第七幕・夏の空は青く晴れ
『一場・夏休み』
誰だ、高校教師に夏休みがあると言った奴は。
メチャクチャ忙しいじゃないかコノヤローッ!!
生徒の進路指導やら、1学期の成績入力やら、2学期の授業スケジュールやら、教材研究やら、研修やら、補導された生徒の引取やら、生徒会の雑用やら、職員の雑用やら、会議やら、会議やら、会議やら………
いつも以上に忙しいんじゃコンチクショーッッ!!
去年も経験したとは言え、この忙しさは相変わらず尋常じゃない。
3時のお茶すらままならない現状と、萌え探求すら許されない現状とで俺のストレスは外気温と共に急上昇だ。
教師×教師、寮父×教師、料理長×用務員、理事長×秘書、出来得る限りの萌えに想いを馳せるけど、仕事中は常に鬼の岡野先生が鋭い眼光で睨んでいるから妄想に耽ることすら許されない。
唯一萌え的な意味でオアシスになっている生徒会でも、2学期は行事が多いとかでみんな真剣に仕事ばかりをしている。
何よりも王道転校生である桜君がいなくちゃ、何も始まらないじゃないか!
もーみんな真面目過ぎだっつーの。
顧問としては仕事を放棄されるよりも遥かに有り難いんだけど、腐男子としてはここらでチューイベントなり何なり打ち噛まして欲しいところなのですよ。
特に澤村兄弟と香坂副会長と関君は3年生だから、進路のことや親の会社関係で忙しいらしい。
フ…、王道学園とは言え、現実はこうも現実的なのですね。
今もこうやってせっかく生徒会室に全員集合だっていうのに、みんなそれぞれのパソコンにかじりつくように仕事をしている。
その隣で厳しい現実に打ちのめされながらも、澤村会長に命令…頼まれた書類をコピーする俺。
………
……
…
ちょっ、雑談ぐらいして下さい!
今の俺ならそこから無限に萌えを汲み取れるから!
なんて望みは叶うことなく、重苦しい沈黙は休憩時間まで続いたのだった。
「瀬永は確か、1週間休みがあったよな」
嗚呼、香坂副会長が淹れてくれた紅茶が美味いと安らいでいたら、澤村会長がやたらと長い足を組んだまま俺に視線を向けてきた。
何故澤村会長が俺のお盆休みを把握しているんだ…
「あぁ、まぁ…有休が取れたら合わせて長期休暇にしようと思ってるが、それが何だ」
「実は今期生徒会メンバーになった記念に、私達5人の会社が共同で船を作ったんですよ」
船…金持ちの考えることは、庶民には理解できない。
「ロイヤルボンド号って言ってね、海に浮く街ってくらいおっきいんだよ☆」
「………父親の弟子が、出店してる…」
ちょっと待て、船ってクルーザーとかじゃないのか?
海に浮く街…和菓子屋が出店…
どんだけの船を造っちまったんだ君達は!!
「今度お試しって感じで菖蒲んトコの島に行くんだけど、センセも一緒に行こうよ~」
澤村家の島!?
嗚呼、駄目だ。
庶民の俺には到底想像できないし、コイツらと行ったらフランス料理やらイタリア料理やらが出されて、またフォークとナイフと格闘することになるんだろう。
そんなこと考えただけでも地獄だ。
「いや、俺は実家に…」
「桜も来るぞ」
「まぁ、子供達だけじゃ不安だしな。先生が引率してやらないこともねぇ」
船で島へ…だと!?
桜君が行くなら魅惑の総受けパラダイス確定じゃないか!!
ここ最近の渇き飢えていた日々は全てこの日のためだったのかも知れない。
ヤバイ、スゲェ楽しみかも。
船、島、桜君。
フ、フフフ…今から萌えウォッチング三種の神器を準備しなければ!
今年の夏は熱くなりそうだぜィ!!
『二場・ロイヤルボンド号』
俺は乗船前から物凄い後悔の波に襲われ、渦に巻き込まれ、すでに溺死寸前だ。
学生が記念に作る船なんてイカダかペットボトル、良くてボードくらいの物だろう。
金持ちの、しかも群を抜いて金持ちの生徒会連中が作る船だから、そんな物じゃ収まらないことなんて今までの経験上感づいてはいた。
それでも俺は、大型クルーザーだと思っていたのだ。
意気揚々とスーツケースに萌えウォッチングアイテムを詰め込んでいた2日前の自分をぶっ飛ばしてやりたい。
大きな港でも特に目を引くこの『ロイヤルボンド号』という船を見上げて、俺はそのまま一歩も動けなくなってしまった。
―――これ、
記念の域越えてるだろぉおおおおおおおおおッッ!!!?
それは誰がどこからどう見ても、超豪華客船にしか見えない。
長さも高さも物凄いそれは、恐らく港に入れる基準ギリギリの大きさなのだろう。
入口らしき階段を上っている人の群れを横目で見れば、皆一様にドレスアップしていて自分がどれだけ場違いなのかを痛感させられる。
一流のスーツを見に纏ってはいるものの、微鬼畜ホスト教師がネクタイなんかする訳もなくいつも通りの開け具合だし、アクセサリーの類いもいつも通りジャラジャラだ。
否、見た目もそうだがそれ以上に中身が場違いなのだ。
田舎の寺出身のただの腐男子である俺に、こんなセレブリティな空間を耐え抜くスキルなんてあるはずもない。
桜君の総受けパラダイスは惜しいけど、フォーク&ナイフ地獄だけは御免被る。
そのままくるりと船に背を向けて歩き出そうと一歩足を進めた矢先、物凄い力で肩を掴まれて動けなくなってしまった。
「何処に行くんだ、蓮華先生? まさかこの期に及んでやっぱり帰るだなんて言わねぇよな?」
ドキィッと恐ろしいほど急上昇した心拍数に、俺は胸を抑えながら怖ず怖ずと後ろを振り返った。
そこには美しい金髪を潮風に遊ばせ、美し過ぎる笑みを浮かべ、般若の如きオーラを背負う桜君がいらっしゃいました。
恐ろしい…
メチャクチャ美形だからこそ、怒られると30倍くらい恐く感じてしまう。
「い、いや…その…」
桜君にはキャンプ場で素でいろって言われたから、俺としては演技しないで済むから楽といえば楽、なんだけど…
その代わり桜君も俺と二人きりになると素で話してくるようになった。
王道転校生の名に相応しく、明るく元気で喧嘩が強くて天然でKYな桜君だけど、その実オラオラ系だったりするもんだから素の桜君はかなり苦手なのです。
「いやー、これには深い深ぁーい事情がありまして…」
「蓮華先生。今回の旅行には牡丹と梅、それにチコリも来てるよ?」
「……え?」
「俺…この旅行の間に、誰かに襲われたり告られたりしちゃうかも」
「…えぇ!?」
「ちなみにネギシオはもう乗船済みだから」
「えぇぇっっ!!!?」
しまった!!
ネギシオを盾に取られてしまったのなら、最早俺に抵抗することなど不可能だ。
決してイベントスチルゲット☆とか思ってはいない。
7412mmくらいは思ったかも知れないけど、ほとんどは豚質に取られたネギシオのためなんだからな!!
「……わかった、わかったよ…頼むからネギシオを牧場に売らないで」
「売ったりなんかするかよ。うちのシェフ直々に調理させっから」
「ネギシオォオオオッ!!」
ネギシオは愛玩動物なのであって非常食ではありません。
例え食肉加工施設から脱走して来たのだとしても、俺にとっては可愛い可愛いルームメイトなんだ!
かくして、俺の船旅はこうして幕を開けたのでだった。
『三場・撃退法』
ブラック桜君からの脅迫にいとも簡単に屈した俺は、半ば引き擦られるようにして乗船することになった。
いや、何これ、何処これ。
船じゃないよ、ホテルだよ。
だってシャンデリアがぶら下がってるし螺旋階段がついてるし、従業員の皆さんもプロフェッショナルな対応だし、ロビーが吹き抜けだし、床大理石だし、何か川流れてるし!!
そして何より連れて行かれた先の部屋が尋常じゃねぇよ!!
何、セミスイートって!?
ウェルカムシャンパンとフルーツが置かれた豪奢なテーブルを中心に、メチャクチャ大きな天蓋付きベッドやら猫脚のソファやら巨大なテレビやらクローゼットやら冷蔵庫やらドレッサーやら…
しかも奥に見えるのは、もしかしてもしかしなくてもバルコニーではありませんか!
だから何処のホテルだよ!!
いや、別荘か!?
「俺の部屋も蓮華先生の向かいで同じ間取りなんだけど、やっぱり無駄に広いよな。どうせだから、俺もこっちに寝泊まりしよっかなぁ」
「えっ、ここって俺の部屋!?」
「はぁあ? 突っ込むのそっち? つーか蓮華先生が貰ったカードキーで開けたんだから、蓮華先生の部屋に決まってんだろ」
いつの間にかベッドに腰掛けていた桜君が呆れたように眉を引き上げている。
そんな顔もやっぱり神々しいくらいに美しいんだけど、今は桜君の美貌に見惚れている場合ではない。
「いやいやいやっ、俺1円も出してないんだから4等船室とかで良いって! ほら、俺って寺の息子だから雑魚寝とか慣れてるし!」
こんな高級な部屋を一人で使うなんて贅沢、俺には到底無理だ。
学園の寮もそれなりに凄いけど、あれはそれに見合った働きをしているからOKなんだ。
だけど、今回何もしていないにも関わらずこんな特別待遇を受けるだなんて、俺のなけなしのプライドが許さない。
桜君と同室になるのは中々に魅力的だけど、これからの船旅で起こるであろう数々のイベントに備えて桜君は一人部屋の方が都合が良い。
そう、俺はみんなの恋愛を見守りたいのだ。
教師らしく!!
まぁ、9割9分9厘私情なんだけどね。
「ならよ、テメェは俺んトコに来りゃいいじゃねぇか」
ドアを開けて一歩入った段階で立ち尽くしていた俺に、背後から何者かが負ぶさってきた。
あまりに突然のことで硬直していると、俺の耳元でそいつの息遣いが段々と荒くなっていく。
気持ち悪すぎて鳥肌を通り越してゴーヤ肌になりそうな肌を止められず、俺はただ動くことすら出来ずに硬直していた。
「俺の部屋もセミスイートらしくってよ、スゲェの何の。風呂場がガラス張りで、部屋から丸見えなんだよ! っつーことは、俺が風呂場でどんな風に何処を洗ってるのか、部屋にいる蓮華から丸見えってことじゃねぇか!! そうだろっ!? テメェの前で裸になる屈辱と恥辱に塗れた俺を蔑むように見ればいいだろ!! 冷たい視線で浅ましくも反応しちまう俺の痴態を嘲笑えばいいだろうが!! そんで裸のままの俺をバルコニーに放り出していつものように股間を踏み潰せば…ッ!!」
「いつもとか誤解を招く言い方してんじゃねぇええっっもぉりぃかぁわぁァアアアアアッッ!!!!」
息遣いだけじゃなくて俺の尻に名称すら想像したくない硬い物体を押し付けられ、怒りのパワーで金縛りから解き放たれた俺は思い切りキング・オブ・ヘンタイの足の甲を踵で踏み抜いた。
女性のみなさんも、背後から抱き着かれたり襲われた時にはこうやって撃退しましょうね!
「―――ぐッッ!!」
流石の逞しい森川さんもこの攻撃はかなり効いたらしく、解放された身体で振り返ってみれば案の定床に蹲って悶絶していた。
「痛ぇ…ッ…、久し振りの刺激で、ヤベェ…クソッ、パンツ代えねぇと…!」
痛みに、ではなく快楽に…だけど。
「………相変わらず潔いほどのドMだよな、チコリは」
「煩ぇっ、テメェみてぇなクソ餓鬼に蔑まれても気持ち良かねぇんだよ! 俺のご主人様はこの世でただひと…ぶぐアッ!!」
「蓮華先生、ナイス膝蹴り」
眉間に膝蹴りを食らって床に倒れ込んだ森川さんと、呑気に拍手している桜君を視界に捉らえ、幕開け早々不安になってきた船旅にちょっぴり涙が零れました。
『四場・コバンザメ』
ド派手な吹奏楽の演奏に背中を押され、ロイヤルボンド号は処女航海へと乗り出した。
メインデッキから望む海と空の青は目に眩しく、振り返ればまるで巨大なホテルとショッピングモールのような作りの船上。
噴水を中心に公園と見紛うばかりの緑が生い茂り、木と煉瓦で舗装された道沿いにはオープンカフェやブランドショップ、ファーストフードまでが軒を連ねている。
いや、これホントに船の上か?
海に浮かぶ街だと聞いた時にはなんて大袈裟なと思ったけど、パリの街のような趣に俺はかなり引け目を感じてしまう。
パリに行ったことないからわかんないけど、向こうにいる外国の人がしきりに褒め讃えているからきっと凄いに違いない。
しかも驚くべきことに、この数々のフードショップは全て無料らしい。
それを聞いて黙っていられない男が一人。
そう、万年金欠で日々の食事にも窮している微鬼畜ホスト教師こと瀬永蓮華だ!
確かにこの雰囲気と周りのセレブリティな紳士淑女の皆様と、そんな皆様からどしどし寄せられている視線にはかなり腰が引けまくってるけど、食べ物が関わってくるのなら話しは別だ。
しかも、今俺が足を踏み入れたこのお店は、まさにパラダイスと言っても過言ではない。
ヨーロッパ風の町並みを再現した表とは違い、この店の中はまさに京都のお茶屋といった佇まいで、黒く艶やかなテーブルや大きな赤い傘が否が応にも俺の心を掻き立てる。
「………レン、来てくれた、のか……」
来客を持て成していた和装の男が近付いてきたかと思えば、それは案の定俺の茶飲み友達でもある生徒会書記の相川君だった。
そう…何を隠そうこの店は、老舗和菓子屋・相川がプロデュースした、和喫茶なのです!!
そんな話を聞いてしまえば、この俺がじっとしていられるはずなどない。
しかもここの和スイーツを手掛けているのは、あの数々の賞を総なめにしてきた桂さんでさえ一目置く、スイーツ界のナポレオンと呼ばれている人らしい。
これはもう、なけなしのお札を出してでも食べる価値ありだ。
相川君に案内されていそいそとテーブルにつくけど、それにしても相川君は素晴らしく和装が似合う。
黒髪に涼しげな目許はまさに日本人のそれだし、黒く、それでいて上品な艶のある着物が長身に良く映えている。
眼鏡をしていないものだから艶っぽさを感じる相川君の雰囲気に、さっきから周りの視線が物凄く痛い。
甘味処という場所柄か女性が多い店内は、ひょっとしたらその大半が相川君目当てなのかも知れない。
チクショー…これだから男前はムカツク。
俺だって女の子にキャーキャー言われたいしポーッとされたい!!
「………レン、どう…する?」
ムシャクシャしていた俺は、メニューを見ることもなく言って退けた。
「全部」
俺の甘味好きを知っている相川君も流石に驚いたのか、いつもは穏やかに細められている目を今は僅かに見張っている。
「だ、…けど………」
「…で、お前もここで一緒に食べんだよ。ふたりでなら多分食えるし、俺は今尋常じゃないほど糖分を欲してんだよ。付き合ってくれるよな、相川?」
「………わかっ、た…」
全種類食べたいのもそうだけど、甘味は一人で食べたってつまらない。
そして何より、相川君を同席させることによって女性達の視線のお零れにありつこうという、コバンザメ的発想だ。
寂しい男だと、笑いたければ笑うが良いさ。
だけどな……俺だって女の子に飢えてるんだよ!!
男の子も男の人も大好きだけど、自分と関わるならそりゃもう女の子が良いに決まってる!!
ま、俺の下心満載のお誘いに嬉しそうに頷く相川君のことは、撫で繰り回したくなるくらい可愛いとは思うけど。
『五場・甘味天国』
目の前に並ぶ愛しい愛しいスイーツ達。
クリームあんみつ、抹茶ババロア、豆乳プリン、小豆スフレ、抹茶ロール、焙じ茶ゼリー、白玉善哉、みたらし団子、抹茶パフェ、色とりどりの水羊羹、見目鮮やかな練切達、京野菜のケーキ達…
はふん。
なんて素晴らしいんだ!
