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都落ち  作者: ぽにょ
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夜の空気が重い。肌にまとわりつくような湿気と、静けさ。遠くでパトカーのサイレンが鳴っているが、ここまで届く気配はない。まるでこの路地だけが、時間から取り残されたかのようだった。

煙草の火を灯す。紫煙が細く、ゆっくりと宙に溶けていく。吐き出した煙とともに、肺の奥に張りついていた苦さが消えていくような気がした。

目の前には、國見硏くにみ けん。俺が組で若頭だった頃から、誰よりも忠実に俺に仕え、命を預けてきた男だ。組では「ナンバー2」などと呼ばれていたが、それは単なる序列ではなかった。國見は俺の片腕であり、何より、俺の言葉を疑わない唯一の存在だった。その國見が、無言で俺を見つめている。

「……あんたがいなくなったら、終わりだ」

突如放った一言は、静かな声だった。怒りも焦りもない。ただ、深く沈んだ声。それが、國見にとっての覚悟だったのかもしれない。

何度も繰り返し聞いてきたセリフだった。だが、今この瞬間に、この男から聞くと、胸の奥に沈んでいく感触があった。俺は煙草を足元に落とし、靴底で踏みつぶした。アスファルトに滲む小さな赤い火。

目の前の現実から逃げるように、手元の鍵を(もてあそ)ぶ。小さな金属の感触が、妙に指に馴染んだ。これをひねれば、どこへでも行ける。ただし、戻る場所があるとは限らない。

「……いつか必ず戻る」

自分でも驚くほど、静かな声だった。感情を押し殺しすぎて、もはや実感すらない。それでも、そう言うしかなかった。

國見は、ふっと息を吐いた。わずかに目を伏せ、何かを言いかけたように口が動いたが、それ以上は何もなかった。

俺を見つめる國見の瞳には、動揺も、怒りもなかった。ただ、まっすぐな光だけが宿っていた。まるで「信じている」と言わんばかりに。

俺は視線を逸らし、車のドアを開けた。金属の軋む音が、夜の静寂を切り裂く。

運転席に座り、鍵を差し込む。

ひんやりとした金属の感触が、指先に沁みる。

回す。

エンジンが震え、低く唸りを上げた。車内の静寂が、一瞬で打ち砕かれる。

バックミラーに映る國見の姿。微動だにしない影。そこに立っているというより、ただの残像のようだった。

アクセルを踏む。景色が動き出し、國見が遠ざかっていく。ミラー越しに、その姿が闇に溶けるまで、俺は一度も振り返らなかった。


街の灯りが、バックミラーの中で滲んでいく。ネオンに彩られた都会の風景は、夜の闇へと溶けていき、フロントガラスの向こうには、ただ黒い道だけが伸びていた。

アクセルを踏み込む。エンジンの唸りが足元から伝わる。スピードメーターの針がじわりと上がり、車が闇を切り裂くように走る。

考えろ。これからどこへ行く?

車を走らせながら、何度も頭の中で地図をなぞる。逃げ道はいくつかあった。だが、それぞれに問題がある。

都会に留まるのは論外だった。

路地裏に潜んだところで、すぐに見つかる。身を隠すには人の多い繁華街がいいとも言うが、その分監視の目も多い。どこかで必ず足がつく。

なら、山か、海か。

山は悪くない。

いっそ深い山中に消えてしまえば、誰の目にも触れずに済む。小さな集落に紛れ込むのも手だ。だが、問題は生活だ。人里を離れすぎれば、食い物にも困る。何より、山には山のルールがある。昔、組の仕事で山間部の村に関わったことがあったが、ああいう閉鎖的な場所では余所者が目立つ。誰かが怪しめば、噂は一気に広まる。

俺は、ひとりで生き延びなければならない。

なら、海か。

──海。

脳裏に浮かぶのは、三年前に訪れた漁村の記憶だった。

組の仕事で地方に出向いたことがあった。日本海沿いの、小さな漁村。観光地でもなければ、利権の絡む街でもない。ただ静かに、昔からの暮らしを守っているような場所。

あの村の夜は、暗かった。街灯も少なく、民家の明かりもまばら。波の音が遠くに響き、潮の匂いが風に混じっていた。港には、小さな漁船がいくつか停泊していた。船の上には網や道具が雑然と置かれ、昼間の忙しなさの名残を残している。だが、夜になれば人影はなく、ただ潮風だけが吹き抜ける。

あそこなら、消えられるかもしれない。

土地の人間関係は閉鎖的だった。外からの人間を簡単に受け入れる場所ではない。だが、それさえ乗り越えれば、隠れるにはもってこいの環境だった。

決めた。

俺はハンドルを切った。カーナビは要らない。道はなんとなく覚えている。高速道路を降り、ひたすら海を目指す。

夜の闇が、俺を飲み込もうとしていた。


東の空が、深い藍から紫、そして淡い橙へと滲んでいく。星月の光は薄れ、夜の終わりを告げるように静かに消えていった。

車の窓を少し開けると、冷えた空気が頬を撫でる。潮の匂いと、刈り取られたばかりの稲の香りが入り混じっていた。田んぼには短く刈り残された茎が並び、ところどころに稲架はさが立っている。稲束が乾燥のために吊るされ、朝の風に揺れていた。夜露を含んだその黄金色が、夜明けの光を受けて淡く輝いている。

遠くの(かた)には、薄い霧がたなびいていた。水面は静かで、まるで鏡のように空を映している。そこへ一羽の水鳥が舞い降り、羽ばたきとともに波紋を広げた。その音だけが、ひっそりとした世界に響く。

視線の先に、小さな漁村が見えてきた。まだ人の気配はないが、屋根越しに漁港の向こう、沖へと向かう漁火がいくつも瞬いていた。船はすでに海へ出たのだろう。

車を停め、エンジンを切る。機械の振動が消え、代わりに潮騒と風の音が満ちる。夜が完全に明けるまで、あと少し。水平線の端から、金色の光がゆっくりと滲み出していた。

ここで、しばらく身を潜めることにしよう。

朝焼けの色が濃くなり、田んぼの水たまりに映り込む。風が吹き抜け、吊るされた稲束がざわりと揺れた。

俺の新しい朝が始まる。



車の中は蒸し暑かった。エンジンを切ってしばらく経つせいか、じっとりとした空気が肌にまとわりつく。シートに背中を預けると、微妙に湿った感触が気に障る。外からは波の音が一定のリズムで聞こえ、風が車体をゆっくり揺らしていた。どこからか潮の匂いが漂い、喉の奥に少し苦みを残す。

こんなところで寝られるのか?

