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第六幕・総受のススメ

『一場・梅雨前線』




 何だかんだと交流キャンプから一ヶ月の月日が流れた。

 あれからというもの、変装をすっかり解いてしまった桜君は最早立派な親衛隊持ちのイケメン組となってしまい、辛うじて元変装転校生総受けを死守しているものの何故だか物足りない日々がただ茫洋と過ぎて行く。

 あれだけ気に病んでいた親衛隊も、恐ろしいほどの静けさを保っていた。

 つまりは平和なのだ。

 やたらとイケメン集団から絡まれるものの激しく奮い立つような萌えもなく、季節は俺の心のようにジメジメムシムシした梅雨へと突入していた。


 嗚呼…こんな日は温度湿度共に一年を通して一定に保たれている図書館で読書するに限る。

 宇宙工学のカバーを巻いたBL本を片手に、俺は極々たまに訪れる図書館にやって来ていた。

 図書室ではなく、図書館だ。

 地下2階、地上4階からなる巨大な図書館は凄まじい蔵書を誇り、最上階はプラネタリウムになっていて様々な大きさのスタディルームも設けられている。

 1階にはカフェも併設されていて、ここで出されるスイーツは秀逸だ。

 おまけにイケメン揃いのギャルソン、寡黙なシェフ、ダンディなマスターと萌え的にはパーフェクト空間で、図書館に用はなくても週に一度はこのカフェに立ち寄ってしまう。

 図書館の地下1階には専門書が並べられているから滅多に人は入らない。

 しかも俺が潜んでいるこの棚は、隅にある上にマニアックな蔵書のコーナーなため人は絶対に来ない。

 床に腰を下ろして壁に背を預け、俺は今ハマッている野獣×男前小説を読み耽っていた。

 自分の無限に溢れる欲望を抑えることができずに、相手に優しくしたいと思っても理性が焼き切れケダモノのように朝まで貪り続ける攻めに、俺の鼻息も荒くなるというもの。


「気を失ったユウヤを気遣う余裕などないハギルは、そのほっそりとした腰を両手で掴むと一向に萎えることのない楔で穿ち続ける」


 ………

 ……

 …


 バタンッ!!


 俺は反射的に本を閉じてしまった。

 ヤァ~ラシイ展開に差し掛かったからではない。

 俺が読んでいた本を、あろうことか音読されたからだ。


 ヤバイマズイヤバイマズイヤバイマズイヤバイマズイヤバイマズイ


 こんな本を読んでいることがバレたら、俺が作り上げてきたホスト教師像が崩壊してしまう!!

 慌てて視線をぐるりと巡らせるけど、そこには人っ子一人いやしない。

 だけどあの声は、どこかで確実に聞いたことがあった。

 そう、あれはこの学園の生徒の中でも特に権力のある…


「……何故、本を閉じる?」


 また聞こえてきた声にまさかと思って上を見ると、何とそこには本棚の上に寝転んでいる貞子がいた。


 ギィヤァア゛アアア―――ッ!!!!


 と叫びたくなる気持ちを必死に押し殺して、俺は本をきつく胸に抱き締めて震えることしか出来なかった。

 俺を見下ろしてくる無表情の顔に、黒く長い髪の毛が恐怖をいっそう煽る。

 もう今なら死ねるかもしれない。


「おい、それ…読まないなら貸せ」


 ………あれ?

 今まで恐怖で気付かなかったけど、この声この顔この偉そうな口調…まさかコイツは、


「さ、澤村?」

「……それ以外の何に見える」


 出たぁああっ!!

 図書館の番人っ、澤村三兄弟の末っ子・澤村芙蓉!!

 授業にも全く出ずに図書館に篭りっきりの不思議君で、澤村会長の髪を背中まで伸ばしたような姿に色白の不健康な肌の色をしている。

 図書委員長も務めていて、図書館で不埒な行為に及ぼうものなら明日の朝日は拝めないという恐怖の番人なのだ。

 図書館に来ても中々会えないなぁとは思ってたけど、まさか本棚の上にいただなんて誰が想像できるよ?

 ちなみに現在は3時間目の授業中だ。

 授業に一切出席しないというのは本当のことらしい。


「聞いてるのか? ほら、早くそれを寄越せ」


 何故俺がこんな形で遭遇せねばならんのだ!?

 これは王道のイベントだろ!!

 いや、俺が図書館に通うことにも問題はあったけど…

 って、それよりも何かメッチャ本を要求してるんですけど!!

 嫌だ無理だ勘弁してくれ!!

 俺が何したって言うんだよっ!!!?




『二場・図書館の番人』




 広い地下1階のフロアには、恐らく俺と澤村君の二人しかいないだろう。

 さっきの恐るべき音読を誰かに聞かれた可能性は低いから、この貞子改め澤村君の口さえ塞げば後はどうとでもなる。

 一番手っ取り早いのは、生徒からこの本を没収したことにして笑いながら澤村君に進呈するというものだ。

 しかしそうなった場合、俺はこの本を再び購入しなければならなくなる。

 待ちに待った新刊だったから、途中まででお預けを喰らうのは非常に痛い。

 いや、それでもホスト教師の体面を保つためならば多少の痛みも堪えなければならないのだろうか。

 本を胸に抱き締めたままバチバチと脳内信号を働かせていると、いつの間に棚から降りたのか床に座っている俺を仁王立ちで澤村君が見下ろしていた。

 流石は三つ子というべきか、末っ子とはいえ兄二人と同じくらいにデカイ身長で見下ろす姿は中々の迫力だ。

 そしてその手は俺の方へと差し出されている。

 これは決して俺を立ち上がらせる為に手を貸そうとしているのではなく、本を寄越せといっているのだ。

 何故この本にそんなに執着するんだ?

 はっ、もしかして澤村君も腐男子なのか!?

 腐レンズなのか!?


「……澤村、お前…何でこの本が読みてぇんだ?」

「俺は活字中毒なんだ。本を読んでいないと落ち着かない」


 あれ、あれれ?

 期待していた返答じゃないけど、それってかなり矛盾していると思う。

 だって、


「ここは図書館だぞ? 本なら腐るほどあんじゃねぇか」


 周りを見渡すほど大量の本に囲まれているにも関わらず、どうして俺の本を執拗に狙うんだ?

 やっぱりただ単に腐男子であることを隠しているだけじゃないんだろうか。

 怪訝な表情を浮かべる俺に気付いたのか、澤村君は本の少しだけ困ったような顔になる。

 兄達とは違って澤村君は表情に乏しいんだな。


「2年もここにいたんだ、もう学園の蔵書は読み尽くした」

「はぁっ!? ここの蔵書は確か20万冊はあるんだぞっ、それを2年でなんて有り得ねぇだろ!?」


 少なくとも俺は一生かかっても1万冊読めない自信がある。


「まぁ、半分は読んだことある本だったし、一日中速読してたからな」


 速読!?

 あの雑誌の裏表紙とかに『驚異の速読術』って載ってる例のヤツか!

 確か数分で本を読んでしまう、羨ましいこと山の如しな能力だったはず。

 もし俺にそんな能力があれば、一日にどれだけの素敵サイトさんを巡れることだろう…

 もう少し、もう少しとずるずる夜更かししてしまうこともなくなるし、授業と授業の間の僅かな時間にも1冊読めるなんて夢のようだ。


「毎朝各誌の新聞を読んで、毎月の雑誌も読んでいるんだが…そんな物はすぐに読み終わってしまうからな。それにその本は読んだことがない」


 読んだことない…そりゃそうだろう。

 これは商業誌じゃなく、世に言う同人誌と呼ばれるものだ。

 しかもバリバリのR指定だから、高校生に見せられるわけがない。


「こっ、これは生徒から没収したんだけどよ、R指定入ってるらしいからお前には無理だって」

「あぁ、それなら大丈夫だ。俺の誕生日は5月だから」


 5月ってことならもう18歳だからオッケー……じゃないよね!

 倫理的に教師が高校生にエッチな内容の本を見せるのはダメだろっ、俺様ホスト教師だからいいのか?

 いやいや、それでも俺は教師として大人として清く正しい教育をだな…


「……これは、続き物か? 明日には1巻から持ってきてくれ」

「わかった。明日もこの時間で……って何読んでんだぁあああっっ!!!?」

「図書館では静かにしろ」


 俺が教育者として真剣に悩んでいたというのに、このマイペースな澤村君はいつの間にか本を抜き取り得意の速読で読み終わってしまったらしい。

 ツッコミたいことは山ほどあるけど、一先ずはじめに聞いておかなければならないことがある。


「……澤村、こんなモン読んで気持ち悪くないのか?」

「何故だ? ただのエロ本なら別だが、この本はそこに重きを置いているわけじゃない。純粋な恋愛の先に性描写があるだけで、全体の構成は主人公達の交差する想いが主軸だろう」


 真顔で考察する澤村君を見上げて、俺は明日もここに来ようと思っていた。

 リアル腐友ゲット!!!!




『三場・第一体育館』




 後悔。

 いつだって悔しく思うのは後と決まっている。

 俺だって例外じゃない。

 あの時あんなことをしなければ、あの時あんなことを言わなければ。

 殆どは眠ってしまえば忘れる俺だけど、流石に眠ってもいないのに記憶から抹消することは出来ない。

 それは今日の昼休み、珍しく体育の教師が話し掛けてきたことから始まった。

 仲が悪くはないけど良くもないその教師が言うには、急な用事が出来たから放課後自分の担当している部活をみてくれないかとのこと。

 俺が教えられることはないけど、監視くらいにはなるかと安易に引き受けてしまったのが浅はかだった。

 教師が担当している部活を聞いても、何も感じなかったあの時の自分を呪い殺してやりたい。

 生徒会役員には昼の内に書類を渡しておいた為、放課後になると俺は職員室から真っ直ぐ第一体育館に向かった。


 第一体育館はバスケットボール部専用らしく、初めて入ったそこでは部員らしき生徒がすでにウォーミングアップを始めていた。

 ここであんな行動さえとらなかったら、俺は今日という日も無事に乗り切ることが出来たのかもしれない。

 教師がいてもいなくても真面目に部活に取り組む生徒を見て、俺は初めて訪れたこの体育館を見学しようと思い立ってしまったのだ。

 流石金持ちだけあって、体育館内には自動販売機やランドリーボックス、ジムや会議室や談話室まであった。


 そして最後に訪れたのは、シャワールームが併設されているロッカールームだった。

 ロッカーはひとつひとつカードキーで開くようになっていて防犯はバッチリだから、ロッカールーム自体の扉には鍵がかかっていないらしい。

 それをいいことに中へと入ってしまったのがいけなかった。

 奥から小さな物音が聞こえたと思ったら、そこからヒョコッと顔を出したのは紛れも無く爽やか腹黒・神田牡丹君その人だった。

 何故に忘れていた、俺!!

 神田君はただの爽やか腹黒じゃなくて、爽やか腹黒スポーツマンなのだよ!!

 こと萌えに関する情報ならば地獄耳+神の記憶力を持つと、幼馴染みとアオイ君を感服させたこの俺が何たる失態…

 自称ゴッド・オブ・腐男子から、自称キング・オブ・腐男子へと降格せざるを得ない行いだ。

 人としてのプライドは低いが、腐男子としてのプライドは富士山67個分もある俺はショックを隠せないでいた。

 思えばそれもいけなかったのだろう。

 突っ立ってなんかいないでさっさと踵を返していれば、神田君と二人きりで話すことにはならなかったはずだ。

 雉も鳴かずば撃たれまい。


「瀬永先生、最近は桜への虐めもなくなって付け入る隙がないみたいですね?」


 ようやく我に返った頃には何故か神田君は俺の視界から消えていて、いつの間にか入口の方に瞬間移動していた。

 俺だけに見せる黒過ぎる笑みを顔に貼付けた神田君を振り返り、ここに来て自分がピンチに陥っているのだとやっとこさ気が付く。

 嫌なことは率先して忘れてしまうから気付くのが遅れてしまった。

 神田君は桜君に好意を寄せている俺が気に入らないんだった。

 その好意は純粋に生徒への愛と総受けへの愛で構成されていて、断じて神田君が思っているようなものではないんだけど。

 そして多分俺が嫌われている一番の理由は、桜君が俺にちょっかいをかけてくることだと思う。

 困ったことに神田君は桜君が変装を解いてからというもの、以前に輪をかけて過保護になってしまったから俺に向けられる憎しみも当社比3割増だ。


「勘違いしてもらったら困るんだけど、桜はアンタみたいなチャラい教師が珍しいだけなんだよ。アンタに構ってるのはただの好奇心。それなのに桜が近寄ってくるのが当たり前みたいな顔しやがって…っ」


 神田君、爽やかな笑顔と敬語は何処に落としてきたの?

