予期しない来客の多い日
疎外感があった。
このピペルパン通りにやって来て、その町並みを見て、私が勝手に積もらせる疎外感。宮廷でも戦場でもない、優しい人々が暖かな日常を過ごすこの場所には、誰に拒絶されたわけでもないのに私の居場所はないように思えた。
けれどシシと共に生活したここ最近は、そんな疎外感を忘れることが多かった気がする。
路地裏のスリの子供と知り合ったのは完全にただの偶然だった。その子供に緑の手のスキル輝石を渡そうと思ったのは気まぐれのようなものであり、こうなることは決して意図などしていなかった。
だから自分では気づいていなかったが、私は存外に今の生活が気に入っていたらしい。
生意気でやんちゃな子供の世話をし、礼節とマナーを教え、まっとうな仕事に就けるよう訓練する日常は……少しだけこの暖かい日々を送る町並みの一員になれたような、そんな気がするものだったと、こうなって初めて気づかされた。
「進化ならば、変質の可能性がある……か」
ゆっくりと歩きながら、さきほどのアネッタ殿との会話を思い出す。
剥奪屋からの帰り道は短い。隣家なのだから当然だ。玄関を出て、庭を抜けて、通りを数歩。自分の家の庭へ入り玄関へ。
どれだけゆっくり歩いても、その間に考えられることは少ない。
――シシが緑の手のスキル輝石を使用したとして、スキルがいきなり複合進化する可能性は、やはり限りなく低いと考えていいだろう。
そもそもスキルが進化することは希だ。習熟していけば必ず進化するというものではないが、習熟していないスキルはまず進化しない。
アネッタ殿も一応出しただけで、本当にそうなるとは考えていなさそうだった。きっと前例などないに違いない。
しかしそれでも、そのわずかな可能性を考慮するとしたら……進化するならば複合進化だろう、という話が引っかかる。
複合進化、つまりすでに持っている他のスキルとの合成。もしシシが緑の手と相性の良すぎるスキルを持っていれば、ごくごく低確率で起こりうる現象。
ならば、持っているスキルが一つでも少ない今の方が、試すにはいいのではないか。
今のシシの様子を見ていれば、植物関連のスキルを習得するのも遠くはない気がする。そして緑の手はおそらく、そういったスキルと相性がいい。
もしシシが植物関連のスキルを発現したら、スキル輝石を使用するタイミングにはより一層慎重にならないといけなくなるだろう。
「つまり二択か」
自分の家の玄関まで辿り着いて、私はそう呟いた。
今すぐ試すか、じっくり育てて確実性を増すか。
「いや、選択肢などないな」
ため息のように諦観を口にしながら、ドアノブに手を伸ばす。迷うまでもなく、正しい答えは揺るぎなかった。今すぐ試すべきだ。
長兄殿から催促が来ており、結果が失敗だったとしてもスキル輝石の回収率が高い今、試さない理由はない。
隣家への帰り道の、ほんの短い距離の間に出てしまった結論に、少しだけ寂寥感があった。いずれは終わる日常だったと理解はしていても、もう少しだけ続くものと思っていたから。
ああそうか。つまり私は、シシはちゃんと緑の手を発現するだろうと予想しているのだ。
ドアノブを掴む。そして回さずに手を離す。振り返って自分の家の、ここ最近でずいぶん華やかになった庭を眺めた。
朱い夕の時間はもう終わって、今は月明かりが淡く降り注いでいる。そんなささやかな明かりを受けて咲く花々を、私はやっと心から美しいと感じた。
雑草の一つも無く、美しい花々が咲く、誰に見せても恥ずかしくないだろうよく手入れされた庭。その庭をゆっくりと歩いて、また通りへと出る。
道の先から蹄と車輪の音と共に馬車がやって来るのが見えた。普通の馬車に偽装しているが、この辺りを乗り合い馬車は通らない。
――今日は予期しない来客の多い日だ。
「どうした、グレスリー。直接話さなければならない事項でもあったか?」
予想したとおり我が家の前で馬車は停まって、私は降りてきた細身の中年男性に声をかける。
片眼鏡のその男はグレスリー・ドロゥマン。鉄面皮の二つ名を持つ、我が隊の作戦参謀。
「ええ。それはもう」
まあそんな二つ名は、冷血を失ってからはもはや過去の話だ。今の彼は引きつった笑いを隠しもしなかった。
……しかし否定しないか。それは盗聴の恐れのある電話ではできない話ということだ。
今回の件について、グレスリーにはだいたいの流れを話してあった。なんならシシについて調べ物もしてもらっている。
といっても、大したことではない。身元の特定だ。シシは南部戦線の折に戦災孤児になったのだから、それまでは普通に暮らしていたはず。ならば家や土地など、なにかしらの財産が残っているかもしれない。もしあれば今後のシシの役にも立つだろう――そう考えての調査依頼。
それに関しては外に漏れても問題ない結果しか出ないと思っていたのだが、もしかしてなにかあったのか。
「本日、長兄様の遣いが訪ねて来たのは把握しております。用件はなんでした?」
「例の件の催促だな」
「でしょうな。どうも長兄様は良い薬を開発されたようなのですが、量産の目途がたたないようでして。なんでも中央の病院を慰問した際、入院している赤子たちを目にしてその病の根絶を誓約したのだとか」
本当にあの人は王族として真っ当な仕事をしていらっしゃるな。頭が下がる思いだ。
「それで、スキル輝石はいつ使用させるつもりでしょう?」
そう聞かれて、少しだけ言い淀んだ。
「今日、これから試そうと思う」
答えは決まっていた。
私の返答に、グレスリー・ドロゥマンは深く頷く。
――そうして彼は、表情を引き締める。
「あなたの作戦参謀として、いいえ一人の王国臣民として、シシさんとの面会を求めます。ご許可をいただけますか?」