よくあるメニューでとてもシンプルなんだけど、ひとつひとつこだわって作っているのがわかる素晴らしい作品達。
パティシエが作る新作スイーツだけじゃなく、和菓子屋・相川からも新しい和菓子がラインナップされているのが嬉しいじゃないか。
木製のスプーンの上でフルフルと揺れる豆乳プリン。
一度口に含めばほのかな大豆の風味と、枇杷ソースの甘味が舌の上に広がる。
「ん~~~ッ! んまい!」
片っ端から手を伸ばし幸福を噛み締めていると、目の前に座っている相川君の顔がどんどん綻んでいくのに気付く。
抹茶オレに口を付けたまま目を細めて頬笑ましそうに笑われると、何だか俺が小さい子みたいで物凄く恥ずかしくなるんですけど。
「………おい、あんまこっち見んな」
いつもは無表情のクセに、なんて顔して俺を見るんだ。
ほら見てみろ、周りの女性達もお前の微笑みに釘付けじゃないか。
クッソー…相川君に集まる視線のお零れに与ろうと思っていたのに、余計に惨めになるだけじゃないかチクショーめ!
「……だ、って…レン、かわい…」
ゆっくりと俺に向かって手を伸ばしてきたかと思えば、唇の端を親指の腹でグイッと拭ってきた。
多分さっきあんみつを食べた時にクリームでも付いたんだろうけど、あろうことか相川君はその親指を口元に運び舐め取ってしまった。
キャーッ!
押し殺しても押し殺しきれていない女性達の黄色い声が聞こえる。
でもぶっちゃけ俺はそれどころじゃない!
な、な、なんでっ、なんでそんな美味しいイベント桜君としないんだよぉ―――ッッ!!
大型無口ワンコは王道君に懐くもんだろうがぁあああっっ!!!!
ハッ!
そうだよっ、なんで俺はここに桜君を連れて来なかったんだ…!
桜君は俺の正体も知ってるんだから、今更甘味大好きなことがバレたって痛くも痒くもなかったのに!!
「…レン……間接、キ…ス……」
「………ッ!!」
間接、キス…だとぉっ!?
いやいやいや、なんでそんな可愛いこと言って目許赤らめちゃってんの!?
男同士ならペットボトルの回し飲みくらい普通だよね?
それとも金持ちはそんなことしないってか!?
その潤ませちゃった瞳はよもやまさかひょっとしてっ、あの時の事故チューを思い出しているのか!?
「あ、あああ、相川! あの時のアレなっ、アレ事故だから! 事故と家族と男相手はノーカンって決まってんだ!! だからっ、相川の大切な初めてはまだ守られて…」
「………ノーカン、違う」
嗚呼っ、相川君の目がうりゅって更に潤んでしまった。
あの時のことを思い出して悲しくなってしまったのか?
そりゃそうだよな、初めてが男で教師でしかも事故とか忘れたくても忘れられないよな。
俺だったらトラウマ決定だもん。
とか言って、寝たら即効忘れるんだけど。
「ま、まぁ、確かに偶然口と口がくっ付いちまったけど…っ」
「嬉し、かった……初めて、レン……俺、嬉しかっ、た…」
悲しそうに俯くその姿に、胸がぎゅうぎゅう締め付けられる。
おっきなワンコにそんな顔されちゃ、話はどうであれぐりぐりに甘やかせてしまいたくなる。
さっきみたいな嬉しそうな顔させて、目一杯頭を撫で繰り回したい。
俺は考えるよりも先に、そっと相川君の頭に手を伸ばしていた。
「あんれぇ~? センセじゃーん! こんなトコで何やってんのぉ?」
………何故このタイミングなんだ、関君……
『六場・マジモン』
素晴らしきかな、ひとり!!
四方八方を海に囲まれ陸の見えない今、この最上階にある展望デッキにいるのは俺だけだった。
あの宛がわれた部屋には煩い輩が何時雪崩れ込んでくるかわからないし、ここの方が余っ程心安らかでいられる。
そんな中、俺がしていることというのは…
「関君も仲間に加えて、3人で猛烈に甘味を貪り喰らったんだよ。まさか関君も甘味に目がなかったとは驚きだけど、チャラ男が幸せそうにクリームあんみつを頬張る姿はかなり萌える! 萌え滾る!! しかも、相川君の隣を陣取ってあれやこれやと揶揄っている光景はまさに眼福モノだったよ! 写メれなかったのが本当に残念…。でも、大型寡黙ワンコ×ちょい天然チャラ男……ご馳走様です!! お茶会の間中ニヤニヤ堪えんのマジで大変だったもん!」
そうです、腐男子メル友のアオイ君に報告メールを作成中なのです。
お恥ずかしながら、俺は文を口に出しながらじゃないとメールが打てない。
特に話し言葉ならなおのこと、口に出た言葉そのままを打たないと堅苦しい文面になってしまうのだ。
これだからひとりじゃないと駄目なんだよな。
「船旅はまだはじまったばっかなのに、早くも後悔してしまいそう……ってコレ、後悔と航海かけてんの上手くない!? …送信っと」
何か最後親父ギャグみたいな締め括りになったけど気にしない。
アオイ君はこんな親父丸出しの俺でも優しく受け止めてくれる、バーバパパのような包容力の持ち主だ。
あ、これじゃアオイ君の方が親父になっちゃうよ、パパだけに!
……あれれ、俺って何時からこんな親父ギャグ製造マシーンに成り下がったんだ?
「自分を卑下することはないさ。駄洒落というのは中々に難しいからね、頭の良い運動になるんだそうだよ」
ビクゥウッ!!
今のはマズイ、今のはダメだろ!!
いつもなら我慢できるのに、今は自分でひとりボケツッコミしてて気を抜いてたから肩がメッチャ跳ねたじゃん!
俺、これでも俺様微鬼畜ホスト教師ですから!!
常に気怠く余裕ありまくりな大人の男ですからぁっ!!
ギギギッ
硬直し過ぎて変な音が出そうな首を捻り横を見ると、少し離れたところに美味しそうなイケメン様がおわしましたとさ。
そして彼は桜君の攻め要員として末永く萌えの中心で愛を囁き続けたのでした、めでたしめでたし。
「という訳で、失礼致しました」
「どういう訳だい?」
自己完結の上メルヘンに逃げ込み現実を逃避してこの場から即時撤退しようとしたのに、呆気なくも階下へと下りる階段を塞ぐように立ちはだかれてしまった。
その身長は相川君と同じくらいだろうか、すらりと高くて手足も長い。
猫っ毛の髪は灰色のショートで、濃紺色のアーモンドアイズが艶っぽい色気を滲ませている。
シンプルなダークグレーのスーツが反って彼の美貌を引き立てていて……というか、この人とは初対面なんだけど知っている気がする。
いや、名前は知らないんだけど物凄く見たことがあるんですけど!!
「僕を見て逃げるだなんて、そんなに怖い顔をしていたかい?」
「……そうじゃなくて、アンタ…雑誌で見たことあるんだけど」
そうなのだ、俺がホスト教師になるために定期購読しているオシャレ雑誌で、今目の前に立っている男を何度も見たことがあるのです。
それどころか、最近じゃドラマにも出ていたような…いやいや、他人の空似かもしれないし決め付けは良くな…
「おや、知ってくれてるなんて光栄だね。そういえば君のそのピアス、今月号で僕が付けていた物じゃないかい?」
マジモンの芸能人でございまするですよぉお―――っっ!!!!
『七幕・小悪魔』
物心ついた時にはすでに山奥の寺で暮らしていたし、高校大学とガリ勉顔負けに勉学に励み、社会に出た矢先また山奥の学園へと引きこもってしまった俺は、ぶっちゃけ芸能人とか見たことがない。
芸能人みたいに美形の奴ならゴッロゴロいるけど、まさか自分が愛読している雑誌のモデルに声までかけられるとは……
美味し過ぎんじゃねぇかっ!!
ここで上手いことお知り合いになっておいて後で桜君と引き合わせれば、後悔の船旅が薔薇満開の船旅に変わること間違いなし!
総受に必要な要素がどんどんと集まってくる…流石は王道転校生、俺の天使!!!!
「あぁ、君の髪は染めているのに手触りが良い。ワックスを付けていなければ、きっと柔らかいのだろうね」
芸能人とのファースト・コンタクトに荒れ狂う心を沈めていたら、いつの間にやら俺の髪は彼の指先に絡められていた。
何と言う早業!
「触んじゃねぇよ。どうせ触んなら、サラサラ金髪の美形天使にしとけ」
俺の本心をそのままホスト教師調に変換しただけの言葉に、目の前の男は怪訝そうに眉をひそめた。
……のだったら普通の反応なんだけど、俺の予想を裏切り濃紺の瞳を細めて笑う彼は実に嬉しそうだ。
まさか…桜君に興味津々!?
「へぇ、天使か。だけど僕は、天使よりも赤い髪の悪魔…いや、小悪魔の方に興味があるんだけどね?」
おい、赤い髪って何だ。
指で俺の毛先をクルクルしながら言うな。
まさかそれ、俺じゃないだろうな?
8736兆歩譲ったとしても、俺は小悪魔じゃなくて悪魔だろうが!!
小悪魔っつーと悪魔の卵ってより、吊り目な女の子しか浮かばねぇんだよ!
可愛い&美人なメンズでも可っ、むしろカモンベイベだけれどもっ!!
「ピアスも良く似合ってるね」
耳朶フニフニしてんじゃねぇ。
「おや、頬も女性以上にスベスベじゃないかい」
頬っぺた撫で繰り回してんじゃねぇ。
「唇もほのかに色付いて……こら、そんな風に上目使いで見てはいけないよ。君みたいな可愛い小悪魔は、悪い悪魔にペロリと食べられてしまうからね。ほら、こんな風に……」
唇を親指の腹でなぞるんじゃねぇ。
上目使いって何だコノヤロー、なら身長縮めやがれってんだモデル体型め!
しかし芸能人は変わった人が多いと聞くし、この場は何とか耐え抜いて桜君総受のために尽力しようではないか。
………あれ?
何だか雑誌で見慣れたイケメンのイケてるお顔が、段々とアップになっていっている気がする。
しかもゆっくりと目が細められていって、俺の口に吐息がかかっている気が…
唇をなぞっていた手は何故か顎を摘み、顔を少し持ち上げられているような…
バシャッ!!
「―――ッ!!!?」
茫然と成り行きを眺めていたら、突然視界が真っ赤に染まった。
一瞬血飛沫でも上がったのかと思ったけど、俺にかかるそれは冷たくて芳醇な香りがしている。
これは…
「目っ、目があぁああっっ!!」
目が燃えるように熱い。
これはもうアレで決定だ、赤ワインで。
「おやおや、大丈夫かい?」
言葉こそ暢気そうだけど、彼は少し焦っているらしく僅かに語尾が荒い。
というか、俺が全身びしょ濡れな上に目に入ったアルコールで苦しんでいるというのに、何故目の前の彼には一滴もかかっていないんだ?
「ダーメ。いくら君でも、その人に触っちゃダメだーよ」
滲みる目から滂沱の涙を溢れさせながらも声がした方を向けば、やっぱりと言うか何と言うか澤村藤風紀委員長が空のガラス瓶を手に立っていました。
きっとあの中に入れていた赤ワインをぶっかけたんだなテメェコノヤロー!!
「嫉妬かい? 彼は君のモノでもないのに嫉妬だけは人並み以上とは、その自己中心的思考には恐れ入るよ」
「ナーニ言ってんの? その人に触ったら、スポンサー様から貰った大事なスーツに染みがついちゃうよーってだけの話でしょ?」
「僕は生憎、君のような臆病者ではないからね。スーツが汚れようが彼が汚れようが、躊躇わずにこの腕に抱くよ」
お二人さん、俺のことは無視ですか?
『八場・パンチ』
「………っざけてんじゃねぇぞッ、澤村テメェッ!!」
俺の目が痛過ぎてリアクションがデカくなったのも、下ろし立てのスーツを赤ワイン塗れにされて怒りが込み上げたのも仕方がないと思う。
そりゃ生半可なことじゃ怒らないけど、ここは怒りに任せてぶん殴るくらいのことをした方が俺様微鬼畜ホスト教師っぽくていいだろう。
それに澤村委員長は風紀として数多の不良共をその拳で黙らせてきた猛者なんだし、俺のヘナチョコパンチくらい簡単に避けてくれるはずだ。
という訳で、俺は今拳を振り上げております。
そしてそのまま澤村委員長の左頬目掛けてわかりやすいストレートパンチを…
バキィッ!!
……キメてしまいました。
なななななっ、何でぇ―――ッッ!!!!!?
何で避けないの澤村委員長!
俺のパンチは確かにヘナチョコだけど指にはゴッツいシルバーリング嵌めまくってんだから、メリケンサック効果で結構痛いはずなんだよ!?
実際殴った俺も指が痛いし。
殴られた反動で横に向いてしまった澤村委員長の頬は、だんだんと指輪型に赤みが増していってるような気がする。
なんてこったい!
大事な大事な桜君攻め要員である澤村委員長の美顔を、この俺自らの手で傷付けてしまうなんて何たる不覚!!!!
萌神様っ、どうか私を罰してください!!
「これに懲りたら、二度とふざけた真似すんじゃねぇぞ」
そして、ベタベタな台詞を残して逃げ出してしまう俺を許してください!!
赤ワインの痕を点々と残しながら、俺はスタッフに止められてもそれを振り解いて自室へと駆け込んだのだった。
side:澤村藤
頬が熱い。
蓮華センセのしなやかな指に嵌まったリングが骨に当たって結構痛かった。
もしかしたら口の中も切っちゃったかもしんない。
「………君さ、殴られて笑うなんてマゾだったのかい? 意外だよ」
「オレがマゾだなんてありえなーいでしょ? でも、あの人だけは別なんだよ」
もちろん蓮華センセの可愛いネコパンチは避けようと思えば避けられたけど、そんな勿体ないことできる訳がない。
きっと指輪の跡が痣に変わるはずだ。
蓮華センセがくれた痛みと傷痕。
なんて愛しいんだろう。
このまま一生消えない傷になればいいのに。
そうしたらきっと、優しい蓮華センセは自分を責めるんだ。
オレの顔を見る度にあの可愛い顔を後悔に歪めるのかと想像しただけで、ぞくぞくと背筋に震えが走る。
オレでいっぱいになればいい。
オレでいっぱいにしたい。
閉じ込めて、閉じ込められて、蓮華センセにオレを刻み付けて、刻み付けられて、溺れて溺れて溺れて、世界から切り離して二人だけになりたい。
―――でも、蓮華センセが人のことをスキだって知ってる。
人がスキで、幸せそうにしてるのを見るのがスキだって知ってる。
その時の蓮華センセの顔は蕩けそうなくらいふにゃふにゃで。
本人は必死に顔を引き締めようとしてるみたいだけど、蓮華センセのことを毎日毎日見てる俺にはバレバレなんだよ。
「強がっちゃって、可愛いったらないよーね」
「彼が可愛いのは周知の事実だけど、牽制するくらいならはじめからこの船に僕を招待しなきゃいい話じゃないかい?」
「そーもいかないのは、柘榴も知ってるでしょ?」
ホントはオレだって柘榴を招待なんてしたくなかったけど、新学期が始まる前までには会わせなくちゃいけなかったんだから仕方がない。
だけど、それとこれとは話が別だよね?
「さっきのアレさ、どーいうつもりだったの? あの人に手なんか出したら殺すって言ったよね、オレ」
「男の嫉妬は醜いよ、藤君」
「嫉妬な訳ないでしょー。これはね、執着って言うの」
愛しい愛しい可愛い人。
貴方を守るためだったら、どんな奴とも手を組むよ。
神田組で会ったあの偽サラリーマンにはムカついたけど、それでも蓮華センセを危険から遠ざけられるのならオレの感情なんて二の次だ。
大丈夫、貴方を悲しませたりなんかしないよ。
『九場・無自覚』
「ヤ、ヤバイ……極楽かもしんない…」
赤ワインに塗れた身体を流そうと思ってお風呂に入ったんだけど、今俺がいるのは室内じゃなくて外。
なんと、バルコニーにはジャグジーがついていたのです!!
しかもジェットバスで身体の凝りが解れる解れる!
はじめはシャワーで適当に…とか思ってたけど、俺は冷蔵庫にあったビールを片手に海に沈む夕日を眺めながら優雅なバスタイムと洒落込んでいた。
久し振りの発泡酒じゃない麦酒はメチャクチャ美味いし、ジャグジーは最高に気持ちいし、オーシャンビューは綺麗だしでもう言うことない!!
