イーロおじさん
「え?」
まだ新しい木製の扉だ。修理にいくらかかるのだろうか。じゃなくていったいなにが起こった?
「おああああああああああああああああああああっ!」
溶けて無くなるという未曾有の開け方をされた扉の向こうから、叫声をあげて何者かが突撃してくる。
声は男性? 扉を溶かしたのはスキル? 明らかな異常事態。思わず身構えるけれど、こんなのどうしたらいいのか分からない。恐怖で足がすくんで、ソファから立ち上がることもできなくて。
ただ、スコン、と玄関の横に立っていた黒フードの男性が足払いを決めたのを、見届けることしかできなかった。
「――手のひらから溶解液を出すスキルだな。なかなかのランクだ」
鮮やか。
わたしの目では全然追い切れなかったけれど、たぶん足払いをかけて闖入者を転ばせて、そのまま手首を掴んで組み伏せたのだろう。
驚くほどの手際もすごいが、一瞬で手のひらを起点とするスキルだと見破ったのもすごい。手首を掴んでしっかり反撃を封じる拘束の仕方は、素人のわたしが見ても訓練されたものだと分かる。
「言え。誰のさしがねだ?」
「ひ、ヒィィィ……」
黒フードの男性の下から情けない悲鳴があがる。その声にハッとした。
「え? もしかしてイーロさん?」
「あ、あ、あ、アネッタ……助けてぇ」
よく見ればその人は少しふっくらとした中年の男性で、人の良さそうな顔立ちをクシャクシャにして泣きべそをかいていて、どう見てもこのお店の常連さんのイーロおじさんだったのだ。
「……つまり、客か」
粘性の液体になって溶けた扉が床を汚し、眩しい陽光が玄関先に差し込む。その陽の光を受けながら、イーロおじさんを解放した男性は眉をひそめた。……黒フードに隠れているから分からないけれど、たぶん眉をひそめているのだろう。
「す、すまん。ほんっとうにすまない。きょ、今日急に発生したスキルなんだ。しかもまったく制御できん。これのせいでワシは鞄どころか、フォークやスプーンすら持てんのだよ」
「はあ、それで……」
この状況か。
どうやらイーロおじさんはまたハズレスキルを引いたらしい。しかも今回は特大だ。
前はたしか、大食いのスキルだったか。たくさん食べても全然お腹いっぱいにならなくって困るからとってくれと言われた。その前は早食いのスキルで、美味しいものがすぐに無くなってしまうから要らないって言っていた。たしかその以前は、辛いものでも平気で食べられてしまうスキルだったか。なんだか毎回食べ物に関するスキルだ。
「それでうっかり、いつものように扉を開けようとしてドアを溶かしたんですね」
「べ、弁償するから……ああ、でもすまない。朝いきなりこのスキルが発生したものだから、今は財布も持っていないんだ」
「ではツケにしておきますね」
まあ仕方がないでしょう。わざとではなかったようだし。
「あの速度で扉を溶かすとなると、非常に殺傷力の高いスキルだな。特に武器が必要ないのが暗殺用として優秀だ。本当に一般人なのか?」
「イーロおじさんは博士号を持ってますから、一般人かと言われると難しいですね」
「いやいや、大学教授なんてなんの特権もないしね。普通の平民だよ」
「学者なのか……?」
一般人どころか知識人だったのがそうとう意外だったのだろう。わたしも最初はそうだったからよく分かる。
この丸鼻の小太りな中年おじさんは、王都大学の教授にして本を何冊も出しているけっこう名の通った学者さん。……まあピペルパン通りでよく見かけるのは、酔っ払って酒瓶を抱えている姿なんだけれど。
ちなみにイーロ博士って呼ぶと照れるので、みんなイーロおじさんと呼んでいる。
「まあ、分かりました。イーロおじさんの用件はそのスキルの除去ですね。とりあえず座って待っていて下さい。先にこちらの御方の番になりますので」
「いや。私は後で大丈夫だ」
イーロおじさんに順番待ちの椅子を勧めると、黒フードの男性はそれを遮った。
「私のスキルは危急性が高いわけではない。君も、鼻が痒くなってその手で掻いたら鼻がなくなってしまった、などという大惨事は見たくないだろう?」
それはたしかに。
「常連の彼に順番を譲ろう。手持ちもないようだし、なんなら今日のところは代金や扉代も奢ろうじゃないか。先ほどは私の早とちりで、手荒なまねをして申し訳なかったしな」
「ええっ、いいのかい? 怪我もなかったし、そんなにしてもらうほどのことではないよ?」
「これもなにかの縁ですよ。……ですがそうですね。その代わりと言ってはなんですが、私に彼女のスキル行使の見学をさせてください。スキル剥奪とは初めて聞きますから、いったいどういうものか見ておきたいのです」
ああ、珍しいスキルだから不安なのか。たしかにピペルパン通りで、他に持っている人がいるという話は聞かない。
……けれど、珍しいスキルだからこそ価格設定は高めにしてある。
まあ、わたしは人と関わるのが苦手だからなるべくお客さんを少なくしたいし、でもそれで生活するためには単価を上げるしかないという情けない事情もあるのだけど。
だから扉の修理代金も含めて奢りとなると、けっこうな額になる。なんとも太っ腹な話だ。この人、もしかしたらお金持ちなのかもしれない。
「そ、そうか。そういうことなら、厚意に甘えさせていただくよ。君の言うとおり危急性の高いスキルだものな。おじさん、さっきのたとえ話で鼻が痒くなってきちゃってるし」
それは大変だ。イーロおじさんの鼻のためにも早くなんとかしなければ。
まあ、わたしとしては代金および扉の修理代が入れば文句はないというか、できれば早く終わらせて二人とも帰ってほしい。
「それでは、イーロおじさん。そちらのソファにお座り下さい」
わたしは先ほどまでフードの男性が座っていた場所へ、イーロおじさんを座らせる。




