夜の町並み
ポツポツと間隔を空けて外灯が照らす夜のピペルパン通りを、一人で歩く。
涼しげな夜の風が頬を撫でる。昼とは打って変わって人通りは少なく、先ほど早足で酒場へ向かう者とすれ違ったくらいで、石畳を踏む自分の足音が響くほど静かだ。そもそもこの辺りには夜に開いている店がそんなにないのだろう。わざわざ暗い夜に出歩く意味がないのではないか。
中央区の夜の賑わいも、戦場の夜のピリつきもない。穏やかで静かな夜。この町並みはいつも私の知らなかった景色を見せるらしい。
それでも、こんな場所にだって暗い影はある。シシもそうだっただろうし、試しに探ってみれば外灯の明かりの届かない路地裏に、チンピラらしき気配が少しあった。
――そのことに、安心する自分がいる。
安堵。
通常の人間ならば、恐怖し目を背けるのだろう。近寄らないようにし、遭遇したら逃げるに違いない。
けれど私はその場所に心地よく感じるのだ。
結局のところ、そちらが私の領域なのだろう。なにかあっても暴力でどうにでもなる場所が自分の安息地。
周囲を威圧していれば良かった以前がどれだけ楽だったことか。
「……よい夜だな」
不要だ。そう、自分の感傷を切り捨てた。
路地裏でたむろしているのはどうせ小者だ。危うさを感じない。集まっているのは暇な若者で、せいぜいやっているのは酒かタバコというところか。
一応、私は軍から距離を置く際に、自身の威圧スキル制御と民間の治安改善を建前としている。だからああいうのも私にとって無関係ではないのだが……まあ、わざわざ関わるまでもないだろう。
少しだけ遠回りして、大通りを外れる。人の気配のない場所を通る。
そうして辿り着いたのは、以前も来た場所だった。ノックする。
「夜分に失礼、ロアです。ご在宅ですか、イーロ博士」
窓から明かりが漏れているから、気配を探るまでもなく在宅なのは分かる。十秒ほど待って扉の鍵が開く音がした。
「これはこれはこんばんは、ロア殿下。ようこそいらっしゃいました。ところで、いつからワシの家は王室御用達になったのかな?」
「ふむ、ロイヤルワラントの紋章を申請しておこうか?」
「アハハハ、学会で掲げると箔が付きそうだねぇ」
私が知る中で、スキルについて造詣が深い人物は三人。
一人は隣人で剥奪屋のアネッタ殿。彼女はスキルの専門職だし、店を開いているのでいつでも相談できるのがありがたい。ただし専門職であっても体系的に学んだわけではなく、その知識の多くは剥奪屋としての経験によるものになる。
二人目は姉のセレスディア・エルドブリンクス。スキル史学の研究者であり、知識系の最高峰たる天啓スキルを持つ彼女はもっとも頼りになる専門家だろう。ただし第一王女なので多忙であり、血縁である自分でも簡単に会える人物ではない。
三人目は中央区の大学教授でありピペルパン通りの知識人、イーロ博士。便利だ。
「――と、まあ現在の状況はこんな感じだな。前例のない試みで手探りなうえ、現在のシシのスキルを剥奪するか否かなどの方針について迷っている。ぜひ貴殿からアドバイスが欲しい」
「うん……その、ね。うん……そっかー……」
コーヒーをいただきながらこれまでの流れを説明すると、イーロ博士は両手の人差し指で眉間を揉みながら目をギュッと瞑っていた。なんだろうなこの反応は。
「まず……そうだね。緑の手のスキル輝石が別のスキルになる可能性が高い、というのはアネッタ君の予想が正しいと思うよ。植物という限定的な他者に作用する成長促進スキルなんて、どこが変化してもおかしくないからね」
緑の手をそんなふうに分析するか。たしかに単純じゃないスキルほどそのまま習得するのは難しそうだ。
「次に、スキル輝石の使用前に植物に触れて準備する、というのはいい考えだと思う。面白い試みだしね。ぜひ結果が出たら話を聞かせてもらいたいな」
「そのときはまた話をしに来よう」