桜君の総受けパラダイスさえ見ることが出来ればそれで良いと思ってたけど、こんなに最高のお風呂を味わえるなんてマジで来て良かった。
誘ってくれた生徒会メンバーには心の中だけで感謝の気持ちを述べておこう。
「あー…もうなくなっちまった」
どうやら俺は、冷蔵庫から引っ張り出した500mlのビールを4本全て飲み尽くしてしまっていたようだ。
「飲み足りないー…酒ー! 酒持って来ーい!!」
「おらよ」
「お、サンキュー」
ご丁寧にもプルトップを開けて手渡してくれた相手に礼を言うと、俺はそのまま缶を呷り喉を通る炭酸の刺激と苦みを存分に味わった。
「………ッ、プハァッ!!」
この瞬間が『生きてる!!』って感じるんだよな。
俺、大人で良かった。
「ハッ、オヤジかよ」
「うっせぇな。テメェも後5年もすりゃこうなるんだよ」
「生憎と俺は、ビールよりもウイスキー派なんでな」
「あんなん、木の匂いが染み付いて………」
なんか俺ってこんなんばっかだな。
天然でもないのに、何故独り言の延長みたいに誰かとナチュラルに会話してるんだろう。
そしてお前はどうやって入って来たんだ?
あれか、学園内と一緒で権力者はマスターカードみたいなのを持ってんのかコノヤロー。
「瀬永、テメェ…案外肌白いんだな」
しかも何言っちゃってんのこの人ぉ―――!?
てか俺、ZENRAなんですけど!!
仁王立ちで見下ろしてんじゃねぇよ澤村会長ッッ!!!!
「………俺の裸は、高ぇぞ」
いやもう、なんかゴメンナサイ。
俺の裸なんて忘年会で中年サラリーマンがやる腹芸よりも価値ないですけど、俺様微鬼畜ホスト教師というキャラを守るためにはこんな寒い台詞を吐くしかなかったのです。
軽ーく聞き流しちゃってくださいな。
「何だ、金払えば裸になんのかよ」
何故そこで君はガン飛ばすの?
金さえ出せば裸になるって、俺ってばどんだけ阿婆擦れてんのよ。
ビッチなホスト教師って新し過ぎてちょっと萌えんじゃねぇか!
大前提として、俺でなければってのがあるんだけれども。
「男には興味ねぇよ。ま、桜以外の…だけどな」
開き直ってニヤリと笑ってやれば、途端に澤村会長の顔が不愉快そうに歪む。
それにしてもそのダークスーツ似合いまくってんな…黒く濡れたような髪に野性的な面差し、これじゃ誰も学生だなんて思わないだろう。
「テメェも桜を狙ってんのか」
フハハッ!
ライバルを牽制するようなその鋭い眼差し、滾るっ!!
俺は恋のキューピットなんかよりも、恋のピリ辛スパイスになりたいのだよ。
ただの恋より障害のある恋の方がより燃えるしより萌える!
メラメラと闘志を漲らせている澤村会長を尻目に、俺はまた缶に口をつけて呷った。
いや、呷ろうと思ったんだけど缶を持つ手首を掴まれてしまい、勿体ないことに中身をダバダバとお湯の中に注いでしまった。
ちょっ、ビール風呂なんて贅沢な!
「チッ、…んでこんなにムカつくんだよっ」
えぇっ!?
もしかして澤村会長ってば、桜君への恋心無自覚!?
無自覚天然俺様生徒会長受けッ!!
あ、間違った。
無自覚天然俺様生徒会長攻め!!!!
『十場・自覚』
まさかあれだけ桜君を構い倒し誘うような言葉を吐きまくっていた澤村会長が、実は自分の中に芽生えた恋心にも気付いてなかったとは。
恋を知らない俺様に初めて訪れた甘く切ない感情。
俺としては誰か一人の攻めを贔屓したくはなかったんだけど、こんなにも不器用で可愛い澤村会長を見ちゃったら応援したくなるってもんだ。
仕方がない。
本当は俺様生徒会長×王道転校生なんてベタなゴールは望んじゃいなかったが、ここは彼の初恋に免じて全面的にバックアップして差し上げようではないか。
まずはじめに、彼に今抱いている感情が何なのかを明確にはっきりとつまびらかに説明してあげねば。
「ムカつくって……そりゃ、嫉妬か?」
心持ち『嫉妬』の部分を強調して言えば、俺の腕を掴んだまま見下ろしていた黒い瞳が徐々に見開かれていく。
「この俺が、嫉妬……?」
俺の鋭過ぎるほど的確な指摘に、澤村会長の瞳が戸惑いに揺れている。
うん、こうして見れば澤村会長も普通の高校生に見えるじゃないか。
初めての恋愛に戸惑い揺れ動く心…このもどかしい感じが恋愛に於いては堪らんのですよ!
……とか何とか言いながら、俺は初恋もまだな寂しい独身貴族だけどね。
「俺と桜の仲が良いことに、妬いてんだろ? 恋患いとは青春してんじゃねぇか、澤村」
ここまでダイレクトに言えば、どんなニブニブハートでもクリティカルヒット間違い無しだろ。
案の定澤村会長は、鳩が豆鉄砲喰らったような顔をしてる。
口半開きとか情けない表情のはずなのに、美形がやれば可愛く見えてしまうんだからムカつくよな。
「恋、だと言うのか? 俺が本気になっているとでも…」
信じられないって口振りだけど、きっと澤村会長はもう自分の気持ちに気付いている。
ただ背中を押してもらいたいんだ。
誰だって恋に足を踏み出す時は躊躇するものだから、誰かにこの想いを認めてもらって大丈夫だって太鼓判捺してもらいたいんだ。
「どうせテメェは止めろっつったって、その想いを止めらんねぇんだろうが。さっさと認めて真剣に争奪戦に参加しろ」
あ、ヤベ。
最後の方、腐男子的見解から本音をポロリしちゃいましたよ。
「………何かおかしいとは思ってたんだ。顔見てっとムカムカするし、見なけりゃ見ないでイライラするし。周りには虎視眈々と狙ってる奴ばっかで、藤や芙蓉まで夢中になりやがって。今思えば全部嫉妬だったんだな……なんだ、簡単な理由じゃねぇか」
なんか感動してきた。
この胸に込み上げてくる感動は、まるで初めて子供が立った時のそれに近いかもしれない。
とにかく、澤村会長が初恋自覚しました!!
うわぉっ、やっぱりこの船旅はパラダイスになるのですね!
これから澤村会長はより一層桜君に押せ押せオラオラになって、まだ高校生なのに豪華客船のロイヤルスイートルームでイヤーンバカーンな展開に!!!!
滾るッッ!!!!
「そうか、そうだったんだな。なるほど、そう考えれば全ての辻褄が合う」
そうだろうそうだろう。
ん?
あれ、あれ、あれれ?
何故俺のもう片手も掴んでいるんだ、澤村会長よ。
そんでもって、何故に君は顔を寄せて…寄せ……
「んっ!」
オイィイイイイッッッ!!!!
テメェが耳朶ハムッってすっから変な声が出ただろうが!!
そんでもって自分の声にサブイボ立ったわ、見てみろコレッ!!
「良い声出すじゃねぇか、瀬永。耳でこれなら、乳首吸ってやったらイッちまうんじゃねぇの?」
「…っざけんじゃねぇぞ、澤村ぁ! 自分の初恋自覚した矢先、何トチ狂ったことしてんだテメェは…ッ」
「だからだろうが。瀬永…俺はテメェが欲しいんだよ」
ちょっ、待っ、えっ、はぁっ!?
澤村会長の初恋って桜君だよな!?
嫌がらせかっ、当て馬かコンチクショーッ!!
『十一場・膝』
両手を掴まれ顔まで寄せられるもんだから、ついつい身体が逃げを打つように仰け反ってしまう。
ということは、つまりは俺の下半身が無防備な状態になるということだ。
「澤村ッ、テメェいい加減にしねぇと不能にすんぞっ!」
「…チッ、煽ってんじゃねぇ…!」
煽ってねぇよっ!!
怒りで顔を赤くしてんだよっ、こんなところで天然発揮してんじゃねぇ!!
俺よりもがたいのいい澤村会長に力で敵う訳もなく、情けないことに後はただ威嚇するくらいしか術がない。
ザバッ!
…ってちょっとぉおおおっ!!
何ジャグジーに入ってきてんのよ!!!?
そんな高そうないかにもブランド物のスーツ着たまま風呂に入るんじゃねぇ!
貧しい中切り盛りしてる俺への当てつけかテメェッ!!
「何して…ぅあっ!」
スーツのまま俺にのしかかるようにして入ってきたかと思えば、何を思ったのか首に歯を立てやがった。
東先生に付けられた歯型がようやく跡形もなく消えたっていうのに、何という嫌がらせをしてくれてんだコイツは!
「……甘ぇ」
甘い訳ねぇだろ!
いや、甘味の食べ過ぎで糖分が滲み出して…ってそんなことある訳がないんだけど、いかんせん今の俺はかなりのパニックに陥っていたりする。
何故なら、首を軽く噛んでいる間に澤村会長の膝が俺の足を割って、あろうことか剥き出しの俺の…俺の…俺の一番大切なアソコを人質に取ってんだから!!
当たってるっ、膝がアソコに当たってますよ澤村会長ッ!!
君も俺みたいなおっさんよりピチピチピーチな桜君のアソコの方がいいでしょっ!?
あれだけ綺麗な顔をしてるんだから、桜君のアソコは甘い果実のような色をしているに違いない。
それを言えば桜君の顔はそれこそ桜色に染まって、攻めの…澤村会長の本能をギンギンに滾らせるのだ!
そしてイヤーンでバカーンな展開に!!
「くっ、は…ッ…堪ら、ん…!」
果てなき妄想での興奮と、澤村会長の意味のわからない嫌がらせと、長湯+飲酒により俺は見事にブラックアウトしてしまった。
気絶って案外簡単にできるものなんだな。
脱臼癖みたいに気絶癖がついたらどうしよう…
side:澤村菖蒲
ようやく自覚した恋。
自分が瀬永に恋をしていると自覚した途端、目の前の男が急に愛しく感じた。
一糸纏わぬ姿でジャグジーに浸かり、アルコールのせいか頬を染めて赤い髪が首筋に張り付く様に我慢なんか利く訳がない。
ビールの缶が落ちるのも気にすることなく、瀬永の両手を掴んで耳朶を噛んでやった。
それだけで甘い声を上げる瀬永に頭の中で何かがブチ切れて、スーツを着ていることも忘れてアイツを組み敷いた。
例えようのない興奮が全身を駆け巡り、欲望のままに桃色に染まった首筋に歯を立てる。
途端にビクッと跳ねる身体に気を良くして、膝を足の間に割り込ませ掴んでいた手を離して脇腹を撫で上げた。
嗚呼、甘い。
コイツから立ち上る香りの何と甘いことか
雄の本能をビリビリ刺激するその匂いに、俺は無我夢中で首筋を吸い上げしゃぶっていた。
「くっ、は…ッ…堪ら、ん…!」
不意に何事かを呟いたと思ったら、いきなりガクンと瀬永の身体から力が抜けた。
お湯に沈む前に慌てて背中に腕を回し支えてやると、信じられないことに気を失ってやがった。
そういえばお湯の温度も結構高めだし、何よりビールを2Lも飲んでいるんだからこうなるのも当たり前なのかもしれない。
だが、どうしてくれる。
これまでになく興奮しまくってる俺の下半身は…
「瀬永、テメェは絶対に俺のものにしてやる。覚悟しろよ」
とりあえず今は、コイツの全裸と初恋に免じて許してやるとするか。
けどよ、次はねぇぜ?
『十二場・全裸よりも大切なもの』
目が覚めたらベッドの中でした。
嗚呼、これが世に言う『夢オチ』というヤツですか。
はじめから澤村会長はジャグジーなんかに来ていないんだ。
あれは全て俺の逞し過ぎる脳が作り出した幻影。
例え着た覚えのないバスローブを身に纏っていようと、髪がまだしっとり濡れていようと、俺はあれを現実とは認めない。
だって、だって…
もしそうじゃなかったら、俺は湯あたりで昏倒した情けない姿を晒したことになるじゃないか!
しかもよりによって同じ『俺様』属性の澤村会長に見られるだなんて、俺の腐男子としてのプライドに傷が付くわ!!
全裸でぶっ倒れるだなんて、しかもベッドに運ばれて身体拭かれてバスローブを着せられただなんて最悪過ぎる。
裸を見られたことなんて毛ほども気にしちゃいないけど、惨めな醜態を晒してしまったことが何よりも気に障る。
いや、ヤバイ。
下手したら猫かぶりがバレるかもしれない。
いやいやいやっ、ここはポジティブに考えようではないか!
きっと天然ニブニブ会長は、自覚したばかりの桜君への恋に動転して俺の猫かぶりにまでは気が回らなかったに違いない。
そうだと信じる。
信じたい。
信じるしかない。
よしっ、そうと決まれば取り合えず着替えよう!
寝るにしたって何にしたって、バスローブは落ち着かない。
そう思って立ち上がろうとした矢先、
リンゴーン
と金持ちの家のチャイムみたいな音がした。
それは紛うことなきチャイムなんだろうけど、一般庶民の俺からすると何だか受け入れがたい音だ。
「……誰だ?」
怠い身体を起こし足にスリッパを引っ掛けると、ドアスコープも見ずにドアを開いた。
流石にこんな格好で全開には出来ないから、少しだけ開けたドアの隙間から顔を覗かせる。
「蓮華、食事に行くぞ」
「……澤村、お前も来てたのか」
視線を僅かに上げれば、そこには無表情の澤村家三男・澤村芙蓉君のご尊顔がありましたとさ。
本がないと梃子でも動きそうにない澤村君だけど、やっぱりお家のことになればそうは言ってられないのかもしれない。
金持ちは羨ましいけど、生まれた時からそういった柵に捕われる人生もしんどそうだな。
「あぁ、この船のライブラリーは俺が担当したからな」
思いっきり趣味に走ってんじゃないか、この活字中毒者!
ちょっと切なくなってしまった俺のキュンを返せ。
「それより、食事だ。みんなが待ってる」
「………パス」
忘れてた。
コイツらとの食事っていったら、やれフレンチやら、やれイタリアンやらに決まってる!!
そんなナイフ&フォーク地獄に堕ちるくらいだったら、湯あたりで昏倒したことをバラされる方が遥かにマシだ!
スイーツやパスタをフォークで食べることには抵抗ないんだけど、フォークを左手で持つのが箸人間としては違和感があるというか何と言うか…
とにかくここは断固拒否の姿勢を貫き、
「折角の高級特上寿司だというのに」
「行くに決まってんだろ! ちょっと着替えっから待ってろ」
それを早く言わんかい!
寿司、てんぷら、すき焼き、鰻重、お造り!!
高級和食に目がない俺は、寝坊した日の朝よりも超絶スピーディーに身嗜みを整えた。
新記録を更新したかもしれない。
「………可愛い。さっきの嬉しそうな蓮華の顔、菖蒲と藤に自慢してやろう」
やって参りました、お寿司屋さん!
凄いよぉっ、回ってないよぉっ、しかも個室だよぉっ!!
長いテーブルには旅館の夕食みたく、一人一人に料理が用意されている。
もちろんメインは握り寿司なんだけど、伊勢海老のお味噌汁や茶碗蒸し、てんぷらなんかもあってかなり豪華だ。
『十三場・特上握り寿司』
畳の個室は奥に床の間もあって料理に負けず劣らず豪華なんだけど、1番豪華なのはそこにいる人間なのではないだろうか。
長いテーブルを挟んで向かい合うように二列。
左奥から澤村菖蒲・澤村藤・相川桔梗・猫柳梅・神田牡丹。
右奥から香坂百合・関紫陽花・澤村芙蓉・鈴枝桃・山吹桜・森川チコリ。
つまり奥に3年生、手前に2年生と寮父がいるということだ。
まさに右を見ても左を見ても美形美形の美形嵐。
こんな風に美形率100%にもなると、逆に有り難みがなくなるような気がするのは俺だけなのだろうか?
それにしてもまさか神田君も来ているとは思わなかった。しかもちゃっかり桜君の向かいの席だし。
何その執着…かなり萌えるんですけど!!
そりゃもう、俺の到着を待たずに食べ始めてるみんなの薄情さを忘れるほどの萌えですよ。
そんな彼に執着されている桜君はといえば、右隣りの鈴枝君とキャッキャしててまるで百合のよう……百合って使うと香坂副会長の名前と被ってややこしいな。
とにかく可憐で可愛らしい。
彼らの背景にだけ花が咲いているように見えるんだから、とうとう俺は目まで腐ってしまったようだ。
前からだけど。
突っ立っているのも何だから出入口に近い神田君の隣に腰を降ろすと、早速手を合わせてから箸を取った。
―――うまっ!!
