新しい、いつもの朝
朝、薄いカーテンを透かす日差しに目を覚まし、ベッドの上でもぞもぞ身じろぎする。
憂鬱だ。また今日が始まるのか、と思ってしまう。
買いだめしておいた食糧は使い切ってしまったはずだ。昨日の食事はジャムを舐めるだけで済ませたから間違いない。あまり人前に出たくはないけれど、人間は食べないと動けなくなってしまうから外に出なければならない。家の中で餓死はさすがに嫌だ。
今日は買い出しに行かなければならない日。それだけで昨日から嫌で、夢見まで悪かった。
起きて外に出なければ、という気持ちと、人に会いたくないという気持ちがせめぎ合って、なかなかベッドから出られなくて、そんな無為の時間に劣等感が積もっていく。
つくづく損な性格だと思う。普通の人はこんなふうにはならないのだろう。わたしはどこまでもダメなのだ。
結局起きるのに三十分ほどかかって、憂鬱なまま身支度をする。
顔を洗って、服を着替えて、髪を纏めておしまい。指輪とか、ネックレスとか、髪飾りとか、装飾品の類は持ってるけどつけたことがない。他の人の記憶に残りたくないから。
持って行くのは財布と家の鍵と買い物用の鞄だけ。窓の戸締まりをちゃんとして、少しでも外に出るのを先延ばしにしたくって念入りにもう一度確認して、ため息を吐きながら外に出る。まだ新しい扉に鍵を掛けた。
朝の日差しと涼やかな風を感じながらゆっくりと歩いて行く。散歩はまあ、嫌いではない。人と会わなければ好きだ。つまりこれから買い物に行くので憂鬱だ。
とりあえずいつものように、フレンさんのお店でお野菜、ベンさんのお店でパン、リレリアンのお店でお肉を買って、紅茶の葉も少なくなっていたからそれも。あとは家で読む本を一冊。
新しいお店に行こうとは思わない。昔から知っている人の方が心の負担が少ないし、別の店を使い始めたと知られたら嫌な顔をされるのではないかと思うと恐い。……もちろん、そんな狭量な人たちじゃないことは知っているけれど、想像しただけで嫌だ。
つまりいつも通り。
調味料はまだいらないか、食糧以外の他の消耗品は大丈夫か、石鹸やマッチは足りていたか。記憶を探るまでもなく、二度外に出るのが嫌なので念入りにチェックだけはしていた。
だからもう考えないといけない事はなくって、それでも商店の並ぶ区画まではまだ少し距離があって。
だから、先日のことを考える。
あの後、わたしはトルティナの因果律操作スキルを剥奪した。結果、発動中だったスキル効果は強制的に停止し、彼女は消えなかった。
問題はその後。
「大丈夫では、あるらしいのだけれど……」
限界以上にスキルを使用したせいか、それともわたしが無理矢理二つもスキルを剥奪したせいなのか、トルティナは気を失ってしまった。
心身に強烈な負荷を受けたのは間違いなく、彼女はそのままマルクさんの運転する車で病院へ連れて行かれて入院したらしい。どうやら今は昏睡状態らしく、命に別状はないと後で聞いたけれど、やっぱり心配だった。
「やあ、おはようアネッタ! 今日はいいトマトが入ってるよ!」
「いらっしゃいアネッタ。ちょうどいいところに来たね。パンが焼きたてだよ」
あの黒いドレスワンピースの少女のことを考えながら歩いて、そしたらいつの間にか目的地に着いてしまっていて、上の空だったことに気づいたのは買い物を済ませた後だった。
どっと血の気が引く。
まずい、フレンさんとベンさんのお店で買い物したのに、記憶がおぼろげだ。
たしか挨拶は返したはず。オススメの品を勧められるまま買って、お金もちゃんと払った記憶がある。――それ以外は? ちょっとした雑談は上手く話せてた? 失礼な事はなにもしていない?
