変装
「剥奪屋さん? 剥奪屋さん。大丈夫かしら?」
精神世界から戻って、強い疲労を感じた。剥奪スキルは長く潜ると身体じゃなく心が疲れる。……そんなことは分かっていたのに。
「顔色が悪いわ。いろいろと準備が必要だし、発動中はまったく反応しないし、反動もあるし、とても制限の強いスキルなのね」
心配されてしまった。すみませんその準備ってほとんど雰囲気作りだし反動も普段はこんな感じではないです。
「大丈夫です。まだ未熟なもので、少し手間取ってしまいました。ですが、スキルの方は問題なく剥奪できましたよ」
わたしはまだ握手していた手を離して開く。そこには薄い水色の、小さな輝石があった。
これが速読のスキル輝石。別になんでもない、普段なら剥奪に手間取ったりなんてするはずのない、普通の習得スキル。
「間違っていないか確かめていただきたいので、少々お待ち下さいね」
わたしは大丈夫であることを示すためにも、すっくと立ち上がってしっかりした足取りで棚へ向かう。疲労はしてるけれど、これくらいは普通にできる程度だ。心配してもらう方が申し訳ない。
棚にある本の並びに目を向ける。その中の一冊にピクリと指が動いたが、首を横に振って別の背表紙を手に取った。
本を持って、丸眼鏡の女性の元へ戻る。
「こちらを読んでみてください」
そう言って差し出した本は、さっき話していたシリーズの第一巻。
確実に彼女がすでに読んでいるであろう一冊。
「あら、気を遣ってくれてありがとう。嬉しいわ」
女性の顔がほころぶ。低いテーブルの上には、栞が挟まれた最新刊があった。
手を伸ばせば届く位置にあったけれど、その新刊を読みたくて剥奪を依頼にきてくれた人だ。万が一を考えるならすでに読んだ本の方がいいと思って持って来たのだけれど、どうやら正解だったようでなによりだ。
本を手渡す。女性が最初の一ページ目を開く。しばらくして次のページへ。ほどなく、彼女は頷いた。
「ありがとう。ちゃんと速読のスキルは無くなっているみたいだわ」
「良かったです。では、これでスキルの剥奪は終了です。ですが、もしなにか体調などに不調がありましたら、早めに戻すことをおすすめします」
「ええ。それと、早めに別の有用なスキルを取るように、ね?」
「はい。よろしくお願いします」
とりあえず、完璧。最初に本を置き忘れていたときはどうなるものかと思ったけれど、あれも結果的には良い方向へ働いたと思う。
だから問題ない。たぶん、きっと。
「遅くに来てしまったのにごめんなさいね。今日は閉めるところだったのでしょう?」
「それは……はい。ですがわたし一人のお店ですし、そこまで時間にきっちりやっているわけではありませんので、問題はありません」
「本当に助かったわ。リレリアンちゃんにあなたのことを聞いたのが遅くってね。本当は日を改めようと思っていたけれど、居ても立ってもいられなくって」
丸眼鏡の女性は話しながら財布を取り出しお代を渡してくれる。そして、晴れやかな笑顔を向けてくれた。
「やっぱりダメね。あなたとはもっと話したかったけれど、早く新刊を読みたいもの。またいつか、どこかで会ったらお話しましょう。絶対よ」
「ええ、ぜひ。では、そのときの最初の話題はもちろん――新刊の感想についてですね」
「いいわね、それ。とてもいいわ!」
どこかで会ったら、なんていつ果たされるとも分からない曖昧なお誘いに、当たり障りのない約束をしてお別れする。
玄関先までお見送りしたらすっかり暗くなっていて、心配になったけれど慣れた道だからと笑われてしまった。まだ夜も早い時間だし、ピペルパン通りは治安がいいから大丈夫なのだろう。
最後に彼女は振り返って、小さく手を振る。
「それじゃあね、剥奪屋さん。いいえ、アネッタさん」
「はい。お気を付けて、ステラさん」
そのまま女性は月明かりの中を行ってしまって、その背が見えなくなってから、わたしはやっと胸の奥の緊張を吐き出した。
扉にかかっていたプレートを裏返す。家の中に入り、玄関の鍵を閉めて、頭を抱えて座り込む。
やってしまった。
――どうしても気になってしまって、相手の所持スキルを余分に見てしまっただなんて、そんな失態は二度とすまい。こんなに自己嫌悪でのたうち回りそうになってしまうのだから。
「グレスリーさん、こんなとこでよくそんなの読めますね? 俺は見てるだけで酔いそうですよ」
馬車の振動に揺られながら本を読んでいると、向かいに座る男……マルクが苦言を呈してきた。
片眼鏡の位置を調整して、その姿を見る。軍服姿の彼はなかなか久しぶりだな。
我々は民間用に偽装した馬車で大通りを移動していた。
「以前は酔っていましたよ。ですが、戦時はそんなことを気にしていられませんでしたから、慣れました」
あのころはとにかく時間に追われていた。移動時間を無駄にする暇などなかった。乗り物酔いは酷い方だったような気がするが、この身が少々吐く程度で勝てるのならばなんの問題もなかった。
まあ、戦争の終わった今はそれなりに暇もできたのだが……馬車の揺れに慣れてしまったので、今度は逆に移動中になにかしていないともったいないと感じるようになってしまったのは困ったものだ。
「あたしはどっちかと言うと、読んでる本の題名にびっくりデスけどね。それ、お仕事用じゃなくって大衆小説デスよね? ぜんぜんイメージないんデスけど」
向かいに座る軍服姿のミクリが肩をすくめる。そりゃあ暇ができたのは最近だから、そうでしょうね。
「大衆小説もいいですよ。これは主人公が一目惚れしたヒロインのために頑張る冒険活劇ですが、生物が機械の代替品になっている世界なのでなかなか奇抜な話になっています。軸は正統派で単純にもかかわらず、独創的な世界観と情景が新しい感動を生んでいる。伝統的な文学にはない面白さだと思いませんか?」
「そもそもお前が小説を読むことに驚いているのだがな。……しかも、一目惚れの物語か。そういうものとはもっとも縁遠い男だろう」
向かいに座る軍服姿のロア・エルドブリンクス殿下が腕を組んで、理解不能という顔をする。
まったく失礼なことだと思うが、彼がそういう顔をするのも無理はない。
色恋は情動。つまり感情であり感動だ。この身は冷血という、精神干渉を受けない代わりに感情の起伏がなくなるスキルを持っていたから、そういう感情は知ってはいても理解できなかった。
……いや、今でも理解できているかと言うと怪しいが、こうやって物語を読んで楽しむくらいのことはできるようになっている。
「ジャック」
向かいに座る人物の名を呼ぶ。これも偽名だが、個人情報のすべてを消却されたこの相手に本名はない。
「これから行くスキル剥奪屋では、その三人にはならないように。無用に混乱させるだけですからね」
「了解しました。では、最近知り合った新兵にでもなっておきます」
向かいに座る、おそらく軍学校を卒業したばかりの若々しい新兵が座ったまま敬礼する。
「ナトリ二等兵ですね。真面目で人当たりがよく教官からの評判もいいが、能力的には目立ったところがない人物です。彼ならいいでしょう」
「そういう、ロア隊に配属する予定すらない新人のデータも完璧に記憶しているような、仕事の虫があなたのイメージですよ。グレスリー・ドロゥマン」