このお味噌汁、伊勢海老の味噌が溶け出しててメチャクチャ上手い。
茶碗蒸しも上品で、椎茸がかなりジューシー!
もちろんてんぷらもサックサクで、お寿司も蕩けそうなくらいの美味さだ。
「~~~~~ッッ!」
サーモンの脂が口の中で溶けていく瞬間、身悶え暴れ出したくなるような衝撃が込み上げるけど気合いで堪える。
ヤバうま!!
山葵が効いてる振りをして眉間に手をやり然り気なく顔を隠す。
こうでもしなきゃ美味さに破顔してるのがバレてしまうからな。
「……瀬永先生、大丈夫ですか?」
意外なことに、1番に話し掛けてきたのは神田君だった。
それもそのはず、いつもなら1番煩い目の前にいる森川さんは、俺が来た頃にはとっくに出来上がっていたのだ。
普段野獣な森川さんは、酔っ払うと寡黙になる。
「あぁ、大丈夫だ」
神田君を横目で見れば、何だか物凄く複雑な表情を浮かべていた。
きっと俺のお腹を踏んだ手前、どう接していいのかわからなくなってるんだろうな。
折角桜君の目の前を陣取っているのに、俺が隣にいるばっかりにこっちが気になって仕方がないらしい。
別に気にしなくてもいいのに。
むしろ嫉妬萌え、八つ当たり萌えだった訳だし。
だけどそんな不器用な神田君を見ているうちに、気が付いた時には手を伸ばしてその短い茶髪に触れていた。
神田君が驚きに硬直しているのをいいことに、意外にも柔らかな髪をワシワシと思う存分撫で繰り回す。
「………アンタ、何なんだよ…」
手触りのいい髪を堪能していたら、不意に神田君の顔がくしゃりと歪んだ。
その泣き出しそうな表情に、ヤクザの跡取りで爽やかで腹黒な神田君もやっぱりまだまだ子供なんだなと胸がほっこりしてしまう。
だから気付かなかった。
俺達に視線が集中していただなんて。
「テメェ、神田。何瀬永とジャレて…」
神田君の隣に座っていた猫柳君が声をかけてきた瞬間、ズバンッ!と大きな音を立てて襖が開いた。
「すっげぇっ!! 船なのに寿司屋まであるし個室もスゲェ広い!! 掛け軸までかかってるし、馬鹿みたいに金かけ過ぎだよな!!」
………え、王道君?
いきなり現れた見たこともない少年は、王道色満載な台詞を口にしながら部屋を眺めてしきりに大声を上げている。
もしかしたら誰かの知り合いかと視線を巡らせてみても、みんな珍獣でも見るかのような目で少年を見ていたからきっと知らない人なんだろう。
じゃあ、この状況は一体何なんだ?
『十四場・王道の嵐』
「てか、無駄に美形ばっかりだな! お前ら誰だよ!? 俺は三宅水仙ってんだ! 俺達もう友達なんだから水仙って呼べよな!!」
もう一度言うけど、王道君だ。
凄い…これは桜君とは違ってマジモンの王道君だよ。
平凡顔に黒髪+華奢な身体とは打って変わって快活な雰囲気の少年は、携帯小説に出てくる王道そのままに意味不明なことを口走っている。
酔っ払ってる森川さん以外のみんなは、突然やって来た少年の言動に半ば呆然としているみたいだ。
そりゃそうだろう。
腐男子である俺でさえ、あまりの急展開についていけない。
というか、さっきまでの良い雰囲気を返してくれ。
うるうるな瞳の神田君はうっかりハートを撃ち抜かれそうなほど可愛かったのに、今じゃ険しく眉をひそめちゃってるじゃないか。
「おい! 無視すんなよ!! そういうのは良くないんだぞ!? 今すぐ謝れば許してやるから、ほらっ、まずはお前から謝れ!!」
おっと、王道君の視線がバッチリこっちを向きましたね。
そりゃ1番近くにいる俺に矛先が向くのは当然かもしれないけど、どうしよう…この子じゃ萌えない。
いや、正確には萌えるんだけど、それを上回る不快感が俺の心を占めている。
「聞いてんのかよっ、このホストッ!!」
「……痛っ!」
ちょっとぉおおおっ!!
髪っ、髪の毛抜ける!!
いきなり怒鳴ったかと思えば髪の毛を鷲掴みって、もしハゲたらどうしてくれんだよ!?
もう実家の寺、継ぐしかなくなるじゃん!
「ッ、テメェッ何してんだ!!」
いち早く我に返った猫柳君が、立ち上がり様に王道君の腕を掴んで髪を離させる。
王道君の細い指に赤い髪が何本か絡まっているのを見て、情けない話しちょっぴり泣きそうになってしまった。
マジでハゲたらどうしよう…
「痛い!! 何すんだよ不良っ!! 腕折れたらどうすんだよ!?」
「ざけんなッ、瀬永の髪引っ掴んでおいてどの口が言ってんだ! ア゛ァッ!?」
ありがとう、猫柳君。
普段はネギシオと戯れているから忘れがちだけど、やっぱり君も立派な不良君なんだね。
「ねー、芙蓉。三宅なんて人間、招待してたっけー?」
「三宅といったら万里小路家次女の嫁ぎ先だ」
「三宅は確かただの地方公務員じゃねぇか…って藤、お前なんつー目してんだ」
「煩ーいよ、菖蒲」
俺と王道君の間に割って入ってきた猫柳君を見上げていたら、不意に後ろから腕を引かれた。
それはもちろん神田君なんだけど、俺を庇うように個室の奥へ促そうとする行動が意外過ぎてついまじまじと顔を見上げてしまう。
途端にカァッと赤くなった神田君に首を傾げる間もなく、その後ろから伸びてきた相川君の腕に軽々と引き寄せられた。
「そいつが無視すんのが悪いんだろ!? 謝れよ!! 謝ったら許してやるから!」
「好い加減にしてください。いきなり入ってきて喚き散らすなんて、マナー違反にもほどがあります」
俺が相川君のところまで引っ張り込まれている間にも、1番奥に座っていた香坂副会長が禍禍しいオーラを噴出しながらニーッコリと王道君に向かって笑っていた。
香坂副会長の言うことは、至極当然のこと。
確かにうちの学園の生徒達もワーキャー煩いけど、しばらくすれば静かになる。
それは偏に、彼らが育ちの良いお坊ちゃまだからだろう。
王道転校生としてやって来た桜君でさえ、何気にTPOは守っていたし。
まぁ桜君の場合は偽王道転校生で、蓋を開ければ山吹財閥のご令息な訳だから当たり前かもしれないけど。
とにかく、何やかんやでみんなマナーには煩い。
特に香坂副会長の家は由緒正しき茶道の家元だから、王道君の振る舞いが腹に据えかねたんだろう。
その隣に座っているチャラ男こと関君でさえ、不快だと言わんばかりに眉をひそめている。
関君もそんな顔出来たんだね、先生ビックリだよ。
『十五場・アンチ王道君』
決して狭くはない個室に王道君の声が響き渡る。
「何でそんなこと言うんだよ!? んな気持ち悪い顔で笑うなんて、お前は寂しい奴なんだな! 大丈夫だ! 俺がずっと傍にいてやるから、本当の笑顔でいろよ!!」
俺は萌えの神に愛されし腐男子だと自負している。
あんまりアンチとかもないし、雑食だし、王道的展開も総受けも大好きだ。
だから王道転校生の桜君には頑張ってほしいと常日頃から思っているし、自分でも王道展開になるようバックアップしている。
だけど、どうしても受け入れられない。
突如現れたこの王道君は、腐男子である俺でさえ受け入れることができない。
よく王道主人公のことを宇宙人とかいうけど、彼はまさにその通りだと思う。
怒りを滲ませた香坂副会長の笑顔を見てのコメントに、王道君の腕を掴んでいた猫柳君も言葉が出ないみたいだ。
「……さくちゃん、この人コワイ…」
「大丈夫、桃は俺の後ろにいろ」
ほら見ろ、鈴枝君の大きな瞳が不安に揺れてるじゃないか!
そんな鈴枝君を背中に庇う桜君の男らしさに、不覚にもキュンとしてしまいそうになる。
ダメダメッ、桜君は総受けキャラなんだから!
でもでもっ、男前受けもありだよね!?
「怖いって何だよ!! 俺よりもこっちの不良のが余っ程怖いだろ!? ちょっと女っぽい顔してるからって甘えるな! どうせコイツらに構われたいから俺を悪者にしようとしてるんだろっ、お前最低だ!!」
何だって?
それは酷過ぎるだろうよ、王道君。
鈴枝君は攻め喰い性悪書記じゃなくて正真正銘のピュアっ子なんだから、そんな根も葉も無いこと言われたら傷付くに決まってるだろうが!
最近アンチ王道のサイト様が増えてきたとは思ってたけど、この王道君を見てたらその理由も頷けてくる。
というかこんな奴、桜君と同じ王道だなんて認めない!!
アンチ王道の王道主人公だ!
「ボ、ボク…そんなつもりじゃ…っ」
「泣けば許されると思ってるのか!? どうせまた美形に構ってもらいたいだけだろ!」
あまりの暴言に涙ぐんでいる鈴枝君を見て、王道君が唾を飛ばして喚き散らす。
嗚呼、駄目だ。
いくら俺が腐男子だからって、自分の生徒を傷付けてまで王道展開に発展させたいはずもない。
どれだけ大人びていてもコイツらは俺が守るべき大切な生徒達だ。
「……お前、取り合えずその口閉じ…ふがっ」
「レン、………しー…」
立ち上がりかけた身体を後ろから抱き締めるようにして押さえ込まれ、更には叱り付けようと開いた口まで手で塞がれ出鼻を派手にくじかれてしまった。
耳元で囁かれる声からして相川君の仕業だろうから、この逞しい腕から逃れることは不可能だと思った方が良いだろう。
「んーっ、んぅー!」
「アレに目を付けられたらマズイから、蓮華センセは静かにしてーてね?」
相川君の後ろにいた澤村委員長が、王道君から俺を隠すように前に回り込んできた。
いやいやいや、教師が生徒に守られる訳にはいかないから!
というか、この中で王道への対処法を知ってるのは俺だけなんだから、俺に交渉役をやらせんかい!!
「猫柳、それの腕を死んでも離すんじゃねぇぞ。おい、平凡。テメェ誰に向かって牙剥いてんのかわかってんのか? 俺達はテメェみてぇな下民が話し掛けて良いような人間じゃねぇんだよ。しかもテメェが貶した桃は、現総理大臣の孫だ。桃が総理に今のことを伝えれば、役場勤めのテメェの親父なんざすぐに首撥ねられるぜ?」
『十六場・加速装置』
スッと立ち上がった澤村会長は、静かだけどよく通る声で王道を叱責した。
やっぱり同じ生徒会メンバーとして鈴枝君を貶されて黙っていられないんだな、流石澤村家のお兄ちゃん。
だけどね、そんなこと言っても王道君には梨の礫なのですよ。
「平凡ってなんだよ! 人を見た目で判断するのはいけないんだぞ!! 俺は相手が誰だって平等に接してやるんだっ、それが1番だろ!? それに俺は優しいからなっ、謝れば全部許してやるんだ! だから早く謝れよ!!」
ほらね、王道君は自分の正義が唯一だから窘めても通じない。
きっと恐ろしく視野が狭くて想像力に乏しいんだと思う。
出来の悪い子供だと思って接すればいいんだろうけど、王道君はどう見ても高校生くらいだ。
高校生にもなって他人の心の痛みに気付けず、更には悲しみを目の当たりにしているにも関わらず自分の意見を正当化して押し付けようとするなんて、マナー違反以前に道徳の授業をもっと受けるべきだ。
こんなところでゆとり教育の弊害が露呈するなんて、仏様とて思うまい!
「呆れて物も言えねぇ…」
地獄の底を響くような低い呟き。
一瞬誰の声かわからなかったけど、王道君はすぐに気が付いたみたいだった。
「あ―――ッ!! 桜!!!!」
指を差して騒音を撒き散らす王道君に、みんなの視線が一斉に桜君へと向く。
え、何?
これ何フラグ?
「煩ぇんだよ糞が。馬鹿のひとつ覚えみてぇにギャンギャン喚き散らしてんじゃ不細工」
ちょっと桜君!!
王道転校生の仮面は何処に忘れて来ちゃったの!?
桜、さぁ、仮面をかぶるのよ!
「なっ、久々に会った親友に何てこと言うんだよ!! そうかっ、ずっと会えなくて寂しかったんだな! 何だよ、それならそうと言えばいいのに! んなに拗ねなくても俺が桜と遊んでやる!!」
「死ねよ」
桜………恐ろしい子!!
良い子のみんなは死ねなんて口にしちゃダメだからね?
「死ねってなんだよ! いくら拗ねてるからって言って良いことと悪いことがあんだろ!! 折角俺がこうやって話し掛けてやってんのに、だから桜はいつまで経っても友達の一人もできないんだ!! あの日だっていきなりチーム解散させるしっ、桜は自分勝手だ! 俺心配していろんな奴に桜のこと聞きまくったんだぞ!? 俺に連絡先伝え忘れるなんてドジな桜らしいけど、他の奴はともかく親友の俺にだけはちゃんと教えろよな!!」
「どうやらマジで死にてぇようだな、不細工。こっちはただでさえ大事なモン傷付けられて気が立ってんだ…その汚ぇ面貸せや。梅、連れて来い」
…………
チームフラグキタ―――ッッ!!
桜君は王道転校生だからきっとそうだと思っていました!
ということは、もしかして猫柳君もチームのメンバーだったりするんですか!?
ギャーギャー喚く王道君を引き擦って行った桜君と猫柳君がかなり気になるところですが、今の俺はそれどころじゃない。
「チーム……まさか、桜はPrunusのヘッドか?」
「Prunusのヨシノ…あぁ、なーるほどね」
「桜の学名はPrunus。ヨシノといえば染井吉野」
「てっきり名字か何かだと思ってたが、まさか偽名な上に変装とはな」
ちょっと奥さんっ、こっちもチームフラグ立ってますよ!!
澤村兄弟はこっそり話してるみたいだけど筒抜けです。
多分桜君と澤村兄弟は敵対チームで、突然姿をくらました桜君を捜している感じの王道のヤツだ!!
王道君の登場はいろいろといただけなかったけど、中々大きなお土産を残して行ってくれた。
特に澤村会長は桜君への恋を自覚したばっかりだから、その驚きも一入だろう。
うわぁっ、萌え展開が加速してきましたよ!!
ところで森川さんはいつまで飲んでるつもりなんだろうか…
この人が静かだと、逆に気持ち悪いんだけど。
『十七場・プロポーズ』
「ネギシオォオオオオッッ!!!!」
「ぷっぷぎぃいいいいっっ!!!!」
宛がわれた部屋のドアを開け目に飛び込んできた愛豚の姿に、俺は堪らず雄叫びを上げながら駆け寄ってしまった。
部屋の真ん中辺りで飛び付いてきたネギシオと熱い抱擁を交わし、俺はやさぐれてしまった心を癒すべくプリプリの柔肌に頬を擦り寄せる。
嗚呼、なんてモチ肌!!
弾むようなお腹のお肉に、ちょっと湿った硬い鼻。
つぶらな瞳に揺れる耳と尻尾。
キュートなヒップラインに良く動く細短い足。
まさにネギシオは地上に舞い降りた天使!
俺の心を癒すためだけに存在する、俺だけのスイートエンジェル!!
「ぷぎぅ」
小さな身体をぎゅうぎゅうと抱き締めると、まるで慰めるかのようにネギシオが濡れた鼻を頬に押し付けてきた。
こんなに愛らしい生物にチューなんかされてしまえば、俺のなけなしの理性は簡単に銀河の彼方に吹き飛んでしまう。
「ネギシオッ、可愛過ぎる! 愛し過ぎる!! この俺の胸をこんなにもキュンキュンさせられるのは、ネギシオとBLだけだ!! 俺と結婚してくれぇえっ!!」
もうネギシオが嫁でいい!
王道君という嵐に揉みくちゃにされた俺の心を癒してくれる唯一の存在であるネギシオ。
いつも部屋で俺の帰りを待ち、たまに猫柳君と浮気してるけど俺を1番好きでいてくれている愛しい子豚。
十分じゃないか!!