 腹黒副会長も鬼畜数学教師も真っ青な、およそ未成年が出来るはずのないあくどい顔しちゃって。


 ガチャン…


 何故に鍵を締める?

 何故に俺に歩み寄る?


「―――ッ!?」


 何故に俺は押し倒されてる?

 ………押し倒されてるぅううっ!?




『四場・ロッカールーム』




 押し倒された、とは語弊があるかもしれない。

 正確には床に突き飛ばされ、肩のところを踏まれています。

 腹黒どころか全身真っ黒なただの鬼畜へとメタモルフォーゼしてしまった神田君に、俺は驚きすぎてとっさにかけるべき言葉を失ってしまった。

 恋愛って人格まで変えちゃうんだね。


「アンタの家を潰すように働き掛けた」


 流石神田君、有言実行な感じだとは思ったけどすでに動いていたとは。

 実家からも連絡がなかったから全く気が付かなかった。

 とはいえ、あんな実家の跡を継がなくて良くなるのなら、いっそのこと潰されてもいいかも知れない。


「キャンプの時から気になってたんだ。アンタのその余裕…、多分はじめから潰すことが出来ないとわかっていたんじゃないのか?」


 あ、潰せなかったみたいだ。

 憎々しげに神田君の顔が歪むにつれて、肩に食い込む足にどんどん力が入ってかなり痛い。


「流石に俺でも、あんなところ潰せるわけがない」


 確かにそうだろう。

 俺自身もどうやったら実家が潰れるのかわからないくらいだからな。


「まさかアンタの実家が、国に保護されている寺院だとは思わなかったよ」


 嗚呼、遂にバレてしまった。

 父親が坊主なんて、出来ることなら死ぬまで秘密にしておきたかったのに!

 そう、俺の家は由緒正しき寺なのだ。

 詳しいことは思い出したくないから言わないけど、だがこれだけは言っておく。

 俺はスキンヘッドには萌えない!!

 しかもスキンヘッドの群れなんて、恐ろし過ぎて鳥肌が立つってもんだろ。

 俺はすでにあのツルツルピカピカがトラウマとなっているんだ。


「何処までもムカつく男だな、アンタ」


 肩に食い込んでいた足がようやく離れたかと思った矢先、無防備に晒していた腹を思い切り踏み付けられてしまった。


「…―――ッッ!!」


 凄まじい衝撃に声すら出せず、俺は惨めに床で丸まることしか出来ない。

 のた打つ俺を見ても神田君の表情は暗いままで、その濁った硝子玉のような瞳が印象的だった。

 これはヤバイ。

 喧嘩が全く出来ない俺としては、ここは口で戦うしかない。

 しかし、痛みで声も出ない。

 視界の隅では再び足を上げる神田君が映っているし、逃げようにも痛すぎて動くのも辛い。

 何だコレ、救出フラグか!?

 だがしかし、もう大人な俺は人生そう都合良く進まないことを知っている。

 ここは下手に抵抗して逆上させるより、温和しくリンチにされる方が得策なのだろうか。

 痛みに悶えながらも懸命に思考を巡らせていると、


 ガチャン


 唐突に鍵の開く音が響いた。

 とっさに硬直してしまった俺と神田君を余所に、扉がやけにゆっくりと開かれていく。


「………あ、れ………レン?」


 室内に入ってきたのは、書類を持ったお茶飲み友達の相川君だった。

 多分部活動の書類を配って回っていたんだろう、何にしてもナイスタイミング!!


「何故………レンが、倒れてる…?」


 しまったぁあああああっっ!!!!

 助けは嬉しいけどこんないかにもボコられてますなシチュエーションじゃ、俺様微鬼畜ホスト教師の面目丸潰れじゃないか!

 ここは何とかキャラを守るために…


「相、川……ちょ、コレ…盲腸かもしんねぇ…」

「…は?」


 俺の言葉に神田君があからさまに呆れたような顔をするけど、保身のためだったら俺は嘘だって簡単についてみせる!

 とにかく今は起き上がれないから、格好悪いけどこれが1番マシな回答に違いない。


「……盲腸…!」


 だけど、相川君の顔が一気に青ざめるのを見て、俺は物凄く後悔してしまった。

 更には手に持っていた書類を神田君に押し付けたかと思えば、いきなり俺を横抱きに持ち上げる相川君の行動に心の底から後悔した。

 まさか、このまま保健室に行くわけじゃないよな?

 歩き出す相川君を見上げて口をパクパクと動かすけど、簡単に抱き上げられたという精神的ショックのせいか言葉がついてこない。

 前だけを見据えてズンズン歩く相川君に、今だけは文句のひとつでも言ってやりたい気分だ。

 今すぐ下ろさないと、眼鏡に指紋付けるぞコルァアアッ!!




『五場・死亡フラグ』




 部活が始まってしばらく経ったからか、すでに校舎には人気がなくなっていた。

 無駄に校舎に残る生徒もいないし、部活は部活棟と呼ばれる別の建物で行われるから今の時間は生徒会や風紀委員くらいしかいない。

 つまり、今の俺を見る者は誰もいないというわけだ。

 決して身長が低くはないこの俺が、生徒会書記様にあろうことか…おおお、お、お姫、様…抱っこ、なるものをされているなんて!!!!

 意味がわからん!!

 俺様微鬼畜ホスト教師が生徒会のワンコ書記に抱えられてるって、一体全体どんな状況だよ!?

 少なくとも俺は、そんな小説見たことない!!


「……おい、相川。俺ならもう大丈夫だから、いい加減に降ろせ」

「ダメ。盲腸、放っておくと…死ぬ……」


 ちらりと俺を見下ろした眼鏡越しの相川君の目は、悲しそうな憤っているような複雑な感情に揺れていて、俺はもうそれ以上は何も言えなくなってしまった。

 もしかしたら、相川君の過去に何かあったのかもしれない。

 それを無理に掘り下げるようなことは俺には出来なかった。

 そもそも、今更嘘ですとは言い辛い。

 言ったが最後、このイノセント・ボーイは号泣してしまい兼ねないし、何よりタイミングを逸してしまった。

 これはもう、温和しくエロエロ大魔王の巣穴である保健室に行くしかない。

 諦めたように溜息をつきながら力を抜くと、自然と瞼は下りていき側頭部を相川君の肩に乗せて楽な姿勢を取ってしまう。


「………レ、ン…?」


 思えば抱き上げられるなんていつ振りだろう。

 相川君が歩く度に揺れる振動が心地良くて、自分よりも体格が良いから安心して身を任せられる。

 そういえば踏まれた腹はまだ痛いけど、悶え疲れたのか眠たくなってきたな。


「……レン…ッ」


 嗚呼、相川君の声がまるでガラスを一枚隔てたように篭って聞こえる。

 ゴメン、相川君。


 俺はもう疲れたから、しばらく眠らせてくれ…

 大丈夫、すぐに起きる…か、ら…


「イ、ヤだ! レンッ、レン! 死んじゃヤダッ、起きて、俺を置いてかないで…!!」


 ガクガクガクガクガクッ


「アガガガガ…ッ!! ぢょっ、あ゛い゛がわ゛ぐん!! おで、死んでない、がら゛ッ!!!!」


 何を勘違いしたのか、相川君が珍しく大きな声を出しながら抱えている俺をガクガクと揺さ振った。

 それはもう凄まじい振動で、工事現場の土を踏み固めるための機械にも勝とも劣らない破壊力だ。

 お陰でさっきまでの微睡みは夢幻の彼方に吹っ飛び、今は激しく揺れる脳髄に吐き気さえ込み上げてくる。


「レンッ!」

「ぐぇえっ!!」


 ようやく振動が止まったかと思えば、今度は渾身の力で抱き締められてしまった。

 その力たるや、恐らく関取だらけの押しくら饅頭の中心に立つくらい凄まじい圧迫感だ。

 これは本当に、ゴートゥーヘブンしてしまいそう…

 骨がミシミシ言ってるし、痛くて苦しいはずなのにその感覚すらなくなってきた。

 相川君、もし俺が死んで君の守護霊になったら、まずはじめに力加減というものを教えてあげよう。


「げ、…ん……か、い…っ」


 呼吸が出来ずに意識が薄れはじめた矢先、急に今まで締め上げられていた圧迫感が消えた。


「げほっ、ごほぉっ!! た、助かっ、た?」


 あれ、何で目の前にいるのが相川君じゃないのですか?

 垂れ目で髪が紫色でオーラがエロくて白衣着てて煙草吸ってる人が、何故俺を抱えているのですか?

 例え命を助けてくれた恩人だとしても、コイツにだけは助けられたくなかった。


「相川く~ん、レディーは丁寧に優しく扱うものだよ~? はい、君はもういいからさっさと帰りなさ~い。レンゲは俺が責任を持って面倒見るから~」


 言葉は相川君に向けているのに、視線は俺に集中しているのが恐すぎて、つい腕を伸ばして相川君の服を掴んでしまった。

 だけど、どうか許してほしい。

 コイツは俺の天敵なんだっ、来る者も逃げる者も食いまくる最悪の雑食なんだ!!


「あ、相川……行くなっ」


 ここにいて下さいぃい―――!!!!




『六場・嘘の代償』




「だ~か~ら~、君は生徒会の仕事があるでしょ~? 子供はいい子にママの帰りを待ってなさいって~」

「…………………」

「嫌とか言ってもダ~メ! これからは俺とレンゲのオ・ト・ナ・な時間なんだから~」

「…………………」

「はぁ~あ、これだからお子ちゃまは~。権利権利って主張するばっかりで、義務を疎かにするんだよね~」

「…………………」

「現に疎かになってるだろ~? 生徒会の仕事は~? 君が優遇されるのは、それ相応の義務があるからでしょ~?」


 これ、いつまで続くんだ?

 保健室にある背凭れのないベンチみたいな長椅子に腰を掛けている俺の両サイド、俺の右腕に腕を絡めて擦り寄ってくる東先生と俺の左腕に服の裾を掴まれている巻き込まれフラグ完立ちの哀れな相川君は、さっきから常軌を逸した口論を繰り広げている。

 饒舌vs無言。

 その戦いは東先生が根負けしてすぐに決着が着くと思っていたのに、何故か一言も話していない相川君の言葉を正確に読み取って二人は口論しているらしい。

 本来なら有り得ないことなんだけど、二人とも当たり前のような顔をしてわけのわからない激論を続けている。

 この場合、どっちが凄いんだろう…

 漫画とかだったら火花がバチバチ鳴っている、丁度二人の真ん中に座っている俺が一番凄い気がしてきた。

 一番凄く、腐ってる。

 だって萌えねぇ!?

 お色気ムンムンでゴリ男でさえ食っちゃうような美人系攻めが、純情な年下ワンコにだけは調子を狂わされてしまう。

 何でか言いたいことまでわかるようになってきて、ワンコの真っ直ぐな目で見られる度に胸がドキドキと高鳴っていく保健医。

 そして気付くんだ、コイツになら抱かれても良いって思える、その理由を―――…

 純情ワンコ高校生×元攻め擦れ美人保健医!!!!

 何コレ何コレ何コレ!!

 スンゲェ滾るんですけどっ、妄想だけでご飯が3杯はいけるんですけどっ!

 俺ってば仮病だとはいえ一応盲腸だってことでここに来たのに、完璧に放ったらかしとか…イイッ!!

 俺なんかに構っていられないほど、二人は互いに夢中だってことだろ?

 大丈夫、俺はケンカップルも大好物だから☆


「………う、ぁ…っ!」


 おっと、しまった。

 胸の内から奮い立つような興奮に、ついつい相川君の服を思い切り引っ張ってしまったらしい。

 浅く腰を掛けていた相川君の身体がグラリと倒れ込んでくる。

 まさかっ、まさかの事故チューイベントスチルゲットかっ!?

 傾く身体を止められずに、相川君が東先生を巻き込んで床へと倒れていく。

 一瞬の後、


 チュッ


 ななななんとっ唇が触れ合った!!!!


「…ん、ぅっ!?」

「………あ、ごめん…口、当たった? ゴメン、ね………レン…」


 って、俺ぇええええっ!?

 そうなのだ、触れ合ったのは俺と相川君の口だったのです。

 実は相川君に巻き込まれて俺も床に倒れ込んでしまって、しかも運悪く東先生を下敷きにしちゃったもんだからさぁ大変。

 相川君のハプニングキスの相手が俺だなんて、欠片も萌えねぇよぉお―――っ!!

 これは仮病なんか使った俺への罰なのか!?