そう思ったが、選択肢はない。目を閉じ、深く息を吸う。頭の奥がじんじんと重い。今まで張り詰めていた緊張が、ふっと弛緩していくのを感じた。どこか遠くで鳥の鳴き声がして、意識がゆっくり沈んでいく。


 


カン、カン。

微かに響く音に、ぼんやりと目を覚ます。夢の中の音かと思ったが、また──カン、カン。今度ははっきりとした衝撃が窓ガラスを叩いた。ゆっくりと瞼を開けると、逆光の中、小さな影が揺れていた。

「おーい、起きてるー?」

まだ寝ぼけた頭をかきながら、顔を上げる。窓の外には、短パンとサンダル姿の少年が立っていた。

「なあ、これなに?」

車のドアを指さしながら、好奇心に満ちた目でこちらを覗き込んでいる。

「……車だけど?」

「しってる! でもこんな車、村にはない!」

少年はそう言うと、まじまじと車を見つめる。村には軽トラしかないのか。確かにこんな漁村に、黒塗りのセダンが停まっているのは異質だろう。

「おじさん、よそから来たん?」

「……まあな」

「じゃあ、どこに泊まるん?」

「まだ決めてない」

「ふーん」

少年は腕を組んで考え込む素振りを見せた。やがて、何かを思いついたようにニッと笑う。

「おれんち来る?」

目の前の少年は、確かにそう言った。俺は完全に寝起きの頭で、その言葉の意味を考えた。少年の家に行く? 突然現れた得体の知れない男を、こんなにあっさりと家に招こうとするのか?

まぁとりあえず

「お前、名前は?」

「ん?おれ?瀬呂凪生(せろなぎ)!みんなナギって呼ぶよ!」

ナギ、と名乗った少年は胸を張ってそう言った。俺はまだ寝ぼけたままの頭を軽く振る。

「おじさんは?」

「……嶋崎文人(しまさきふみと)

「ふーん…フミト!」

「いや、そうは呼ばれたことねぇな」

「じゃあ…シマだな!」

「そうも呼ばれたことないけど」

「シマのほうが言いやすいし、そっちにしよ!」

妙に馴れ馴れしい奴だ。俺は苦笑したが、こんな小さな村で偽名を使うのも面倒くさい。誰かに話されることを考えれば、下手に誤魔化してボロが出るよりは本名を名乗っておいたほうがいいかもしれない。

「それで、ナギ……お前の家ってどこにあるんだ?」

「家は村の真ん中のほう! でも今、親は港にいるからそっち行こ!」

「港?」

「そう!ちょっと行けばすぐだし!」

そう言うなり、ナギは砂利を蹴り上げながら駆け出した。俺は息をつき、車のドアをロックする。

さて、どうなるか。

潮風に吹かれながら、ナギの後を追った。

海が近づくにつれ、潮の匂いが濃くなった。波が岸壁に打ちつけられ、規則的な音を立てている。道の脇には防波堤が続き、その向こうには一面の日本海が広がっていた。ナギは足を止めずに港の奥へと進んでいく。漁船が何隻も停泊していて、どれも使い込まれた道具が雑然と積まれていた。桟橋では、男たちが作業をしている。網を干している者、漁の準備をしている者、談笑しながら煙草を吹かす者。その中の一人が、こちらに気づいた。

がっしりとした体格の男がナギに声をかける。

「おい、ナギ。そいつ誰だ?」

その声で、他の男たちも振り向いた。一斉に向けられる視線。まるで異物でも見るような、静かな警戒の色があった。

「ん?シマ!」

ナギが無邪気に言う。

「ここで寝てたから、連れてきた!」

男たちの視線が、俺の姿を改めてじっくりと値踏みするように動いた。明らかに”余所者”への警戒が滲んでいた。

「寝てた?」

「うん!車で!」

「……へぇ」

短い返事とともに、男の目つきがさらに鋭くなった。

「それで、あんたは何者だ?」

「……嶋崎文人。少しこの村に世話になろうと思ってる」

「ふぅん……」

男は胡乱げに目を細める。周りの漁師たちも、無言のままこちらを見ていた。俺は居心地の悪さを覚えた。こういう目には慣れているつもりだったが、余所者を容易に受け入れないこの土地の空気が肌にまとわりつくようだった。