「いやいや、それダメだから。ヤバイから。獣姦とかマジでデンジャーだから。畜生と結婚するくらいなら俺が攫うから」
「さっ、桜君っ!?」
王道君を引き擦って出て行ったはずの桜君が、ドアからではなく何故か部屋の奥から現れた。
「何で意外! みたいな顔してんだ? 誰がネギシオを攫って、誰がこの部屋まで運んだと思ってんだよ」
あぁ、そうだった。
桜君に大切なネギシオを豚質にとられて、無理矢理この船に乗せられたんだった。
「あれ、それじゃ今までネギシオは桜君が預かってくれてたのか?」
意外過ぎる。
王道転校生バージョンの桜君ならまだしも、素の桜君がアニマルと戯れている光景なんて想像できない。
「そんなの、梅に押し付けたに決まってるだろ」
やっぱりですか…
「え、あれ? それなら猫柳君は? 過保護なアイツのことだから、俺に船上での子豚の飼育マニュアル片手に押しかけそうなものなのに…」
オカン気質の猫柳君がこの場にいないのは明らかにおかしい。
やれネギシオを甘やかすなとか、歯磨はしっかりやれとか、冷たいまま芋を与えるなとか、電気のコードは隠せとか、何から何まで口を出してくる猫柳君が、俺に釘を刺しに来ないなんて有り得るはずがない。
「奴は尊い犠牲だった…」
そう呟いてうっすらと笑みを浮かべる桜君の寒気がするほどの美貌を見て、俺は猫柳君が今どうしているのかわかったような気がする。
「猫柳君はあの王道君の餌食になってしまったんだね。それじゃ、もう…助からない……」
恐らく非道にも桜君は、猫柳君をスケープゴートにして王道君から逃げてきたんだ。
あのKYな王道君に捕まれば、他の生贄を捧げない限り逃げることは不可能だろう。
「アレは頭のネジどころか、部品ごとゴッソリ母親の腹ん中に忘れてきてんだよ。王道転校生を演じる上でアレを参考にしたんだけど、育ちの良い俺には口からボロボロ零しながらの食事は出来なかった」
「いや、それは王道じゃなくてマナーとかモラルの問題だし」
王道を履き違えて貰っちゃ困る!!
王道はちょっと鈍いけど、絶対に人の心を傷付けたりなんかしないんだ。
敵対していた親衛隊なんかも味方につけちゃうような、暖かくて懐がでっかくて魅力的な…
「取り合えず俺としては、桜君には是非とも王道転校生として華々しい学園ライフを送ってもらいたい! 先生はお前の味方だからな!!」
「……蓮華先生…決め顔で言っても、豚抱いてる時点で決まってないから」
『十八場・族潰し』
ネギシオを腕に抱いているとはいえ、散々鏡の前で練習してきた俺のキメ顔を鼻で笑うなんて、流石生まれながらの美形は違うな!
黙ってれば等身大の人形に見えてしまうほど整った顔立ちの桜君になら、不細工と言われても納得してしまうだろう。
いや、泣きはするけどね。
「俺の顔の話は良いとして、桜君の過去バナ! 過去バナプリーズ!!」
そう、初めて会った時から着痩せするタイプだと思ってたんだよ。
桜君は王道に違わず怪力だし、俺だってフィクションとノンフィクションの区別いくらいは心得てるから、折れそうなほど華奢なのにゴリマッチョを吹き飛ばすだなんてファンタジー的反則技を信じている訳じゃない。
もういい大人だしね。
「王道転校生は総長か族潰ししてるもんなんだろ? 蓮華先生の萌えのために頑張ったんだよ、俺。でもさぁ、流石に無意味に族を潰すだなんてアイタタなことできなかったから、幼馴染の梅を誘ってチーム作ったんだよね」
ちょちょっ!
桜君と猫柳君ってば幼馴染だったの!?
元チームメンバーってだけじゃなくて、幼馴染という要素まで兼ね備えていたなんて…
オカン気質不良×王道転校生ENDルート突入ですか!
「でもさ、アレは素で族潰しやってたぞ。悪いことする奴はこの俺が許さないって、ギャグでも何でもなく大真面目に言ってたからな」
やっぱりか!!
アンチな方のあの王道君はやっぱり族潰しだったんだ!
「ということは、大して強くもないのに粋がってて弱いチームばっかり潰してたんだけど、無垢で真っ直ぐなところをNO,1チームの幹部達に気に入られてその溜り場に入り浸るようになり、終いには自分こそがこのチームの総長だと言わんばかりの振る舞いをし始めて……
」
「いや、何でそこまでわかるんだよ。腐男子って生物はみんなそうなのか?」
桜君の呆れたような視線も気にならないほど、今の俺は絶望に打ちのめされていた。
アンチはよろしくない。
俺はハッピーエンドよりも更にその上を行く『大団円』が何よりも好きなんだ。
現実世界では辛く厳しいことばかりだから、2次元でくらいはみんながみんな幸せになれる結末を望んだっていいじゃないか。
そしてできれば、現実世界でも…せめて俺の周りだけでも大団円になってほしい。
BLパラダイスを繰り広げてほしい!
だけど、ここまでアンチ方面まっしぐらな王道君だと、ちょっと俺では軌道修正できそうもない。
きっとあの王道君をハッピーエンドに導くことができる唯一の人物である桜君は、
「………瀬永先生。そんなチワワみたいな目で見ても、俺はあのバカに関わるつもりなんて毛ほどもないから」
物凄くやる気がないときたもんだ。
ソファに踏ん反り返るようにして何時の間に用意していたのか珈琲に口を付けながら、桜君は完膚なきまでにぶっつりと希望の糸を断ち切ってしまった。
こんな天使みたいな顔をしているのに、桜君ってばひょっとして岡野先生よりもSなんじゃないの?
ドSな転校生総受け……滾る!!!!
いや、だが、しかし!
今回は折角の豪華クルーズなんだ、何とかしてあの王道君を大人しくさせないと攻め要員の皆さんが桜君にアタックできなくなるじゃないか!!
王道君は桜君に絡む気満々だったし、王道展開からして彼がこのままフェードアウトしていくとは考えにくい。
こうなったら今回は、猫柳君と俺とで何とかするしかあるめぇよ!
本当なら猫柳君にも攻め要員として頑張ってほしかったんだけど、まだオカン気質不良×王道転校生ENDルートには進んでほしくない。
そんなに簡単に終わらせちゃったら、俺の血の滲むような今までの努力が報われないじゃないか!!
というかぶっちゃけ、あの破天荒でデンジャラスで超ポジティブな王道君を一人で対処できる自信がないってのが本音なんだけど。
「仕方がない。あの王道君は俺が何とかするから、桜君はとりあえず今から澤村会長のところにでも夜這いに行ってください」
「何がとりあえずなんだよ…」
桜君が萌えを提供してくれるなら、俺はどんな苦難だって乗り越えてみせる!
「よし、それではネギシオ一等兵! 我らは今から作戦会議に移るぞ!!」
「ぷぎゅぷっ!」
『十九場・平凡受け』
「だから何でだよ! 何で桜に会っちゃいけないんだ!! 桜だって俺に会えないのは寂しいに決まってるだろ!? 梅が俺を独り占めしたい気持ちはわかるけど、俺はみんなから愛される存在だからな! 我慢してくれよっ、な!」
うわぁ…激しく中に入りたくない。
アンチ王道君を押し付けられた猫柳君があまりにも可哀想過ぎると仏心を出したのが運の尽きだったんだろうか。
桜君に猫柳君の部屋番号を教えてもらったまでは良かったんだけど、防音になっているはずなのに通路まで漏れ聞こえてくる王道君の声に仏心も萎んでいきそうだ。
これは今すぐにでも引き返して、ネギシオのプリプリなお腹に顔を埋めて夢の国に旅立った方がいいかもな。
また髪の毛でも引っ掴まれて、将来禿げたら目も当てられないし。
「――ッ! ―――っっ!!」
「恥ずかしがるなって、梅! お前が照れ屋なのは俺が一番わかってるから!! だけどあんまり我が儘言うのは良くないんだぞ!? 寂しいならお前も一緒に桜のところに連れてってやるから!!」
猫柳君の声はあまり聞こえないのに王道君が話しているのははっきり聞こえるって凄いよね。
桜君も王道を演じてはいたけど、根が常識人っぽいからここまでの騒音を撒き散らすことはなかったし。
というか、何か中からバッタンバッタン暴れてるみたいな音がするんですけど。
これってもしかしてもしかしなくても猫柳君のピンチなのかな?
猫柳君が王道君を抑えて宥めて気を逸らしてくれないと、桜君のラブラブクルーズが台無しになっちゃうじゃないか!
やっぱりここは大人として教師として腐男子として、一肌も二肌も脱がなくては!
南無三!!
桜君から貸してもらったカードキーで扉を開けた瞬間、俺はものの見事に固まってしまった。
いやいや、だって仕方ないよ!
目の前で青髪不良の猫柳君が平凡男子を床に押し倒してるんだぞ!?
ビジュアルだけなら夢にまで見た不良×平凡!!
うちの学園は美形ばっかりで平凡受けに飢えてたんだから、俺がついついガン見しちゃうのもみんなならわかってくれるよね!?
勿論これがさっきの暴れている音の延長で、桜君の元に行かせないために無理矢理押さえ込んでいるってのは理性ではわかってるんだよ?
わかってるんだけど、この熱いパトスがっ!
燃え上がる腐男子リビドーがっ!!
王道君の両手首を床に縫い付けて覆い被さるように足の動きも封じている猫柳君のちょっと荒い息遣いとか、暴れたせいで赤くなってる王道君のほっぺたとか、多分いろんなことがあって乱れちゃったんだろう猫柳君のボタンが外れたワイシャツとか!!
ぐあぁあああああっっっ!!!!!!
ご馳走様ですっ猫柳三等兵!!
君が身を削って産み出してくれた素晴らしき萌えスチルッ、この瀬永蓮華一生忘れることはありません!!
ちょっ、ついでに写真撮っていいですか!?
いいですよね!?
ここには写真部もいないし、こんな素晴らしい光景を網膜だけに焼き付けるなんて勿体ない!!
資源の無駄だ!!
ピロリロリーン♪
「って!! 何写メってやがんだテメェッ!!!!」
あ、ヤバイ。
予期せぬ第三者の登場にフリーズしてた猫柳君が、気の抜けた写メの音で復活しちゃった。
それでも王道君の腕を離さないのは称賛に値するよ。
自分が犠牲になっても桜君を守りたいんですねっ、わかります!!
「何って、桜にテメェの様子を見てやってくれって言われ…」
「あぁ―――っ!! お前っ俺が話しかけてやったのに無視して謝りもしなかった奴だなぁっ!!!?」
いやいやいやっ、声デカ過ぎだから!!
慌てて中に入ってドアを閉めたけど、あれは確実に通路の端から端まで響き渡ってたよ…
まぁ、唯一の救いがあるとすれば、この最上階のフロアは学園の関係者だけで占められてるってことだけど。
生徒会が金持ちで良かった!!
『二十場・わかってねぇ』
これはあれだな、猫柳君が押さえてくれてなかったらまた髪の毛鷲掴みにされてる感じだな。
マジでありがとうっ、猫柳君!!
君は立派な飼育係だよ!!
その調子で王道という名のおサルさんを手懐けて、躾て、理想の平凡受けに!!!!
ハッ!
駄目だ駄目だッ、俺はあくまで桜君の総受けが見たいわけであって、いくら旅先だからって他の受けに浮気しちゃうような攻めは許せません!!
もういっそのこと桜君にしか体が反応しなくなっちゃえばいいと思います!
ムラムラ悶々し過ぎてぶちギレて桜君を襲っちゃえばいいと思います!!
性欲が臨界点到達した攻め同士が結託して、全員で桜君を野獣のように…っ
いいよねっ、夏って!
「だから俺を無視すんなってば!! 何だよっ、お前も俺と梅が仲良くしてるから嫉妬してんのか!? まぁ、ホストみたいだけどお前もカッコいいし、仕方ないから友達になってやるよ!! ほらっ、梅もじゃれてないでいい加減離せよなッ?」
「「はぁっ!?」」
あ、猫柳君とハモッちゃった。
俺の場合は妄想の大海からいきなり引き摺り出されてビックリしただけだけど、律儀な猫柳君は話の内容に苛立ったみたいで額に青筋を浮かべて般若顔になってる。
こんなぶちギレ5秒前みたいな顔を間近で見といて、よくもまぁじゃれてるなんて言えるもんだよね。
これこそ、王道君のアンチたる所以だよ。
「テメェが桜や猫柳とどんな関係だったかは知らねぇが、俺がテメェなんぞに嫉妬するわけねぇだろ。そいつは俺の生徒であって、それ以上でも以下でもねぇんだよ。わかったならとっとと自分の部屋に…」
「テメェじゃなくて水仙だ!! 水仙って呼べよな!! 俺の名前教えてやったんだから、お前も名前教えろよ! 友達に加えてやるからさ!」
王道君コノヤロ―――ッ!!
君はどこまでテンプレなアンチ王道君なんだ!
人の話を最後まで聞かないだけじゃなく、聞いてほしいところは丸っと無視してどうでもいいところだけに食い付くなんて…ちょっ、アオイ君はアンチ王道が好きだからメールしてもいいですか!?
この年甲斐もなく沸き上がる苛立ちを、萌えメールにぶつけてもいいですか!?
そうでもしないとムカムカのあまり俺様微鬼畜ホスト教師の仮面が剥がれてしまいそうなんですけど!
恐るべしっ、王道君!!
「テメェの名前なんざ知らねぇよ」
「おいコラ屑虫、俺の名前気安く呼んでんじゃねぇぞ!? 梅って名前を呼んでいいのは桜だけ…」
「そんなのおかしい!! 桜がいいなら俺だっていいに決まってるだろ!?」
決まっていません。
「桜を呼び捨てしてんじゃねぇ!!」
「梅だって呼び捨てしてるだろ!? 俺は桜の親友だから当然なんだ!!」
「だからっ、俺の名前を呼ぶんじゃねぇ!!」
「梅は梅だろ!? 俺だから照れてるだけだってわかってやれるけど、それ直さないと周りに誤解されるぞ!?」
「テメェ全ッッッ然わかってねぇよ!!!!」
ありゃりゃ、なるほどね。
こういう言い合いというか押し問答をしていたから、王道君の声が通路まで漏れ聞こえていたんだな。
適当に受け流せばいいものの、猫柳君ってば生真面目だし白黒はっきりしたがる性格だからついつい反論しちゃうんだね。
それを人はツッコミ体質ともいうけど、本当に不器用で損な役回りだよね…猫柳君って。
「3、2、1、…オラ、もう12時回ったぞ。いい子は部屋に帰る時間だ」
「まだ12時だろ!?」
「近頃の桜は規則正しい生活してるし、今から行ってももう遅いぞ。一旦眠った桜は朝になるまで起きねぇことくらい、親友のお前なら知ってんだろ?」
「あっ、当たり前だ! 俺と桜は親友だから知ってるに決まってるだろ!!」
『二一場・真っ青』
王道君の目がこれ見よがしに泳ぎまくってる。
はっはーん。
こりゃ、桜君が規則的な生活を送ってるなんて知らなかったな。
確かにチームを作ってた時には夜遊びしてたんだろうけど、今の桜君は早寝早起きのいい子ちゃんもんね。
元がお坊っちゃんなんだから当然と言えば当然なんだろうけど。
「ならとっとと自分の部屋に戻れ。桜にはまた明日改めて会いに行けばいいだろ?」
なーんて、桜君に会わせてあげる気なんて更々ないけどね!
桜君には桜君の歩むべきロードがあるのだよ、王道君!