 相川君完全に巻き込まれフラグだったんじゃんっ、こんなん誰も望んでないんだよバカァアアッ!


「ちょっと~、なぁに二人だけでい~雰囲気になってんの~? ……どうやらまた噛まれたいみたいだな、レンゲ?」


 起き上がった東先生が床に座ったまま運命を呪っていた俺を後ろから抱き締めてくる。

 何か後半部分の口調が違ったような気がするけど、きっとそれは真夏に悪戯な妖精さんが見せた泡沫の夢だろう。


「……おい、相川。大丈夫か?」


 男同士のキスはノーカンだとマインドコントロールしている俺なら未だしも、完全に巻き込まれてしまっただけの相川君は唇に指を当てたままフリーズしてしまっている。

 どうやら自分の口が俺の何処かにぶつかったのはわかったけど、まさか口同士が触れ合っただなんて思っても見なかったんだろうな。


「レーンゲ、俺を無視するなんて良い度胸じゃ…」

「………ス…」

「は?」


 後ろから俺の耳に息を吹き掛ける雑食エロエロ大魔神・東先生の言葉を遮り、相川君がやっと我に返ったように声を出した。

 心なしか耳が赤いような気がする?


「……俺、の…ファースト、キス…」

「「!!!!!?」」


 神様っ、アンタなんつー罰を与えるんだ!!

 こりゃ、いくら何でもあんまりだろっ、相川君が可哀相過ぎて涙が出るわ!!




『七場・遠い君を想う』




 気まずい。

 そりゃもう、メチャクチャ気まずい。

 俺の人生で8番目くらいに気まずい。

 東先生と二人きりで保健室にいるだけでもかなりの苦痛なのに、その東先生が物凄く怖いのだ。

 俺が嘘をついたのに神様からの罰として俺とハプニングキスをしてしまった相川君は、無表情ながらも耳を真っ赤にしてそそくさと仕事に戻って行った。

 あんなふうに露骨に照れられると、折角マインドコントロールしてたのに俺まで恥ずかしくなってくる。

 いくら役者顔負けの演技力を自負する俺でも、赤くなる顔ばかりはどうしようもない。

 そう、ここまではまだ良かったんだ。

 問題は…


「……まぁ、あれは事故みたいなモノだから気にしないでおいてあげるけど~……レンゲ、さっきからお腹庇ってるよね~?」

「……え」

「それ、見せて?」


 という具合で、要するに結果だけを言えば腹を見られてしまったのだ。

 俺だって相川君に嘘までついたんだから見られたくはなかった。

 …なかったんだけど、それ以上に東先生の射殺さんばかりの目が怖かったんだよ!

 口は笑っているのに目だけは底冷えがするくらいに冷たくて、蛇に睨まれた蛙の如く硬直していた隙にシャツを捲られてしまったのだ。

 基本インドアな俺の生っ白い腹があらわになると、そこには青くなりはじめた痣があった。

 しかもその痣は、誰がどう見ても靴底の形をしている。

 確かに神田君はバスケ用のシューズを履いてたけど、まさかここまではっきりくっきり跡になるとは誰も思っていなかっただろう。


 それからだ。

 俺の腹の痣を見てから、いつもはあれだけ饒舌な東先生が一言も発さなくなってしまった。

 スゥッと顔から表情が抜け落ち淡々と痣に湿布を貼っていく東先生の姿は、いつもがアレだから余計に薄ら寒く感じる。

 俺の何が気に障ったんだろう?

 だけど、こういう時に聞くのは反って良くない。

 治療が済むとそのままデスクに向かってしまった東先生にお礼を言って、俺は一旦保健室を後にした。




 side:東紫苑




「あんがと、な」


 律義に礼まで言って、レンゲは保健室から出て行った。


 ―――ガンッ!!


 俺はやり切れない怒りを抑えることが出来ず、デスクに拳を振り下ろす。

 こんなことをしても無駄だとわかっているし、あの場でレンゲを問い質してもアイツが答えてはくれないこともわかっていた。

 どんなに取り繕ったって、アイツの本質は決して変わることはない。

 昔のまま、何ひとつ変わってはいないんだ。


 11年前、とある公園で俺とレンゲは出会った。

 当時18歳だった俺は、掛け替えのない大切な人を亡くした悲しみに打ち拉しがれて、ただただベンチに座り一日が終わるのを待っていた。

 そんな時にやって来たのが、まだ小学生だったレンゲだ。

 お人好しのアイツは他人の俺のことを心底心配してくれて、胸が痛いと言えば痛みが和らぐようにと何度も何度も胸を撫でてくれた。

 少し天然なその子供が可愛くて、凍り付いたように動かなかった感情がゆっくりと息を吹き返していくのを感じながら、俺は礼を言ってアイツの黒い髪を撫でてやった。


『ありがとな、少し元気が出た』

『いいって、気にすんなよ!』

『お礼に何でもひとつ、願いを叶えてやるよ』

『お礼なんていいのに…。んー、それじゃあ……』


 俺は何でも叶えてやるつもりだった。

 だけどそのすぐ後、レンゲを捜し回っていたらしい少年がアイツの腕を引っ張って行ってしまった。


『また会う時にまで考えとくからー!』


 そう言いながら公園を去って行くレンゲの姿を、俺はこの11年間忘れることが出来なかった。

 次の日には留学が決まっていてレンゲとは会えなかったけど、今はまたこうして巡り会えた。

 レンゲはあの時の約束を覚えているだろうか…

 愛しいレンゲ。

 俺は遠い日のお前を、ずっと想い続けてきた。

 レンゲ以外の人間なら誰でも同じだ。

 だけど、お前だけは違う。

 優しくしてやりたい。

 独占したい。

 所有の証を刻みたい。

 だからこそ、レンゲを傷付けた誰かが憎かった。


「許さねぇ…ッ!」


 デスクに拳を叩き付けながら、俺はまだ見えぬ誰かの影に苛立ちを募らせていった。




『第六幕八場・彼女』




 あぁ、腹が痛い。

 湿布を貼ってもらったのは良いけど、これは絶対に真っ黒になるパターンのヤツだ。

 歩くだけでもちょっと痛いのに、明日の授業では腹から声が出せるんだろうか。

 そして、こういう時に限って一番面倒な奴に出会ってしまうのだ。

 なんてベタな展開…


「テメェッ、こんな時間に帰って来るたぁどういうことだ!? いつもならもっと早いだろうがっ、何処で誰と何してやがったのか吐かねぇ限り寮には一歩たりとも入らせねぇからな!!」

「いや、もう入ってんだけど…」


 シャンデリアが眩しい広々としたエントランスに響く、低くて重量感のある怒声。

 俺がえっちらおっちら寮まで帰ってきたと思ったら、何故かこのアホ寮父が仁王立ちで待ち構えていたのだ。

 本当なら俺もテンションMAXなツッコミをかましたいところだが、生憎と腹から声を出すことは今の俺には不可能だと思われる。

 後ろから続々と入ってくる部活帰りの生徒達が、寮父である森川さんを見るなりまるで化け物と遭遇したかのような驚き振りで慌ててエレベーターに駆け込んでいく。

 やっぱり生徒達の間では恐ろしい破壊神・森川チコリのイメージが定着しているんだな。

 交流キャンプの時に森川さんは変態を隠そうともしていなかったのに、後の騒ぎでうやむやになってしまったから生徒達の中ではあれは白昼夢として処理されたんだろう。


「今日はちょっと用事があっただけだっつーの。テメェは俺の彼女かよ…」

「ざけんなよっ、誰が彼女だ!! 俺と蓮華の絆は好きだ嫌いだに左右されねぇ、もっと純粋でもっと強固な『主従関係』だろうが!! んな軟弱なもんと比べてんじゃねぇっ、殺すぞ!!」


 凄い。

 ガラスがガタガタ震えるほどの大声で怒鳴ってるのに、俺達から思いっ切り離れてエレベーターへと走る生徒達には聞こえていないようだ。

 正確には、余りにも信じがたい内容で脳が理解することを拒絶したんだろう。

 自我を保つためには必要なのはわかるけど、誰か一人くらい俺を助けようって奴はいないのか?


「おいっ、聞いてんのか蓮華!! ………あ? テメェ…薬臭くねぇか?」


 ガウガウ吠えているかと思えば今度は眉をしかめて鼻に皺を寄せる森川さんに、本気でこの人は人間よりも獣に近いんじゃないかと思ってしまう。

 ここのお坊ちゃんは湿布の臭いが許せないらしくて、保健室に置かれている湿布は全て無香料なのだ。

 にも関わらずそれを嗅ぎ付けるなんて、最早人間業じゃない。


「少し怪我しただけだ。部屋で休みたいから、もう行くぜ?」


 俺は今、とてもコイツに構っていられる余裕はない。

 いろんなことが有り過ぎて疲れていた俺は、森川さんの隣を通り抜けようと歩き出した。

 しかし、突然伸びてきた腕が俺の胸倉を鷲掴みにしてそれを阻む。


「―――おいっ、何すんだテメェ、……ッ!?」


 ブチブチブチィッ!!


 縦横無尽に弾け飛ぶシャツのボタンを唖然と見ながら、余りに突拍子のない状況に俺はしばらく反応することが出来なかった。

 勢い良く引き裂かれたシャツがはためく中、腹部に貼ってあった湿布も簡単に剥がされてしまう。


「………ぶっ殺す」


 俺の腹に刻まれた足形を見るなり、皺くちゃになっている湿布を床に叩き付けて森川さんが呻いた。

 あれだけ普段怒鳴り散らしているだけに、噛み締めた歯の隙間から呻く様にして呟かれる言葉には重みがあるように感じる。

 しかし、忘れてはいけない。

 ここは人の往来が最も激しい、寮のエントランスだということを。


「うわっ、瀬永先生のお腹が!!」

「あんな細い身体に何てことを!!」

「誰がやったのか調べっぞ!」

「レンゲちゃんの柔肌がぁ~!!」

「好い気味だよ」

「澤村会長にキスなんてするから!」

「香坂様や関様の裸を覗くからだよ!」


 これはもう、明日には全員が知ることになるだろう。

 相川君に嘘をついたとバレ、岡野先生には事情聴取という名の拷問にかけられ、生徒達からは好奇の目に曝されるんだ。

 それより何より、俺のホスト教師キャラどうしてくれんだバカ犬チコリィイイイイ―――っっ!!!!




『第六幕九場・猫かぶりバレフラグ』




 床に散らばるボタンの残骸。

 俺の腹に刻まれた足形を親の敵のように睨み付ける森川さん。

 青ざめる俺。

 そんな俺達を遠巻きに見詰めている生徒達。

 何たるカオスだ!!

 一体誰がこの場を治めてくれるというのだ?

 取り合えずもう手遅れだと思うが足形を隠そうとシャツに手をかけた矢先、その高い声はエントランス中に響いた。


「あぁ―――っ!! チコリンがレンちゃんをイジメてる―――!!」


 その余りの声量に、それまで口々に囁き合っていた野次馬達さえもビクッと身体を硬直させた。

 あれほど痛かった視線が俺から外れ、今はエレベーター前にいる声の主へと向けられている。

 まさか、コイツがこの場を治める救世主なのか?


「レーンーちゃーん!」


 俺が振り返るまでもなく向こうから俺の胴体にタックルをかましてきて、あわや大転倒というところを間一髪で森川さんが支えてくれた。

 たまにはまともなこともするんですね、森川さん。


「レンちゃん大丈夫!? チコリンってば乱暴者だから酷い目に遭ったでしょー!? ボクが来たからにはもう大丈夫だからね☆」


 この星マークに柔らかな茶髪は、確実に生徒会書記の鈴枝桃君だろう。

 俺を心配していながらも、元気にぐるんぐるん尻尾を振っている幻影が俺には見える。

 しかし、それ以上に…


「イデデデデデデッ!!」


 腰にしがみついて剥き出しの腹に力いっぱい額を擦り付けてくる鈴枝君に、俺は痛さの余り失神寸前だ。


「テメェッ、蓮華に何してやがる!!」


 情けないけど痛過ぎてちょっと涙が出そうになっていると、我に返った森川さんが鈴枝君の襟首を掴んで引き剥がしてくれた。


「えぇ―――っ、そのお腹どうしたの!? 靴の跡が付いてるっ、レンちゃん誰かに蹴られたの!?」


 森川さんに襟首を掴まれたまま、俺の腹を見て鈴枝君が大声を上げる。

 おかげで今まで俺の腹が見えていなかった生徒にも、しっかりはっきり痣のことを知られてしまった。

 これで俺も終わりだな。


 ………

 いや、待て。

 もしかしてこれは絶好のチャンスなのではないか?