沈黙が流れる。

「……で、泊まるとこは?」

男の問いに、俺は言葉に詰まった。ナギが割って入るように言う。

「うち!お母に聞いてみる!」

「はぁ?」

「ダメ?」

「いや、そういうことはお母さんに聞け」

男は深くため息をついた。

「……とにかく、余所者なら余所者らしく、大人しくしとくんだな」

そう言い捨てて、男は再び網の手入れに戻った。他の漁師たちも、それ以上興味を示さないように視線を外す。

俺は小さく息を吐いた。歓迎されていないことだけは、よくわかった。ナギは気にする様子もなく、ずんずんと歩いていく。

「お母ー!」

その声に応じるように、小柄な女性が振り向いた。黒髪を後ろでひとつに束ね、袖をまくった作業着姿。日に焼けた肌と鋭い目元が、漁師の世界で生きる強さを感じさせる。

「お母!」

ナギが元気よく声をかけると、彼女──ナギの母親は手を止めて振り向いた。

「なんだ、ナギ。仕事中に大声出すんじゃないよ」

「この人、うちに泊めていい?」

俺は一瞬、ナギの無邪気さを疑った。まさか、そんなストレートな言い方をするとは。母親はナギの横に立つ俺に目を向け、眉をひそめた。

「……誰?」

「えーっと……」

俺が口を開く前に、ナギが先に答えた。

「シマ!この村にしばらくいるんだって!」

「……シマ?」

「嶋崎文人です。ちょっと事情があって、このあたりで世話になれそうな場所を探してるんですが……」

「ほう?」

母親は腕を組み、じっくりと俺を観察するように目を細めた。その視線には、さっきの漁師たちと同じ警戒感が滲んでいる。

「事情って?」

「まぁ、ちょっと……訳アリで」

「訳アリの男を家に泊めろって?」

母親の声には、ほんのわずかに棘があった。俺は短く息を吐く。これは簡単にはいかない。

「大丈夫だよ、お母!シマ、悪い人じゃない!」

「ナギ、あんたに人を見る目があると思ってんの?」

ナギは「うっ」と言葉に詰まり、そっと俺の方を見た。俺は静かに口を開く。

「警戒されるのは当然だと思います。俺だって、見知らぬ男をいきなり泊めるなんて、普通はしません」

「なら、なんで頼むの?」

「ここで少し落ち着きたいんです」

それ以上、詳しく語るつもりはなかった。

母親はしばらく俺の目を見つめていたが、やがて軽く息を吐いた。

「……仕事は?」

「え?」

「働けるのかって聞いてるのさ。うちには泊める余裕なんてないよ。居候するなら、何かしら手伝ってもらうよ」

予想外の条件だったが、俺はすぐに頷いた。

「もちろん、できることなら」

「ふん。まぁ、どうせナギがごねるだろうしね……」

母親はナギを一瞥し、もう一度小さくため息をついた。

「いいよ。だけど、あんたの素性が分かるまでは信用しないからね。何かあったら、すぐ追い出す」

「……ありがとうございます」

俺が頭を下げると、ナギが「やった!」と小さくガッツポーズをした。母親は渋い顔をしながらも、再び仕事に戻る。

「ほら、ナギ。余所者を招いたんだから、あんたが面倒見るんだよ」

「うん!シマ、行こ!」

俺はナギの後を追いながら、母親の横顔をちらりと見た。彼女の目はまだ、こちらを信用していない。それは当然だった。

まぁ、今はそれでいい。ここに居場所を作れるかどうかは、これからの行動次第だ。そんなことを思いながら、俺はナギの家に向かった。


ナギの家は、港から少し離れた坂道の途中にあった。

古びた二階建ての木造家屋。壁の一部は潮風に晒されて色褪せ、窓枠の金具はところどころ錆びついている。玄関前には漁網やバケツが無造作に置かれ、潮の香りと魚の匂いが微かに漂っていた。

「ここがおれんち!」

ナギが勢いよく引き戸を開けると、家の中から古い木材の軋む音がした。

「お邪魔します……」

俺は靴を脱ぎ、玄関に上がる。足元の畳は少し柔らかく、長年の使用で擦り減っていた。

「シマの部屋、こっち!」

ナギに案内されたのは、家の奥にある六畳ほどの小さな部屋だった。壁には古びた木の柱が剥き出しになっており、天井は低い。窓は港の方角に向いているが、外の景色は波に削られた防波堤が見えるだけ。部屋の隅には昔ながらの木製の箪笥が置かれ、その上には使い古された座布団が積み重なっていた。

「元々、じいちゃんが使ってた部屋なんだけど、今は物置になってるんだ」

言われてみれば、部屋の片隅には古い漁具や、使われなくなったラジオが無造作に置かれている。

「布団は?」

「今持ってくる!うち、客用の布団少ないけど、平気?」

「気にしないよ。寝られればいい」

「よかった!」

ナギは嬉しそうに部屋を飛び出していった。俺は一人になり、静かに部屋の中を見渡した。六畳。角部屋。窓の外には漁港の防波堤。必要最低限の生活ができる空間。派手な生活には程遠いが、逃亡者にはちょうどいい。

俺は小さく息をつき、窓の外を眺めた。海はもうすっかり陽が昇り、朝の光が波に反射して揺れていた。

ここでしばらく、身を潜めることになる。

──いつまで、だろうな。

そんなことを考えていると、廊下からナギの足音が近づいてきた。

「持ってきた!」

ナギが抱えてきたのは、少し薄めの綿布団だった。

「ちょっとぺたんこだけど、夜は冷えるから、毛布も後で出してあげる!」

「助かるよ」

ナギは満足そうに頷くと、俺の前に布団を広げる。

「よし、これでシマの部屋、完成!」

俺は軽く喉を鳴らして笑った。

「ありがとう、ナギ」

「うん!」

「少し(くつろ)がせてもらうよ」

そういうと俺は、目の前の布団に身を預けた。




目を覚ますと、部屋の中が夕焼け色に染まっていた。どうやら寝てしまったようだ。微睡みの中で天井を見上げる。寝転がったまま伸びをすると、軽く体が痛んだ。久しぶりにまともに寝た気がする。

「……腹、減ったなぁ」

ぼそりとつぶやくと、自分の声が妙に響いた。車の中とは違って、寝心地は悪くなかったが、それでもこの家に馴染めたわけじゃない。角部屋の布団の上で、少しの間ぼんやりしてから起き上がった。ナギの姿はない。いつの間にかどこかへ行ったらしい。