「じゃっ、じゃあ! 俺はここに泊まる!!」
「「はぁっ!?」」
おっと、また猫柳君とシンクロしてしまった。
「叔父さんの部屋よりもスゲェ豪華だしっ、こんな広いところに一人ぼっちだと梅が寂しいだろ!? だから俺が泊まってってやるよ!!」
う…わぁ、物凄い思い込み&決め付けだなぁ。
しかも泊めてくれって下手に出るならまだしも、超上から目線だし。
「誰がっ―――ッ!?」
黙っていられるはずがない猫柳君の口を慌てて手で覆うと、俺は渾身の微笑みを浮かべて王道君を見下ろした。
そう、普通に会話してたけど実はまだ床に押さえ付けられたままなんだよね、王道君。
「猫柳は今日、俺と約束してんだよ。結構前からの約束だし、二人きりじゃないとその約束は果たせねぇんだ。俺としてもお前をここに泊めてやりてぇけど、そうなるとコイツとの約束を破っちまうことになる。大切な約束を破るなんて最低なこと、人としてやっちゃいけねぇよな?」
「約束を破るのは最低だ!!」
「そうだよな。だから俺に猫柳との約束を守らせてくれ。常に正しいお前なら、わかってくれるよな?」
「おう! 俺は正しいからな!! 今日のところは泊まるの我慢してやるよ!!」
「流石、偉いな」
「当たり前だ!! じゃあなっ、梅! また明日遊ぼうぜ!!」
いつの間に拘束の手が弱まったのか、床から起き上がるとにこにこと嬉しそうな笑顔を浮かべて王道君は去っていった。
ドアがバタンッと閉まったのを確認してから、塞いでいた猫柳君の口を解放する。
「……スゲェな、アンタ」
「まぁな。あれくらい何とか出来なきゃ、教師なんか勤まんねぇよ」
俺と王道君の掛け合いに気圧されたのか、何処か呆然とドアを見てから俺を見上げてくる猫柳君にちょっと笑いそうになる。
さっきまで本当に手を焼いてたからな、俺の鮮やかな手並みに度肝を抜いたんだろう。
というか、教師云々以前に腐男子だからこその華麗なる躱し方なんだがな。
ここで王道君の好きにさせてるようじゃ、俺がわざわざ猫柳君の部屋まで押し掛けた意味がない。
「あー、まぁ…何つーか、助かったわ」
「ハッ、お前が素直に礼を言うなんざ、明日は槍…いや、三宅水仙が降ってくるかもな」
「それマジで勘弁してくれ…」
あらら、俺の揶揄いにもツッコんでられないくらい疲弊してるんだな。
床に腰を下ろして青い前髪を掻き上げている猫柳君からは、隠し様のない疲労が滲み出ていた。
そりゃそうだよな。
猫柳君のことだから、桜君のために一生懸命王道君を引き留めていたんだろうし。
嗚呼、もう。
本当に、何て不器用で融通がきかない、一途で健気な男なんだろうな、お前って奴は。
「……ッ! 瀬、永…?」
猫柳君が切れ長な目を真ん丸にして俺を見上げてくる。
どうやら俺は知らない間に、微笑みを浮かべたまま猫柳君の頭を撫でていたようだ。
「良く頑張ったな、猫柳。明日からは俺も一緒にアイツのストッパーになってやっから」
「………ちょっと待て。明日からって、明日もずっとアイツの相手しなきゃなんねぇってことかよ!?」
髪の毛と同じで真っ青になる猫柳君の顔色はこの際見なかったことにして、取り敢えずは約束を嘘にしないようにこの部屋に泊まっていくことにしよう。
よし、明日も頑張るぞ!
全ては愛すべき萌えのために!!
『二十二場・侵入者』
いきなりですけど、もう夜です。
丸1日猫柳君と一緒に王道君のお守りをしてた訳なんだけど、何なんだろう…この全身に纏わり付く倦怠感は。
予想していたこととはいえ、王道君のスタミナはやっぱり半端じゃなかった。
何とかして桜君から気を逸らせなきゃと、客船内探検を提案したのは何処のどいつだ!
俺だよ!!
目論みは大当たりで、単純な王道君は大燥ぎで提案に乗ってきましたさ!
だけどね!
この馬鹿デカイ客船内を上から下、端から端まで王道君の気が赴くままに連れ回された挙げ句、行く所行く所で騒ぎまくって問題を起こされその対処を保護者ポジションの俺が諌めて、猫柳君がブチ切れそうになるのを懸命に宥めて、後はもうエンドレス、エンドレス。
精も根も尽き果てましたわ!!
じゃあいっそ猫柳いらなくね?って思ったら大間違いですよ。
俺には暴れ回る王道君を止めることは不可能だから!
だってあの子、イラッてしたら速攻なんだよ!?
俺が口で宥め賺す暇があると思う!?
だから猫柳君が体を張って取り抑えて、喚き散らす王道君を俺が言葉で宥めるという見事な連携プレイで乗りきりましたよ。
明日の夕方には島に着くらしいから、今度は部屋でゲームでもさせて大人しくしてもらおう、そうしよう。
あぁ…潤いが欲しい。
そう、これが一番の盲点だった訳なんだけど、俺が王道君を桜君に近付けさせないようにするってことは、つまり俺も桜君に近寄れないってことなんだよね。
何故俺はそれに気付かなかったんだ!
腐男子にとって最重要事項だろうが!!
……まぁ、だからといって王道君を抑えられるのは『アンチな王道』を正しく理解している俺しかいないんだから、気付いていても結果は変わらないんですけどね。
という事で、俺は今猛烈に萌えに飢えています!!
猫柳君と王道君の絡みにハスハスする余裕なんかなかったし、桜君を筆頭とする学園の生徒達とは遭遇しないように気を付けてたし、巨大な社交場と言っても過言じゃないこの客船で生BLを拝める筈もないしで、俺の疲労は相乗効果で加速度的に蓄積されていったのです。
こうなったら、アルコールに頼るしかない。
幸い、この広すぎる部屋にはミニバーなるものまで存在するから、普段では口にすることのできない高級なお酒を飲みたい放題なのだ。
昨日はあまりの高級感に圧倒されてビールしか飲めなかったけど、今日はもう自棄だ!!
ストレス過多と萌欲求不満な今の俺に怖い物などない!!
飲んで飲んで飲まれて飲んで、飲んで飲み疲れて眠るまで飲んで…ってくらい飲みまくってやる!!
嗚呼…俺ってば駄目人間だ。
side:澤村藤
アルコールの匂いが充満した室内には、蓮華センセの寝息だけが聞こえる。
1日中あの愚かな子供に振り回されて疲れちゃったんだね。
ソファで寝入っている蓮華センセの体を抱き上げると、甘い香水に混じってきついアルコールの匂いが鼻を掠めた。
こんなに飲むくらいキツいなら、はじめから関わらなきゃいいのに。
オレは澤村家なんだよ?
貴方が一言頼めば…ううん、一言嫌だとか消えてくれとか言えば、オレは全力であの子を抹消してあげるのに。
「うぅ…ん…ッ…」
ベッドに下ろした蓮華センセが苦しそうに唸る。
その手がバックルへと向かってるのを見て、オレは自然と喉を鳴らしていた。
「脱がして、ほしいの?」
貴方は昨日、菖蒲に素肌を晒したんだって?
それを知った時、オレがどんな気持ちだったかなんて貴方にはわからないだろうね。
例え血を分けた実の兄とはいえ、本気で殺してやろうかと思っちゃったんだよ。
あぁ、今この場で貴方を抱いてしまっても、アルコールの影響で記憶が残らないかもしれない。
「……蓮華センセ」
オレは微かに震える指先を、暗紅色の髪へと滑らせた。
『二十三場・耳に残る声』
朝起きると、ZENRAでした。
いや、ちょっと待って。
俺は素晴らしく高性能な肝臓を搭載しているから、翌日に酒が残らない二日酔い知らずの腐男子なんだ。
駄菓子菓子。
この使い古された駄洒落を言いたくなるほど、俺は今ちょっと動揺している。
気を取り直しまして。
だがしかし、昨日の記憶がありません。
てかぶっちゃけ、夢なのか現実なのか妄想なのか願望なのか、男に押し倒されるビジョンが脳裏を掠めているのです。
しかも澤村委員長に!!
服を脱がされて、全身舐め回されて、身体をガクガク揺さ振られちゃってるんですけどっ、記憶の中の俺は!!
でもどこも痛くないし、汚れてないし、現実という選択肢は一番はじめに消去だ。
ってか、何で澤村委員長だったんだろ?
どうせ夢なら、澤村委員長と桜君のあはーんうふーんいやーんばかーんなシーンが良かったわ!!
でも、いつもは飄々としてる澤村委員長の切なげに微笑む顔は、ノンケの目から見ても鼻血もんでした!
流石ヤンデレと俺が見込んだだけのことはある。
「……っと、いけね。早くしないとまた猫柳君がブチ切れちゃう」
これから降りかかるストレスにげんなりしていた俺は気が付かなかった。
背中や腕、太腿に脇腹と、無数の鬱血が肌に刻み込まれていたことに。
side:神田牡丹
スポーツ特待生として手本になるよう、俺は常に笑顔を心掛け人当たり良く振る舞った。
ただでさえ家が『神田組』なのだからと、敬遠されないように殊更気さくで爽やかな生徒を装っていた。
本当の俺は、簡単に人を傷付けることができる人間だから。
桜に屈託なく話しかけられた時は、震えるほど嬉しかった。
スポーツ特待生であろうと、実家がヤクザであろうと、親衛隊があろうと、牡丹は牡丹だと言ってくれて涙が出そうなくらい嬉しかったんだ。
俺を『神田牡丹』という、ただの一個人として見てくれた桜を俺が好きになるのは当然の流れで。
毎日が楽しい。
桜の周りには邪魔な奴がたくさんいたけど、それでも俺は幸せだった。
そしてふと、気付いた。
部では浮いた存在になり、クラスでは腫れ物を扱うような態度をとられ、親衛隊は影も形もない。
俺はいつの間にか一個人になっていた。
いや、違う。
独りきりになっていたんだ。
俺自身を見てほしいと思っていたのに、望んだことなのに、俺という人間は付加価値がなければ何てつまらない人間なんだろう。
だから更に、桜に依存していった。
桜だけなんだ。
もう俺に残されているのは、桜への想いだけなんだ。
―――でも…
『かっ、神田君!?』
『…お前は馬鹿か!』
『罰だの何だのと綺麗事並べて潔く諦めたつもりかっ、このアホッ!!』
あの時、箱に閉じ込められてただ目を閉じていることしかできなかった俺は、その声に横っ面をぶん殴られたような気がした。
胸のモヤを物の見事に蹴散らしたその声は、乱暴で荒々しく品なんか欠片も持ち合わせてはいなかったけど、綺麗な言葉なんかより余っ程俺の心に響いた。
そして、こんな俺にもまだ気遣ってくれている人がいるんだと、見守ってくれている人がいるんだとわかって、俺はこの人の為に変わろうと思った。
今はまだ、声だけしかわからない誰か。
だけどきっと、付加価値なんてなくても立派に一人で立てるようになったら、君は現れてくれるよね?
だからまずは、俺が傷付けてしまった人に謝ろう。
許してくれないかも知れないけど、俺はどんな償いでもする。
「おはよう、ございます…瀬永先生」
「おぅ、神田じゃねぇか。流石スポーツ特待生は早起きだな」
今ならわかる。
桜への思いは執着だったんだ。
だって俺の心はこんなにも、君でいっぱいだから。
『二十四場・虫刺され』
ダークスーツにエナメルの靴、暗紅色の髪は程よくワックスで整え、寛げられた胸元に光る厳つめのネックレスを筆頭に指や手首にアクセジャラジャラ。
いつものようにホスト全開スタイルで部屋を出た俺は、出会い頭に神田君と遭遇した。
まさかお向かいさんが神田君だとは、すでに2泊もしてるのに今の今まで気付かなかった…
「おはよう、ございます…瀬永先生」
「おぅ、神田じゃねぇか。流石スポーツ特待生は早起きだな」
言葉の歯切れこそ悪いものの、にっこりとした笑顔を向けられてちょっとビックリした。
だって神田君、俺のこと恨んでなかったっけ?
飲み物かけられたり、家潰すって言われたり、お腹踏まれたりしたよね?
嫉妬萌えだったけれども!
まぁ最近は接触自体なかったし、お寿司食べてる時にも邪険にされたりしなかったけど。
そんなことより、Tシャツにジーンズというシンプルな服装なのに、まるで風が吹き抜けるようなこの爽やかさは何なんだ?
一時は腹黒狂愛属性にジョブチェンジしたかと思ったけど、箱詰め事件が彼に何らかの作用をもたらして爽やかに戻ってくれたみたいだ。
良かった!
腹黒は岡野先生と香坂君がいるからもう十分だしね。
爽やかなのは神田君だけだったから、本当に良かったよ!
「あの、瀬永先生。今まですみませんでした!」
「………は?」
ヤベ、聞いてなかった。
「貴方が俺を許せないのはわかります。俺もすぐに許してもらおうだなんて思ってません。だけどどうしても謝りたかった。瀬永先生にきちんと謝らないと、前に進めないような気がして…」
何か知らないけど、神田君が困ったみたいな笑顔を浮かべて謝ってる。
いやホント、どうしちゃったの神田君。
「…あー…なんだ、その…まぁ、何があったか知らねぇが、お前が前向きになれるんならその気持ち、受け取ってやってもいいぜ。とはいえ、俺ははじめからお前のことなんか歯牙にも掛けてなかったけどな」
良くわからないけど、神田君がポジティブになるのはいいことだ。
この調子で桜君にアタックしてくれたら、俺としては万々歳だしね。
「ありがとうございま……あの、瀬永先生。その首についてるの、まさかキスマークじゃないですよね?」
あれ、神田君の目が蔑むように眇められてるような気が…
「はぁ? んな訳ねぇだろうが。どこだよ、それ。良く見てみりゃ違うってわかるだろうが」
イヤイヤイヤッ!
キスマークなんてついてる訳ないじゃないですか!!
指差されてる辺りの襟刳りを大きく開いて、神田君の眼前に突き出す。
ここには鏡がないから、神田君に確認してもらうしかない。
「………えーっと、これは…何でしょう?」
「どうせ虫刺されとかだろうが」
「いや、少なくとも虫刺されじゃありませんよ。だって形が変」
「形?」
「んー…なんか、桜の花弁みたいな形してます。てか、1コだけじゃなくていっぱいついてますよ?」
桜の花弁?
ま、まさか…
俺は神田君が驚きに目を見開くのもお構いなしに、慌ててシャツのボタンを全て外し大きく開けさせた。
端から見たら露出狂みたいだけど、そんなこと構ってなんかいられない。
体を捻って脇腹を覗き込んだら、ありましたよ桜の花弁!
この分ならきっと背中の方や腕にもあるかも知れない。
成る程な。
俺の記憶に微かに残っているアレは、やっぱり現実のものだったんだ。
ガクガク揺さぶってきたのも、体中舐め回したのも全部彼の仕業だったとは…
やってくれましたね、愛しの子豚ちゃん。
ここのところ王道君に掛かりきりだから、寂しくて構ってほしくて寝こけていた俺を襲ったんですね!
「…ヤベェ、ネギシオ超可愛いじゃねぇか」
「ネギ塩?」
「悪ぃ、ちょっと用が出来たから、代わりに猫柳んとこに行ってくれ。よろしくな、神田!」
光の速さで部屋に戻った俺は、神田君が何事かを考え込んでいたなんて知るよしもなかった。
『二十五場・上陸』
あれから部屋に戻ってあの赤い痕とネギシオの足を照らし合わせた結果、見事一致しました!
そりゃそうだよな、均一にあんな形の痕をつけられるのはネギシオしかいない。
構ってほしかったのかってネギシオに聞けば、一瞬ヤベッて顔をしてから気不味そうにゴメンネって擦り寄ってくるピンクの子豚を前にして、許さないと突っ撥ね叱ることなんか俺にできるはずもない。
それからはギュウギュウ抱き締め頬擦りしまくって、ちょっと硬い鼻先や頬っぺたに耳、プリプリのお腹にキスの雨を降らせまくってやった。
ぷぎぷぎ喜ぶ殺人的に可愛いネギシオに脂下がる顔を止められず、ボールで遊んだりご飯食べたり一緒に泡風呂に入ったりしている内にいつの間にか船は止まっていたらしい。
しかも猫柳君と神田君では当然のように王道君を抑えられず、とうとう澤村兄弟や生徒会メンバーに加えあの森川さんまで友達認定されていただなんて全く気付いていなかった俺は、ネギシオにドライヤーを当てながら束の間の癒しを満喫していた。
青い海、白い砂浜、美しい緑、エキゾチックなホテル。
まさに日本人が好きそうな南国リゾートって感じの島は、暑いは暑いけど湿度が低いせいか風が吹くと凄く気持ちがいい。
そして何より、久し振りにゆっくりと過ごせてかなりリフレッシュできた気がする。
というのも、呼びに来た乗務員さんに連れられてこのホテルにやって来てから今に至るまで、知り合いには誰1人会っていないのだ。
開放的に開かれた窓からそのまま砂浜へと出ることができる明らかに高そうな離れ風の部屋は夕日に赤く染まり、目の前のテーブルにはシャンパンをはじめとした色とりどりの料理が並べられている。
シャンパンも美味いし、このロブスターもオイスターも恐ろしく美味いし、はじめからお箸がついてい細やかな気配り。
そして何より、人の目を気にせずこんな高級料理を食べられることが一番の贅沢だ。
給仕もいない、俺とネギシオだけの空間。
嗚呼、幸せ。
萌えにつられただけの旅行だったけど、誘ってくれた生徒会メンバーには感謝しなくちゃな。
ネギシオも大好物の蒸かし芋をお腹いっぱい食べて、今は満足げに巨大な天蓋付きベッドのど真ん中で仰向けになって寝こけている。
最高の部屋に最高の料理、最高の景色に最高の酒。
そして傍らには最高に可愛い子豚。
これを幸せと言わずして何を幸せと言うのだろう。
萌えも大切だけど、こうやって現実や夢想を忘れてゆっくりとした時間を過ごすのも必要だよな。
「んふふー…超気持ち良い…」
三方の巨大な窓を全開にしているから、南国の心地好い風が吹き抜けて俺を眠りへと誘う。
ふっかふかのベッドに肌触りの良い毛布を一枚自分の腹とネギシオに掛けて、ぐぐっと大きく伸びをしたあとぐったりと四肢を投げ出す。
風を感じながら眠るなんて、まるで外にベッドを置いて眠るみたいだ。
気持ち良い。
お腹も満たされ、ほろ酔いで、更には昼間思い切りネギシオと遊んだものだから、俺の意識はあっさりと睡魔に持っていかれてしまった。
これがこの旅行に於いて最後の穏やかな時間だとも知らずに…
『二十六場・王子様』
苦しい。
身体が重くて動けないし、上手く息も吸えない。
慣れない船旅で知らず知らずのうちに疲労していたってのも考えられるけど、それを差っ引いても激しい違和感が拭えない。
あれ?