 今上手い言い訳を思い付けば、この絶体絶命の状況を切り抜けることができる!!


「違う違う。これは蹴られたんじゃねぇよ」

「え……でも、靴の跡が…」

「あぁ、これは鉄のスニーカーだ」

「「「「鉄のスニーカー!?」」」」


 一瞬にして周りが煩くなったけど、俺はここぞとばかりに口から出任せを言いまくる。


「いや、マジで参ったっつーの。実験準備室ですっ転んだかと思ったら、昔趣味で買った鉄のスニーカーが棚から落ちて腹に直撃だろ? 流石の俺も死ぬかと思ったぜ」


 しっかりと痣になってしまっている腹を片手で摩りながら、心底参ったという表情を作る。

 一瞬シンッと静まり返った矢先、再び周りがざわめきだした。


「蹴られたんじゃないのか?」

「つまんなーい」

「ただの事故じゃ仕方ねぇな」

「なぁーんだ、レンちゃんったらドジッ子なんだから!」


 さっきまでの心配した顔から一転可笑しそうに笑う鈴枝君と周りの反応に、俺はホッと安堵の息を吐き出す。


「鉄のスニーカーなら痣になるのも仕方ねぇ。蓮華、部屋に戻ったらしっかり治療すんだぞ? 元気のねぇテメェに蔑まれたって、俺は嬉しくも何ともないんだからな」


 何ちょっとツンデレ風に言ってんだよ、森川さん。

 アンタが湿布を引っぺがしたんだろうが、シャツ弁償しろ!!

 何てことは一切口にせず、猫かぶりバレフラグを回避した俺はエレベーターに飛び乗って、ザワザワと騒がしいエントランスから無事抜け出したのだった。

 ピンチをチャンスに変える、それが腐男子・瀬永蓮華の人生論!!

 ちょっと強引なのはご愛嬌だ。




『十場・ヘッドフォン』




 ピピピッ、ピピピッ!


 電子音が響いて、携帯にメールが送られてきたことを告げる。

 流石アオイ君だ。

 さっきメールを送ってから10秒も経っていないのに、もう返事がくるなんて普通ならまず有り得ない。

 だらし無くソファに寝転がって腹の上にネギシオを乗せたまま、ピカピカと光っている携帯に手を伸ばす。

 慣れた手つきでメールを開けばやっぱりそれはアオイ君からだったけど、その内容は珍しくも1行だった。


『鉄のスニーカーはないだろ』


 ごもっとも。

 あの騒ぎの最中も我ながら強引だとは思ったけど、こうやって部屋に戻り一息ついてみれば凄まじい言い訳だったとメチャクチャ後悔した。

 かなり恥ずかしい言い訳だったのに、何故あの場では上手いこと収まったのかもよくわからないし。

 頭がこんがらがった時には文字に起こしてみるといいらしい。

 考えながら書くから、自然と冷静に事態を見詰め直すことが出来るそうだ。

 それは俺にとってのメールで、もちろんその送信先はアオイ君だ。

 巨大な後悔の思いも含めてアオイ君にメールしたんだけど、あっさりと傷に塩を塗り込まれてしまった。

 携帯を持ったまま呆然としていたら、再び電子音が手の中で響く。

 今度はいつもの1万文字近いアオイ君からの萌え吐きメールだった。

 最初のメールは、どうやら一刻でも早くツッコミたかったらしい。

 何気にアオイ君ってばイジメっ子だよね。

 もうこうなったら風呂にゆっくりと浸かって、ビール飲んで寝て忘れるのが一番だ!


「ネギシオ! 風呂へGOだ!」

「ぷっぷぎーっ!」


 俺はネギシオを引き連れて風呂に入ることに決めた。

 そんでもって草津の入浴剤を入れて、風呂で泳ぐネギシオを見て癒されるんだ!!




 side:山吹桜




『ぷっぷぎーっ!』


 子豚の鳴き声を最後に会話は途切れ、今は遠くでシャワーの音が響いている。

 俺は頭にかけていたヘッドフォンをテーブルに放り投げ、乱れるのもお構いなしに金色の髪を掻きむしった。

 蓮華が牡丹に蹴られた…?

 神田牡丹が俺に惚れていることは知っている。

 蓮華の為に王道転校生を演じて、自らそうなるように仕組んだのだから当然だ。

 牡丹の目に暗いものが宿っていることにも、俺は気付いていた。

 その暗さは俺も持っているものだから。

 蓮華の感心を引く全てのものが憎い。

 蓮華のペットもその世話役も、メル友も幼馴染みも話し掛けられた奴もその瞳に映る奴も、全部全部憎い。

 好きなんだから当然だ。

 綺麗事ばかり並べ立てられるほど、この想いは甘っちょろいものじゃない。

 愛することの重さは身をもって理解しているはずだった。

 それなのに、蓮華の腹には酷い痣が刻まれたらしい。

 牡丹が暴行まで働くとは想定していなかった、俺の詰めの甘さが招いた事態だ。


 ゆっくりと立ち上がってベッドに倒れ込む。

 頬に枕を押し付けたまま、ベッドサイドに置かれているフォトスタンドに目を向けた。

 そこに写る黒髪の美しい人は、俺の初恋の相手。

 白い肌に黒い髪、儚げな雰囲気を持つその人がずっとずっと好きだった。

 手を伸ばして写真に写るその人の頬を、そっと指先で撫でる。


「……ゴメン、痛かったよな。アンタを好きになる奴はどうしようもないけど、傷付ける奴は許せない」


 こんなに美しい人なんだ。

 誰もが彼を愛するだろうから、そんなものを一々潰していたらこの学園は崩壊してしまう。

 だけど、蓮華を傷付けるものは放っては置けない。

 牡丹、お前は最も触れてはいけないところに触れてしまった。

 俺に振り向いてもらえない牡丹は憐れで心苦しくもあるけど、何の咎めも受けないのは道理に反する。

 例え蓮華が許しても、俺は許してやれない。

 悪いな、牡丹。




『十一場・折り合い』




 一夜明け、俺が忘れたというのに周りは全く忘れてくれなかった。

 まぁ、それもそうか。

 昨日エントランスで派手に繰り広げられた騒動は、たった一晩で学園中に知れ渡っていた。

 会う生徒会う生徒に揶揄われ、俺はようやく己の過ちに気が付いたった。

 誰かに踏まれたという屈辱的な事実は何とか誤魔化せたけど、『瀬永先生はちょっと天然』等という不名誉極まりない噂が広まってしまったのだ。

 それでも何故か幻滅されることはなかったみたいだけど…

 俺様微鬼畜ホスト教師がちょっと天然だなんてっ…………萌える!!

 あれ、何コレ、萌えるんですけどコレ!

 俺様微鬼畜なのにちょっとドジだったり、ちょっと寝癖が付いてたりすんの萌えなんだけど!!!!


 ……俺じゃなかったらな。

 そうか、みんな俺のギャップに親近感を覚えて、気さくに話し掛けているだけだったのか!

 なるほどな、それなら俺のホスト教師キャラが崩壊することもないだろう。

 ちょ―――っと路線がズレたけど、これからも教師でい続けられるんなら多少のことには目をつぶろうではないか。

 我が第二の城、第二実験準備室のソファでマッタリしながら俺はそう折り合いをつけることにした。

 何事も妥協は必要だもんな。


「あー…茶が美味い」


 やっぱり煎茶は早摘みだよな。

 今日はシンプルに酢昆布をお茶請けにしてるんだけど、これってお茶が進むんだよね。


 ガチャッ


 俺がマッタリしているというのに、突然ノックもなく扉が開かれた。

 相川君ってばまたノックしないで…


「センセーッ! お腹に痣作ったってホントー!?」


 いつものように扉に目を向けると、金色の物体が俺に向かって飛び掛かって来るのが見えた。


「~~~ッ!!」


 お茶は手に持っていなかったから良いものの、その物体に抱き着かれソファに押し倒された俺は苦悶していた。

 反射的に受け止めようと腹に力を入れたらズキッと痣が痛み、更には金色の物体が腹に食い込んできてメチャクチャ痛い。

 そんな俺に詫びることもなく、そいつはあろうことか俺のシャツを捲くりやがった。


「テメェッ、何してんだ!?」

「こらこら、動いたら痛いでしょー?」


 昨日みたいに破られなかっただけマシかもしれないけど、俺の上に馬乗りになったそいつは実に手慣れた仕種で湿布を剥がしていく。


「あちゃー…これはマジで酷い…」


 いつものヘラヘラした顔が僅かに歪むのを見て、そんなに俺の痣は酷いことになってるのかとゲンナリする。

 自分では見ないようにしてたんだよね、俺ってばチキンだから。


「…わかったならもう下りろ、関」


 俺に跨がる金色の物体・生徒会会計の関紫陽花君を見上げて、シャツを握っている腕を掴んだ。

 途端にへにゃりと形の良い眉尻が下がり、折角金色の髪に青い瞳のイケメンだというのに情けない顔へと変わってしまった。


「……センセ、これ…物が落ちた時につく痣じゃない」

「何言ってんだ、お前…」

「俺も経験あるからわかるよ。これは蹴られた痕でもない。力が逃げてないから、多分…踏まれた痕だ…」


 おいおいおいぃいいっ!

 痣を見ただけで踏まれたのだと気付いたことよりも、経験あるって方が激しく気になるんですけど!!

 普段は明るく陽気なチャラ男の、隠された暗い過去……訳ありキタ―――ッ!!


「誰を庇ってんのか知んないし、バレたくないなら黙っておくからさ…だから、ひとりで抱え込んじゃダメだよ」


 今にも泣き出してしまいそうなほど歪んだ関君の顔を見上げて、俺は腹のことも何もかも忘れて滾っていた。


「お前は、何を抱え込んでんだ?」

「センセ…」

「抱え込んでんのは俺じゃねぇ、お前の方だろうが。仕様がねぇから聞いてやるよ」


 そしてその傷を癒すのは、王道転校生の桜君なのだよ!




『第六幕十二場・関紫陽花』




 話を聞くとは言ったものの、関君は俺の太腿を跨ぐように座ったまま話し出そうとしている。

 まさか、このままの体勢で聞かなきゃならないのか?


「……俺、中学の頃…暴力振るわれてたから…」


 やっぱり重い話じゃん!

 重い話なのにこの体勢っておかしくない?

 多分関君は虐待とかを受けてて、その反動でいつもにこにこセフレいっぱいのチャラ男になったんじゃないかと睨んでいる。

 どんな事実を言われても決して軽蔑したりしない自信はあるんだけど、こうやって今にも泣き出しそうな顔の生徒に馬乗りにされているのはちょっと格好がつかないというか何というか…

 いや、俺様ホスト教師×訳ありチャラ男とかメチャクチャ萌えるカップリングだし、勢い余って襲い受けとかも大好物だ。

 ただし、俺でなければの話だ。

 とはいえ、話しはじめてしまった関君に今更退けとも言えず、俺は複雑な表情を浮かべて温和しくソファに横たわっていた。


「……センセは、俺が暴力振るわれてたって聞いて…引いた?」

「んな短い話しじゃ、引くに引けねぇよ」


 俺の表情を見てどう感じたのか、関君の顔が一層くしゃりと歪むのを見て慌てて真顔を作る。

 いかんいかん、生徒を不安にさせるとは教師失格だ。


「ほら、続き」

「あ、うん……あのね、俺…中学の時に好きな人がいたんだ。初恋ってヤツ。今は男役だけど、俺もその時には女役だったんだよ」


 関君の中学時代といったら、それはそれは天使の如く可愛かったのだろう。

 背だって低かっただろうし、声もこんなセクシーな甘さをまだ含んでいなかったはずだ。

 それで攻めだって言われたら俄かには信じがたい。

 そうか、その時の恋人に暴力を振るわれて関君は受けが出来なくなり、今のようなチャラ男にメタモルフォーゼしてしまったのか。

 可哀相に…


「想いが通じ合った時には本当に嬉しかった。だけど…その人………ドSだったんだ」


 可哀相…あれ、いやいやいや、何か流れが変わってきたような気がするんだけど。


「普段は優しいんだけどエッチの時になると凄くて、縛るし殴るし蹴るしでそりゃもう大変だったんだ」


 関君が当時を思い出したのか、げんなりとしたように眉尻を下げている。

 殴る蹴るは大変だと思うけど、関君の表情からすると暴力によるトラウマがあるとは思えない。


「ほら、俺って別にMな訳じゃないから、全ッッ然気持ち良くなかったし興奮もしなかったんだよ。なのにさぁ、好きだったからずぅーっと演技してたの。それがキツくてキツくて…」


 これはまさか、俺が思っていたような訳ありじゃないのかも知れない。

 関君の心の傷を桜君に癒してもらおうと思ったのに…


「結局溜まりに溜まった鬱憤が爆発して、逆にボッコボコにしちゃんたんだけどあれは後味悪かったなぁ~。だからセンセ、センセも自分を押し殺して溜め込んじゃダメだよ! いくらプレイとはいえ、気持ち良くないならはっきりそう言わないと!」


 ちょっと待てぇえええっっ!!

