丸眼鏡の女性
窓の外へ視線を送って、そろそろ完全に日が沈むくらいの時間になったことを確認して、わたしは安堵の息を吐いた。
スキル剥奪屋。それがわたしのお店で、その名の通り不要なスキルを取り除くのをお仕事にしている。
まあ立地も悪いし剥奪してほしいスキルを持つ人なんてあまりいないから、お客さんは少ないのだけれど。でもそれで油断なんてしてだらけきっていたら、もし人が来たときにすごく恥ずかしい思いをするのではないか……なんて考えてしまうから、誰も来なくてソファで読書などをしていても、お店が開いている間は一応身構えているものだ。
だから、閉店時間になって玄関の扉にかかったプレートを裏返して、やっと肩の力が抜ける。
今日もその時間がやってきた。一日お疲れ様わたし。お客さん一人もいなかったからなんにもやってないけど。
……よくこんな調子でやっていけているな、って思うこともある。でもいわゆるハズレスキルで困っている人は少ないなりにいるようで、幸いなことに今のところは食べていけていた。
パタンと読んでいた本に栞を挟んで閉じた。低いテーブルの上に置き、ソファから立ち上がる。
いったいこの先の展開はどうなるのだろうか。今まで読んでいた小説の内容を妄想しながら、玄関へ向かう。扉を開ける。
そして。
「あ、すみませーん。こちらが不要なスキルを取り除いていただけるお店です?」
すっかり油断していたわたしは、変な顔で固まってしまった。
「いやぁね、最近変なスキルを習得しちゃったのよ。いわゆるハズレスキルってやつね。それで制御もできないしあると邪魔だからどうにかしたいなって思ってるんだけど、でも封印具とかってずっと付けてないといけないでしょう? それ嫌なのよね。あたし装飾品って慣れなくって、ネックレスするだけで肩凝っちゃうもの。それでね、どうしようかなって困ってたら、お肉屋のリレリアンちゃんがここでスキルを取り除いてくれるって教えてくれたのよ。あの子、しっかりした子よねぇ。この間もお祭りの準備でたくさんお肉注文したら配達してくれてね、とっても助かっちゃったわ。あなたあの子と幼馴染みなんですって?」
来店されたのは中年の女性の方だった。無理。
「リ、リレリアンの紹介なんですね。とりあえず、こちらへどうぞ、お座り下さい」
「あらあら、ありがとうね。やだあたしったら、話し始めると止まらなくって」
さっきまでわたしが座って本を読んでいた、いつもの接客するスペースへと案内する。つまりまだ立ったままでこの調子である。言葉が洪水のようでクラクラしそう。
ソファに座ってもらって、わたしも対面に座って、低いテーブル越しに改めてその人を観察する。少しだけ白髪が混じる痩せた女性で、大きくて丸い眼鏡と人好きのする笑顔が愛嬌を醸し出していた。さっき自分で言っていたように装飾品が苦手なのか、飾り気のない格好だ。
まあつまり、普通の中年女性に見えた。リレリアンが配達できるところに住んでいるなら、たぶんピペルパン通りの人だろう。
どうやら最近ハズレスキルを習得してしまってそれを取り除きに来たみたいだが、こうしていきなり世間話から入ってくるなら、緊急性があるものという感じはしない。
……できれば、厄介で危急性の高いスキルで来てほしかった。いえ、不謹慎なことを考えてしまって大変申し訳ないのだけれど、その方がすぐに本題に入れるから。
わたしは人と関わることが大の苦手なのだ。特にこういう人は本当にダメ。ああやって一気に話されるとどれに返したら分からなくなって、そうですね、とか、そうなんですか、とかしか言えなくなって、後で絶対に吐く。
「あら? これは……」
大きな丸眼鏡の奥の瞳が、低いテーブルの上にあったそれを見る。ハッとしてわたしは失敗に気づく。もう玄関にかかったプレートを裏返すだけだったから油断した。
さっきまで読んでいた小説、片付けていなかった……。
「まあ、この小説、あのエルヴァリ・スティン先生の新作じゃない! あたしの大好きなシリーズだわ。買ったけれどまだ読めてないのよね! ねえどうだった? 面白かったかしらっ?」
しかも同志だった!
「わたしもまだ途中までしか読んでないのですが、ええ、面白いですよ。今回もスティン先生の詩的な表現とグロテスクな世界観が炸裂しています」
「そう、そうなのよ! 品種改良された生き物が機械の代わりをする世界の質感とか生臭さとか、終わった倫理観がリアルに書かれてて最初はウッてくるんだけど、それを美しく魅せる文章にいつのまにか引き込まれていくのよね。生命に対して人の心が擦り切れた世界なのに、生物機械工の主人公が特別まっすぐな人なのがいいわ。ああ、読むのが楽しみ!」
まずい、まさかこんなシュールな小説を読んでる人がお客さんだなんて思わなかった。
このまま盛り上がってしまうのはいけない。数時間コースだ。マイナーな小説の話なんて無限にできてしまうのだから確実だ。なんなら他の本に飛び火するかもしれない。
いえ、わたしだって好きな小説のことで語りたいという思いはあるのだけど。同じ小説が好きな人とならもしかしたら上手くお話できるのではって少しだけ考えちゃうけれど。でもやっぱりダメ、解釈違いがあったら耐えられない。いつもとは違う理由で吐くかも。
「お恥ずかしい。営業中ですが、今日はあまり忙しくなかったのでつい読み進めてしまいました」
「いえいえ、待ち時間って暇ですものね。そういうときに息を抜くのは悪いことじゃないわよ。それに新作ですもの。つい手が伸びてしまう気持ち、すごく分かるわ」
営業中のほとんどは待ち時間です。……じゃなくて、なんとか本題に入らないと。このままでは相手のペースが続いちゃう。
「良かったわ。本に興味ある人なら笑わずに聞いてもらえそう。実はあなたに取り除いてほしいスキルって、本に関係するものなのよ」
けれど丸眼鏡の女性は羨ましそうに本の間に挟まった栞の端を眺めながら、自分から本題を口にした。
「あたしが困ってるスキルは、速読なの」