襖を開けて廊下に出ると、家の奥から微かに水の流れる音がした。誰かが台所にいる。

「おめさん、やっと起きたんだね」

低い声に足が止まる。

ナギの母親だった。台所で何かしている。こっちを見ずに、手を動かし続けている。

「すみません、ちょっと寝すぎました」

軽く頭を下げると、母親は「あぁ」とだけ返した。何をしているのかと覗き込むと、鍋の湯気が立ち上っているのが見える。

(腹、減ったな……)

そう思ったが、口に出すのは少しためらわれた。ここに泊めてもらっている身で、飯の催促をするのは気が引ける。とはいえ、このまま黙っていてもどうしようもない。

「……あの」

一度声をかけてから、俺は少し間を置いた。母親はようやくこちらを見た。

「何」

「……腹、減ったんですけど」

言ってから、やっぱり図々しかったか、と少し後悔する。だが、母親は特に表情を変えず、「そっか」とだけ言った。

「今、蕎麦茹でてるから。ちょっと待ってな」

ちょうどいいタイミングだったらしい。少しだけ肩の力が抜ける。そのとき、玄関の引き戸が勢いよく開いた。

「お母、釣れた!」

ナギだった。手にした小さなバケツの中で、小さな青色の魚が跳ねている。

「……どこ行ってたんだよ」

「ん?港」

ナギは当たり前のように答える。そりゃそうだ、ここは漁村だ。

「シマ、寝すぎ」

無邪気な笑顔を向けてくるナギを見て、俺は小さく息をついた。

湯気の立つ丼が、次々とテーブルの上に並べられていく。

「ほれ、食べな」

母親がぶっきらぼうに言って、オレの前にも一杯の蕎麦が置かれた。透き通るような出汁の香りが鼻をくすぐる。

「いただきます」

思わず背筋を伸ばし、箸を取る。目の前ではナギがさっそく蕎麦をすすっている。その横で、今しがた帰ってきたばかりの父親が、無言で蕎麦を口に運んでいた。俺も箸をつけ、まずは一口すする。

……うまい。

蕎麦の香りがふわりと広がり、喉越しは滑らかで、噛むほどにほのかな甘みが口の中に残る。出汁の効いたつゆが、それをさらに引き立てていた。

「……これ、新潟の蕎麦なんですか?」

思わず口にすると、ナギの父親がゆっくりとこちらを見た。

「んだ。ここの蕎麦は、向こうの山ん中でとれたやつだ」

素っ気ないが、それはどこか誇らしげな響きがあった。

俺はもう一口すすり、改めて感動する。今まで食べてきた蕎麦とは何かが違う。風味が濃いのに、喉を通るときは驚くほどすっきりしている。

「……すごく、うまいですね」

ぽつりと漏れた言葉に、ナギの母親が「そりゃよかった」とだけ言った。

再び食卓に静けさが戻る。箸が器に当たる音、蕎麦をすする音、出汁の香り——すべてが妙に落ち着く。


俺は箸を止め、皿の上の銀白色の切り身を見つめた。脂がうっすらとのり、炭火であぶられた皮が香ばしく弾けている。湯気とともに立ちのぼる匂いが、微かに潮の香りを含んでいた。

「……これ、なんの魚?」

そう口にすると、隣で蕎麦をすすっていたナギが顔を上げ、にやりと笑った。

「タチウオ!」

誇らしげな声音に、俺はもう一度皿を見た。

「タチウオ……?」

口に出してみると、どこか馴染みのない響きだった。

「ナギが釣ったんさ」

無愛想な母親の声が飛んでくる。

「え、ナギが?」

俺が驚くと、ナギはますます得意げに頷いた。

「んだ。朝、父ちゃんと沖さ出て釣ってきたんさ」

「ふうん……」

俺は箸先でそっと身を崩してみる。刃を入れたわけでもないのに、筋に沿ってほろりとほどけた。

「指何本分の太さかで測るんさ」

「ん?」

「タチウオは長ぇ魚なんだわ。細ぇけど、歯が鋭くてな。銀色の身体して、光に寄ってくる」

ナギの父親がゆっくりと言う。

「……光に?」

「夜明け前の海で、ライト当てると集まってくんのさ」

「へぇ……」

俺は、再び皿の上の切り身に目を落とした。静かに箸を取る。身を摘み、口に運んだ。

ふわり——。

噛むまでもなく、舌の上でほどける。繊細な繊維が優しく崩れ、じんわりと上品な脂が広がった。

「……」

言葉が出なかった。

「うめぇべ?」

ナギが得意げに笑う。俺は黙ってもう一口食べた。焼き目の香ばしさと、わずかに残る海の塩気。白飯がほしくなる。

「……すげぇな、お前」

素直に感心すると、ナギは得意げに頷いた。

「んだろ?俺が釣ったんさ!」

俺はちらりと彼を見た。小さな体で、夜明け前の海へ出て、こんな魚を釣り上げたのか。再び箸を動かしながら、もう一度、口の中でじっくりと味を転がした。

潮の香りと、微かな甘み。新潟の魚は、こんなにもうまいのか。


食べ終えると、俺はそっと箸を置いた。空になった器の底には、まだ微かに蕎麦の香りが残っている。

「ごちそうさまでした」

「ん」

ナギの父親は短く頷き、母親は黙って茶碗を重ねた。ナギはまだ何かを(ついば)むように箸を動かしていたが、俺が立ち上がると目を上げた。

「……何するん?」

「皿、洗おうと思って」

言うと、ナギの母親がちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。断られるかと思ったが、そうではないらしい。俺は黙って食器を集め、流しへ運んだ。手を洗い、袖を軽くまくる。水を出しながら、洗剤のボトルに手を伸ばそうとすると、隣でナギがじっと見ていた。