 俺も勝手に訳ありとかって関君のこと勘違いしてたけど、関君も俺のこと物凄く誤解してるんですけど!!


「誰がプレイだ!!」

「えぇっ!? 違うの!?」

「当たり前だボケェッ!!」


 驚いたような関君の表情にイラッとして、何とか引き抜いた右足でソファから蹴り落としてやる。


「うわっ! っててて…酷いなぁ、いきなり蹴るなんて」

「テメェが不快な勘違いすっからだ」


 捲くれたシャツを戻しながら起き上がると、床の上で尻餅をついている関君が恨めしげに唇を尖らせていた。

 そんな顔をしたって謝らないぞ。

 心配してくれたことは嬉しいけど、俺の萌えを奪っただけでは飽き足らず結局は快楽主義者なただのチャラ男だと!?

 ふざけんなっ、ギャップ萌えを返せ!!




『十三場・人の噂も75時間?』




 ギャップ萌えは得られなかったけど、俺はこの足形の事実をうやむやにすることには成功したらしい。

 唯一踏まれたと指摘してきたチャラ男はアホだからきっとすぐに忘れるだろうし、学園内は放課後に差し掛かった段階ですでに別の噂で持ち切りになっていた。

 自分の噂が掻き消えたんだから普通なら喜ぶべきことなんだろうけど、その『別の噂』というのが実に問題なのだ。

 何を隠そう、あの神田牡丹が行方不明なのだそうだ。


 確かにHRでは見かけなかったけど、それはただ単に俺の顔が見たくないだけかと思っていた。

 しかし、今まで休むことのなかった部活にまで顔を出さず、キャプテンが神田君の部屋に乗り込んだらそこにもいなかったらしい。

 森川さんが寮中を捜しても見当たらなくて、桜君が頼んで理事長に捜してもらったそうだけど学園の敷地内にすらいないようだ。

 神田君は今でこそ激しく腹黒だけど、基本的には真面目な好青年だ。

 無断で外出するような生徒じゃない。


 ……となれば、拉致監禁フラグも立ってきそうなものだ。

 大変残念なことに、俺には拉致監禁くらい平気でやって退ける知り合いが一人だけいる。

 香坂副会長や神田君や桜君なんか生まれたての子にゃんこだと思えてしまえるほどの、純然たる腹黒悪魔。

 俺に関することならおおよそ知らぬことなどないという恐ろしい情報網を持ち、天使のような柔らかな笑顔でえげつないことを平然とやって退ける最凶の男。

 しばらく会っていなかったから忘れかけていたけど、アイツの陰湿さは群を抜いている。

 嗚呼…出来ることなら電話なんかしたくない。

 だけど大事な大事な攻め要員である神田君の命がかかってるし、もしアイツの仕業じゃないとしてもきっと何かしらの情報は掴んでいるはずだ。

 寮の自室に戻り、膝の上にネギシオを乗っけて心を落ち着けさせながら、意を決して携帯電話に手をかけた。

 よし、押すぞ。

 通話ボタンを押すぞ!


 ピピピピッ!!


 ギャア―――ッッ!!


 今まさに通話ボタンを押そうとした矢先、唐突に携帯電話が震えて着信を訴えはじめた。

 いや、マジでビビった!

 しかも、たった今かけようとした本人からの着信で、俺は瞬く間にサァッと血の気が引いていく。

 何でこんなにもジャストなタイミングなんだ…相変わらず怖過ぎるぞ。


「……ぷぎぅ…」

「わ、わかってるよ。出ればいいんだろ、出れば」


 ネギシオが早く出ろと促すものだから、渋々通話ボタンを押した。

 耳に携帯電話を当てると、予想通りの声が聞こえる。


「蓮華? 僕だけど、神田君のことは知らないからね?」


 流石にその第一声までは想像できなかったけどな。




 side:神田牡丹




 ―――……

 ここは、どこだろう。

 暗くて狭い……箱の中か?

 手探りで辺りに触れるけど、どうやら棺のような物の中に閉じ込められているみたいだ。

 どうしてこうなったんだ?

 記憶が曖昧だ。

 確か第一体育館のロッカールームで瀬永先生に暴行して、相川書記が連れ去ったのを見届けてから部活に…


 ……ん?

 部活が終わってからの記憶がない。

 自室に戻った記憶もないということは、恐らく部活帰りに襲われたのだろう。

 身に覚えがあり過ぎて、犯人を絞り込むことが出来ない。

 瀬永に懸想している生徒や教師はこの学園に数え切れないほどいるし、俺の親衛隊の中にさえ瀬永を教師として慕っている奴らもいる。

 いつかこういう事態に陥るとわかっていた。

 それでも俺は瀬永を恨まずにはいられない。

 棺の蓋を何とか押し上げようとするけど、狭い中では足を曲げることさえできず抵抗は無駄に思えた。

 因果応報と腹を括るべきなんだろうか。

 桜……桜は、少しくらいは心配してくれているかな。




『第六幕十四場・暗躍』




 神田君が最後に確認されたのは昨日の部活。

 今日はまだ誰も見ていない。

 あの後どうやら本当に知らなかったらしい悪魔との不毛な通話を切ると、俺はその足で学園を飛び出した。

 桜君を溺愛している理事長が桜君に頼まれた以上、捜索を手抜きをするはずがない。

 ということは、神田君は本当にこの学園にはいないということになる。

 そうなれば学園に留まっているだけ無駄だ。


 学園と街を繋ぐシャトルバスに乗り込んで、運転手さんを急かしながらとにかく街へと急ぐ。

 あの悪魔が捜してくれると言っていたからすぐにでも見付かるとは思うけど、その連絡をただじっと待ってなんかいられない。

 神田君の親御さんに知らせたくても、学園内で起こった事件を理事長は大事にしたくないらしい。

 もし犯人の目的が営利誘拐だった場合、どうせ親御さんに犯人から連絡があるんだからバレるだろうに。

 しかもそれまで黙っていたともなれば、バッシングは避けられない。

 これでもし、遺体で発見された日には…

 あぁ、ダメだ。

 気だけが急いてどんどんとマイナス思考になってしまう。

 教師になって早1年ちょっと、こんなに血の気が引くようなピンチは初めてだ。

 俺自身のピンチは幾度もあったけど、生徒が危険に曝されるなんて考えてみたこともなかった。

 無事で居てほしい。

 何が起こるかわからないこんなご時世だからこそ、神田君の無事だけをただただ願う。




 side:澤村藤




 蓮華センセが学園から飛び出して行ったらしい。

 自分を傷付けた相手だというのに、蓮華センセの頭からはそんなことすっぽ抜けてるんだろうね。

 教師だからって建前じゃなくて、あの人は困っている人を見捨てられるほど器用な人間じゃないから。

 神田牡丹の行方がわからなくなったと一番に報告を受けたのは、俺達風紀委員だった。

 実は委員長である俺は、昨夜からその事実を掴んでいた。

 勿論、蓮華センセのお腹に誰が足形を残したのかも把握している。

 だからこそ、俺は神田牡丹の行方がわからなくなったという事実を握り潰した。

 何処の誰が神田牡丹をどうするかなんて興味はなかったけど、彼は到底許されることのない大罪を犯したのだから。

 この世で唯一無二の瀬永蓮華という尊い存在を、八つ当たり同然に踏み付けたんだ。

 きっと蓮華センセは気にしていない。

 相川桔梗に発見された時にも、エントランスで騒ぎになった時にも、蓮華センセは可愛いことを言って誤魔化そうとしていたくらいだ。

 もしかしたら神田牡丹を庇っていることになっているだなんて、本人は自覚していないのかも知れない。


 だけどね、蓮華センセ。

 例え貴方が許したのだとしても、それ以前にそのこと自体を忘れてしまっているのだとしても、貴方を傷付けられて自我を保っていられるほど俺の気持ちは優しくはないんだよ。

 それでも貴方が悲しむってわかっていたから、そんな顔だけはさせたくなくて自ら手を下すことは止めた。

 止めたけど、貴方だけが傷付くなんてやっぱり理不尽だよね。

 神田牡丹にはそれ相応の償いをしてもらわなきゃ。

 だけど、必死になって神田牡丹を捜している蓮華センセを見ると、どうしても羨ましくなってしまう。

 貴方に心配されているだけで、どうしようもなく羨ましい。

 だって今の貴方の頭には、神田牡丹しかいないでしょ?

 貴方の身体を傷付けられるのでさえ堪え難いのに、その心にまで深い爪痕を残されては堪らない。

 だから…


「……あ、菖蒲? 藤だけど、ちょっと手伝ってくれなーい?」


 見付け出してあげるよ、蓮華センセ。

 神田牡丹にもしものことがあったら、貴方の心は罪悪感という鎖に捕われてしまうだろうから。

 そんなことは絶対に、この俺がさせはしない。

 その為なら俺は、人で無しにだってなれる。




『十五場・駅』




 平日の夕方ともなれば、帰宅ラッシュの人で街はごった返している。

 道を行き交う人々の流れは速く、普段から山奥で悠々と過ごしている俺にとってはかなりの苦痛を伴う。

 隠れ腐男子を嘗めちゃいけない。

 俺は基本的に腐れたものは通販か幼馴染みに買って来てもらっているから、自慢じゃないがイベントや同人なんかがわんさか販売している書店には足を踏み入れたことすらない。

 つまりは、本当に人混み慣れしていないんだ。


「…………酔った」


 神田君のことが心配で居ても立ってもいられずに、冷静な判断が出来なかったのは認める。

 認めるから、この具合が悪いのを取ってくれ。

 実家の祭りでさえこんなにたくさんの人は居なかったというのに…


「あー…悪阻ってこんな感じかな…。食べ物屋の匂いだけでマジ吐きそう…いやもう、いっそのこと吐いてしまった方が楽じゃね、コレ。ヤバイ…妊娠怖ぇ…」

「誰の子だ?」


 駅構内の隅っこ。

 柱の影の壁にゴリゴリ額を擦り付けて吐き気を堪えていると、不意に背後から声を掛けられた。

 どうせ掛けられるなら女の子がいいんだけど、生憎とこの低い響きはどんなにポジティブに考えようとしても男の声以外の何物でもない。


「いやぁ、多分金持ちで俺様で三つ子の長男の子供じゃね? 今のハイテク時代、キスしただけで妊娠すっからアンタも気を付けな」


 壁に額を押し付けて妊娠がどうのと呟いているホスト風の男に声を掛けるなんて、この男は絶対に変な奴だ。

 無視するのも怖いから、俺は振り返らずに適当なことを並べ立てて話を終わらせようとする。

 …のだけれども。


「それなら私の子かも知れないな。子供は苦手だがお前と俺の子なら話は別だ、認知してやる。お前は安心して家庭に入れ。今の給与でも十分だが、何なら学園を辞めて家業を継いでやってもいい。あぁそうだ、一人っ子では可哀相だからな、早く兄弟もつくってやろう」


 この立て板に水が如く淡々と言葉を紡ぐ男を、俺は物凄く知っている気がする。

 というか、夢に見るほど恐れていると言ってもいい。

 俺の中では99%確定してるんだけど、それでも残りの1%に全てを掛けて背後を振り返った。

 そこにはサラリーマンと見紛うばかりにきっちりとスーツを着込んだ、嫌でも毎日見掛けるインテリイケメン様がいらっしゃった。


「ウエディングドレスと白無垢、どっちがいい? 私は寛大だからな、それくらいは合わせてやるぞ」

「………頼むから無表情でボケんのやめろ、岡野」

「お前も岡野になるのだから、これからは私のことをセイジと呼ばせてやる。嬉しいか、蓮華? 今なら特別に『ご主人様』と呼ばせてやってもいいぞ」


 これはもしかして、怒っているのか?

