ロアへの影響
「さて、シシ。今日からはマナー講習も行っていくからな、厳しくするつもりなので覚悟しろ」
「なんでだ!」
朝。昨日の寝坊のような舐められる失態を繰り返さないよう、早めに起き出す。マトモな寝床の誘惑に加え、こんなにケンコウテキな時間に寝て起きるなんてまずない生活だったからかなりキツい。二度寝したい。三度寝くらいしたい。
それでも気力を振り絞って、あくびしながら昨日の花屋の指示通りに水をやった。そして家に戻ると、あのよく分からない兄ちゃんがまたクソマズいメシが待っていた。これだけは本当に本当にどうにかしろと思う。
そして、その食事の席で言われたのが、マナー講習とかいうトンチキだった。
「なんでもなにも、君は口が悪いからな。それに食事の仕方もなってない。スプーンの持ち方も分からないようではとても上流階級の間で通用しないぞ」
「そりゃあストリート流だからなぁ! ジョウリュウカイキュウなんて意味分かんねーとこなんか縁もねぇんだよ!」
「そうか。これから縁ができるから覚えるといい」
なんなんだコイツは。本当になんなんだ。マナー講習なんか冗談じゃねぇぞ。縁ができるってどういうことだ。いったいなんでそんなこと――いや、そうか。そういうことか。
これから自分にはジョウリュウカイキュウの奴と縁ができる。
そしてコイツは昨日、スリのスキルについて聞いて来た。
「ははーん、なるほど? 相手はだいぶん大物みたいだな?」
まったく考えていなかった。だが、よくよく考えてみればコイツはいいトコのボンボンの臭いがする奴だ。きっと金持ちの集まりにも出入りするんだろう。
どうやらコイツは財布の厚いジョウリュウカイキュウどもに、自分のスリのスキルを使わせるつもりらしい。
そういうことなら分かる。まさかそんな計画があって勧誘されたとは思わなかった。これは自分の想像力がダメだったな。
「おお、よく分かったな。君が相手するのは大物も大物だ。楽しみにしているといい。……もっとも、君がその仕事にふさわしいと判断できたらの話だがな」
やっぱりか。
マナー講習とやらは自然にジョウリュウカイキュウの間に紛れ込むために必要で、ベッドだの花だのも。そりゃそうだ。自分で言うのもなんだが、こんな育ちの悪いガキがそんな集まりの中にいたら目立つに決まってる。財布がなくなったら真っ先に疑われるに違いない。
「ああ分かったぜ。話し方とメシの食い方だな? 覚えてやるよ」
しかし、ストリートの子供にマナーだなんてクソ面倒なこと教え込むなんて、アホほど物好きだな。野良猫に芸を仕込む方がまだ楽だろうに。
――つまり、それだけ稼ぐつもりということか。
待遇が良すぎると思ったんだ。もしかしたら使い捨てじゃなくて、けっこう長期で使ってくれる気があるのかもしれないな。面白いじゃないか。そういうことならもうちょい付き合ってやってもいい。
「勘違いするな。言葉遣いと食事の作法だけで通用するものか。まずは立ち姿に座り方だ。君には、一流の所作を身につけてもらわねばならないのだからな。――ほら、背筋を正せ。顎を引け。テーブルに肘は置くな。正しい姿勢ができるまで、料理を食べることは許さんぞ」
「このマズメシでそれが脅しになるって思ってるのが、兄ちゃんの一番ワケ分からねーとこだよ」
コンコン、とノックする。いつものように三秒の間を置いて、扉の向こうから足音がした。
「はい……あら、ロアさん。おはようございます」
「おはようアネッタ殿。少し相談に乗ってほしいのだが、今時間はあるだろうか?」
アネッタ殿の剥奪屋はそこまではやっているわけではない。なんなら暇な時間の方が多い。客は来ていないのは確認しているので、時間があるのは分かっていた。
「ええ、どうぞ」