「……なんだよ」

「シマ、皿洗えるんか」

「洗えるよ」

「へぇ……」

ナギはどこか意外そうに目を瞬かせた。

「何年、ひとり暮らししてると思ってんだ」

言いながら、俺は泡立ったスポンジを皿に滑らせた。指先に冷たい水が触れ、ほのかに湯気の立つ食器の温もりと混ざる。——ここに来て、初めての手伝い。そう思いながら、人生で二度とないほど、丁寧に皿を洗った。


風呂小屋は母屋の脇にあった。木の引き戸を開けると、湯気と薪の焦げる匂いがふわりと鼻をくすぐる。

「ほれ、そっちの桶持ってきなせ」

そう言ったのはナギの父親だった。彼は腰を落とし、風呂釜の下で薪を組み直している。俺は促されるままに木桶を手に取り、中を覗いた。井戸水を汲んできたのだろうか、ひんやりとした水が張られている。

「そいつを、こっちに入れなせ」

言われるがまま、桶の水を釜の中へ注ぐ。底に沈んだ鉄板がぐつりと鳴った。

「五右衛門風呂……」

俺は小さく呟いた。実物を見るのは初めてだった。

「薪くべて、下から炙るんさ。ほれ、この鉄の蓋みたいなのが底にあるろう?これがないと火傷するんさ」

ナギの父親はそう言いながら、鉄棒を使って薪を火の奥へ押し込んだ。ぱちぱちと小さな火の粉が舞い、湯面に波紋が広がる。

「火の回り見ながら薪足してくんがコツら」

「なるほど……」

俺は膝を折って、炎の揺らめきをじっと見つめた。薪の乾いた香りと、湯気に混じる微かな鉄の匂いが鼻を掠める。

「都会じゃこんげ風呂ねぇろ?」

「ええ。初めて見ました」

「毎日こうやって湯沸かしてるんさ。おめも覚えときなせ」

「善処します」

「ほれ、火を見とるばっかじゃ冷えてしまうて。早よ入ってゆっくりしとれ」

風呂小屋を出ていくナギの父親に促され、俺は服を脱ぎ、熱気の立ちこめる浴槽へ足を入れた。じんわりと、芯まで温まるような熱が肌を包む。

「……いいな」

思わず、独り言のように呟いた。

俺は、湯の中で指をゆっくりと開いた。薪の火は、今もぱちぱちと小さく弾けていた。


風呂を頂戴して、布団に転がると、今日三度目の睡眠だと言うのに、すぐにまぶたが重くなった。緊張で強ばった身体が、ようやく休まるときだった。

ぼんやりと意識が沈んでいく中で、ふと今日一日のことを思い返す。

ナギ——。

最初に出会ったときのナギは、今とは少し違っていた。あのときは、こんな風に新潟の訛りを強く出していなかった気がする。

「……最初は遠慮してたのか」

小さく呟いた声は、布団の中に吸い込まれて消えた。

そう思うと、なんだか少しおかしかった。子供なりに、警戒していたのかもしれない。いや、単に標準語のほうが話しやすかっただけかもしれない。それがいつの間にか、自然と訛りが戻ってきた。

距離が、縮まったのだろうか。

俺は目を閉じた。微かに潮の香りが染みついた枕の感触を確かめながら、静かに、眠りへと沈んでいった。



布団の上で、何かが肩を揺する感触がした。

「シマー!起きれー!」

「……んだよ……」

薄闇の中、まぶたを押し上げるように目を開けると、ナギの顔がすぐそこにあった。

「まだ夜じゃねぇか……」

「夜じゃねえさ!漁、始まる時間ら!」

「まだ寝てられる時間だろ……」

俺は布団に潜り直そうとしたが、ナギが容赦なく肩を引っ張る。

「アホか!今からじゃねえと船出ちまうろうが!」

「出ちまえば、なんなんだ……?」

「何言ってんさ。シマ、今日から漁師ら!」

その言葉に、俺は目を見開いた。

「……は?」

「ほれ、早よ起きねぇと、置いてかれるぞ!」

ナギは容赦なく布団を剥ぎ取る。朝の冷えた空気が肌に刺さるようだった。

「ったく……わかったよ……」

仕方なく起き上がると、ナギは満足そうに頷いた。

「長靴、そこにあるさ!早よ履け!」

着替えを済ませ、長靴を履いて外に出ると、まだ空は濃い藍色だった。しかし、港の方からはすでにざわめきが聞こえる。

「……嘘だろ」

歩き出した俺は、目を疑った。

港は、すでに活気づいていた。

船のエンジン音が低く響き、ヘッドライトが波間に光を投げる。男たちの掛け声が飛び交い、氷を詰める音や、網を引き上げる音が混ざり合っている。

「ほれ、急げや!」

ナギに背を押されるようにしながら、俺は夜の港へと足を踏み入れた。

俺は、ゴツゴツした木製の桟橋を踏みしめながら、港に停泊する船へと歩いた。空はまだ暗いが、漁師たちはすでに準備を整えていた。ナギの父親が仲間の漁師と何やら話していたが、俺の姿に気づくと、短く顎をしゃくった。