もしかしてこれって、かの有名な金縛りってヤツなのでは!?
睡眠中に金縛りってベタだし!
うわー…寺の息子に生まれて早20数年、散々古びれた寺で寝起きしていたっていうのに金縛りデビューが異国の地だなんて。
うちの寺って霊験灼かだってかなり有名なのに、何か親父に申し訳ないような気がするから不思議だ。
クチュ…、チュ、ッ、チュ…
何だこの水音は。
いや、確かこんな音どっかで聞いたことがあったような…
というか、水音がするようなCDばっかり持っているから多分それに違いないんだけど。
ってことはつまり、この現在進行形で鳴り続けている水音は深いチューとかそういった類いの…
「ん、は…れんげ、可愛いな…」
「は、む…ぅ、ん、ん? んぐぅう―――っっ!!!!!?」
そこはかとなく聞いたことがある声が耳に届いた瞬間パチッと目を開いたら、そこには暗黒世界が広がっていた。
そして、口の中で柔らかくて弾力のある暖かい物体が縦横無尽にのた打ち回っている。
ちょっ、これちょっ!
手首をシーツに縫い付けているのは明らかに生身の人間の手で、真っ暗闇だと思っていたらどうやら長い黒髪が天蓋のように俺の顔を囲っているだけで、身体が重いと思ったらただ伸し掛かられているだけで、更には時折角度を変えて深くなる口付け…
……口、付け…
「―――って、金縛りじゃねぇのかよ!!!!」
「っとと、」
寝起きとは思えない火事場の馬鹿力を遺憾なく発揮して飛び起きれば、俺に不埒なことをしていた物体Xがよろけながらも離れていく。
広いベッドにペタリと座り込んでいるそいつへと目をやれば、案の定幽霊ではなく長い黒髪を気怠げに掻き上げる美丈夫がおりました。
開放的な窓から差し込む光に照らされた姿は美しく、時折吹き込んでくる風に黒髪を遊ばせているその男はあんなことをした後でも無表情で。
「………おい、澤村。何してんだテメェ…」
「蓮華を起こそうと思ってな」
少しも表情を変えずにいけしゃあしゃあと言って退けたこの男は、何かと影が薄い澤村3兄弟の末っ子、澤村芙蓉その人だった。
「意味わかんねぇこと言ってんじゃねぇぞっ」
何故に俺にキスを、しかもディープキスをぶち噛ましてんだコイツは!
そんなのは桜君にしろよ!
むしろしてください!
そしてそれを物陰から見学させてください!!
「眠っている人間を目覚めさせるのはキスだと、相場が決まっているんだろう?」
………
……
…
ってそれ、童話だよぉ―――っ!!
王子様がお姫様にするアレだよ!!
まぁ確かに澤村君は中華ファンタジーの王子様として出てきそうなキャラクターではあるけど、俺にお姫様の要素は何ひとつありゃしない。
「お前のその偏った知識を何とかしろ。本ばっかり読んでないで、たまには映画とかテレビとか見て常識を培え」
「俺とのキスが不満なのか?」
「………は?」
「兄とはしたのに、俺とは駄目な理由を言え」
「いや、お前の兄貴としたのは不可抗力だからな。別に許した訳じゃねぇんだから、そこんところ忘れんな」
不可抗力というか、澤村会長は嫌がらせで俺にキスしただけだし………って、ファーストキス喪失事件思い出しちまったじゃん!
折角寝て忘れてたのに!
いやいや、男同士はノーカン…とか言ったらBLを全否定してることになるんだろうか…
「ちょ、おま…どうしてくれんだ、澤村のせいで最悪の目覚めだ…」
「そんなに俺とのキスが嫌か?」
「お前と、じゃなくて男と…ってのが問題なんだ」
「……あんな本読んでるのにか」
「う…!」
澤村君、不思議系なのに痛いところを突いてくるのな。
『二十七場・ポニーテール』
「あー…もういい。とにかく人を起こす時には、普通に呼び掛けたり肩を揺さぶったりすりゃいいんだよ。…いや、ちょっ、お前…もしかして自分の兄貴にもさっきやったのと同じ起こし方を…?」
目覚めのチューが衝撃的過ぎて頭が回ってなかったけど、これって実はかなりの萌えだよね!?
もし本当に俺様会長やヤンデレ風紀委員長なお兄さん達もキスで起こしていたのだとしたら、腐男子としてこんなに美味しい話はない!!
まさかの末っ子総攻めフラグだけど、俺としては全く問題ナッシング!!
足元のマットレスに座り込んでいる澤村くんを、若干前のめりになって期待の眼差しを向けてしまっている俺。
普段なら腐男子を隠して生きているんだけど、コイツにはすでにバレてるからここは開き直ることにしよう。
まぁ、ホスト教師の仮面は辛うじて剥がれてはいないんだけど。
俺の期待に満ちた眼差しを一身に受けている澤村くんは、突き飛ばした時に少し乱れてしまった長い髪をのんびりと手櫛で梳いている。
あれ、よく見たらクラシックなスーツにボウタイ着用と、随分きっちりとした正装を決め込んでいるな。
「菖蒲と藤に? ……考えただけでも吐き気がする。俺が口付けるのはお姫様にだけだ」
おい!
吐き気とまで言わなくたっていいじゃないか!!
今の一言が腐男子の心をどれだけ傷付けるのかわかっているのかっ、この不思議っ子ちゃんめ!!
「テメェの目玉は節穴か! 俺のどこがお姫様に見えるっつーんだよ。どっちかっつったら王子様の方だろうが」
「いや、蓮華はお姫様だ。眠っている時の蓮華は夕日に照らされて、本当の眠り姫かと思ったくらいだ。現に夕方になるまで昏々と眠り続けていたしな」
嗚呼、コイツ駄目だ。
不思議系の上に天然だから、澤村君に理詰めは効かない。
いや、それよりも夕方?
馬鹿な、いくら疲れていたからって20時間近く寝てたってのか?
「……おい、そういえばネギ…子豚はどうした? たしか一緒にこのベッドで眠ったはずだぞ」
「あの威勢のいい子豚なら、このホテルのペットシッターに預けておいた」
「ペットシッター? 何飼い主に無断でんなことしてんだよ」
ネギシオの行方が心配でイライラオーラを放出している俺を気にも留めずに、あくまでマイペースな澤村君はポケットから取り出した黒いリボンを口に咥えると、おもむろに長い黒髪を頭の高い位置でひとつに縛りはじめた。
サラサラと指の隙間から流れてしまいそうな上質な髪の毛を手慣れた仕草で纏め上げていく様子に、俺は束の間ネギシオのことも忘れて見入ってしまっていた。
だってさ、後れ毛がかかる項は思いの外白くて細くて…
攻めの色気ご馳走様です!!!!
あぁ、ごめんよネギシオ。
可愛い子豚のお前より、萌えを取ってしまった駄目な俺を許しておくれ!
side:澤村芙蓉
会場の準備をしている他の兄弟に代わって蓮華を起こしに来たのだが、藤の言っていた通りよく眠っている。
目が覚めたら逃げ出しかねないからと、昨夜のアルコールに薬を混ぜたとにっこり笑って言っていた藤を思い出して、今後もこの兄にだけは逆らうまいと心に誓った。
白いシーツの波に埋もれ夕日に染まった蓮華の美しさたるや、どんな言葉でも表すことのできない神々しさで。
ドアの外に控えさせていたペットシッターに嫌がって暴れだした子豚を連れていかせると、俺はそのまま誘われるように蓮華へと唇を寄せた。
男女問わず性交を繰り返している割りには純情な菖蒲と、策士で腹黒でキレると何をしでかすかわからない割りには純情な藤を虜にした男の唇は、酷く甘かった。
『二十八場・舞踏会』
だだっ広い空間に、人がわんさか蠢いている。
鏡のように磨き上げられた大理石の床や、ぶっとい柱に支えられた天井からぶら下がるドデカいシャンデリア。
壁際に設置されたテーブルには様々な料理が並べられ、完璧な教育が施されているウェイター達が着飾った人々の間を泳ぐようにすり抜けていく。
……ってかさ、もうこういうのはいいんだって。
いい加減こっちもお腹いっぱいなんだってば。
うちが金持ち学校なのはわかってるし、生徒会連中が記念に豪華客船とか作っちゃうくらいの財力があるのはわかったから、このやたらと豪華絢爛な責め苦はやめてくれ。
ここまでくるとくどいよ。
いや、何かおかしいとは思ったさ!
澤村君が俺用に落ち着いたスーツを用意してるし、シルバーアクセは控えろとか髪は立たせるなとかいろいろ注文してくるし。
香坂副会長とかだったらわかるけど、澤村君がこうも口を挟んでくるのには絶対に理由があると思ってたんだよ!
というかさ、晩餐会って何?
舞踏会って何!?
真ん中の空間が空いているのは、踊るからなんですよね!?
美しく着飾った女性陣や、そんな彼女達をスマートにエスコートしている男性陣を横目に、俺は壁に寄りかかって一人グラスを傾けていた。
…こう言うとかっこ良く聞こえるけど、実際のところこの輪の中に入れないだけなんだよね。
だってさ、英語とか中国語とかドイツ語とかフランス語とかが飛び交っていて、とにかく日本語を話している人がいないのです。
もちろん一流大学を卒業している俺だから、英語と中国語とフランス語なら日常会話程度なら何とかできる。
でもさ、日本人の悲しき性というのか…外国の方を前にすると萎縮しちゃうんだよね。
情けないと笑いたければ笑うがいいさ!
どうせナイフとフォークも上手く使い熟せない駄目人間なんだよ、俺は。
どうにもこうにも異国の文化とは相性が悪いんだよ!
あぁ…せめてお箸が用意してあれば、会話しなくても料理を食べて気を紛らわせることもできたのに。
何も腹に入れず、ウェイターさんが持ってきてくれるシャンパンだのロゼワインだのを口にしていたら、そりゃ酔いも回るってもんだろう。
ふわふわといい感じに酔ってきた辺りで、不意に音楽が流れはじめた。
良く良く目を凝らして見れば遥か彼方、広間の前の方でオーケストラによる生演奏が行われているようだ。
やべぇ、これってダンスが始まるんじゃないか?
だってほら、すでにパートナーがいらっしゃる紳士淑女の皆さんが、持っていた皿を手近なテーブルに置いて中央へと歩き始めてるし。
やめろー…やめてくれー…
ただでさえ浮きまくりなのに、更に居づらくなっちゃうじゃないか!
大体、澤村君はさっさと挨拶回りに行っちゃうし、放置プレイするくらいなら最初から俺を連れてくるなっての。
美味そうな料理も食べられないし、人と会話を楽しむこともできないし、人前でダンスを披露する勇気もないし、そもそもこんなパーティーじゃ萌えないし!!!!
どうせ踊るなら男同士で踊れよ!!
ブロンド同士で踊って、今夜のベストカップル賞とか取っちゃえよ!!
そんでもって、俺を萌えさせろぉおおっ!!!!
『貴方のような素敵な方が、壁の華だなんて勿体ないですよ』
身体を密着して踊り始めた男女を邪な目で見ていた俺に声がかかった。
正確にはとても美しい英語で話しかけられたんだけど、いやいやいや、怖くて振り返れないのですが。
というか、何故コイツがここにいるんだ!?
『どうか私と踊っていただけませんか? 美しい人』
ギギギッと首を強引に動かしてそいつを視界に入れれば、やっぱり物凄く見覚えのある男が柔和な笑みを浮かべて手を差し出していた。
「ふふっ…奇遇だね、蓮華」
「……藍、お前も招待されてたのか…」
幼馴染みの悪魔が、蕩けるような微笑みを返してくる。
だから、それを俺じゃない男に向けやがれってんだ。
『二十九場・壁の華』
有り得ない。
有り得ない。
有り得ない!!
いや、コイツの悪魔っぷりを思えば十分有り得るのですが。
まさか海外に来てまで藍に出会すとか思わなかった。
「いやぁ、うちの会社はまだ上場してないけどかなり大手になってきてるから、今回のクルーズに招待されていたんだよね」
明るいグレーのスーツに髪を後ろに撫で付け…とか何とか描写を口にすれば切りがないほど、今の藍はイケメンオーラを垂れ流しっぱなしだ。
子供の頃は明るい髪の毛がまさに天使のようだったけど、今は大人の色気がプラスされてまるでどこぞの王子様のようで、
「ムカツク」
「また、蓮華ってば脈絡なく言葉を発するんだから」
やれやれみたいな顔をする藍もやっぱりイケメンだからマジでムカツク。
キラキラと光の粒子を放っているかのような美し過ぎる容姿も去ることながら、頭脳もスポーツも頭の回転も穏和で優しく紳士的な性格も、何もかもが完璧過ぎるこの幼馴染みが俺は苦手だ。
同じ日に同じ病院で生を受けた俺を、藍は庇護すべき人間だとカテゴライズしまっているらしい。
母親同士が親友ということもあって生まれる前から交流のあった俺達だけど、四六時中付き纏ってきていたコイツはストーカー1歩手前だった。
それはもう1人の幼馴染みでさえ怖くて口出しできないほどの執着振りだったんだから、俺が苦手意識を持つようになっても仕方がないと思う。
それに…
ザワザワ
ヒソヒソ
さっきから女性陣どころか男性陣の視線すら独り占めしているコイツが傍にいると、平凡な俺が惨めになるんだよ!
だから嫌なんだよっ、藍の傍にいるのは!
