自動車
用があるのはトルティナなのか。その問いに少しだけ緊張感があった。
トルティナはロアさんに恋心を抱いているのだと思う。先ほど会ったと言っていたけれど、なにかあったのかもしれない。
「……はい」
正直に答える。
「そうか。忘れ物でもあったのなら、体調が悪そうな君より私の方が足が速いだろうし、代わりに届けるが?」
いい人だ。わたしなんかに親切にしたってなんの得もないのに。
「いいえ。伝えたいことがあるだけですから」
「伝言も受け付けるが?」
ああ、ありがたい。本当に頼ってしまいそうだ。
膝から力が抜けそうになる。けれどダメだ。
「直接伝えたいんです」
「どうして?」
なぜそこまで聞かれるのだろうか。分からない。やはりトルティナとなにかあったのか。
どうして。どうして、そこまでして直接伝えたいのか。
「彼女が苦しんでいると、思うからです」
胸の奥にザワつくような、嫌な予感があった。苦悩が分かるからこそ恐怖がある。
スキルにしてしまうほどの自己嫌悪。因果律操作というスキルの特性。
それの行き着く先がどこなのか、わたしは少しだけ想像できるから。
「……これは軍人としての勘だが、トルティナ殿は少々危険な雰囲気がある。あまり関わるのはオススメしないが」
ハ……、と笑ってしまった。
そんなの最初に剥奪スキルを使って潜ったときから知っている。
「では、ロアさんはお気をつけ下さい」
トルティナは呪術系のスキルを持っていそうだし、彼に執着しそうだから本当に気をつけてもらった方がいい。
わたしは頭を下げて、彼の横を通り過ぎる。時間が惜しい。
「……少しだけ待ちたまえ」
止められた。まだなにかあるのだろうか。こちらは本当に急いでいるのに、待つ時間なんかないのに。
わたしは、行かなければならないのに!
「かまわないで――!」
「マルク。足を回せ」
『バカなんですか? 了解』
思わず声を荒らげようとして、ロアさんがどこからか取り出した小型の機械に話しかけるのを見た。機械から男性の声が返ってくる。
あれは……たぶん無線機だ。昔行った博物館で見たことがある。けれど、あんなに小さいのは知らない。わたしが見た品は一抱えはある大きなものだった。服の中に隠し持てるような代物ではなかったはずだ。
「トルティナ殿は乗り合い馬車を使っていたからな。おそらく停留所に向かっているだろう。あそこまではそれなりに距離がある。君の今の体調だと普通に歩いて行くのも大変だろうし、少しだけ待ちたまえ。我々が送り届けよう」
音がした。機械の音。ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、という規則正しい音。聞き慣れないけれど、聞いたことはある。たまに、本当にたまに聞くことがある。
エンジン音。
「どうもー、お初お目にかかります。その危険物の部下やってるマルクと申します。あなたが噂の剥奪屋さんですね? どうぞお乗り下さい」
キィィ、という音を鳴らしながら速度を落として、わたしのすぐ横に黒光りする鉄の乗り物が停まった。
自動車……その運転席から顔を出した青年はなぜか、どこかで見た顔のような気がした。
初めて乗った自動車が大通りを走っていく。ガタガタと振動がすごいけれど、ちょっと気持ち悪くなりそうだけれど、わたしの体調がよかったとしてもこの速度にはついていけない。それくらいに速い。
たしかにこれならトルティナに追いつけるかもしれない。
「実は我々、潜伏任務中でしてね」
マルクと名乗ったロアさんの部下の話を、わたしは半ば呆然としながら後部座席で聞く。
自動車は見たことがある。ピペルパン通りでも、本当にたまにだけれど見かけることはある。イーロおじさんの話だと、中央区では日に数台は走っているところを見かけるらしい。
でもこの自動車は初めて見た。だって屋根がある。新しそうだし、もしかして最新型なのだろうか。
どうして高級な自動車なんてものをロアさんが持っているのか。
「ここ数年ほど南の国境での戦争にかまけてたせいで、王都内の治安がおろそかになってましてね。なんだか危険なマフィアとかが跋扈しだしてるし、妙な薬なんかも出回ってるんで、今ちょっと軍が民間に紛れて捜査とかしてるんですよ。内緒にしてくださいね」
「はぁ……まあ、誰にも言いませんけれど」
「自動車は馬と違って毎日世話する必要がないですし、普段は倉庫とかに隠せばいいんで、ここぞってときの足として持って来ています」
つまり、そういうことらしい。ロアさんは隣に越してきたとき軍を辞めたと言っていた気がするけれど、本当は今も任務の最中だったようだ。
この自動車はロアさんやマルクさんのものではなく、軍の備品なのだろう。
「まあ、今がそのときかと言うと少々審議が必要ですが」
「黙って運転しろ、マルク」
「イエスサー」
わたしの隣に座ったロアさんが命令すると、マルクさんは全然悪びれず返事する。
「……威圧スキルを剥奪してもらったときに、潜伏に使える空き家をいくつか確認できたからな。タチの悪い奴らの尻尾を掴むのに適している。我々がいればあの辺りの治安は守れるから、君は安心して日々の生活を送るといい」
「そうですか……」
いや、安心はできないけれど。というか、悪い人がいるって初耳だったから不安になったけれど。でも事情は分かった。
いきなり隣に引っ越して来たからおかしいとは思っていたけど、そんな理由があったらしい。
「けれどマルクさんの言うとおり、今はこんな自動車を出していただけるような場面ではないと思います。よろしいのですか?」
「……善良な国民に協力するのも我らの仕事だ」
歯切れが悪い。目を合わせてくれない。
なんだか、隠し事をされているような気がする。
「我々から見て、トルティナという女性は危険な雰囲気を纏っていましたからね。ロアはあなたが心配なんですよ」
「黙っていろと言ったぞ」
「アイ・サー」
マルクさんが軽い調子で返事をして、ロアさんがフンと鼻で息を吐く。
なるほど……やっぱり、彼はいい人なのだろう。