「乗れ」

それだけだった。俺は船べりに手をかけ、慎重に足を乗せる。船は小さく揺れたが、すぐに安定した。ナギは慣れた様子でぴょんと飛び乗ると、俺の背中を叩いた。

「シマ、気ぃつけろや。落ちたら助けんさ!」

「冗談じゃねぇ……」

長靴がデッキの濡れた木材に吸い付くような感触を覚えながら、船の中央へ移動した。ナギの父親が無言で操縦席に座ると、エンジンが低く唸り、船が桟橋を離れた。

沖へと進むにつれ、港の灯りは徐々に小さくなり、周囲は漆黒の海に包まれた。冷たい潮風が肌を刺し、俺は思わず身震いした。

「で、今日は何を獲るんだ?」

俺が聞くと、ナギが得意げに答えた。

「カマスとノドグロさ!」

「ノドグロって、高級魚の……?」

「そうら!この時期のノドグロは脂が乗って最高らて!」

「へぇ……」

ナギの父親が、無言で網を準備し始める。今日の漁は一本釣りではなく、定置網だった。

「シマ、網の引き上げ手伝えや!」

「お、おう……」

船が漁場に到着すると、ナギの父親が静かにエンジンを絞った。波の音だけが周囲に広がる。

「よし、いくぞ」

無口な漁師たちが、一斉に動き出した。俺は、ナギの指示に従いながら、手伝い始める。網を引くたび、銀色の魚体が朝焼けに輝きながら飛び跳ねた。


港に戻ると、朝日がちょうど水平線から顔を出し始めていた。東の空が薄紅に染まり、漁師たちの荒々しい声が港に響き渡る。

「シマ!ボケッとしてないで、降りるよ!」

ナギに急かされ、俺は足元を確かめながら船を降りた。さっきまで波に揺られていたせいで、陸に戻ってもまだ体がふわふわするような感覚が残っている。

「ほれ、手伝えや!」

ナギが指さした先には、大きな発泡スチロールの箱が山積みにされていた。網から外した魚たちがまだ暴れている。

「これ、どうすんだ?」

「血抜きして、競りにかけるさ!」

ナギの父親やほかの漁師たちは、黙々と作業を始めていた。俺もナギに教えられながら、魚のエラに包丁を入れ、血を抜く。魚の生温かい血が手に広がり、海水の匂いと混ざって独特の生臭さが鼻を突いた。組にいた頃散々見た、人間の血とはまた違った気持ち悪さがある。

「うぇ……」

「早めに慣れろや!」

ナギは手際よく血抜きを終えた魚を海水の入った桶に放り込んでいく。俺と必死に手を動かしたが、ナギや漁師たちの動きには到底追いつけなかった。血抜きを終えた魚は氷の詰まった箱に並べられ、ナギの父親がトラックに積み込んでいく。俺は腕の疲れを感じながら、次の指示を待った。

「次、競り場行くぞ!」

「は!? まだやんのかよ……」

俺の呟きに、ナギがケラケラ笑った。

「こっからが本番さ!」


競り場に着くと、すでに多くの漁師や仲買人たちが集まっていた。白い長靴を履いた男たちが威勢のいい声を上げ、次々と魚が競りにかけられていく。

「ノドグロ、一本五千から!」

「六千!」

「七千!」

素早く手が上がり、価格が跳ね上がっていく。俺はその光景をぼんやりと眺めていた。

「すげぇな……」

「高い魚はすぐ決まるさ」

ナギが鼻をすすりながら言う。

競りが終わると、ようやく仕事が一段落したらしく、漁師たちは港へ戻っていった。俺もついて行こうとしたが、足が異様に重い。気づけば、手も腕もパンパンに張っている。

「おい、シマ!まだ午前中だよ!」

ナギが悪戯っぽく笑う。

「……嘘だろ?」

俺は疲れ果てた体を引きずりながら、港へと歩いていった。


港に戻ると、すでに戻っていた漁師たちが忙しなく動き回っていた。氷を詰めた大きな桶が並べられ、魚が手際よく仕分けされていく。すぐに競りへ運ばれるもの、地元の店に卸すもの、保存用に処理するもの。誰もが黙々と作業をこなし、無駄な言葉はほとんどない。

「シマ!」

ナギの声がして振り向くと、彼が素早く船を降りながらこっちを見上げていた。

「とりあえずお母んとこ行ってくる。シマはお父手伝って」

そう言って、ナギはさっさと桶の方へ走っていった。母親の姿は、その周囲で包丁を振るいながら魚をさばいている女性たちの中にあった。袖をまくり上げ、慣れた手つきで次々と魚の内臓を取り除いていく。彼女はナギが声をかけると無言で顎をしゃくり、ナギは手近な桶から魚を取り出して同じように捌き始めた。

「おい、シマ!」

突然背後から名を呼ばれ、驚いて振り向いた。ナギの父親がクーラーボックスを担ぎながら船から降りてくるところだった。

「お前も手伝え。そこ突っ立ってる場合じゃねぇぞ」

シマ——。ナギが呼ぶのとは違う、低くてぶっきらぼうな声。でも、それが妙に嬉しく感じた。たった一日、一度漁に出ただけなのに、漁師たちの輪の中に少しだけ入り込めたような気がした。

「はい」

返事をして、手近な桶を覗き込む。中ではまだ何匹かの魚が跳ねていた。銀鱗が朝日に反射し、きらきらと光る。手を伸ばし、桶の中の魚を掴んだ。指先に感じる生温かさが、確かに今まで生きていた証だった。


漁の一連の作業を終え、どっと疲れが押し寄せてきた。競りに出した魚の分け前をまとめ、道具を片付け、港を後にする頃には、もう日は高く昇っていた。潮風に晒され続けた体がじんわりと重く、動くたびに関節が軋むような感覚があった。

ナギとともに家に戻ると、母親が台所で何かをしている音が聞こえた。俺が戸口でぼんやりと立っていると、ナギが肩を叩いた。

「シマ、今日は先に風呂入っていいって」

「ああ、そうか」

「でもな、沸かすのはシマな」

ニヤリと笑うナギに、俺は息をついた。どうやら今日は、五右衛門風呂を自分で沸かさなければならないらしい。昨夜、ナギの父親がやっていたのを何となく見ていたが、果たしてうまくいくのか。

