チェイス
バカにしすぎだ。
完全にただのカモだったはずだ。盗まれたことすら気づいてなかったはずだ。この路地に逃げ込んだのも見られていなかった。
それなのにまさか追ってくるとは思わなかった。しかもこんなに早く来るなんて、完全に意表を突かれた。
――けれど。捕まえる前に声をかけるとはどういうことだ。バカにするな。
「ハッ」
鼻で笑ってやる。バカは笑われて当然だ。
「ずいぶん大切な宝石なんだな。大人しく返せば許す? 手荒にすればコレに傷がつくかもしれないから言ってるだけだろ? 渡した瞬間に首根っこ掴まれてお巡りに突き出されるのがオチだ。騙されるかよ」
「は? そんなつもりは……」
「そんなに返してほしけりゃ受け取りな!」
宝石を親指で弾く。着地点はバカ野郎の居る場所。けれど高く、高く、それこそ受け取り損ねて地面に落ちたら大きなキズがつくだろう高さで。
「な――」
バカの視線が上に向く。落ちてくる宝石を掴むために手を掲げる。
意識がこっちから外れる。
「――バーカ」
パシッ、と。それを落下途中で奪ってやった。
家だか店だかの壁を蹴る。重力なんか知ったことではない。逃げ足なら負けない。この路地裏で自分を捕まえられる者などいない。
垂直な壁を走る。
「壁走りのスキルッ? クソッ」
「手に入れたいものなら待ち受けるんじゃなくて跳びつくべきだ! ま、この高さは無理だろうけどさ!」
バカをバカにしてやりながら屋根の上に登る。もう油断はない。このまま全速力で離れる。
おそらく相手は追跡スキル持ち。半端なことをしてたらすぐに追いついてくる。
問題ない。気配消しのスキルは持ってる。このまま屋根伝いに走って、奴が入り組んだ路地裏に手こずってるうちに距離を離してから気配を消して隠れる。それで追いかけっこは終わりだ。
「高さがどうしたって?」
ゾクッと背筋に怖気が走る。声は下からじゃなかった。まさかの真後ろから。
「嘘だろっ? お前も壁走り持ちかよ!」
「いいや。いいスキルだと思うが、残念ながら持っていない」
体格のいい兄ちゃんが屋根上の足場の悪さをものともせず、冗談みたいなすげぇ綺麗なフォームで迫ってくる。
まずい、速い。直線じゃ追いつかれる。
「だが屋根の上に登るだけなら、べつに壁走りスキルだけの専売特許じゃないだろう。いきなり相手の手札候補を絞るな。もう少し想像力を働かせろ」
ウゼぇコイツ!
「じゃあ跳躍持ちかよチクショウ!」
「いや、スキルは使っていない。ただのパルクールだ」
「分かるかボケ!」
こいつまさか、身体能力だけで秒で屋根上に登って来たのか? 間抜けなバカのくせになんて奴。
歯噛みしながら、屋根の端からジャンプする。隣の建物の屋根へ跳び移る。全力で走る。
「まあ、君が私を信用する理由はない。よって君が私の言葉を信じないのは当然だ。それを想定しなかったのは私の落ち度だな。ゆえに、再度呼びかけよう。止まれ。大人しくその石を返せば許すぞ」
トン、と驚くほど軽い着地音と共に、再び声を掛けられる。
全然全力で跳んでいない、余裕を持って屋根を傷めないように追って来ている足音。……バカにしやがって。
「舐めるなよウスノロ!」
さらに屋根端からジャンプする。隣の建物へ。
けれど今度は低く。
壁へ。壁を走ってそのまま路地の地面へ。
上へ簡単に行けるなら下ならどうだ。二階建ての屋根からなら、落ちればタダじゃすまない――
「ふんっ」
跳び降りやがったっ?
走る速度そのままになんの躊躇もなく跳んで、そのまま地面へ。右手の先から着地し――そのままクルリと前転して落下の勢いを完全に殺しきり、そのまま倒れても起き上がる玩具の人形みたいに立ち上がる。
ホントに人かアイツ。
「誰がウスノロだと?」
「化け物がよ――うわっ!」
悪態を吐こうとして転びかける。なんとか立て直す。クソ、地面の直線はダメだ。もう一度スキルを発動して、壁を走って屋根へ上がる。視線だけを後ろに送る。
化け物は走る速度を殺さぬまま塀を叩くように片手をつき、腕力で乗り上がる。庭木の幹を蹴ってさらに上へ。屋根の縁を掴み、鉄棒で運動するように身体を回転させて屋根上へ。
良し分かった。たしかに速い。だが降りるより登る方が時間がかかる。やっぱ上だ。
そしてもう一つ分かった。
「テメェ何者だよっ?」
「それは言えないな」
「じゃあ軍人だ! お巡りはボンクラばっかだからそんな動きしねぇよ!」
また跳ぶ。屋根の端から次の屋根へ向かう。
すぐに相手も跳んでくる。もう追いつかれる。こっちの首根っこを掴もうと腕が迫る。
ピン、と。親指で小石を弾く。
それはあの緑の宝石ではなく、ただの石。さっき転びかけたときに拾ったもの。中空に浮いたそれは、すごく短い放物線を描き――それを踏む。
重力なんか知らない。ブツリホーソクとか小難しいことなんか習っていない。そんなものに縛られた覚えはない。
宙に放り投げた小石を足場に、さらに跳ぶ。
「なんだと――?」
驚きの声と共に、腕がからぶる。
空中で方向転換して、自分は元の建物の屋根へ。
「ハッ、誰が壁走りのスキルだって言ったんだよ間抜け! そこはボロだから気をつけな!」
言うと同時、空き家の腐った天井にトドメを刺す破砕音。
崩れた足場に落ちていく間抜け面に舌を出してやる。奴がいくら身体能力がすごくても特別なスキルを使ってないのなら、あの体格を支えられない脆い場所は無理だ。
「じゃーな兄ちゃん。思ってたよりは手強かったぜ!」