空腹
選択肢はなかった。なにせ首根っこを掴まれている状況だ。断ればそのまま地面に叩きつけられるかもしれないのに、首を横に振るバカはしない。
諦めるわけじゃない。隙を見て逃げてしまえばいいのだ。ここは我慢だ。
「……メシは三食かよ?」
「もちろんだ」
「じゃあやってやんよ」
自分だってその場しのぎで頷くくらいの知恵はある。そして、コイツは自分を利用しようとしているのも分かっている。
宝石を渡す、というのは間違いなく詐欺だ。あまりにも見え透いた嘘で舌打ちしそうになったほど。そんな美味い話を信じるほど脳天気じゃない。あれは宝石を餌に自分を上手く利用してやろうという虚言でしかないだろう。
せいぜい、ニンジンを目の前に釣られたバカ馬のように扱ってやろう、というつもりだろう。
けれど、それで逆に興味が湧いた。
つまりコイツはそういう奴だ。嘘を言って他人を利用する悪人。――なら、仕事というのも見当がつく。
なにせ、自分の能力を把握した上でスカウトしているのだ。スリと逃げ足と気配消しができる自分にちょうどいい仕事なんか、どうせロクデモナイことに決まっている。
いいじゃないか。意味が分からん善人より、欲に忠実な悪人の方が分かりやすくてやりやすい。
「そうか。雇用契約成立だな」
トン、と地面に降ろされる。掴まれていた襟首が解放される。
「では着いてこい。まずは私の家に案内しよう」
そうして、男は自分に背を向けて、先に歩き出す。
――それを呆気にとられながら見る。
「待て。待て待て待て。ちょっと待て!」
慌てて呼び止める。呼び止めてしまった。コイツ頭イカレてるのか?
「なに先に行ってやがるんだ。逃げたらどうするんだよ!」
「ん? なぜ逃げるんだ?」
素の返しをするなイカレ野郎。
「まあ、逃げるのであれば捕まえるだけだ。あの追いかけっこはなかなか楽しかったぞ。君はなかなかの逸材だ。このロアが保証しよう」
……遊び気分は舐めすぎだろ。
思わず本当に第二ラウンドを始めてやろうと思ったが、グッと我慢する。自分はまだコイツの能力の全貌を把握できていないどころか、一つもスキルを直接見ていないのだ。未だにどうやって掴まったのかも理解できていない。
悔しいが、コイツがタダ者ではないのは十分に分かった。だから自分はもうコイツを舐めない。
「はぁ……いいよ。着いて行ってやるよ」
それに――どうせ逃げるならタダ飯喰ってからでもいいだろう。家に連れてってくれるってんなら、金目の物も漁れるかもしれないし。
「おいおい兄ちゃん。こんなところに住んでるのか? 空き家ばっかの辺りじゃねぇか」
ロア、と言っただろうか。道を歩く体格の良い兄ちゃんの後ろを着いていくと、どんどんピペルパン通りの外れへと進んで行く。それが予想外で、思わず声をかけた。
「なにか問題あるか?」
「単純に不便だろって話だよ。この通りでも、住むならもっといい土地あんじゃん。あんた意外と貧乏なのか?」
「多少歩く程度で店に着くのだから、不便と言うほどでもないと思うがな」
この辺りは建物が密集しているけれど、それだけの人が住んでいるというわけではない。空き家が目立つというか、古い住居が余っているという感じだ。
旧市街と呼ばれてるのを聞いたことがあるから、昔はもっと人が住んでいた名残なのかもしれない。
だからまあ、こんな街外れじゃなくても住もうと思えば住める家はある。――今日コイツが屋根を壊した、あの家みたいなボロも多いけれど。
「君が不安にならないよう雇い主としてハッキリ言っておくが、金には困っていない。この辺りに居を構えたのは……ふむ?」
「どうしたよ?」
「いや。そういえば、なぜこんな場所に住んでいるのだろうなと思ってな」
「お前本気でバカなんだろ?」
なんで家を買った理由も分からないんだ。
……どうせ見栄張って、この辺りなら安いとかって理由を言いたくないだけだろうが、それならせめてマシなこと言え。
「私のことではないのだがな。まあいい。あの家だ」
じゃあ誰のことだよ。
いまいちコイツがなに言ってるのか分からないが、というかなに考えているのか不明なんだが、とりあえず示された家を見る。
フツーだな。二階建てだし、そこそこ広い庭あるし、ボロじゃなさそうだし良い民家なんじゃないか。家の良し悪しなんか知らないけれど。
とりあえず貧乏じゃなさそうだ。メシは期待してもいいかもな。
とにかく腹が減っていた。空腹で頭がクラクラする。あの家に行けばマトモなメシにありつけるのか。
……本当に期待していいものなのか。騙されているかもしれない。三食って言われたが、もしかしたら犬の餌みたいなもんを出されるかもしれないな。奴隷に与えるならそれで十分だろ。
まあ、今は喰えればなんでもいいか。
「あらロアさん」
空腹を我慢して腹を押さえながら歩いて、目当ての民家に辿り着く直前で第三者に声をかけられた。なんだよ、邪魔するなよとそちらを見る。
「アネッタ殿。どこかへ出かけるのか?」
「いえ。緑の手の話をしたら庭の様子が気になってしまって。これでもお店ですからね。見苦しくないくらいにはしなければと、すこしだけ手入れをしていました」
「そうか。気になるほど荒れてはいなかった気がするが、気を遣っているのだな」
……普通の地味めな姉ちゃんだな。お隣さんか? それにしては親しそうな感じだが、本当に近所づきあいだけの関係か?
ジロジロと見ていると、その女がこっちを見る。目が合う。
何だコイツ? 妙に嘘臭いのに悪人の匂いが全然しねぇ。
「ところで、その子はどうしたんです?」
「ああ。この子はシシと言う。私の家でしばらく面倒を見ることにしたから、これからよろしく頼む」
「……はあ……そうですか」
お前その説明で全部話した顔になるのなんなん? 姉ちゃん困った顔してんじゃねーか。
通報されても知らねーぞ。本気で知った事じゃねーからフォローしないけど。