外に出て、薪小屋から適当に薪を抱え、風呂場へ向かう。鉄の風呂釜が据えられたかまどの前にしゃがみ込み、まずは昨日の残りの灰を掻き出した。鉄の底に手を触れると、夜のうちに冷え切ってひんやりしていた。

「えーっと、まず新聞紙か……」

呟きながら、置いてあった古新聞を適当に丸め、かまどの奥へ突っ込む。その上に小さく折った薪を組み、さらに太めの薪をその上に乗せた。火をつけると、新聞紙がパチパチと音を立てて燃え始める。小さな炎が薪に移り、徐々に広がっていった。

しばらくじっと様子を見守りながら、風呂釜に水を張る。昨夜の風呂の残り湯を捨てて新しい水を入れると、鉄の底を通してじんわりと温まっていくのがわかった。

薪が安定して燃え始めると、炎の匂いが鼻をくすぐる。潮の香りが染み付いた体に、この燻されたような薪の香りが重なり、何とも言えない懐かしさを感じた。

「お、いい感じじゃんか」

振り向くと、ナギが風呂場の入り口に立っていた。

「初めてにしちゃ、まぁまぁだね」

「お前、手伝わねぇのかよ」

「シマがやるって決まったし」

得意げに笑うナギに、俺はため息をついた。火の勢いは安定しており、あと少しすれば湯も適温になるだろう。

「ま、これでしっかり温まれるな」

そう呟くと、パチパチと薪の燃える音が心地よく響いた。

火加減を確認し、湯の温度を手で確かめる。ちょうどいい。俺は湯船の縁に手をかけ、ゆっくりと足を沈めた。

「っ……あっつ」

最初の一撃に思わず足を引っ込めるが、もう一度慎重に入る。足、膝、腰、そして胸まで湯に沈むと、じわりと疲れがほぐれていくのが分かった。

昼の漁、慣れない作業の連続で、腕も背中も鉛のように重い。だが、湯の熱がじんわりと芯まで染み込んでいき、痛みすら心地よさに変わっていく。

「あ〜……やば……」

思わず湯船に身を預け、天井を仰ぐ。薪の燃える匂いと湯気が混じり合い、潮の香りをほんのりと帯びた空気が鼻を抜ける。風呂の外ではナギと母親が何やら話している声が聞こえるが、それすらも遠く感じるほど、心も体も弛緩していた。

やがて額にじんわりと汗が滲み、湯の熱が心地よくもあり、少しばかりのぼせそうでもあった。名残惜しさを感じながらも、俺は風呂から上がることにした。

風呂から上がると、ナギがすぐに入ると言って風呂場へ向かった。続いて父親、母親と入り、全員が風呂を済ませた頃には、もうすっかり夜だった。


食卓には、漁の余りの魚がずらりと並べられていた。焼き魚に刺身、煮付け、さらには地元の郷土料理らしきものもある。目の前には、艶々と光る白飯の山。

「これ、なんて魚?」

俺が皿を指差すと、ナギの父親が渋い顔で答えた。

「それぁ、アオハタだな」

聞いたことのない名前だった。口に運ぶと、上品な甘みと適度な弾力があり、煮汁がしっかりと染み込んでいる。

「うまい……」

思わず声が漏れると、ナギが得意げに笑った。

「だろ?シマが釣ったやつも混ざってるかもよ?」

「お前が釣ったタチウオは?」

「それは刺身になってる」

タチウオの刺身は、透き通るほどに白く、薄く引かれた身が皿の上できらきらと光っている。口に入れると、ふわっとした舌触りの後に、程よい脂の甘みが広がった。

「……これ、やべぇな」

「だろ?」

ナギがニヤリと笑い、白飯をかきこむ。

そして、もう一つ目を引いた料理があった。それは、大根おろしと共に炙られた魚を混ぜたもの。

「これ、なに?」

「ん、そいのなめろうみてぇなもんさ」

ナギの母親が素っ気なく答えた。

一口食べると、薬味の香りと炙られた魚の香ばしさが鼻を抜ける。味噌の塩気がほどよく、ご飯との相性は抜群だった。

「……これ、無限に食えるな」

「おかわりあるぞ」

ナギの父親が僅かに微笑みながら茶碗を差し出す。俺もつられておかわりを頼み、再び白飯と魚を口に運んだ。

うまい。とにかく、うまい。

気づけば、腹がはち切れそうになるまで食べ、最後に温かい味噌汁を飲んで息をついた。潮の香りと薪の匂いが入り混じるこの家で、こんなにもうまい飯を食えるとは思わなかった。

「はぁ……最高だな」

俺がぼそりと呟くと、ナギが得意げに笑った。

「な?ここ、悪くねぇだろ?」

俺は何も言わずに頷いた。腹も心も、満たされていた。


布団に横になった瞬間、全身の筋肉が重力に負けるように沈んでいくのを感じた。腕も足も、ひどくだるい。

「……働いたなぁ」

誰に言うでもなく呟くと、疲労がずしりと響いた。まだ体が海の揺れを覚えているのか、微かにふわふわとした感覚がある。潮の香りと薪の匂いが混じる布団の中で、ゆっくりとまぶたを閉じた。

そのまま、深く沈むように意識が落ちた。



「シマ、起きろって」

肩を揺すられ、目を開けると、ナギの顔が間近にあった。

「……んだよ、まだ……」

眠たげに外を見ると、もうすっかり日が昇っている。昨日よりも、ずいぶんと遅い時間だった。

「今日は漁じゃねぇから、そんなに早くねぇんだよ」

「……ならもうちょい寝かせろよ」

「ダメ。今日はおれと田んぼだ」

「……は?」

思わず聞き返した。田んぼ?漁村じゃなかったのか?