「そして、スリのスキルを剥奪して他のスキルを習得しやすくする、というアイディアだけれど……どうだろうね。ワシはその、呼び水になるかもしれない、という期待には否定的かな」
ほう、アネッタ殿の反対意見か。
「たしかにあるスキルを習得すると、それに似たスキルを取りやすくなる、みたいな説はあるよ。スキルが他のスキル習得の手助けをしているのだ、みたいな言説だね。けれどワシは違うといいたい。あんなのはただの妄言、デタラメ、素人の噂レベルに過ぎないのだと!」
「ああ……あるな。私も聞いたことがある。しかしそこまで否定することもないのではないか?」
積極的に信じているわけではないが、私にも軍学校時代、銃関連のスキルを連続で習得した経験があった。銃の実技はあまり得意ではなかったが、それを機に成績がかなり上位になったのを覚えている。
だからデタラメだの妄言だの言われると少し反発したくなるのだが。
「否定することだよ。まったく納得できる論文が出ていないのに、それをまことしやかに語ってインチキなレッスン教室開いたりハウツー本書いたりする輩がいるんだ。毎日大量にパスタを茹でるだけで最高の料理人になれる、みたいなね」
極論、そして暴論だな。パスタのゆで加減が分かるスキルしか得られないだろうそれ。
けれどまあ、そういうことか。
「――たとえば熱心な学生がノートを必死に取っていたとする。やがてその学生は速記のスキルを手に入れて、それからすぐに記憶力のスキルを手に入れた。これは速記が記憶力の呼び水になったわけではないよね?」
「速記は手で記憶は頭だからな。ノートをとるという行為が、速記と記憶力の両方のスキル開花に繋がっていると考えた方がいいだろう」
「これと同じことが、短期で習得する似たスキルでも起こっているだけなんだね。似ているからこそ、訓練時などで同時に習熟していただけと考えるべきってこと」
なるほど、たしかに頷ける。
このスキル学の博士がここまで言うのなら、少なくともアネッタ殿の案は劇的な期待はできないということでよさそうだ。
少し、安心した。
「つまりスキル剥奪した効果によって植物関係のスキルを習得しても、緑の手を習得する準備にはならないということか」
「そうだね。あと、スキルはその所有者に影響を与えているものもある。スリのスキルを剥奪するとそのシシ君の内面まで変えてしまいかねないから、よく考えた方がいいと思うよ。口調からして、君は今のシシ君を気に入っているようだしね」
私の威圧スキルやグレスリーの冷血スキルのようなことがあるということか。それは、嫌だと感じる。
おそらくイーロ博士の言うとおり、私は存外、シシを気に入っているのだろう。あの歳で私に一杯食わせたシシに対して、私は敬意のようなものを抱いている気がする。
「ありがとうイーロ博士。方針はだいたい決まった」
とりあえず、スキル剥奪は視野に入れない。当初の予定通り植物に触れさせて緑の手スキルが馴染むための準備を整える。
植物関連のスキルは……呼び水にはならないかもしれないが、目安としてはいいかもな。一つ植物に関するスキルを習得したら、緑の手のスキル輝石を試す、というような。
「……ところで、だね。質問したいのだけど……いや、質問したら答えてくれるかを、まず質問したいのだけれどね。いいかな?」
「ん? 別に、この件であなたに秘匿するべき事柄はないが?」
「うん。まあ最終目標が緑の手スキルで薬草を育てたい、という話だったからね。べつに機密事項はないと思うんだけどね。……その、君に緑の手のスキル保持者を探してほしいと依頼したのは、いったい誰なのかとか……聞いてもいいのかな?」
ああ、そういえば言っていなかったかもしれない。たしかに説明不足だったか。反省ものだな。
とはいえイーロ博士なら、それが誰かもう気づいていそうなものだが。
「ハルロンド・エルドブリンクス。私の上の兄上……長兄殿だが、それがなにか?」