分かるに決まっている
「おええええっ……」
暗くて狭いトイレの中で、便器に胃の中のものを吐く。飲んだお茶がすべて出ていく。
これを見越してお菓子は食べなかったからほとんど液体だ。
……でも、思い返す内容は予想とは違っていた。てっきりロアさんやトルティナから受けたスキルについての相談について、受け答えはどうだったのかと思い起こすと考えていたのに――トルティナが去り際に見せたあの笑顔が、無理をして笑みの仮面を被っているのだと簡単に分かってしまったあの表情が、焼き付くように頭に残っていた。
トルティナが去った後、わたしはすぐに動けなかった。
少ししてリレリアンが帰って、すぐに後悔が襲ってきた。
わたしはいつもそうだ。いつもいつも、動かないことを選択する。そしてそれを悔いるのだ。
なにもしなかった。
わたしはなにもできないから、なにもできやしないと決めつけて、しなかった。
トルティナの因果律操作スキルは、間違いなくわたしのスキル剥奪に誘因されて発現したのだろう。
自分が原因の、起きたことをなかったことにするスキル。
なんて分かりやすい。わたしも欲しい。なかったことにしたいことなんていくらだってある。思い出したくもないけれど、ふとした拍子に脳裏に浮かんできてのたうち回るような記憶。
ああ、間違いない。間違いないのだ。だってわたしは彼女の気持ちが分かるから。
恋した相手への想いが抑えきれなくて、ずっとサーチを使ってしまう。だからそのサーチのスキルを取り除きたいと、彼女はスキル剥奪屋へやってきた。
そこまでの恋心なんて分からない。そもそも他人と関わるのが苦手なわたしは、そんな感情を抱いたこともない。
けれど、自分ではどうしようもない感情が襲い来る感覚は分かる。わたしにとっては日常だから。
「はぁ……はぁ……ああ……」
胃の中を全部吐いてしまって、喘ぐように呼吸する。トイレと吐瀉物の臭気なんか気にしている場合じゃなかった。むしろ、自分にはお似合いのような気がした。
そうだ。狭くて、暗くて、臭くて、たった一人のこの場所が、わたしのお似合いの場所なのだろう。だって外界から閉ざされた、誰も入ってこない、小さな箱のような部屋だ。すべての物事から目を背けて一人になるにはちょうどいい。
どうしてわたしは、こうなのか。
いつもいつも自問するのはそれで、いつもいつもやり直せたらと思っていて、すべてをなかったことにしてしまいたいと願う。
ああそうだ。最初に耳にしたときは首を傾げたけれど、自分が原因の出来事をなかったことにできるだなんて、なんてうらやましいスキルなのだろう。あんなスキルがあったらいいと切に思う。どこまででも遡ってなかったことにしたい。それは伸ばし方だって気になるだろう。
ああ、そうだ。分かるに決まっているのだ。――だってあのスキルは、自己嫌悪から生まれたものだから。
グイ、と手の甲で口元を拭った。
壁に手をつく。震える膝に力を入れる。よろりと立ち上がる。心身共に憔悴していて、たったそれだけで体力が尽きそうで……。
「……また、バカな言い訳してる」
胃液に灼かれて痛む喉でそう口にした。まるで別人のような声だった。
ドアノブを掴む。ノブを回して扉を開ければ、そこはわたしの仕事場で。ソファとテーブルといくつかの小物で雰囲気を作ってちょっとスキルを使うだけの、相手を騙すような空間で。
トルティナは、こんなわたしを頼りに来たお客さんで。
「嫌だ――」
このままで終わりにするのは嫌だった。このままでいるのが嫌だった。ああすればよかったかもしれないとか勇気を出せばよかったのにとか苦悩しながら、すべてが過ぎ去るのをトイレの中で吐きながら待つのはもう嫌だった。
気づいてしまったから。彼女の去り際の、あの笑顔の意味が分かってしまったから。
なんにも解決できないかもしれないけれど、それでも声をかけてもっと話をするべきだったと、吐きながら悔いたから。
玄関から外へ出る。だいぶん出遅れてしまった。彼女が向かったのは乗り合い馬車の停留所だろう。
間に合うだろうか。吐いたばかりで足元が定まらない。それでも駆け足で走り出す。
「ま……待てっ。どうした? 酷い顔色だが、毒でも盛られたのか?」
数歩も行かないうちに呼び止められる。最近できたお隣さんのロアさんが、ビックリした顔で駆け寄って来る。
そうか。今のわたしは酷い顔色をしているらしい。それはそうだろう。
「ただの体質です。なんでもありません」
「体質って……」
「すみません。急用がありますので、これで」
時間が惜しい。もともと運動神経が悪くて足が遅いのに、吐いたばっかりで憔悴してるし胃はキリキリ痛むし、こんな体調じゃぜんぜん速度は出ない。
トルティナの帰り道は馬車の停留所までしかわからない。どこに住んでいるとかまでは知らない。だから、彼女がそこに辿り着くまでに追いつかなければならないのに。
「……先ほど、君の店から出てきたトルティナ殿に会った」
どうしてか、ロアさんはわたしを行かせまいとするように立ちはだかる。
「用があるのは彼女か?」