安物のコーヒーを交わして
結局、箱の中で気絶していたのは兵士さんだったようで、ロアさんとマルクさんはその人を連れてすぐに帰ってしまった。
犯罪者の人が拘束されるとき、隙をついて見張りの兵士を気絶させて入れ替わったということらしい。それは世に一人の犯罪者が放たれてしまったということで、ロアさんたちからしたら目も当てられない失態だろうから、慌ただしく帰ってしまうのも頷ける。
そんな感じだったから、わたしは人と会った後でも吐かずに済んでいた。
わたしはちゃんと全力を尽くしたし、ちゃんと箱の中の人は解錠を持たない別の人だったのを見破った。それにあれだけ焦った様子だったから、わたしが少しくらい粗相をしていたところで二人は覚えていないだろう。
そう思えば気が楽で、肩すかしをくらったような気分。
「そういえば、前もこんな事があったかも……」
ミクリさんという双子の妹さんが来たときも今日みたいに慌ただしく帰ってしまったが、吐いたりとかはしなかったはず。
明確に相手の方がやらかしているときは、自分の失敗を思い悩まなくていい。新しい発見かもしれない。
……そういえば彼女、たしか近所に住んでいるとのことだけれど、あれから会っていないな。どんな顔をすればいいのか分からないから、あまり会いたくはないのだけれど。
「ちょっとは、成長できてるのかなぁ」
うそぶいてみる。今日みたいな例は希だけど、それでも吐かないでいられるのは少し前進した気分。
人と関わるのが苦手だった。人が話しかけてきたら、姉の後ろに隠れて逃げてきた。みんな優しいから笑っていたけれど、わたしは満足に人と会話することすらできない自分がずっと嫌だった。
だから――
「――そういえば、慌ただしくって代金をもらうの忘れていましたね」
失敗に思い至って、むぅ、と眉根を寄せる。
ロアさんもマルクさんも慌てていたし、すぐに脱走犯を追わなければいけなかったから忘れていたのだろう。わざとお金を払わず逃げるような人たちではない。
でも、このまま忘れられたとして、わたしは請求できるだろうか。あのとき払わずに行っちゃいましたよね? って相手の非を指摘できるのか。それは相手を悪者扱いしているようで不快にさせてしまうのではないか。
「まあ。うん。今日はスキルを剥奪したわけではないですからね。料金は発生しないということで……」
考えただけで胃がキリキリしてきて、結局逃げを選んで、やっぱり成長なんてできていないなってベッドに倒れ込む。
「しかし元々は引っ込み思案で人と接するのが苦手でも、一人になったからしっかりしなければと頑張る……そういう人間はありふれているでしょう? まさかその全員にスキル剥奪なんてものが覚醒するはずがない。――おっと、ありがとうございます」
そう話す男のカップが空になっていたので、おかわりを注いであげる。
頭を下げてお礼を言われるが、相手は軍の偉い人だという以上に国を護った英雄の一人だ。こんな安物のコーヒーで申し訳ないほどである。
「実際、そういう人間はどこにでもいくらでもいるねぇ。だけどご存じの通り、覚醒スキルの発現は個人の素質や人格、育った環境など、様々なものが関係すると言われているものだ。だからワシはそういう彼女の気質が大きな意味を持つとは思ってはいるけれど、同時に一因でしかないとも考えているよ」
「つまり、彼女のスキル剥奪は狙って習得することができるモノではないと。残念ですが当然ですな」
グレスリー・ドロゥマンの狙いがアネッタのスキルでなければ、是も非もなく歓迎させてもらうところなのだけどな。
まあ軍を相手に嘘はつけないし、しがない大学教授になにができるわけでもないから、歓迎しようがしまいが知っていることをそのまま話すしかないんだけどね。
「そもそも、アネッタ君のスキルはお姉さんが嫁に行く前に発現していたものだから、再現検証をするなら店を構える前なんだけどね」
「……おおっと、そうか。スキルがあるからあの店を開いたのですから、それはそうだ。きっかけは姉が嫁に行ったからではないのですね。では、どんな契機があったのでしょう?」
「ハハハ、どういう条件が揃いどんなきっかけがあれば覚醒スキルが発現するのか、それを突き止めるのが我々学者の悲願だけど、今のところワシは有力な学説を出せていないんだよねぇ」
「ああ、本当に分からないんですね。そんなに大した事件があったわけではなく、ある日突然発現した感じですか……うん、覚醒らしい」
学者は知識を求めるが、知識とは積めば積むほどに分からないことが増えるものだ。
一つ進めば、二つの分からないことが待っている。そのどちらかへ進めば、今度は四つの知りたいことができる。それの繰り返し。とてもではないが追いつかない。
それでも追ってしまうのが我々学徒なのだが。
「では単刀直入にお聞きしましょう。イーロ教授は、彼女がどうしてあんなスキルを持つに至ったと思いますか?」
うん、この人は学者になる気は微塵もないのだろうな。
知識は使うときのために蓄積しておく物であって、故にその勤勉さは好奇心ではなく義務に近い。真面目ではなく律儀なタイプ――いや、部下の命を預かる立場なのだから、もっと切実か。
たしか彼がアネッタの剥奪で失ったスキルは冷血だったか。精神干渉系のスキルを受け付けない代わりに、感情の起伏がなくなるスキル。……おそらく後者の効果がメインだな。弱さごと己を圧し殺して、作戦参謀をやっていたのではないか。そんな気がする。
「スキルはその人間を映す鏡のようなものだからねぇ」
肩をすくめる。そんなものは分からないよ、と仕草で示す。
持っているスキルを見ればどんな人間か、ある程度は分かるものだ。これでも専門家なので、一般人よりその精度が高いという自負もあるにはある。……けれどそれはあくまで、ある程度でしかない。スキルを見ただけでその人のすべてが分かるだなんて、そんな恥ずかしい傲慢は若い頃に砕け散っている。
でも、だからこそ思うことはある。逆ならばどうだろう、と。
「アネッタ君のことを全部分かってあげられるような人なら、分かるかもしれないね」