して、港の外れ、自分のセダンのもとへと足を向けた。
そして、足を止めた。
「……やっぱりな」
全てのタイヤが、三年前の昨日、俺がやったのと同じように、潰されていた。パンクしたタイヤが、ぺしゃんこに潰れて砂利に沈み込んでいる。
視線を上げると、すぐ後ろにもう一台のセダンが停まっていた。
黒のボディ、スモークの入った窓、わずかに埃を被ったフロントガラス。ナンバープレートこそ違うが、細かい傷の入り方や車体の重みまで、自分のものと何も変わらない。
間違いなく、組の車だった。
心臓が一拍、静かに鳴る。
俺は愛車の前に立つと、ゆっくりとドアを開け、ダッシュボードの奥に手を伸ばした。
指先が冷たい金属に触れる。
滑らかな感触を確かめながら、それを引き抜いた。
黒光りする拳銃。
しばらく使っていなかったが、手に馴染む感覚は変わらない。
「……さて」
呟くように言い、静かにスライドを引いた。
銃口を下げたまま、安全装置を外し、深く息を吸う。
そして、目を閉じる。
——シマとして生きるか、それとも本城組若頭・嶋崎文人として生きるか。
その選択が、すぐそこまで迫っていた。
セダンの影に隠れるようにして、俺は拳銃を腰の裏に差し込んだ。まだ引き金を引くと決めたわけじゃない。けれど、こうして確かな重みを感じているだけで、腹の底に沈んでいた決意が少しずつ形を成していくのがわかった。
祭りの片付けのため、村人たちは広場や路地で忙しなく動き回っている。昨日まであれほど神聖な空気に包まれていた場所が、今では普段通りの村の日常に戻りつつあった。だが、俺の目はただ一人の存在を捉えて離さなかった。
若い男——昨日までは見かけなかった顔だ。服装こそ村人に馴染んでいるが、わずかに尖った雰囲気が滲み出ている。まるでここが自分の居場所だと錯覚しようとしているかのように、ぎこちなく動いている。
(やっぱり、な)
痩せているが鋭い目つき。狂気を孕んだ表情。手の震え。それは、まるで——
「昔の俺みたいだ……」
俺は静かに息を吐いた。若者が敵だという確信に至るまで、それほど時間はかからなかった。
次の瞬間、若者が振り向いた。そして、その目が俺を捉えた途端、迷いなく動いた。
殺気が走る。
若者の手が懐に伸びたのを見て、俺は即座に身構えた。しかし、俺が拳銃を抜くのはまだ早い。この村で、真っ昼間から銃をぶっ放すわけにはいかない。若者が飛びかかってくる。俺は半歩引き、受け止める形で相手の腕を払った。鋭い蹴りが飛んでくるのをかわしながら、村人たちが次第に騒ぎ始めるのが耳に入った。
「なんだ、シマが殴り合いしてるぞ!」
「やっぱり、何かあるんだろ」
「前から普通の人間じゃねえと思ってたんだ」
雑音のように飛び交う声。それらが全て、シマの居場所を否定する言葉のように響いた。
「やめて!!」
ナギの声だった。ナギの叫びが、遠くからではなく、すぐ近くから聞こえた。いつの間にか駆け寄ってきて、必死に俺と若者の間に割って入ろうとしている。
「シマを殺さないで……お願いだから……!」
涙混じりの声が響く。村人たちの視線が、俺の方へ集中するのを感じた。
「ナギ、下がれ」
俺は低く言った。しかし、ナギは動かない。その姿に、若者の目が苛立ちに染まる。
「……チッ」
次の瞬間、若者の拳がナギの頬を打った。
張り詰めていた空気が一瞬にして弾けた。
視界が赤く染まる。
次に動いたのは、本能だった。
殴られたナギが地面に倒れ込むのを見た瞬間、俺の体は勝手に動いていた。
拳銃を持っている?そんなことは関係なかった。
拳が、若者の顔面に突き刺さった。
骨の軋む感触。拳銃が地面に転がる音。
若者の体が弧を描いて宙を舞い、地面に激しく叩きつけられた。
次の瞬間には俺は馬乗りになり、容赦なく拳を振るっていた。
「お前……なんかが、ナギに……!」
一撃、二撃、三撃——
「手ぇ出して……」
四撃、五撃——
「いいわけ、ねぇだろうがよ!!!!」
最後に放った拳は、若者の鼻を潰し、血しぶきを上げた。
若者の意識が飛ぶ。
村人たちは息を呑んでいた。
誰もが、その光景を、暴力を見ていた。
どこかから、誰かの息を呑む音が聞こえた。
俺は立ち上がり、完全にのびている若者を見下ろした。周囲は静まり返っている。
「……ナギ、大丈夫か?」
振り向くと、ナギは頬を押さえながらこちらを見ていた。涙が溢れたままだったが、うなずいた。
次に視線を上げると、村人たちが俺を見つめていた。
何かを言いたそうに口を開きかけたが、誰も言葉を発しなかった。ただ、さっきまでの疑いの目とは違う感情が滲んでいるのを感じた。
ようやく、誰かがつぶやいた。
「……シマ」
その声を皮切りに、少しずつ空気が変わっていく。
「……ナギを助けたのか?」
「……やっぱりシマは悪い人じゃねえのかもしれねえな」
「俺たちの仲間……なのか?」
小さな波紋が、静かに広がっていく。
俺は、自分の手を見た。血はついていない。けれど、自分の手が汚れていることを、俺自身が一番よく知っている。
(違う。俺は、ただ……)
それでも、ナギを殴った若者を見下ろすと、腹の底から言いようのない怒りが込み上げる。
村人たちを見渡す。
「いいんですか?俺がこんなことしても」
すると、ナギの母親が微笑んだ。
「シマは、村の人間だろ?」
ナギの父親はまっすぐに俺を見つめている。
「シマ、ありがとうな」
俺は黙った。
この村での居場所を、初めて理解した気がした。
それと同時に、心の奥で確信した。
(俺は、やっぱり”シマ”だ)
この村の人間でも、漁師でも、若頭でもない。
ただの”シマ”だ。
ナギは不安そうにこちらを見たが、俺の目を見て、ゆっくりとうなずいた。
そして、誰もいない場所へと若者を引きずっていく。
ここから先は、”シマ”として生きていく”俺”の仕事だ。