店内に迎え入れられる。やはり来客はないようでいつもの客間に通された。
「相談ということですが、緑の手スキルのことでしょうか?」
応接用の硬めのソファに座ると、アネッタ殿がお茶を出してくれた。そうして向かいのソファに彼女も座って、早速とばかりに本題に入る。
どうやら緑の手については気になっているようだ。……そういえば、シシの不要なスキルを剥奪して植物関連のスキルを習得しやすくする案も出してくれていたな。その件だと勘違いさせてしまっているのかもしれない。
「いや、無関係ではないが別件だ」
私は首を横に振ってそう前置きして、用件を口にする。
「実はだな、シシが私の料理をマズいと言ってあまり喜ばないのだ」
「あ、はい」
なんだろうな今の声の感じは。妙に納得している感があったような気がするが。
まあ気のせいだな。
「なにせ子供だからな。好き嫌いが激しいこともあるだろう。だが私はあまり調理の経験がないし、子供が喜ぶような食べ物も思いつかないのだ。なので困ってしまってな」
今朝マズいと言われたし、昨日もあまり嬉しそうにはしていなかった。初日にトマトが嫌いと言っていたからトマトは入れていないが、嫌いなものはそれだけではないのだろう。
正直、剥奪屋とは関係なさ過ぎて少し悪い気もする。だが一番身近でこの件で相談しやすいのが彼女だった。なぜならミクリとマルクは期待できないからだ。
「な、なるほど……子供が好きそうな料理、ですか。そうですね……」
アネッタ殿が言い淀む。
彼女は自炊しているだろうし歳も私よりはシシに近いから聞いてみたのだが、さすがに予想外の質問だったか。困惑させてしまったな。
しかし、自分のこういう突拍子のない話にも真剣に考えて答えてくれるのも、彼女の良いところなのだろう。
「子供ですから、やっぱり甘い物などは好きなのではないでしょうか。ピペルパン通りにお菓子屋さんがあるので、そこでなにか買ってあげたら喜ぶかも……ああでも、甘い物の食べ過ぎは良くないですよね。あと飲食店へ行くとか……って、こんな当たり前のことはもう考えていらっしゃるでしょうし……」
「ああ。その辺りについて検討はしているがな。外食はあまり慣れないのだ、私が」
この町に来てから、私は外食というものをしたことがない。
自分が味にこだわらない人間であるのは自覚している。贅をこらした宮廷料理も、軍で配布されるボソボソの携帯食も、私の感覚ではあまり変わらない。そして町を歩くときにも覚えた私が私自身を責めるような疎外感が、ピペルパン通りにいるときはジクジクとつきまとってくるのだ。
おかげでいつも、必要な物の買い出しくらいしかしないのである。
……とはいえ、それは私だけの問題ではあるのか。シシには経験させておいた方がいいかもしれないな。
「それは意外ですね。でも、ちょっと分かります。外食はわたしも慣れませんから」
言われて初めて気づいたが、そういえばアネッタ殿が外で食事を摂っていたことはなかった。
そうか、外食が苦手だったのか。彼女にもなにか理由があるのかもな。
「あ、そうだ。いいものがありますよ」
ポンと手を叩いて、アネッタ殿が席を立った。そして棚の方へ向かう。――その様子に、既視感があった。
待て。緑の手のスキル輝石が出てきたときと同じ展開だぞ。まさか料理のスキル輝石でも持ってくるつもりか?
そう目を見張って様子を眺めていたが、少女は棚の引き出しは開けなかった。代わりに並んでいる書物を一つ引き抜いて持ってくる。
見せられた本の題名は『ステラおばさんの簡単お料理レシピ』。
「少し古い物ですが、料理レシピの本です。難しいものはありませんし、子供が好きそうなものも多く書いてありました。わたしはもう読まないので、お譲りしますね。――料理はレシピ通りに作れば、十分美味しくなるものですから」