「あー、ほらほら。蓮華ってばまた眉間に皺寄せて…僕の可愛いお姫様は何が不満なのかな?」
「テメェの存在自体が不満なんだよ、この腹黒似非王子」
藍の後ろで早く話を切り上げて立ち去れオーラを放っているお嬢様方が俺を睨んでいることなんて、コイツは百も承知なんだ。
わかっていて、藍は俺を構うのをやめない。
ここまでくると嫌がらせなんじゃないかと思うよ、マジで。
「ところでさ、僕と踊ってくれるよね?」
「踊らねぇよ、アホ。俺よりも生徒会の連中を誘って俺を萌えさせろ」
「えー…折角久し振りに会えたのに、蓮華は僕よりも萌えを取るの? 生まれた時からずっと一緒で、学生時代も蓮華のために散々好きでもない男と付き合ってきて、大学受験の時も付きっきりで勉強を見てあげて、未だに毎月毎月自作のハイクオリティーなBLゲームを贈ってあげてる大切な幼馴染みの僕よりも、一時的な萌えを取るの? 蓮華はいつからそんな薄情な子になったんだ? 全寮制男子校での俺様微鬼畜ホスト教師としての生活が蓮華を変えてしまったのか? だったら今からでも学園に圧力をかけて蓮華をクビに…」
「踊ればいいんだろっ、踊れば!」
岡野先生とはまた違ったタイプの長台詞に根負けして、俺は藍の腕をギリギリと掴みながら承諾してしまった。
結構な力で掴んでいるのに、藍はまるで至福だと言わんばかりに美しく笑っている。
畜生。
何故こんなイケメンと俺が踊らにゃならないんだ。
あーあ、見てる見てる。
周りの紳士淑女の皆様が、男の手を恭しく取ってエスコートする藍と平凡な俺を穴が開くほど見ていらっしゃる。
嫌々ながらも中央のスペースに連れてこられ、藍が慣れた仕草で俺の腰に腕を回してくる。
「…蓮華、君に壁の華は似合わないよ。僕の腕の中で、大輪の華を咲かせてあげる」
「そういう言葉を耳元で囁くな。お前、取り敢えず今から声優になれ」
軽く爪先でリズムを取った後、藍のリードで軽やかに足を踏み出した。
『三十場・壁際の騒動』
あぁ、チクショー…
やっぱり何だかんだで、藍のリードが一番踊りやすい。
そもそも俺にダンスを教えたのがコイツなんだから、しっくりくるのも当然なんだ。
だけど、どうしても認めたくない。
「…蓮華、考え事? 妬けるな…吐息さえ交わるほど近くにいる僕よりも、君の心を掴んで離さないその『何か』に、ね。ほら、蓮華。僕が嫉妬で自我を失う前に、ダンスか僕のことだけを考え…」
「じゃ、ダンスで」
こんな変態がベストパートナーだなんて、誰だって認めたくないに決まってる。
甘さで蕩けている眼差しを僅かに潤ませたり、悲しげに眉を寄せたりするコイツの顔に、傍らを擦り抜けていく紳士淑女の皆様が目を奪われている。
騙されちゃいけない。
藍の表情、言葉、仕草、声色、震え、鼓動、赤面、涙、その全てがコイツの本心とは限らないんだ。
香坂副会長、本当の腹黒とはこういうヤツのことをいうんだよ。
藍の腹黒に、俺が何度騙されたことか…
もう一人の幼馴染みが心底同情するくらい、俺は藍に騙され、からかわれ、弄られ、掌で転がされ、付き纏われ倒したんだ。
「全く…つれないな、蓮華は。僕がこんなにも心を砕くのは君にだけだというのに…」
「からかうのは、の間違いだろ」
「いつになったら蓮華は僕の気持ちに気付いてくれるんだろうね?」
「藍の本心なんて、お前以外の誰にもわからないっつーの」
呆れたように言えば、これまたにっこりと爽やかな笑みで返されてしまった。
うん、やっぱり誰もコイツの本心なんかわからないに違いない。
side:森川チコリ
………
ざけんじゃねぇえええっっ!!!!
蓮華とベッタリくっ付いてチャラチャラ踊り腐ってやがるハーフ顔のあの野郎は何処のどいつなんだあぁあああっっ!!!!!?
いや、踊ってる蓮華はスゲェ綺麗で、そのまま無様に床に這い蹲る俺を侮蔑と嘲りを含んだ眼差しで見下ろして、あわよくば頭を踏みつけてほしいくらいだがよっ!!
クソッ!!
取り敢えず引き剥がしに行くか!?
「いい加減にしろ、森川。お前は何のために船に乗ったと思ってるんだ? 生徒だけじゃ有事の際の責任が全て瀬永に集中するからと、引率の意味も込めて同行したんだろうが。だというのに、船の中で瀬永が頭の可笑しなガキに絡まれていた時に、酔っぱらって己の無能振りを晒したのは何処の誰だ? それだけでも呆れているというのに、この舞踏会で自ら騒ぎを起こそうとするなんてまさに愚の骨頂としか言い様がないな。いくら家を出たとはいえ、お前はあの森川頭取のご子息として義務教育を終えたのだろう? 少しは礼儀というものを知らないのか。大体、お前が無能じゃなければわざわざ私まで来る必要などなかったものを」
「~~~~~ッッ!!!! わかったっつーんだよっ、その煩ぇ口を閉じやがれ! 陰険小姑眼鏡野郎!」
蓮華とクソ野郎を引き剥がそうと足を踏み出した瞬間、出鼻を挫くように隣にいた岡野が得意の屁理屈を並べ立てやがった。
確かに船で蓮華を守れなかったのは俺の失態かも知れねぇが、だからってわざわざチャーター機で来るか普通!?
「煩いのはお前だ、駄犬」
「テメェが俺を犬呼ばわりしてんじゃねぇっ!」
俺を犬として扱っていいのも、踏んだり蹴ったり放置したり痛め付けたりしていいのも蓮華だけだ!!
「お前は本当に見る目がないな。瀬永は誰がどう見たってマゾだろうが」
「ハッ、浅はかなのはテメェだ、岡野。俺は蓮華がSだから服従してんじゃねぇ。蓮華が服従に値する人間だと思ったから犬になり下がったんだ」
「だったら私が瀬永を服従させれば、自動的にお前も私に服従せざるを得なくなるというわけか」
「訳わかんねぇ理屈捏ねてんじゃねぇ!!」
「これだから単細胞は」
「あんだと眼鏡ぇえええっっ!!!!」
今日という今日はブッ殺すっっ!!!!!!
『三十一場・大惨事』
目の前の甘ったるい言葉を垂れ流す男や、そんな男に送られる周囲からの視線を気にしないように心頭滅却を心掛けるけど、やっぱりそう上手くはいかないのが人生だ。
―――ガッシャーンッ!!
巨大なフロア中に響き渡る破壊音。
音は単発ではなく、まるでシャンパンタワーのテーブルクロス引きに失敗したような、とんでもなく派手で連続する騒音だった。
それはダンスに興じている紳士淑女の足を止めるどころか、常に平静を保っているはずのオーケストラ達の演奏さえ止めさせた。
一瞬にしてシンッと静まり返るフロアだが、そんな静寂など物ともせずに渦中の人物は高らかに声を上げる。
「俺が踊ってやるって言ってるんだからっ、いつまでも照れてないでリードしろよ!! そんな形ばかり着飾った女より、心が綺麗な俺の方が魅力的だろ!!」
ジーザス…
姿を見るまでもない。
この超自己中心的でナルシストで勘違いしちゃってる台詞は、客船の中で散々迷惑を掛けてきたアンチな王道君に違いない。
名前は確か…
………
えーっと…あれ、ちょっと待って。
うーん………やべ、忘れちゃった。
「あぁ、アレが三宅水仙だね。名門一族である万里小路家当主の末の娘は甘やかされて育ったらしいけど、地方公務員に嫁いだ時点で降嫁したようなものなのに未だお嬢様だって勘違いしてるそうだよ。そんな女を母親に持てば、子供が歪に育ってしまうのも自然の流れかもね。だけど、いくら同情の余地があるとは言え、実際に目の当たりにすると強烈過ぎるね」
「……何で藍がそんなこと知ってるんだ…とか、ツッコまないからな」
コイツに常識を求めるだけ無駄だってことは、今までの人生で痛いほど学習している。
ガシャガシャガシャーンッッ!!!!
そうこうしているうちに、騒動は激しさを増しているみたいだ。
人込みで良く見えないけど、マジでテーブルクロス引きしてるんじゃないか?
壁際に控えていた黒スーツの警備員達が王道君に駆け寄ってるみたいだけど、まだ破壊音が続いてるってことはもしかしたら王道君は腕に覚えがあるのかも知れない。
あー…凄く面倒臭い。
面倒臭いけど、多分絡まれてるのは俺の生徒だと思う。
何故なら王道君はイケメン好きだって相場が決まってるからな。
「藍、」
「わかってるよ、蓮華。止めに行くんだろう? 君を独占できないのは寂しいけど、僕は教師としての蓮華を尊重したいからね。行っておいで」
「お前は一々大袈裟なんだよ」
未だに腰に回っている藍の腕を適当に払い除けると、女性達のドレスを踏まないように気を付けながら人の間を縫い歩いていく。
漸く開けた視界には、ある意味予想通りである意味予想外の光景が広がっていた。
倒れたテーブル。
床に散蒔かれた料理。
飛び散ったガラス片。
警備員に取り押さえられながらも暴れる王道君。
そして、床に倒れている…
「澤村!!」
真っ白に色を抜かれているはずの髪が、どんどんと赤く染まっていく。
慌てて駆け寄ろうとするけど、その前に腕を掴まれて止められてしまった。
「蓮華さんっ、床に割れたガラスがあります!」
この声は多分香坂副会長なんだと思うけど、今はそれどころじゃない。
だって、こうしてる間にも澤村委員長の頭から血が流れ続けている。
淡い菫色のシャツも真っ赤になり、じわじわと血溜まりが広がって―――
「離せっ香坂! 俺のことより澤村を…!」
「わかっています! ただ頭を打っていて、無闇に動かすのは危険なんです」
頭を、まさかこんな硬い床で?
『三十二場・注意力散漫』
「だーっかーっらーっ!! 子供同士の喧嘩に大人が入ってくるのは間違ってるって言ってるだろ!? 大体そいつが我儘ばっかり言うから、俺が教えてやっただけじゃないか!! 俺一人悪者にするなんておかしい!! お前ら最低だっ!! 俺は正しい!! そいつが悪いんだ!!」
警備員に押さえ付けられてなお自分の正当性ばかり主張する王道君には、澤村委員長のこの姿が見えていないのか?
床に倒れたままピクリとも動かなくて、頭からどんどん出血している澤村委員長の姿が。
駄目だ、この子は。
人の痛みを自分に置き換えて想像できていない。
「香坂、離せ。取り敢えずアイツぶん殴って、この状況を理解させてやる…!」
こんな時に情けない話だけど、武道を嗜んでいるらしい香坂副会長の腕を自力で解くのは難しい。
だけどどうしても、今叱らなきゃ意味がないんだ。
王道君は子供と一緒だから、悪いことをしたらその場で叱らないと後でどんなに言葉を尽くしても本当には理解できないと思う。
「香坂っ」
「駄目です。こんな公衆の面前で貴方に暴力を振るわせるわけにはいきません」
「そんなこと言ってる場合じゃ…!」
「貴方が叱る必要はありません! 彼にはきっちり償わせますが、それは必ずしも貴方がしなければならないことではないでしょう? 蓮華さんはどうか、藤君に付いていてあげてください。これは貴方にしかできません」
強く腕を引かれて無理矢理身体を反転させられると、今日初めて見た香坂副会長の顔に頭が冷める思いがした。
いつもは黒いオーラを垂れ流しながらもにこにこ笑っているのに、今はその眦を吊り上げて怒りをあらわにしている。
生徒である香坂副会長でさえ感情に流されず努めて冷静を装おうとしているにも関わらず、大人で教師で、その上俺様微鬼畜ホスト属性でもある俺が取り乱してどうするんだ。
一度大きく息を吸って吐き出すと、ほんの少しだけど息と一緒に力みも抜けていくような気がした。
「……わかった。ここは任せるから、澤村のことは心配するな」
「わかりました。よろしくお願いしますね、蓮華さん」
きつく腕を掴んでいた手が離れたのと同時に、フロアにストレッチャーが運び込まれた。
騒然としている人の間を割り開いて、澤村委員長を乗せたストレッチャーが慎重且つ迅速に進んでいく。
俺はとにかく澤村委員長を追いかけることばかりに気がいっていて、未だ暴れている王道君がぶっ飛ばされたことなんて知らなかった。
しかもぶっ飛ばしたのが、船に乗っていなかったはずの岡野先生だなんて、俺は全く気付かなかった。
side:澤村菖蒲
藤が突き飛ばされた。
しかも派手にテーブルを巻き添えにして、頭から出血するくらい強く、だ。
「有り得ねぇ」
「あぁ、確かに有り得ないな」
隣に立っていた芙蓉も、怪訝そうに眉を寄せている。
賓客に挨拶をしている最中、訳のわからないチビにいきなり絡まれたことを怪訝に思っているんじゃない。
俺達3人の中でも1番冷酷で悔しいが1番腕が立つ藤が、あんな弱小チームを闇討ちして喜んでるようなクソガキ相手に遅れを取るなんてまず有り得ねぇ。
なのに、藤は倒れた。
この世に生まれた時から共に育ってきた俺ですら、気を失った藤の姿なんか見たこともない。
コイツが隙を見せたり気配を読めなかったなんて有り得ねぇ…けど、突き飛ばされる前、藤の意識はクソガキには向いていなかった。
挨拶している最中も気は漫ろで、隠していたつもりなんだろうが視線はチラチラと外れていた。
藤の視線の先には、ダンスフロアがある。
そこに、藤が気にするような何かがあったんだろう。
受け身を取る余裕すら奪うような、何かが。
「芙蓉、お前は取り敢えずあのブチ切れてる岡野を止めてこい」
「菖蒲は?」
「俺は賓客の誘導をする。今日の舞踏会はお開きだ」
お前に何があったかは知らねぇが、この借りは高く付くぜ、藤。
『三十三場・軽傷』
澤村委員長が運び込まれたのは、ホテルの中にある医務室だった。
流石は一流ホテルと言ったところか、中は様々な検査や手術にも対応しているらしく、テキパキと最適な処置が施されていった。
頭を数針縫った後、念のために行われた脳波の検査にも異常は見られなかったらしく、今は澤村委員長の部屋で意識の回復を待っている。
巨大なベッドの真ん中で柔らかなシーツに埋もれるようにして眠っている澤村委員長を眺めながら、ただ椅子に座っていることしかできない自分に苛立ちを感じていた。
あの会場に王道君が来るなんて、少し考えればわかったはずだ。
なのに、藍にばかり気を取られてこんな失態を演じるとは、腐男子どころか教師としても失格だ。
部屋の外には医師と看護師が待機しているとはいえ、澤村委員長と俺しかいないこの静かな部屋にいたらどんどんネガティブな方向に思考が傾いていってしまう。
「……ん、ぅ…」
「っ、澤村!? 気が付いたのか…?」
室内が静かだからこそ小さな声も耳に届き、俺は慌てて立ち上がり澤村委員長の顔を覗き込んだ。
ゆっくりと持ち上げられる瞼や細かく震える睫毛、頭に巻かれた包帯なんかがいかにも儚げに見えてしまい、否応なしに不安や心配が増幅していく。
「……、オレは…」
side:澤村藤
夏休みには蓮華センセに会えなくなるから、わざと期末テストで赤点取って補習を受けようかとも思ったけど、中学の時から造ってた船が完成したのはナイスなタイミングだった。
これで蓮華センセと夏休みも一緒にいられる……って思ったのに、あの三宅水仙の存在は想定外だった。
蓮華センセは生徒思いだから、あぁいうアンチ王道みたいなのは好きじゃないと思う。
それでも優しいから、オレ達に絡ませないように身を挺してアイツを押さえ込んでた。
蓮華センセが苦労する必要なんてないのに。
ホント忌々しい餓鬼だよね。
オマケに蓮華センセへのモーニングコール役も、じゃんけんで芙蓉になっちゃうし。
八つ当たりに菖蒲を弄っても、オレに構う余裕がないくらい忙しいみたいだし。
詰まらない。
詰まらない。
詰まらないよ、蓮華センセ。
オレはね、想いを告げるつもりはないけど、できれば蓮華センセの1番近くにいたいんだ。
だからさ、そんな男とダンスなんてしないで。
幼馴染みだって言ってた男は、きっとオレよりも蓮華センセのことを知っている。
オレの知らない蓮華センセを誰よりも知っていて、オレが知ってる蓮華センセのことも多分全部知っているんだ。
蓮華センセに1番近い男。
嗚呼、忌々しい。
フロア中から寄ってくる賓客にそつなく挨拶しながらも、オレの心の中は重くてドロドロしたものが暴れ回っていた。
何にでも冷めていた以前の自分からは考えられないほどの変化は、歓迎すべきものなのか悩んでしまう。
蓮華センセと出会わなければ良かったなんて欠片も思わないけど、昔はいろいろ楽だった。
今は苦しいよ、蓮華センセ。
ねぇ、そいつと何を話してるの?
そいつには素直に甘えたりするの?
我儘言ったり、萌を語ったり、素のままの顔で素のままの感情で、
オレには絶対に見せない貴方を、その男には見せるの?
2人の間にある確かな絆を目の当たりにして、瞬間的に頭が真っ白になる。
視界の隅ではオレを突き飛ばそうとする三宅水仙の姿をきちんと捉えていた。
でも、身体は動かなかった。
そして―――…
………
……
…
目を開いたら、ホテルの一室らしきところにいた。
頭がズキズキと痛む。
僅かに眉を寄せると、心配そうにオレを見下ろしてくる人影と目が合った。
正装に少し乱れた暗紅色の髪、耳に心地好い声と控えめな声量。
「っ、澤村!? 気が付いたのか…?」
「……、オレは…一体、いや…それより、アンタ……誰?」
どうして見ず知らずの男が、オレを心配しているんだ?
どうして…なんて、考えるのも面倒臭い。
どうでもいいよ、全部。