正しい姿勢
『ステラおばさんの簡単お料理レシピ』。それは、時代を変えた料理レシピ本だったらしい。
この本が出るまで、料理レシピ本と言えば一流のプロの料理人が作る最高級のメニューを再現するようなものや、あるいは地方の伝統料理紹介みたいなものだった。出版社が書籍としての格調を求めたそれらは資料としては高い評価を受けたが、あまり売れはしなかった。
しかしこの本には家庭料理を短い時間とわずかな手間で作る方法が書かれており、それが台所を預かる主婦層に大いにウケた。空前の大ヒットを記録し、それを境に大量に増えた似たようなお手軽レシピ本が本屋の棚の面積を大いに占領したのだ……ということらしい。アネッタ殿がそう言っていた。
彼女が本好きなのは把握していたつもりだったが、どうやら想定以上だったかもしれないな。
「少々、適量、ひとつまみ……」
難解な用語もあるが、なるほど全体的には簡単なレシピなのだろう。少なくとも以前長兄殿が読んでいた、錬金術めいた薬品のレシピよりはよほど分かりやすい。
譲ってもらった本を机に広げ、用意する材料と必要な料理道具、作業手順をノートにメモしていく。
与えられた作戦をこなすのは得意だし、多少失敗しても人が死なないのだから南部戦線の戦いよりもよほど気が楽である。内容を暗記しきる必要も、読み終わった用紙を燃やす必要もない。
だというのにこうしてすべてを頭に入れようとしてしまうのは、職業病か、あるいは不安だからか。
「なー、これ意味あるのかよ?」
書き物をしていると、シシが声を掛けてくる。私は顔を上げずに答える。
「正しい姿勢を身につける訓練だ。それと、ちゃんと敬語を使え」
シシには今、水の入ったコップを頭に乗せて歩く訓練をさせている。
人間が背筋を伸ばした姿勢……つまり背骨を真っ直ぐにした姿勢がもっとも安定してバランスを保ちやすい。なので不安定なものが頭に乗っていると、人は自然と正しい姿勢になるものなのだ。私も美しい姿勢を保つ訓練として、子供の頃に似たようなことをやらされたことがある。
ちなみに最初は薄い手帳でやらせていたのだが、シシの方からもっと難易度を高くしろとクレームが来たのでコップにした。丈夫な木製のものだから落としても割れないだろうが、水がかかるのは嫌だろう。我ながら良い緊張感の演出だと思う。
「ハハハ、こんなもので正しい姿勢とやらが身につけられるでございますって? 笑わせてくれないでいただきますかですわよ?」
よし言葉遣いをがんばっているな。その調子だぞ。
ペンを置き、ノートから顔を上げてシシのいる方を見る。そこには片足立ちして大きく反り返り、コップを額に乗せてバランスをとっている子供の姿があった。
すごいな、胴体がほとんど床と平行なほど不安定な体勢なのに身体がブレない。雑技団なみのバランス感覚だ。スリなどやらなくとも大道芸で食べていけたのではないか。
「それはスキルを発動させてるのか?」
「こんなくだらねースキル持ってるわけねーだろですことよ」
「ならあの壁を走ったスキルを使って、そのままそこを歩いてみろ」
そこ、と私は部屋の壁を指し示す。
「ハン、楽勝だろそんなの」
「敬語」
「楽勝でございますですよそんなの」
シシが額にコップを乗せたまま壁へと向かう。足が上がって、壁に足裏をつけて、まるで重力の方向が変わったかのようにそのまま壁を歩く。
なるほど、やはり走るスキルではないな。踏むスキルだ。おそらくあのまま止まることすらできるだろう。
いいスキルだ。本当に。
「シシ。君は今、壁を歩いている。床に平行にな。つまり今の君にとって重力は床方向ではなく壁方向に働いているということだ」
「そーかもなでございますですな」
「しかしコップはそのまま上を向いているし、水も流れこぼれない。それはつまり、君のそのスキルは君自身に作用するものであって所持品にまでは適用されないのだろう。違うか?」
「は? いや、それは知らねーっていうか、いやでもどうなんだろ……わっ!」
バランスを崩したシシが床に尻から落ちる。落ちたコップが鼻先にぶつかる。盛大に水を被る。
「痛――――つぅ! クッソ痛てぇし冷てぇしうぇぇ最悪だチクショウ!」
「スキル発動中に余計なことを考えると集中が切れるぞ。気をつけろ」
「テメェ嵌めやがったな!」
まだまだ余裕そうだったからな。難易度を上げてやったんだ。決して用意した訓練をあっさりこなされて悔しかったわけではないぞ。
……しかし、今のを見て改めて思うが、シシは能力といい気性といい本当に軍人としての素質が高い。緑の手を渡すのが違う意味で惜しくなってくる。
「それと、君が今の私の推測にピンとこないのは当然だな。そもそも壁だけではなく空中の小石を踏んで跳躍もできるスキルが単純な重力操作だとは思わんし、そんなものが君自身だけに作用する純粋な体術系だとも思っていない」
「じゃあなんであんなこと言ったんだよ!」
「否定するためには考えなければならないだろう?」
「最悪だお前!」
まあ、わざとスキルの邪魔をして落としたのは事実だがな。ちゃんと落下しても怪我しない高さで話しかけたじゃないか。
「スキルについて把握しておくのはいいことだぞ。たとえば君がコップを手に持った状態で壁を歩いたとして――つまり君がコップを所持品として認識した状態でスキルの対象に入れたとして、コップを横にしたら中の水は流れ出るのか出ないのか。試してみたいとは思わないか?」
「お前が物好きなのはよく分かったが、なんかムカつくしどうせ掃除すんのこっちだからヤダ」
もう床は濡れているのだから同じだろうに。