 怒鳴り散らすだけが怒りじゃない。

 人の話を聞かずに自分の言葉で遮りまくるのも一種の『キレ』ている状態らしいし、悲しいかな俺にはひとつだけ思い当たる節があった。

 まさか説教のためだけにここまでやって来るとは思わなかったけど、こんな人通りの多いところでこんなふざけた会話を繰り広げるのはよろしくないだろう。

 相手が俺じゃなければかなり萌える台詞だったけど、この状況では嬉しいことなんかひとつもないしな。


「悪かったよ、岡野。外出届けも出さねぇで飛び出しちまって。だけどよ、超法規的措置とかってのもあんだろ。今がその非常事態なんじゃねぇのかよ」

「相変わらずその頭はお飾りのようだな。この私がそんな小さなことで怒るはずがないだろう。神田牡丹を誘拐した輩が街をうろついているかも知れないというのに、お前は一人でノコノコ街まで降りて……しかもそんなに弱っていては、次に攫われるのはお前だぞ」


 人差し指と中指で眼鏡のブリッジを上げている岡野先生は、心なしかいつもより早口のような気がする。

 髪の毛も少し落ちてきているし、額にはうっすらと汗が滲んでいるような…

 まさか、まさか…俺を心配して追い掛けて来たのか?


「岡野…お前、………心配する相手が違うだろうがぁあああっ!!」


 教師なら生徒の心配しろよ!!




『十六場・路地裏』




 岡野がパーティーに加わった。

 じゃねぇよっ!!

 何でコイツは俺の後を、ロープレよろしくついて来るんだ?

 どう考えたって二手に別れて捜索した方が効率がいいに決まっている。

 数学の教師じゃなくたってそんなことすぐにわかりそうなものなのに、駅で会ってからというもの岡野先生は俺から離れようとしない。

 まぁ、最悪ついて来るのはいいとして、このお小言だけは本気で勘弁してほしい。


「大体お前にはいつも言っているだろう。お前はただでさえ自ら人目を引くような格好をしているんだ、そのスタイルを崩したくないのならせめて弱みを見せるな。他者に付け込まれるのはお前とて本意じゃないだろう。瀬永、お前が肩の力を抜くのは私の前だけにしておけ。私ならお前がどんなに情けない醜態を曝そうと、それをフォローし尚且つ事態を収拾するだけの力があるからな」


 後ろからこうも止め度なく喋られたら最早BGMとして受け流せてしまえそうだけど、擦れ違う人達が好奇の眼差しを向けてくるのは頂けない。

 駅構内よりは人通りが少ないとは言え、ここは繁華街の路上な訳だから言動には注意してもらいたいものだ。

 まさか俺が聞いていないからって俺の個人情報とか垂れ流しまくってないだろうな!?


「……瀬永」


 げんなりと顔を歪めていると、不意に路地裏から声をかけられて反射的に振り返ってしまった。

 本当に今日はどうしたというんだ?

 路地裏でビルに凭れ掛かっているのは、黒いパンツにパンクっぽいTシャツを着た青いアシメヘアが素敵な不良君だった。

 まさかこんなところで会うとは思ってもみなかったし、それ以上に向こうから声をかけてくるだなんて明日はケサランパサランが降るかも知れない。


「どうした、猫柳。お前から俺に声かけるたぁ珍しいじゃねぇか」


 もしかしたらネギシオ絡みかとも思ったけど、それにしては猫柳君の表情が何処か緊迫しているようにも見える。


「テメェ、神田牡丹を捜してんだろ?」


 スィッと視線を逸らしながら問われた言葉に、首を傾げたくなるのを堪えて険しく眉をひそめた。


「猫柳、お前もしかして…神田の居場所知ってんのか?」


 猫柳君と神田君は決して仲が良いとは言えない。

 元々正反対の二人だったからそれまで接点すらなかった訳だけど、桜君という存在が現れてからはただのクラスメイトからライバルへとその関係は変化した。

 いつも桜君を挟んでいがみ合っていたというのに、いつの間にか猫柳君は神田君のことを受け入れはじめていたのだろうか。


「勘違いすんなよ。アイツを攫ったのは俺じゃねぇ。ただ…俺の古い知り合いが、学園から出てくる不審な車を見かけたっつってたからよ」

「不審な車とは、黒のエステートカーのことか」


 それまで後ろで黙って話を聞いていた岡野先生が、眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら口を開いた。

 エステートカーって言ったら、後ろに荷物を入れられるバンのことだ。


「あぁ、街中に出りゃ溶け込むかも知んねぇけど、あの学園じゃあんな安物の車は浮くからな」


 なるほど、逆に高級車だと学園を出てから足が付きやすいということか。

 ………ん?


「おい、ちょっと待て。何でその車のことを岡野が知ってんだ?」

「それは、私がこの目で見たからだ」


 なっ、何ですとぉおおおおっっ!?


「昨日帰る途中で見掛けたんだが、どうせ作業員の車だろうと捨て置いた。私はそんな物に構っていられるほど暇ではないからな」


 岡野先生が車を見掛けたという時間と、神田君が最後に確認された時間とはおおよそ一致している。

 だとしたら岡野先生がその時確認なり通報なりしてくれていたら、もしかしなくてもこんなことにはならなかったんじゃないか?

 あぁっ、コイツの眼鏡を叩き割ってやりたい!!!!

 ……怖くてレンズに触れることすら出来ないんだけど。




『十七場・兄』




 ダメ過ぎるパーティーは解散するに限る。

 ………

 スミマセン、嘘です。

 実はあまりにも頭にきたもんだから、そのまま回れ右をして全力で逃げ出してきました。

 勇者は逃げ出した!

 しかも相当予想外だったのか、あんだけ欝陶しく纏わり付いてきた悪の権化・岡野先生も無事に撒くことが出来たようだ。

 そしてついでに人気のないところまで来てしまった…

 マズイ…あまり土地勘がないから、幼馴染みから連絡があるまで大通りにいようと思ってたのに!


「あー…でも、今戻ったら岡野先生が、……ぅぐっ!!」


 ……あれ、今…擦れ違った人に殴られなかったか?

 いや、完全にお腹痛いし思いッ切り殴られてるってコレ!


「あれ、気絶しねぇなぁ」


 当て身食らわせて気絶させるなんて、コイツ阿保なんじゃないのか?

 こんなもん痛いばっかりで、いつまで経っても気絶なんかするかよっ、マンガの見過ぎなんだ!!

 痛みに霞む視界では相手の顔ははっきりと見えないけど、コイツが頭ぶっ飛んでることだけはわかった。


「じゃー、コッチにすっか」


 バチバチバチッ!


「―――ッ!?」


 首筋に突如走った痛みに、今度は簡単に意識が遠退いていく。

 つーか、スタンガン持ってんのかよ?

 俺って完璧に、殴られ…損……


「はーい、オヤスミー」




 side:澤村菖蒲




 嗚呼、面倒臭い。

 何でこの俺がわざわざ警察なんかに来なければならないんだ。


「澤村菖蒲だ。さっき連絡した通りエステートカーの所在を追いたい」


 一応電話では軽く用件を伝えていたからか、警察官僚共がペコペコと頭を下げて出迎えてくる。


「勿論でございますよ澤村様。ささっこちらへどうぞ」


 澤村家は警察にも政財界にも顔が利くとはいえ、こんな高校生相手に媚びへつらわなければならない立場を思えば同情を禁じ得ない。

 通されたのはコンピュータ管理室…ではなく、金をかけ過ぎた感が否めない応接室だった。

 促されるまま皮張りのソファに腰を下ろすと、すぐさま女性警察官が珈琲をテーブルに置いていく。

 心なしか女の頬が赤らんでいるのは恐らく気のせいではないだろ。

 女が一礼して去って行くのを視界の隅に捉えながら、カップへと手を伸ばす。

 中々良い豆を使っているのか、礼儀として一口飲んだ珈琲は芳醇な香りがした。

 コイツ等、国民の税金で何を贅沢しているんだ?

 いや、そんなことよりも一刻でも早く情報を聞き出さなければ、俺は藤に全身のありとあらゆる関節を外されてしまう。

 アイツは一度やると言ったことは必ずやり遂げる、蛇のように執念深い男なのだ。

 俺は一度藤と大喧嘩をして、左の肩から指先までの関節を一瞬で外された経験がある。

 それ以来アイツに触れられると、情けない話だが身体が勝手に強張ってしまう。

 手を掴んで振っただけで関節を外せるなんて、何処でそんな恐ろしいことを学んできたのやら…


「……で、俺は何時まで待てばいいんだ? 事前に連絡を入れたのは、接待の準備をさせるためじゃねぇぞ」


 俺がぎろりと睨んだ瞬間、中年男の背筋がビシッと真っ直ぐに正される。

 そうして差し出された書類を受け取ると、俺はそのまま立ち上がり引き止めようとする声を無視して表に停めさせていた車へと歩みを急がせた。

 瀬永の為になどこの俺が動くはずもない。

 しかし、この俺が生徒会長の椅子に座っている間に生徒が誘拐されたなんて言語道断だ。

 更には腹の立つことに、攫われた生徒というのが桜に纏わり付くバスケ馬鹿だという。

 どいつもこいつも俺の足を散々引っ張りやがって。

 こうなったら意地でも騒ぎを解決して、藤と瀬永と神田にデカイ貸しを作ってやらないことには気が済まない。

 車に乗り込んだ瞬間、計ったようなタイミングで携帯が震えはじめた。


「俺だ。……あぁ、車の所在はわかった。場所は……」


 藤…この際だから誰が兄か、ハッキリさせてやろうじゃないか。




『十八場・監禁』




 夢を見た。

 気絶したり眠ったりするシーンの後って、結構な確率で『夢を見た』って入るよね。

 実際はさ、夢は見てもそんなのどうでもいい普段通りの夢だったり、今置かれてる状況を肌で感じてそれに応じた夢を見たりするんだろうけど、残念ながら俺は夢を見なかった。

 一度は言ってみたい台詞なのになぁ。


 俺は痛む首筋に手を当てながら、ゆっくりと覚醒していく意識の中重い瞼を持ち上げる。

 暗くて四角の部屋には、窓も家具も何もない。

 俺が寝かされていた台だけがその存在を主張している。

 ドアに近付いてみて驚いた。

 そのドアには本来あるべきドアノブが捩り切られていたからだ。

 脱出不可能だから、俺は縛られたりなんかしていないわけだ。

 なるほどと感心しながらも、ピリピリと痛む首筋を何度も掌で摩る。

 あのアホな男、スタンガンあるなら初めからそれを使えば良いだろうに。

 いや、良くはないけど。

 これは絶対に火傷みたいになっている。

 ホスト教師として常日頃からシャツを開けさせていたのが仇となったか。

 それにしても…


「監禁なんて王道イベント、俺に発生しても美味しくねぇんだよ!! ここは桜君が攫われて、普段はバラバラな生徒達が協力し合って救出! 抱擁! そして芽生える恋心!! 萌神様っ、完全にチョイスミス!! ミステイク!! 貴方様らしからぬ間違いですよッ!! とにかく誰か助けてぇっ!! このままじゃ悪魔が来るっ、俺がいなくなったって知ったら絶対に悪魔光臨する!! アイツのえげつなさは国境を越えるからっ、大気圏越えるからぁああっ!! 大体ここは何処なんだ―――ッ!!」


 中央に台が置かれただけの、6畳くらいの小さな部屋。

 こんな場所、見たことがない…のは当たり前か。

 騒いでいたら驚いて誰か入ってくるかも知れないと思ったけど、ドアが開くどころか足音や話し声すら聞こえない。

 もしかしたらこの場には誰もいないのか?


「ここが何処かなんて、俺の方が知りたいよ」

「―――ッ!!!!」


 ビッ、クリしたぁ…

 台だと思っていた箱の中から人の声がしたんだから、そりゃ驚きもする。

 というかまさか、この声って…


「かっ、神田君!?」


 台というか良く見たら棺桶みたいな物に近付きながら、俺は物凄い勢いで後悔していた。

 岡野先生が言った通り、神田君を攫った奴らに俺も攫われたんだ…

 嗚呼…ウザイ眼鏡だとか思ってすみませんでした。


「君、俺のこと知ってるのか? もしかしてファンの子?」


 あ、ヤベ。

 ついいつも心の中で言ってるみたいに『神田君』って呼んでしまった。


 ………

 いやいやいやっ、それよりももっとヤバイの聞かれてるって!!

 恋心とか桜君とか悪魔とか萌えとか萌えとか萌えとか…

 こんなん聞かれたら俺の俺様微鬼畜ホスト教師のイメージがぁああああっっ!!


「神田君っ、あの、俺…ずっと神田君のこと見てて…」


 というわけで、神田君の勘違いに乗ることにしました。

 だって咄嗟に良い案思い付かなかったんだよ!

 神田君が釘と鍵で閉じられまくっている棺桶にいるのを利用して別人に成り済ます以外に方法はない。


「昨日からいなくなったって噂を聞いて、俺、心配で学園を飛び出したらスタンガンで…」


 我ながらに気持ち悪い芝居だな。


「そうか、俺のせいで君まで…。本当にごめんな」


 こんな芝居で騙されるなんて、腹黒失格だぞ。

 いや、もしかしたら芝居とわかった上で騙された振りを…!?