思わず引き返して二人に謝りたくなるけれど、べつに普通に買い物しただけだし、なんにもしてなかったらむしろ変人に見られてしまう。それは嫌だ。
どうしよう。また次に来たとき、前に来たときはちょっと考え事しちゃっていたのですけど失礼はありませんでしたでしょうか、って聞くしかない。でもそれは次に来るまで断頭台に上るような気分を味わい続けるだろうし、もし本当に失礼な事をしていたらそんなに日を空けるのもダメだから明日また外に出なきゃいけなくて、でも、でも――
青ざめながら、その場から逃げるように早足で離れる。とにかくもう早く帰ってベッドに潜り込んでウジ虫みたいになりたかった。
たぶん大丈夫なのだ。ピペルパン通りの人たちはみんな優しいから。
みんな笑顔で優しくて暖かくて、わたしに対しても気さくに声をかけてくれて、でもそんな人たちにも上手く接することができないわたしは本当にダメなのだろう――
「実は最近、中央区でいいコース料理を出す店ができたと聞きましてね。レヌ川を臨む景色が美しくて、月の明るい夜は特にロマンチックなんですよ。どうですかリレリアンさん。俺と一緒に今度行きませんか?」
「アハハ、マルクさんは面白いね。残念だけどテーブルマナーなんて堅苦しいものとは縁遠いんだ」
帰り道にあったお肉屋さんで知ってる二人を見かけて、思わず立ち止まってしまった。
幼なじみのリレリアンと、この前お世話になったマルクさん。……なにをやってるのかあの軍人さんは。
「あ、アネッタじゃん。今日は買い物かい?」
「おっとアネッタさん。俺はサボりじゃなくて交代休憩中なんで、あの危険物にはなにも言わないようにお願いしますね」
立ち止まったのが悪かったのだろう。近寄らずに去ろうかと思ったのに見付かってしまって、たぶん他人から見たらすごくどうでもいいことで青ざめているのがバレないかなと心配になりながら、挨拶する。
「お……おはようございます。リレリアンとマルクさんはいつから知り合いになったんですか?」
「こっちに引っ越して来た初日、必要な物を買い出しした時からかな。ただの肉屋なのにすごい美人がいるなって驚いたものだよ」
「マルクさんは女好きみたいでね、この辺りの可愛い子みんなに声かけてるんだよ。中央から面白い人が来たって、みんなの噂の的さ」
たしか潜伏して悪い人たちの捜査をしてる人だった気がするけれど、それでいいのだろうか。
というかわたし、声かけられてないな……。
「ふむ。新しい環境に馴染めているようで何よりだな、マルク」
落ち着いた声音がした。よく通る声。
振り向くと、いつの間にかロアさんがすぐ近くにいた。
「げぇ、どうしてここにっ?」
「いて当然だろう。我々がここに来た意味まで忘れたか?」
「あ、それはたしかに」
ポン、と手を叩いて納得するマルクさん。
たしかマルクさんは交代休憩中って言っていたから、今もお仕事の最中なのだろう。どうやら足を使って捜査している最中だったらしい。
「どうやら気が緩んでいるようだな。気を引き締めるために懲罰が必要だろう? 遠慮するな、懲罰器具はここにある」
「うおおパイナップル潰せる握力が頭に! 死ぬ、これは死ぬ!」
マルクさんの頭をわしづかみにしてギリギリと力を入れるロアさん。すごい、本当に痛そうだ。パイナップルってどれだけの力があったら潰せるのだろうか。
「ああそうだ。アネッタ殿」
そんなふうに片手だけで部下を拷問しながら、ロアさんは涼しい顔でこちらを振り向いた。
「彼女が今朝、目を覚ましたそうだ。今は身体も精神も安定しているらしい」
「……そうですか。よかったです」
それは最低限の事務的な報告だったけれど、だからこそその言葉はわたしに気を遣っているわけではない、ただの事実なのだと分かって。
胸のつかえが一つ、消えるようだ。
「ねえアネッタ。この二人っていったいなにやってる人なの? あんたロアさんとお隣さんだし知ってるでしょ?」
「ええっと……」
リレリアンが聞いてくるけれど、どう答えるべきかちょっと困る。
二人は潜伏捜査しているらしいが、それを知ってる部外者はわたしだけだ。うかつなことを言ってはいけないけれど、どこまで話していいのか分からないから会話ができない。なにも話さない方がいいまであるのではないか。
「おっとアネッタさん、言ってはいけないですよ。だって少しミステリアスなところがあった方が魅力的に見えるものでしょう?」
片手で頭を掴まれて宙に持ち上げられたマルクさんが言ってくる。意外と余裕そうでいいけれど、それは不審者に見られるだけなのではないか。
まあ言うなというのなら、いわないけれど。
「ふうん。まあ、なんとなく分かるけれどね」
肩をすくめるリレリアン。彼女は妙に勘が鋭いところがあるから、もしかしたら全部お見通しなのかもしれない。
彼女はわたしへと視線を向けて、それからロアさんへと視線を向ける。
「ま、よろしく頼むよ。アネッタはいろいろとアレだからさ」
いかがでしたでしょうか、ピペルパン通りのスキル剥奪屋さん、これにて一章終幕です。
便利で超常的なスキルのある世界の物語、ぱっと思いつくだけでも両手じゃ足りませんよね。僕も一度書いてみたいと思っていて、これが初めての挑戦となります。初めてなのに変化球みたいなことをしたかもな、感はあるのですが、楽しんでいただけたら幸いです。