「うち、田んぼもやってんの。だから行くぞ」

ナギは有無を言わせず布団を剥がした。冷たい朝の空気が肌に触れて、俺は渋々起き上がる。

顔を洗い、相変わらずうまい朝飯をかきこんで外に出ると、潮の匂いの中にほんのりと土の香りが混じっていた。

「ほら、行くぞ」

ナギが先に歩き出す。

「俺は、漁村に田んぼ?」という違和感と、「そーいや来る時に見えたような…」という納得感を抱えながら、その後を追った。


田んぼに足を踏み入れると、刈り取られた後の稲株がざくりと音を立てた。朝の光はまだ柔らかく、黄金色の田んぼに長い影を落としている。ナギが「まずは稲架掛けな」と手招きしながら、刈った稲を束ねたものを抱え上げた。俺も真似してみるが、腕の中で広がる藁の感触に少し戸惑う。

「こうやって、しっかり稲の根元をそろえて……よし、かけるぞ」

ナギが器用に稲束を持ち上げ、稲架に掛ける。俺も続くが、うまく引っかからず、バサリと地面に落としてしまった。ナギが笑いながら「ちゃんとバランス考えろって」と言い、もう一度やり直す。

朝の冷えた空気が、動き始めると少しずつ和らいでくる。田んぼの向こうから鳥の声が響き、日が高くなるにつれて、じわじわと汗が滲んできた。

昼近くになる頃には、空は青く澄み渡り、稲架には無造作に見えて整然と並んだ稲の束が揺れている。吹き抜ける風に、乾いた稲の香りが混じって鼻をくすぐった。ナギは腕を伸ばして「あー、腹減った」と大きく伸びをする。俺も額の汗を拭いながら、同じことを思った。

昼食のおにぎりを挟んで午後からは、脱穀作業に入る。乾燥させた稲を脱穀機に通すと、ガラガラと大きな音を立てながら籾が弾かれる。手作業の分もあり、ナギと並んで籾を一粒ずつ指でしごきながら、黙々と作業を進めた。指先に少しずつ痛みが溜まっていく。


やがて、斜陽が田んぼを赤く染め始めた。西の空には夕陽が広がり、光の角度が変わるにつれて、長く伸びた影がゆっくりと形を変える。ナギが籾をひとつ摘んで空にかざし、「これで今日もひと段落だな」と呟く。俺はその横顔を見ながら、ここに来たばかりの自分と、朝から体を動かし続けた今の自分が、まるで違うような気がしていた。

作業が終わる頃には、空はすっかり夜色に変わり、冷え込んできた風が汗をかいた肌に心地よかった。ナギが「あー、疲れた!」と田んぼの片隅に寝転がり、俺もその隣に腰を下ろす。

「シマ、今日はよう働いたな」

ナギが笑いながら言い、俺も「まあな」と息をつく。手のひらには、籾をしごいた跡が赤く残っていた。

空を見上げると、ぽつりぽつりと星が瞬き始めている。長い一日だった。でも、不思議と悪い疲れじゃない。俺は手のひらの赤くなった跡を見つめながら、明日もまた働くんだろうな、と思った。


家に帰ると、ナギの両親はすでに風呂を済ませていた。居間の隅には、湯気を逃した後の五右衛門風呂が静かに佇んでいる。ナギが「シマ、先入る?」と聞いてきたが、「お前先に入れよ」と返すと、「ほんじゃ遠慮なく」と言いながらさっさと脱衣所に向かった。

俺はその間、居間の柱に背を預けて軽く目を閉じる。体が重い。朝からずっと動き続けていたせいか、座っているだけで足にじんわりと疲れが溜まっているのを感じる。ナギが風呂から上がると、「シマ、入ってこーい」と声をかけられ、ようやく重い腰を上げた。


湯に浸かると、じんわりと温かさが体に染み込んでくる。五右衛門風呂の底に敷かれた木の板が、ほんのり足に馴染んで心地よい。風呂の縁に腕をかけ、ぽつんと浮かぶ湯の泡を眺めながら、今日一日を振り返る。稲架掛け、脱穀、籾摺り。どれも初めての作業で、何度もナギに手本を見せてもらった。それでも、今朝はまるで知らなかったことを、こうして自分の手でやったという実感がある。

「ふぅ……」

思わず湯の中で息をつくと、肩の力が抜けた。しばらく温まってから風呂を上がると、居間にはすでに夕食の準備が整っていた。

「今日は海鮮丼だぞ」

ナギが得意げに言いながら、丼を二つ運んできた。覗き込むと、酢飯の上に新鮮な魚がたっぷりとのっている。マグロ、イカ、ブリ、それに昼に獲れたばかりのタチウオも混じっていた。脂がほどよく乗った魚の切り身が、醤油のツヤをまとい、照明の下できらめいている。

「いただきます」

一口、口に運ぶ。白身魚の甘さが舌に広がり、噛むほどに旨味が増していく。そして、驚いたのは米だった。昼間、汗を流しながら収穫した新米。その一粒一粒が口の中でほどけ、ほのかな甘みを感じさせる。

「……米、うまいな」

思わず呟くと、ナギがにっと笑う。

「そうでしょ?シマが手伝った田んぼの米だしね」

言われてみれば、汗だくになりながら籾をしごいたこと、夕焼けの中で星を見たこと。その全てが、この一杯の丼に詰まっている気がした。


食事を終え、布団に入ると、疲れた体はすぐに沈み込んだ。ふと、天井を見上げる。昼間の作業に追われていた時には忘れていたが、俺は今、逃げている最中なのだ。組織の抗争に敗れ、身を隠すためにこの漁村へ流れ着いた。ここで働き、飯を食い、眠る。この生活は、俺にとって束の間の避難所に過ぎない。

このままでは終われない。

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