 もう、そうなったら俺の力じゃ適わない。


「いえ、俺が勝手にしたことだから…」

「………君、桜は…、桜はどうしてる?」


 ちょっ、何その声!?

 いつもの神田君からは考えられない、苦しくて切ない響きを帯びたか細い声。

 神田君、本当に桜君のことが好きなんだな。




『十九場・声』




「ゴメンナサイ…噂を聞いてすぐに飛び出して来ちゃったから、桜君の様子までは…」


 本当ならここで『心配してましたよ』と言えば神田君が喜んでくれることくらいわかっているけど、誠実な想いに嘘なんてつけなくて渋々だけど俺は本当のことを口にした。

 俺だって神田君を応援したい。

 そんでもって桜君とのラブラブフィーバーを見物したい!

 だがしかし、二人の純愛に俺みたいな不純物が入り込んだりなんかしちゃいけないんだ!!

 ここは堪えろ、堪えるのだ俺!


「そう、か。でも君は心配してくれたんだよな? ありがとう」

「神田君……」


 俺以外にはなんて爽やかなんだ、神田君よ…

 こんな箱に閉じ込められているというのに、今君の爽やかなスマイルが見えた気がするよ。


「あの、神田君…どうしてそんな箱に…? 大丈夫なの?」


 この親衛隊喋りはかなり恥ずかしい。

 でもそれ以上に、何故神田君がこんな状態に陥ったのかが気になる。

 これは俺が今置かれている『監禁』という状態どころの話じゃない。

 棺のような箱の縁はビッチリと釘で打ってあって、蓋と本体の間には魔を封じんばかりのドデカイ南京錠が取り付けてある。

 ここまでしなくても出られる訳がないのに、神田君は余程犯人に恨まれているに違いない。


「俺も良くは覚えていなんだけど、多分君みたいにスタンガンで気絶させられたんだと思う。気付いたらこうなってた」


 暗くて狭くて訳がわからない状態に置かれているはずなのに、神田君の声は淡々としていた。

 俺だったら発狂しそうなものなのに、神田君の精神は仙人レベルの強さなのだろうか。

 それとも、もしかしたら…


「神田君、怖くないんですか?」

「あー…別に、何をしてもこの状態からは抜け出せないってわかってるし、それに…これも罰なんだよ」

「罰……」


 神田君は諦め切っているんだ。

 それはある意味、狂うよりも壊れているのかも知れない。


「………何の罰かは知りませんけど、こんなこと甘んじて受け入れるなんて…お前は馬鹿か!」


 こんな誰が見たって異常な仕打ちを受けているのに、これからその異常者に何をされるのかもわからないのに、落ち着いているとか冷静なら感心するけど諦めるのだけは許せない。

 所詮自分の身を最後まで守れるのは自分しかいないんだ。

 その自分が真っ先に諦めるなんて、神田君を心配して探してくれている人達や俺や自分自身に悪いと思わないのかコノヤローッ!


「え、ちょ…どうし…」

「罰だの何だのと綺麗事並べて潔く諦めたつもりかっ、このアホッ!! お前はスポーツ特待なんだから、こんな木でできた箱くらい粉砕できるだろうが!? 何だったら俺が蹴り砕いてやる!!」


 ガツンガツンと振り上げた足で蓋を蹴り付けるけど、かなり丈夫にできているらしいそれはビクともしない。

 だけどそんなの関係ない。

 俺は今自分が出来ることをするだけだ。

 だからお前も、自分が出来ることを必死にやれ。




 side:神田牡丹




 誰かが部屋に連れ込まれたらしい。

 俺のファンだというその子の健気さに、一心に桜を思う自分とが重なってつい優しく接してしまった。

 無駄なことで足掻くのは、惨めで情けない愚行以外の何物でもない。

 だけど、急に豹変した彼は俺が入っている箱を蹴りはじめたようだった。

 はっきり言ってその振動と音は俺にダメージを与えるばかりだったけど、それでも何故か、本当に何故かわからないけど涙が出そうになる。

 こんなにも汚い俺を、自分自身でも軽蔑してしまうほどに汚い俺を、彼は我が身を顧みずに救おうとしている。

 無駄だとか、俺にそんな価値はないとか、君だけでも逃げろとか、粉砕は無理だとか、言わなきゃいけない言葉がたくさんあったはずなのに、俺の口から出るのは震える息ばかりで声にすらならなかった。

 俺は、諦めなくてもいいのだろうか?




『第六幕二十場・蹴破る』




 しばらく部屋には木の箱を蹴り付ける音が響いていたけど、それも段々と小さくなり今では荒い息遣いだけが耳に届く。

 まぁ、自分の呼吸なんだけど。

 やたらと頑丈な箱を蹴りすぎて足の関節がギシギシいってるし、普段使わない筋肉も酷使しすぎて悲鳴を上げている。

 参った。

 蹴り破る気満々だった分、自分の無力さにうんざりする。

 というか、恥ずかしくて神田君に顔向けできない。

 壁に背中を預けて床に座り込んだ俺は、ひびのひとつも入っていない木の箱を眺めながらとにかく呼吸を整えることに集中する。

 体力が回復したらまた蹴らなきゃいけないし…


 ガタンッ


 唐突に箱が揺れた。


 ガンッ、ガンッ


 箱の中から音が聞こえる。

 もしかして神田君が内側から箱を蹴り付けているのかもしれない。

 足を満足に曲げられないだろうから大した威力はないけど、そんなことよりも諦めていたはずの神田君が行動を起こしてくれたのが何よりも嬉しかった。

 無駄とも思えた俺の行動が、それでも神田君の心には響いてくれたんだと思うとうっかり涙が滲みそうになる。

 だけど、昨日からこの状態だったのなら神田君の限界は近いだろう。

 食事どころか水分だって取れていないのだろうから、身体はかなりの倦怠感を訴えているはずだ。

 どうすればいい。

 諦めるなんて絶対にしたくないしする気もないけど、俺達二人の力じゃ脱出することは不可能だ。

 だからと言って誰かが助けに来てくれるなんて都合のいいことは考えていない。

 どうにか知略を巡らせて一刻でも早く脱出しなければ、神田君の身体が持たないかもしれない。


 不意に足音が聞こえた。

 硬質な床に踵がぶつかる音を響かせて、その足音が真っ直ぐにこの部屋に向かってくる。

 しめた。

 人がいるのなら良くも悪くも、少なくとも事態は変わる。

 コイツに扉を開けさせることができれば、きっと事態は好転するだろう。

 全ては一瞬にかかっている。


 ガァンッ!!


 神田君が暴れているのを窘める為か、恐らく足音の持ち主らしき奴が扉を強く蹴り付けた。

 なんつー力してんだよ…

 たった一撃蹴っただけで、扉の蝶番が軋みはじめてんぞ。

 いや、でもこれは好機だ。

 あれなら俺でも蹴り破ることが出来るかもしれない。

 後は神田君が入った箱を死ぬ気で引き擦っていけば…


 ガァンッ!!


 一度蹴って去っていくだろうと思われた奴は、何を思ったのか更に強い力で扉を蹴った。

 その威力は凄まじく、俺の目の前で扉がぶっとんでいく。

 そんな有り得ない光景を唖然と見ていた俺は、その影に気付くことができなかった。

 突然腹部に走る衝撃に、何故いつも俺は腹に攻撃を喰らうのだろうと己の不運を呪いたくなる。

 チャンスは一瞬だってわかっていたのに、簡単に気が逸れてしまった自分自身が情けなくて仕方がない。

 腹に受けた衝撃のまま、ゆっくりと俺の身体が後ろへと傾いていく。

 その瞬間、俺は見た。

 腹に食い込んだもの、それは…


「ぷぎゅぅうっ!」


 ピンクの子豚だった。


「ネギシ…ッ…!!」


 床に倒れたことで最後まで呼べなかったけど、俺の腹に両手両足で必死にへばり付いているのは紛れも無いネギシオだった。

 何故ここにとか疑問は尽きないけど、今はそれよりもネギシオの身体が心配だ。

 あんな重い扉をぶっ飛ばしたのがネギシオなら、骨折くらいしているかもしれない。


「おいっ、お前大丈夫なのか!? どっか痛いところとか、苦しいところとかっ」

「ぷぎっ!」


 いい子の返事をするネギシオにそんな馬鹿なと口を開こうとした瞬間、俺の背中に腕が回りやんわりと身体を起こされた。

 あれ、ネギシオ以外にも誰かいたのか?


「流石貴方のペット、こうも早く見付けることが出来るだなんて思っていませんでしたよ」


 反射的にネギシオから顔を上げると、そこには柔らかな笑みを浮かべた香坂副会長がいた。




『二十一場・脱出』




「へ!? いやいやっ、ちょっと待て! 神田く…神田がまだあの部屋にいるだろうがっ、香坂テメェ聞いてんのか!?」


 現在俺は、腹にへばり付いて離れないネギシオはそのままに、香坂君に腕を掴まれて廊下を無理矢理歩かさせられています。

 どうやら閉じ込められていたのは廃ビルの一室だったらしく、割れたガラスや砂埃に覆われた床には複数の足跡が残っていた。

 きっと犯人達のものに加え、香坂君達の足跡も含まれているんだろう。

 現にこの桜の花びらみたいな足跡はきっとネギシオだろうし。

 いやそれよりも、俺が唖然としていたのをいいことに、強引に俺の手を取り先を歩く香坂君を止めないと。

 神田君を助けに来たのに、肝心の神田君をあの部屋に放置というのは駄目だろう。

 しかし、あの箱を蹴り続けていた俺には香坂君を止められるほどの体力は残されていなかった。

 ちなみに、ドアをぶっ飛ばしたのは香坂君らしい。

 流石にプニプニのネギシオにはそんな芸当は不可能だろうと思っていたから、ほんのちょこっとだけ安心した。


「大丈夫ですよ、後で救助の者が来ますから」

「救助…?」

「えぇ、澤村風紀委員長からの要請で、生徒会役員全員で今回の捜索にあたっていますから」


 澤村委員長の要請…

 有り得ない、有り得ないだろ!?

 うちの学園は何処までも王道だから、風紀委員と生徒会は例に漏れず仲が悪い。

 そんな彼等が互いに協力し合って捜索にあたるなんて、奇跡でも起こらない限り有り得ないだろう。

 まさに薩長同盟の再来だ。


「もちろん私達は協力する気なんてありませんでしたから、澤村兄弟で勝手にしろと言っていたのですが……匿名からの電話で貴方が拉致されたと聞いて…」


 前を歩く香坂君の足が止まったことで、自然と俺の足も歩みを止めてしまう。

 俺の腕を掴んでいる香坂君の手が、本当に微かだけど小さく震えている気がする。

 声も何処か揺れている気もする。

 もしかしなくても、これは心配させてしまったのだろうか。


「香坂……」

「…勘違いしないでください。貴方を救出に来たのは、貴方が生徒会の顧問だからです。ですが、……もう二度と、こんなことはごめんです」


 俺の位置から香坂君の顔は見えないけど、きっと言葉とは裏腹に苦しげに歪められているんだろうなってことはわかる。

 考えてもみなかった。

 神田君を助けることばかりを考えていたから、自分が攫われたことによって誰かにこんな想いをさせていただなんて。


「……ぷ」


 未だに腹にへばり付いているネギシオだって、ピンクの身体をプルプル震わせ目をうるうると潤ませている。

 必死に俺の存在を確かめるその姿にゆっくりとその背中を撫でてやりながら、掴まれていた腕をやんわりと解いて逆に自分から香坂君の手を握った。

 途端にビクッと香坂君の肩が跳ねるけど、繋いだ手を振り解かれることはない。


「香坂、助けに来てくれてサンキュな」

「貴方は温和しく実験準備室にでも引き篭っていればいいんですよ」


 そういって振り返った香坂君の顔は、辛うじて笑顔になってはいるもののそこからはいつもの腹黒オーラは感じられない。

 心なしか嫌みも擽ったく感じてしまうから不思議だ。


「はいはい、言われなくても引き篭るっつーの」

「ぷぎぅ」

「ネギシオもありがとな」


 ご丁寧に殴られた場所に鼻先を押し付けてぐりぐりと甘えてくるネギシオに、堪らない愛しさと痛みを感じる。

 嗚呼、助かったのか。

 神田君にも俺の正体はバレなかったみたいだし、これで大団円だ。

 ……大団円か?




『二十二場・神田家』




 恐ろしい。

 今更だが、恐ろしいことに気が付いた。

 気絶させられた際に取り上げられた携帯の存在に、自室に辿り着いてから気付いてしまったのだ。

 別に中身を見られて腐バレするとかそんなんで焦っているわけじゃない。

 それ以前に、この俺がそんな証拠になるようなものをホイホイ携帯に入れているはずがない。

 大人の腐男子を舐めんなよ!

 そんなことよりも今は携帯だ。

 とっくに悪魔からの連絡が来ているはずなんだ。

 それなのに俺はその連絡に対して返事をしていない。

 つまりは、向こうからすれば俺がガン無視していると感じているはずだ。

 マズイ、マズ過ぎる。

 アイツのことだから学園のセキュリティなんか軽く突破して、この部屋に光臨しても可笑しくはない。

 俺は未だ腹にへばり付いているネギシオもそのままに、慌ててパソコンの電源ボタンを押した。




 side:澤村藤




 だだっ広い敷地に建つ立派な日本家屋。

 門構えから、計算され尽くした日本庭園から、池を泳ぐ鯉から、何から何まで美しい日本美に囲まれた広大な建ぺい率を誇るお屋敷。

 それと反するように駐車場には高級外車が何台も停めてある。

 まさにヤクザの住まう場所といったところだーよね。

 神田牡丹を攫ったのは、このヤクザだ。


『神田組』


 まさか蓮華センセも、神田牡丹が実家の者に拉致監禁されていただなんて思ってもみなかったんじゃないかな。

 でも菖蒲と芙蓉とオレの力を使えば、こんなことくらいすぐにわかった。

 ただ残念だけど、澤村家は神田組と全く繋がりがなかったから中々手を出す糸口を見付けることが出来なかった。

 しかし、蓮華センセ拉致監禁とくれば黙っていられるわけがない。

 何故か菖蒲と芙蓉も着いて来たけど、もうそんなことに構ってなんかいられない。

 蓮華センセを巻き込んだからには、例え澤村家と相打ちになろうとも神田組には落し前をつけてもらわなければ。


 と、息巻いて来てはみたけど、菖蒲が門を蹴破っても芙蓉が土足で屋敷に上がり込んでも、それらしき人間どころか人っ子一人現れない。

 おかしい。

 お手伝いの者達まで全員出払っていることなど有り得ない。

 典型的な日本屋敷であるからして、広間がありそうな場所も予想はつく。

 早速土足のまま長い廊下を歩いて行くと、不意に空気が張り詰めたのがわかった。

 凍り付くほどの殺気。

 3人の中では最も鈍い菖蒲でさえ立ち止まり顔を歪ませているのだから、気配に敏感な芙蓉なんかは吐き気さえ感じているかも知れない。

 それほどまでの圧倒的な気配に、オレは震え出してしまいそうになる手を叱咤して座敷の障子を開け放った。

 そこには多くのそれらしき男達が立ち並び、抗うことのできない殺気に誰ひとり身動きが取れないでいた。

 その視線の先にいるのは突然現れたオレ達ではなく、たった一人の男に向けられている。


 それは勿論神田組組長その人…ではなく、穏やかな笑みを浮かべた茶髪の好青年だった。

 明らかにヤクザではないし、芙蓉が用意した資料にもこんな男はいなかった。

 その青年は柔らかな物腰に仕立ての良いスーツを着ていることから、御曹子かお忍びでやって来た何処ぞの国の王子のような印象を受ける。

 ただし、この青年から放たれる殺気は常軌を逸していた。

 命のやり取りをする肝の据わったヤクザでさえ、いや、だからこそ理性と本能が危険だと警鐘を鳴らす。

 ゆっくりと青年の青い瞳がコッチに向く。

 菖蒲が息を飲み、芙蓉の肩が強張るのを感じながら、オレはまるで鏡でも見ているような錯覚に陥った。


「あぁ、君達が蓮華の言っていた澤村兄弟だね。話には聞いていたけど、成る程。同じ顔なのに全然雰囲気が違うね」


 ゆっくりと歩き出す青年を、誰も止めることができない。

 今確実にこの場の主導権は彼が握っている。


「僕は伊東藍。ただのサラリーマンだよ」


 にっこりと微笑まれた瞬間、まるで背中に虫が這うような悪寒が走った。




『二十三場・携帯電話』




 大慌てでパソコンを起動させると、悪魔から1通のメールが届いていた。

 カーソルを合わせてクリックすると、画面いっぱいの白地に一文だけポツンと浮かび上がる。


 《携帯、届けるね》


 ………

 ……

 …


 何故お前が持っているぅううう―――ッッ!!!!!?

 えっ、えっ、ちょっと待って!

 もしかして今回の黒幕はコイツ!?

 いやいやいや、アイツは物凄く根っこが捻れ繰り替えってる奴だけど、俺相手にスタンガン喰らわせるような男じゃない。

 というか、アイツが俺に物質的ダメージを喰らわせたことなんて未だかつて一度だってない。

 ってことは、考えられるのはただひとつ。

 あの悪魔、黒幕のところに乗り込みやがった。




 side:澤村菖蒲




 絶対にただのリーマンじゃねぇよ!!

 物凄いオーラを放ちまくってる男の自己紹介に、この場にいた全ての人間が同じ感想を抱いたに違いない。

 学園の生徒会長にして澤村家次期当主であるこの俺でさえ、目の前の男の雰囲気に飲まれて一言も発することができないのだから。

 何なんだ、コイツは。

 やたらと物腰の柔らかそうな形をしているクセに、僅かな隙も見せず威圧感と殺気を放っている。

 そしてその手の中では何かを優しく撫でているようだ。

 あれは………携帯電話?


「……ちょっと、それ。蓮華センセのケータイに見えるんだけど?」

「確かにあの赤いボディには見覚えがある」


 ストラップも何も付いていない携帯を見て、すぐさま持ち主を見抜くなど我が弟達ながら薄ら寒いものを感じる。


「そうそう、僕はこれを返してもらいにここに来たんだ。ね、組長さん?」


 ふんわりと組長らしき着流しの初老に笑みを浮かべる男だが、その背中には天まで突き抜けんばかりのどす黒いオーラが噴出されたのが見えた気がした。

 組長にもそれが見えたのか、いっそ哀れなほど青ざめた顔でガクガクと頷いている。

 それにしても本当にあの携帯は瀬永の物だったのか。

 隣に立つ藤を横目で窺えば、いつも通り飄々と口の端を持ち上げてはいるが身体の横では震えるほど強く拳を握っている。

 それが恐怖からか別の感情からかはわからないが、藤の感情がここまで乱れるのは見たことがないように思う。

 まぁ、藤越しに見える芙蓉は、やはりと言うか何と言うか普段通りの無表情だったが。


「この携帯、君達から蓮華に渡してもらえる? 蓮華は僕のこと苦手みたいなんだよね」


 いや、お前みたいな黒い奴を苦手じゃない人間なんていねぇよ。

 ゆっくりと近付いてくる負のオーラを背負った男に、段々と圧迫感が増していき最早息苦しささえ感じはじめてきた。

 しかし、差し出された携帯を藤は躊躇うことなく受け取る。

 コイツ、どんだけ肝が据わってんだよ…


「貴方、蓮華センセの何なの?」

「んー……他人から見れば幼馴染みってカテゴリーだと思うけど、彼は僕の世界そのものだからね。でも、蓮華にとっての僕は…多分、ストーカーかな」

「ストーカー!?」


 これまで沈黙を守ってきた俺だったが、流石に今の言葉にはつい反応してしまった。

 あの教師とも思えないチャラついた偉そうな男に、まさか幼馴染みのストーカーがいただなんて夢にも思うまい。


「それは、蓮華センセをスキってこと?」


 おいおい藤よ、ストーカー相手に何つーこと聞いてるんだ…


「だから、彼は僕の世界なんだってば。そこには愛も肉欲も憎しみも何もない。そんなモノはとっくに超えてしまっているんだよ。蓮華がいる。ただそれだけで、僕の心は満たされる」


 コイツ、かなりヤバイんじゃないのか?

 世界だの何だの変な言葉ばかり並べて、結局はストーカーが言うことなんて俺には理解できない。

 けど、何故だ。

 何故だかわかんねぇけど、物凄くムカツク。

 コイツにとっての瀬永は世界。

 なら、俺にとっての瀬永は………一体何なんだ?




『二十四場・大団円?』




 side:神田牡丹




 何が起こっているのかわからなかった。

 突然大きな音がしたかと思えば、副会長らしき声が聞こえてそのまま俺のファンだという子を連れて行ってしまった。

 そうして俺は、またこの箱の中で一人になった。

 まるで嵐のような子。

 柔らかな声と叱咤する声が未だに俺の耳について離れない。

 こんな俺なんかを必死に助けようとしてくれたその子のことが、気になって気になって気になって…

 しばらく呆然としていたら、何故か生徒会の会計と書記2人が俺を箱から出してくれた。

 蓮華先生がどうのこうのと言っている生徒会連中の言葉なんて耳には入らない。

 ただ俺はこの胸を満たす、訳のわからない感情を持て余していた。

 もう一度、彼に逢いたい。

 彼の顔を見てみたい。

 そして、ありがとうと伝えたい。

 そして、そして、そして…

 この時ばかりは、桜のことさえも考えられなかった。

 その事実に気付いたのは、寮に戻るなり心配そうに駆け寄ってきた桜を見てからだった。

 俺は、どうしてしまったんだろう……




 side:山吹桜




 紫陽花と桔梗と桃に連れられて、牡丹が寮に帰ってきた。

 狭い箱に閉じ込められていたからか、いつもの爽やかな顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。

 俺がいかにも王道転校生なキャラで抱き着くと、牡丹は嬉しそうに顔を綻ばせて俺の背中に軽く腕を回した。

 哀れな牡丹。

 お前が蓮華に手を出しさえしなければ、こんなことにはならなかったのにな。

 牡丹は連れ去られた時から気付いていたんだろう。

 自分を箱に閉じ込めたのは、恐らく自分の実家…父親の仕業なのだろうと。

 神田組は昔気質の組で、一般人に手を出すことは固く禁じられ破った者は落し前をつけなければならないらしい。

 それは組長の息子であっても例外ではない。

 そんな環境で育ってきたのだから、牡丹は何故こんな仕打ちを受けたのかわかっていたはずだ。

 だけど、どうして親にバレたのかまではわからなかっただろう。

 蓮華は苦し過ぎる言い訳で頑なに口を割らなかったし、うっすらと気付いていた奴らも蓮華を思って口を閉ざしていた。

 何を隠そう、今回の黒幕は…


「お前も悪だね~、転校生の山吹桜く~ん?」

「うっせぇな。テメェもいい加減素で喋ろよ、欝陶しい」


 消灯時間から2時間後。

 俺の部屋に一人の男がやって来た。

 今回俺と手を組んだ性悪。

 我が物顔でソファに腰を下ろしたその男は、やたらと長い足を優雅に組み顔にかかる紫の髪をゆっくりと掻き上げている。

 かなりムカツクけど、やはり年相応の色気があるのは認めざるを得ないだろう。

 流石、この学園1下半身が緩いだけのことはある。


「お前なぁ、今回俺がどんだけ手を貸してやったと思ってんだ。テメェが山吹財閥の力を使いたくねぇっつったから、この俺が自ら手を回したんだぞ? 蓮華が関わってなかったらゼッテェ協力しなかったけどな」

「東……テメェ、あの緩い喋り方もムカツクけど、素は素でうるせぇ野郎だな」


 パソコンデスク用の椅子に腰掛けた俺にダラダラと悪態を吐く東を見ることもなく、俺はひたすらにパソコンへと向かう。


「不服だが、今回は共犯だろうが。いつもみてぇに可愛くしてろよ。俺は蓮華以外はその他にカテゴライズされるから、桜も優しーく抱いてやるぜ?」


 いつの間に立ったのか、東が後ろから俺を抱き締めてくる。

 途端にゾワッと寒気が走り、とっさに東の腹に肘鉄を喰らわせてしまった。

 そのあまりの痛みに床に屈み込んでしまった東を見下ろし、俺は共犯にコイツを選んだことを激しく後悔してしまう。

 人選はもっと慎重にすれば良かった…

 俺は再びパソコンに向かうと、神田組のメインコンピュータにハッキングを開始した。

 蓮華の腹を殴った上にスタンガンを喰らわせた組員を血祭りに上げるためだ。

 腹を踏んだ牡丹があの仕打ちだったんだ。

 この組員には地獄巡りをしてもらおうじゃないか。

 こうして俺と東の復讐劇は夜明けまで続いたのだった。

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